2018年7月26日 (木)

余命1年日記 -120- 嫌われものの夏 (7月第4週 2018.7.26)

最近の記録

 

6月  18日      K病院入院  本館4階病棟

7月     9日      外出  外泊

         10日     (帰院できず)

         18日      帰院  再入院   東館2階病棟

                        内視鏡検査

         24日      内科病棟に謝罪

         25日     (いまここ)

 

なにやってんだろ。

6月18日に入院し、腹水を減らしたり静脈瘤を

結紮したりしていたが、そろそろ退院だな。

でももう少し経過観察を、ということで

入院を延長していたが、ひま。

ということで7月9日に一時外出・外泊をした。

帰院予定日は翌日の10日。

 

ところが帰れなかった。

家に帰ると親父が泣いている。

年金振込口座の通帳を失くした、と。

机にはたくさんメモがあって、努力したらしい

痕跡はある。

しかし説明を訊いても要領を得ない。

この野郎、と思ったが仕方ない。

銀行に走った。

しかし、窓口が閉まる3時なんてすぐなんだ。

病院に帰る日も走り回って、ついでに他の用事

もして、倒れた。

このくそ暑い最中、入院患者を走らせるなよ。

16日17日18日などは全く動けず、クーラーの

ついた部屋で寝てばかりいた。

いや、だから病院に行けよ、という話なのだが

動けない。

『具合が悪いから病院に行けない』って、

どんな出来の悪い冗談だよ。

 

『帰るのが遅れる』とは病院に連絡した、と

思う。しかし毎日は連絡しなかった。

よく覚えてない。暑くて。

とうとう病棟のナースステーションから、

怒った声で連絡が来た。

『会計を済ませて、ベッド廻りに置いてあった

私物を取りに来てくださいねっ。』

あくまで『入院中の一時外出』の心算で

出てきているから、会計も私物の整理もして

いない。

F先生からも「とにかく来てください」と、

連絡が来た。

申し訳ない。

 

『明日は行きます』と、これもステレオタイプ

に「出前を忘れていた蕎麦屋」のような台詞を

毎日繰り返すけれども帰れない。

 

 

 

結局18日に下痢と吐き気が止まらなくなり、

血便と吐血のような状態が出てきたから救急車

を呼んでK病院に帰ってきた。

 

まったくもう。

救急車じゃないと病院に来られないとは、

とんだ重病人である。 (重病人です。痛くて気持ち悪いです)

 

救急処置室に運ばれてすぐに血液、レントゲン

CT、そして内視鏡検査。

ところが  見える範囲では、静脈瘤は破裂して

いなかった。

じわじわと滲むように、出血しているのかも

知れないがわからない。

していないのかもしれない。

処置してくれた救急の先生たちの意見は、

『破裂なし』に傾いているようだった。

そうなると  救急処置室の空気の動きは、

途端に緩やかになる。

時刻は既に夜になっていたから、F先生は

退勤した後だったが、救急の先生が

連絡を取って意見を聞くと『入院しましょう』

という。

従うことにした。

とにかくなんとしても身体が重くて気持ち悪い

そもそも私は『入院中』だった。

 

唸りながら待っていると、看護師が

『前と同じ病室がとれました』というから

狭いストレッチャーの上で大分待った。

うつらうつらしながら唸っていると、

『移動します』の声と共にガラガラと運ばれて

新しいベッドに移された。

『前と同じ病室』と聞いていたから、

疑いもしなかったが『なんか違うな』とは、

ちょっと感じた。

しかし、しんどかったからそのまま寝た。

 

翌日  周りを見てみると、やはり『前の病室』

ではない。看護師に聞くとここは東館だと言う

しんどいから口をきくのも大儀だったが、

いろいろ聞くと、前にいた本館のベッドは退院

扱いになっている、という。

それはまあ、もっともだ。

もともと、私みたいな緊急性のない患者が占領

していたベッドである。

それを更に、金も払わないで空席のまま占領

されては堪らないだろう。

 

それはともかく、気になることがある。

何故この部屋なんだろう。

病室に移動するまで大分待たされた。

『ベッドの用意が出来るまで時間が掛かる』と

いうのだ。その間に『前と同じ病室』だった筈

なのが東館2階病棟に変わったのだ。

何故変わったのだろう。

 

嫌な想像が起こった。

 

今回の帰院遅延の件で本館4階病棟に嫌われて

受入れを断られたのではないか?

 

いま、こうして文字に起こしてみると神経症に

罹ってしまったかのようである。

しかし、あの時は真面目にそう思った。

現に6Iは私の治療を受入れない、と言い出した

ではないか。

 

 

 

昔からこうだ。

 

酒を飲んでいた頃、私は酒を飲むと乱暴な口を

きくらしい。

それでよく喧嘩をした。

たくさん友人を失くし、仕事を失くした。

出入り禁止になった店もある。

それ以外にも、今回のようにやるべきことに

体調が追い付かず、結果として嘘をついたこと

も、たくさんある。

友人や、仕事のパートナーに迷惑をかけた。

後始末に関しては、みんな大人の対応で納めて

くれたが、終わるとみんないなくなった。

極端にプレッシャーに弱いので、期限が

差し迫ってくると、余計に身体が動かなくなる

ということもあった。

そんな時は、いつも逃げた。酒が飲めた頃は

酒に逃げた。論文や仕事で中途半端な出来上り

になったものがいくつもある。

 

みんな私が悪いので、誰を責めるわけにも

いかないが、私の廻りからは皆いなくなった。

死病に罹ったいまでもそうだ。

 

だから『誰かから疎外される』ということに

動物的な恐怖がある。

気の重い入院生活が始まった。

 

 

 

最初は絶食。24時間点滴。

仮に食事が出ても、吐き気と気持ち悪さで

とても食べられない。

点滴のラインと、心拍数・酸素濃度などの

バイタルを測るケーブル、ワンセグのイヤホン

などで身体中を巻き取られながら、

身を捩って寝る。

ベッドの上だけしか動けない  完全安静。

 

これが次第に身体が動かせるようになってくる

看護師の介助つきの車椅子でトイレまでだけど

行けるようになった。

 

時折、黒っぽい便が出る。

しかし、血ではなかろう、ということで

注意しながら20日から重湯、24日から三分粥

身体も動かせるようになって、介助つきの

車椅子から、点滴を吊るすハンガーを連れて

介助付きでトイレまで行けるようになった。

 

 

 

さて、そろそろ本館4階病棟に行くか。

何しに行くか、というと、謝るのだ。

とにかく大変な迷惑を掛けた。

彼らがどんなシフトで動いているのか知らないが、

とても全員に頭を下げる訳に行かないので、

その時ナースステーションにいる人と、

師長さんに謝ることにした。

一度お会いしたことがあるが、ここの師長は

無暗と明るいおばさんだった。

今回の入院は、ある意味この謝罪のため、と

言っていい。

 

幾つになっても『怒られに行く』というのは

気が重い。かつてのように逃げたくなる。

別にわたしが謝りになんか行かなくても、

その事で怒られることはない。4階病棟には

朝の光が指し、露が満ち、蝸牛が這い、

神、そらに知ろしめして、すべて世は事も無いのだ。

なんて考える。

・・・・・・

 

いや、行こう。

 

看護師の夜勤/日勤の交代時間に行っても

迷惑だろうから、それを過ぎた朝の9時過ぎに

ナースステーションに行く。

思いの外たくさん人がいてびびったが、

とりあえず入口付近にいた看護師に頭を下げた。

にこにこ笑いながら聞いてくれたが、

師長さんを・・・と言うと、あの輪の中にいる、と

室内で10人くらいでやっているミーティングを

指差した。

『じゃあ待たせて貰い・・・』と言いかけると、

『いいです  いいです。あたしから師長に言って

natsuさんのベッドまで行って貰います』と

言う。それは失礼だと思ったが、あまり熱心

言うから押し出されるようにベッドに帰ってきた

 

ところが来ない。回診に来たF先生に愚痴ると、

『まあ、単に通じていない、という可能性が

ありますから』と、慰めてくれたが、もう私は

『あんなことをしたから、俺の顔なんか

見たくないんだ』と、拗ねてしまっていた。

 

そのまま陰萎滅滅と昼寝していた。

 

しかし夕方、このまま退院するのも癪に障る、と

思い直した。一応ナースステーションに仁義は

通したから、あらためて訪ねる必要はないのだが

逆に言えばここで引いてしまえば、

二度と訪れることはない。

 

えい、朝も来たことなど知らん顔して、もう一度

行ってやれ。

 

 

 

師長は、いた。やっぱりナースステーションで

ミーティングをやっていた。

なんか一日中ミーティングしているな。

やっぱり入口のそばにいた朝とは違う看護師に、

『師長さんをお願いします』と、呼んで貰った。

すぐに来た。やはり朝、私のベッドまで来る、と

いうことは伝わっていなかったようだ。

 

私が外出の帰院日を守れなかったことを

謝りかけると、それを遮って

『あーよかった。心配してたのよ』といっぱいに

笑いながら言う。

私の体調を気遣い、更に  一度しか来ていない

親父の体調まで心配してくれた。

いい人だ。

 

胸のつかえが落ちた。

 

 

次の日の回診の時にF先生に、この話をした。

『あの師長さん、いい人ですね』と言うと

『F師長はいい人です』と、笑う。

私が「今回の入院で本館4階に戻れなかったのは

4階病棟に嫌われたからだと思っていた」と言うと

やっぱり笑いながら、

『過去に病棟内で暴力を振るった、とかで

なければ、病棟の判断で入院を断る、

なんてことはありませんよ』と言う。

 

・・・なるほど。

 

病気と関係ないことで悩みながら入院していた

7月ももうすぐ終わり。

 

 

 

 

 

残り- 364

 

 

 

 

 

  

すっきりした。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 その他日記ブログへ

 

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018年7月 3日 (火)

余命1年日記 -119- ワールドカップと入院延長 (7月第1週 2018.7.3)

最近の記録

 

6月  18日      K病院入院  大阪北部地震

         26日      内視鏡検査

         28日      外出  外泊

7月     2日      胃カメラ  食道静脈瘤結紮 

           3日     (いまここ)

 

6月18日  朝 7時58分。大阪北部地震。

大阪北部では震度6弱だけど、

神戸は震度4だったって。

ふーん、結構 揺れたぞ。

棚が倒れたりはしなかったけど、

本棚のファイルや台所の缶詰なんかが落ちた。

 

そんなことよりも入院だ。誕生日の検査で

肝機能が悪く、腹水が溜まっていたから、

『18日10時に来い』と申し渡されていたのだ。

面倒くさいけど行かなきゃならん。

部屋の掃除と、崩れた雑誌の山をなんとかする

のは退院後だ。

 

電車は動いてないから  タクシーを呼ぶ。

しかしタクシー会社に電話したって、

こんな日に捕まる筈がないよな。

結局、大幅に遅刻して  昼過ぎに着いた。

しかし、このくらいなら優秀で、

F先生は三宮で足止めされて、結局

K病院まで歩く途中でタクシーが拾えて、

やっと来たという。

着いたのは  3時過ぎだったそうだ❗️。

私は、着いたらすぐに寝た。夕方 回診。

腹水、苦しいが穿刺する程ではない。

 

19日、血液検査。尿酸が高く蛋白が低い。

利尿剤増。点滴で蛋白質補う。食欲なし。

コロンビア戦、勝った。

20日  21日、点滴。食欲なし。

22日、血液検査。肝機能少し改善。貧血。

尿酸高い。入院 来週一杯か。

立ち眩みで倒れないようにリハビリ開始。

25日、セネガル戦 引き分け。まあよし。

 

さて、入院が延びることになった。

当初私はF先生のほかに、S先生という人にも

診てもらっていた。

私に『余命1年』の宣告をした先生でもある。

その先生が、隣の患者さんの回診に来ていた。

声が特徴的なので  すぐにわかった。

そういや最近、あの先生  回診に来ないな、

と思ったのでF先生が来た時に訊いてみた。

すると  担当替えのようなものがあって、

F先生は、今は放射線科のM 先生に相談する

ことが多いのだという。

 

その話の流れでF先生が

『じゃあ一度、胃カメラを入れてみましょう』

と、思い付いたように言う。

静脈瘤の様子を見てみよう。

必要なら処置してしまおう、と。

内視鏡の操作も放射線科の医者がするらしい。

『どうせ入院中ですからね。』

『ね』だと?

 

何だか『ついで』のような感じで内視鏡検査が

決まった。まあ  いいけどね。

破れてからうろうろしてたら、また6Iの医者に

いじめられてしまうからな。

 

26日、血液検査。

肝機能改善。血小板100,000。尿酸が高い。

同日  胃カメラ内視鏡検査。

検査のあと、F先生が

『一つ「縛りごろ」の静脈瘤がある。

結紮しちまいましょう。(食道静脈結紮術 EVL)

以前破裂した静脈瘤と違って、食道にあるので

縛り易いです。』という。

ちょうど入院中だし、とも。

 

どうも『ついでに』感がするのが気に入らないが、

せっかくだから  やって貰おう。

 

しかし内視鏡での処置をすると  その後経過を

見ながら絶食・点滴から始めて、消化器を回復

させないといけないので入院が延びる。

『一週間くらいですか?』と訊いたら、

『二週間』と来やがった。

なんだと?

 

おまけに内視鏡の予約が7月2日しか取れない

という。何でそんなに混みあっているのか?と

思ったが、内視鏡を噛んで壊した奴が言う

台詞 じゃない。

 

施術が2日だとすると、二週間後は18日。

いま(26日)からだと三週間入院が延びることになる。

さすがにげんなりしていると

『無制限に外出と外泊を許可してあげますよ』

と、言ってくれた。

 

しかし、あんまり嬉しくないな。

『無制限』といったところで連泊できないし、

緊急ならともかく土日の外出は病院が嫌な顔を

する。そこで『28日外出・外泊  29日帰院』

というスケジュールにした。

 

28日帰宅。ポーランド戦。不満だな・・・

この日の夜、マンションの入口でこけた。

鼻梁の上部に傷がついて派手に血が出た。

ところが全く痛くないので、自分の顔の変化に

気がつかず、29日にそのまま帰った。

外出証を返しに行ったナースステーションの

看護師さんが、言葉を失くして顔を見つめていた。

 

2日、血液検査。昼過ぎ  胃カメラ内視鏡。

術後、点滴  絶飲食。

 

F先生の回診の前に、背の高い先生が来て

『今日は何も飲めませんよ』と言う。

『はあ』と答えるとゴミ箱の中のペットボトル

を指を指しながら『飲んでるでしょう』と言う

昼過ぎまで待たされたから飲んだんじゃ。

物言いが居丈高なので何も言わないでいたら、

改めて『飲んじゃ駄目ですよ』と言って帰った

なんだ?あいつ。

 

F先生が来た。

結紮した静脈瘤は三ヵ所だったそうである。

『結紮した三ヵ所は、危ないから縛ったのか?

それとも縛り易いからですか?』と訊くと、

『縛り易いから、かな』だそうだ。

実も蓋もねえな。

『5月6月と、殆ど入院していたのに、

ノーマークだった奴が「育った」訳ですか?』

と重ねて訊くと『そうだ』と答えた。

F先生からも絶飲食のことを言われたので、

さっきの失礼な先生のことを言ったら、

『彼がM先生です』だって。

あれま。

さっきのことを話して『謝っといて下さい』と

頼んだら、笑っていた。

 

 

 

しかし、久し振りに静脈瘤破裂以外の原因での

入院だったのに、

結局は、同じところをぐるぐる回っている。

 

こうやって螺旋を描くようにして、

ゆっくりと落ちていくのかなあ。

 

 

 

 

 

 

 

残り- 341

 

 

 

 

 

2日深夜、ベルギー戦。あーあ、っと。

  

サッカー   終わり。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 その他日記ブログへ

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月28日 (木)

余命1年日記 -118- 銀行と誕生日と入院 (6月第5週 2018.6.28)

最近の記録

 

 

5月  31日     退院

6月    1日      郵便局

          4日      K病院 神経科診察

          7日      K病院  内科診察

          8日      銀行  区役所  警察署

        14日      K病院  内科診察  誕生日

        18日      入院  大阪北部地震

        26日      内視鏡検査

        27日     (いまここ)

 

5月31日に退院して、なにをやっていたか。

というと、まず銀行や郵便局回り。

 

我が家では、歳入のすべてを父が管理している

別に私が望んでいたことではなく、この男の

束縛癖によるものである。

しかしこれが任せられなくなってきた

 

 

親父がATMコーナーに通帳を忘れる。

機械に銀行カードを入れっぱなしにする。

銀行印を失くす。

 

世の中親切な人が多くて、はんこ以外は全部

戻ってきて大事に至らなかったのは幸いだが、

その度に泣きそうな声で電話してしてくる。

『安静』ってことで寝てるのに。

 

だから  銀行に電話して通帳を止める。

そうすると入金出来ないといってまた 

泣き声で電話してくる。

そりゃそうだよ、通帳を止めてるんだから。

はあ

 

 

 

物忘れがひどくなった。

 

 

 

まだ他にもあるが、

これ以上身内の恥を書きたくもない 。

しかし、大部屋では長時間電話できないから

銀行や郵便局には廊下で電話する。

これがやっぱり長時間だと看護師に怒られる。

事情がわからないから、病院に来てくれと

親父に言っても何週間も来ないから、

やっぱり廊下で電話して、あの男耳が悪いから

大声になると、また  看護師に怒られる。

 

各種支払いの口座の名義人は、当たり前だけど

私なので私自身が行かないとなにも進まない。

やむを得ず、入院中なのにF先生を拝み倒して

外出許可を貰って銀行に行く。

 

 

 

普通に考えて、あの年の爺さんに

お使いをさせる、ということが親不孝なのは

十分承知している。

しかし、

『その程度のこともできなくなっているのか』

ということは驚きでもあった。

予想以上に早い。

 

当然悲しい  というか、怖い。

 

私のような半病人と、

親父のような耄碌爺さんの共同生活に、

うすら寒い危機感を覚えた。

 

ゆっくり話せば、意味の通る会話ができるので

真底呆けた訳ではないと思いたいが、

とにかく退院するや、

貯金や年金など、親父名義の口座はそのままで

各種支払いの通帳だけを取り上げた。

 

 

 

したがって退院すると  銀行  郵便局  区役所を

回って各種の手続きをする。

さらに失くしたはんこを三宮で作って、

区役所に戻って印鑑登録する。

大した所帯じゃないのに  体力がないから、

一人でやるとしんどいな。

 

しかしこれで、二、三か月もやってみたら

お互い慣れるだろう。

いまは耐えよう。

と、思ったら入院するんだ、こいつは。

 

退院して、最初の診察日が7日。

血液検査では『悪化しているが想定内』

自覚症状として、立ち上がった時のふらつきと

久しぶりの腹水と足の浮腫。

 

ふらつきはヘモグロビンが低く低血圧だから。

腹水は困ったね。取り敢えず利尿剤を使って

みようか。ということになった。

血圧と鉄分が低く、利尿剤のせいで腎機能が

落ちていたら入院ですよ。と

釘を刺された。

 

次の診察は14日。

しんどいので処置室で横にならせて

貰っていたら、先生が来た。

『今日、誕生日なんですよ』と言うと、

F先生は『おめでとうございます』と言って

頭を下げてくれる。

 

なんだ?これ。

 

去年の誕生日は入院していて、しかし

私が臥せって  先生が見下ろす形は、

同じだったな。

 

 

 

血液検査の結果、肝臓は順調に調子が

悪化しているんだそうだ。

 

『いろんな数字が駄目です。』

『はあ』

『ヘモグロビンが9万しかありません。』

『はあ』

『腹水も増えてます。』

『はあ』

『入院しましょう』

 

しかし、これは少し待って貰うことにした。

銀行のことなど、もう一度確認したかったのだ

久しぶりに静脈瘤破裂以外の原因での入院

なので、時間に多少融通が利くのだ。

 

そんなわけで入院日は18日。

『予約受付』というところで

書類を作って帰った。

 

薬を貰いに院外処方の薬局に行く。

F先生がさらに強力な利尿剤を処方したから、

薬剤師が、青くなって病院に確認しに行った。

結局貰えたけどね。

確かに強力な薬で、夜中10回くらいトイレに

立つんだけれど、

18日までには腹は凹まなかった。

 

 

 

今回の入院ー入院のインターバルは17日。

伸びないなー。

 

 

 

 

 

 

 

残り- 336

  

  

 

長くなったから続きます。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 その他日記ブログへ

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月25日 (月)

余命1年日記 -117- 怒られた理由 (6月第5週 2018.6.25)

最近の記録

 

5月    3日     静脈瘤破裂  6I入院

          8日     K病院転院

        28日     退院打合

        29日     退院延期   

        31日     退院

6月    1日      郵便局

          4日      K病院 神経科診察

          7日      K病院  内科診察

          8日      銀行  区役所  警察署

        14日      K病院  内科診察  誕生日

        18日      K病院入院  大阪北部地震

        25日     (いまここ)

 

 

いま6月25日。

備忘録として、上記の期間の出来事について

書いておきます。

1ヵ月前の5月28日。

5月3日の静脈瘤破裂から続く入院。

今回は恢復の過程よりも

『何でこんなしょっちゅう入院してくるんだ』

『どうせ飲んでるんだろう』

『救急で来ても追い返しちまえ』

ということに話が行ってしまって、

辛い入院だった。

 

F先生も、断酒の為にalc病院に入るべきだ。

さもないと治療はできない。と

強硬だったのだが二人で話した上で最終的には

・来ても診ない、ということはしない。

・断酒した状態での病状の変化を見たい。

・神経科の受診など精神的なケアを受ける。

ということになった。

そういう方針を決めたうえで、

そろそろ退院にしよう、と言ってくれた。

 

最初は29日退院にしよう。となっていた。

しかし、その前に『次に静脈瘤が破れても

6Iが受け入れる保証』を取っておかなければ

ならない。と言う。

静脈瘤が破裂することが前提なのは

釈然としないが、私も自分の身体を信用していない。

奇数日に静脈瘤が破裂して、けんもほろろに

6Iから追い出されたら、

血反吐と血便を流しながら 六甲アイランドで

死んでしまうのである。

杞憂に過ぎるような気もするが、トラブルを

未然に防ぎたい、ということなのだろう。

『隔日の患者の受け入れ分担は6Iとの間の、

病院間の取り決めです。

受け入れないなんて有り得ないですよ。』と

頼もしい。

いい先生だ。

 

具体的にどうするか、というと

K病院の消化器内科の部長に話をするという。

前にも書いたように、K病院は6Iと同じ法人の

経営だから、双方の病院の方針が違っている、

などということがあってはいけないのである。

偉い先生に確認しておいて貰おう、と。

 

しかし、30日になっても、

『もう少し待ってください』という。

なんだ?

『まだ部長のアポが取れないらしいんです』

『らしい?』

『僕の上の先生に話してもらいます』

『先生は?』

『僕なんかが口を利けるような先生じゃ

    ありません』

急にそんな白い巨塔みたいなことを言われても

困る。

 

実は私にも都合があった。

5月31日までに退院しないと、つまり入院が

月を跨いでしまうと、保険の計算が変わって

支払いが増えてしまうのである。

 

『31日に話ができなければ退院した後でも

携帯に電話しますよ。』と言ってくれる。

6月14日に外来の予約を入れていたのに、

『そこまで保たない』と思われたのか?

14日までに、奇数日は7日あるけどな。

 

で、

 

引っ張っても仕方ないので早く結果をいうと、

31日に部長先生と話ができたそうだ。

退院のために鞄に荷物を詰めたりしていると、

F先生が来た。

退院日には回診はないのが普通だから驚いた。

 

『部長と話ができました。』

『そうですか。なんて?』

『「6Iで診ればいいでしょ?」だそうです』

『そんだけ?』

『はい』

『いいの?』

『たぶん』

はあ・・・

あれだけ心配したのにそんだけ?

 

さすがは白い巨塔。

私の「内視鏡事件」は 巨塔の足下こそ少し

騒がせたが、遥か頂上近い部長先生には、

知ったこっちゃないらしいのであった。

 

F先生はさらに続けて

『6Iがあれだけ強硬になった理由が

わかりました』という。

要約すると、2月26日の入院に際して私を担当

したA先生が内視鏡を噛んだ私を見て、

「これは検査と治療の拒否だ」と言い立てた。

したがって、この患者に対してはこちらも

診療を拒否 して構わないのだ」と。

 

しかも  A先生は申し送りの書類に、

「こいつは治療を拒否する」

「こいつは酒を飲んでる」

「こんな不真面目な患者ほっときましょう」と

ひとのことをボロクソに書き倒して、

4月に他の病院に転属してしまった。

これじゃあ現場を見ていない他の先生は、

「natsuというのはなんとひどい患者か。」と

思うに決まっている。

実態を知ってしまったら  A先生の書類以上に

ひどい患者であることがわかってしまうが。

 

もちろん、一連の騒動の原因を A先生に

押し付けるつもりはない。

修理の費用を請求されなかったから、

事故の保険があるのだろうが、

内視鏡が一台使えない間に大変な迷惑を掛けた

だろうことは、素人ながら理解できる。

弁解の余地なくお詫びするしかない。

ごめんなさい。

 

 

でもなあ・・・

 

 

 

 

 

 

とにかく退院。

お世話になった地域包括ケア病棟から

EVホールまで送ってくれた看護師さんが、

途中のナースステーションで、

『natsuさん退院されます』と、声をかけると

中にい病棟の看護師さんが4人ほど出てきて

笑顔で送ってくれた。

長く入院しているのに初めてのことだったので

面映ゆかった。

でもうれしい。

 

 

 

 

残り- 333

  

  

 

 

暖かい帰り道でした。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 その他日記ブログへ

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年6月19日 (火)

余命1年日記 -116- まだ生きてます (6月第4週 2018.6.19)

  1. 最近の記録

 

5月 28日     退院打合せ

        29日     退院延期   

        31日     退院

6月   1日      郵便局

          4日      K病院 神経科診察

          7日      K病院  内科診察

          8日      銀行  区役所  警察署

        14日      K病院  内科診察  誕生日

        18日      入院  大阪北部地震

        19日     (いまここ)

 

 

最後に書いた5月25日の日記

(115やることがない) でも入院していたが、

一度退院して6月29日現在も入院している。

今度のは、静脈瘤破裂じゃなくて、

腹水と血液検査の結果がひどかったからです。

 

だから今日はワールドカップのコロンビア戦を

見ていました。

勝ってよかった。

 

そうはいってもまだ腹が苦しくてしんどい

ので、この期間のことは、また書きます。

 

本当にいろんなことがあったんです。

 

 

 

 

 

 

 

残り- 327

  

  

 

 

入院ばかりだな。

つまらん。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 その他日記ブログへ

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年5月25日 (金)

余命1年日記 -115- できることがない (5月第4週 2018.5.25)

  1. 最近の記録

 

5月   8日      K病院  本館233号室  入院

       21日      K病院新館 2階

                     地域包括ケア病棟に転棟

       22日      CT造影撮影

       23日      F先生 回診  造影写真解説

       25日      (いまここ)

 

 

あわただしい。

 

特に今週に入って  いろんな事がありました。

順番に書いていこう。

 

まず21日、 病棟を変わりました。

以前もお世話になった地域包括ケア病棟。

 

この日の午前中に昼寝していると、

介護士が入ってきた。

『荷物をまとめて下さい』と言う。

なにも聞いてないし  寝起きだから不機嫌に

『あ゙?』と訊いたら、看護師が来た。

『11時に次が入るから  すぐ移動して下さい』

だそうだ。

 

今回の入院はみんな冷たいな、と思いながら

『どこに行くのか』と訊くと

『新館2階』だという。

地域ケア病棟があるフロアだ。

今回の入院中にCT造影撮影をやることは

聞いていたから『一般病棟でなければ

検査は受けられないのでは?』と訊くと、

看護師は返事に詰まる。

 

最後にF先生が出てきた。

『受けられますよ、検査』

『でも、地域ケア病棟では  検査は・・・』

『まあ、そんな杓子定規な運用をしてる訳じゃ

なくて、実際は退院調整のベッドですから』

と、正直だ。

『233号室は窓が両側にあって、

せっかく気持ちのいいベッドだったのに・・』

『そんなことはどうでも・・・』

・・・今回の入院はスタッフも先生も冷たい。

『10時に来て11時に次の人が入るって

言うから驚きました』

『僕も驚きました』

『先生が決めたんじゃないんですか?』

『「いつでも移れます」とは病棟に

言ってありましたが』

 

そうか、患者をなんの病棟に入れるか

「一般病棟」か「地域ケア病棟」かという事は

ドクターが判断するのだが、

いつ何処に、という事柄は

病棟の師長が判断するのだ。

『あいつを早く一般病棟から出せ』という

「誰か」の意思が働いていたのかと心配した。

 

 

 

 

21日午後  2回目の精神科の診察。

三井のリハウスのCMに出てくる、俳優の

笹野高史そっくりのM先生と  しばらく話す。

若干頼りない。

私が離婚していて、家にいるのはボケた父だけ

退院後は家族のフォローが期待できないので

大変である。ということくらい、

精神科の医者なら問診の前に家族票とかに、

目を通しておいて欲しい。

『へぇ離婚されてるんですか』とか言われると

ガッツリ疲れる。

信用もできなくなる。

顔が長い。

 

この先生に、退院後どうすべきかを聞いてみた

すると『退院しても外来でこうやって

僕のところまで来て  話をしてくれたら

入院まで必要だとは思いません』という。

ほう

ちなみに入院についてどのくらい知っているか

と訊くと、ほとんど知らないという。

23日にF先生に聞いても、同じだった。

『入院についてはよく知りませんが、

まっさらな状態での病状の変化を視たい』と。

汚染されている訳じゃないんだけど。

 

内科のF先生が知らないのはわかるが、

精神科のM先生が知らないとは。

K病院のように上品な患者が来る病院では、

依存症患者など診る機会がないのだろう。

医者であっても一般の人の『精神科の入院』に

関する知識は想像以上に乏しいようだ。

 

自助グループに通うのを復活させようと思う。

入院しても院内でやることは同じなのだ。

患者同士でミーティングする、時間が経つと

院外のミーティング場に行って参加する。

 

繰り返すが、時間がないから入院はしたくない。

かつて10年以上、阪神間のミーティング場を

回ったことを思うと気が重いが、

やってみるか。

M先生も、長い顔でこれを薦めた。

 

入院や自助グループについて

全然言葉が足りてないな。

ここの部分は、後で稿を改めて書き直します。

 

 

 

 

 

22日午後  CT造影検査。造影剤を点滴で注入。

「点滴」というから、造影剤を上から吊るして

滴らせるのかと思ったら、注射筒に入れた薬を

オペレーターの人がシリンダーを押し込んで

全力で注入していた。

一通り撮影が終わった後で、彼がしきりに掌を

揉んでいたから、ものすごい圧力が

必要だったらしい。

 

 

 

23日昼前  F先生回診。

造影検査のCT画像を見せてやる、

というので病棟のナースステーションの

パソコンを使い、モニターを見ながら話した。

 

造影検査というのは始めてだ。CTのX線を 

遮るんだか吸収するんだかする造影剤が、

臓腑の隅々まで染み渡ったところを撮る。

すると、血管が白く見える。

 

血管が走る様子がみえる。肝臓、食道などの

臓器は毛細血管の塊なので、形なりにぼんやり

明るく見える。

 

『CTを撮ったら、いいところもありました』

へえ・・・。

『腹水がなくなりました』

本当だ。臍の下に分厚くあった腹水がない。

『あと、ガンがありません』

F先生の前に診て貰っていたK先生が、ガンに

ついてはかなり徹底的に調べてくれた。

見つからなかったから  その事を言うと、

『でもK先生が診たのは5年前でしょう』

そんなにガンに罹りやすいですか。

『肝硬変はかなり高い率でガンを併発します』

・・・高い率。

『万が一いま罹っても、まあ・・・』

どちらが先か、のチキンレースということか・・・

 

『肝硬変がはっきりわかりますね』とF先生。

ぎょっとして画面を凝視すると、

『肝臓の表面が滑らかじゃなくて、カクカク

しているでしょう』言われてみるとそうだ。

肝臓の全周がカクカクしている。

『全部固まってるみたいなんですけど・・・』

『まあ、端から固まって行くわけでもないし』

生きている部分はどこだ?

 

解像度を上げれば、もっと細かく血管の走行が

見えるらしいが  この程度のぼんやりさでも

肝臓の中央部に蛇のようにうねるひときわ太い

門脈が見える。

肝臓の右にいびつに潰れた  丸い食道が見える。

食道の回りに小さな丸がたくさんある。

肝臓に向かう門脈系の静脈である。

画面をスクロールして、体の断面を上下に

動かしてやると  この静脈たちが食道の回りを

踊るように動きながら、現れては消えていく。

『この画面ではっきり見えるということは、

この辺の血管はみんな静脈瘤があります』

とF先生。

 

さらに内視鏡で撮った映像を見ながら

静脈瘤は食道よりも、噴門を入った

胃の入口に多い、と説明してくれた。

胃の中は内出血しているので、胃壁の表面が

鬱血して滲んで真っ赤だ。

 

食道にも胃にも静脈瘤がたくさんあることは

わかった。内出血もある。

どうしよう。

『実は、いまの時点では打つ手がないんです』

なに?

『静脈瘤がある血管がみんな細すぎるんです』

どういうことだ?

 

 

 

 

 

実は今回、入院を延長して

造影検査をしたのには理由があった。

『静脈瘤破裂をなんとかしよう』ということ。

 

端的に言うと、他にやることがないのである。

 

肝硬変の根治治療として、現在唯一可能な

肝臓移植は、生体肝、脳死肝いずれも

可能性がなくなった。

ショックだった。その後、

断酒の誓いを忘れるくらいには  やさぐれた。

 

iPS細胞を使った再生医療というのは、

間に合いそうにない。STAPわぁ  なかったし。

 

 

 

そうなると今できることは、

次々に現れる肝硬変の合併症、腹水や立ち眩み

静脈瘤破裂などに対処することである。

 

一昨年の夏  あれほど苦しみ  名医F先生をして

『このまま改善しなければ余命1年』と

言わしめた腹水は見事になくなった。

今回のCT画像を見ると、体の中心部には

多少残っているが  穿刺が届くくらいの

体表部からはなくなっている。

なぜだろう。

F先生も首を傾げていたから  正直な奴だな。

 

その割にウェストは90cm以上あるのだが、

こういう風にブクブク脂肪が付くのも、

肝硬変 の合併症だ。

皮膚が痒くて仕方がないので皮膚科から塗薬を

貰っているのだが、最近あまり効かない。

これも合併症。

しかし、こういうのは すぐに命に関わる訳では

ないので放置している。

 

立ち眩みも怖い。以前倒れて鼻を折った時から

基本的には何の改善もしていない。

今も上の血圧が100前後と若干低いが、これも

合併症で手の打ちようがないんだそうだ。

ふう

 

 

 

命に関わる肝硬変の合併症として、いま一番

問題なのは静脈瘤破裂である。

しかも今回、6Iに嫌われてしまったから、

奇数日に破裂してしまったら、命に関わる。

いつ破裂してもおかしくない静脈瘤をたくさん

育ててしまったことは私に責任があるが、

半月おきに破裂するのは、私の責任ではない。

酒のせいでもない。

 

冗談はともかく、こんなにしょちゅう

破裂されたら『「徐々に」体が衰える』のでは

なく急速に衰弱する。

 

 

 

 

 

 

静脈瘤の治療法として、一般的なのは内視鏡を

使う方法で、ひとつは食道、胃などに内視鏡を

挿入し、静脈瘤の外側から硬化剤を注入する。

静脈瘤硬化療法(EIS)という。

 

もうひとつはゴムバンドで静脈瘤を結紮して

(けっさつ=縛って固定する)静脈に血栓性閉塞を起こし、

それによって出血を止めるもの。

静脈結紮術(EVL)という。

 

また、硬化剤の注入に際して

内視鏡を用いるのではなく  静脈にカテーテル

を挿入してレントゲンを見ながら操作し、

静脈の内側から硬化剤を注入する方法もある。

 

さらに、以前腹水を減らす方法として

薦められたTIPSPSEも、亢進した門脈圧を

下げるので、静脈瘤が出来ることや破裂する

ことを防ぐ効果が期待できる。

 

 

 

私に関しては いままで静脈瘤、となると

迷わずゴムバンドで結紮するEVLという方法を

採ってきた。

 

しかしこれだけ方法があるのだ。

EVL以外に適する方法はないか?ということで

まずは予備の調査として、

今回の造影検査をおこなった。

これで血管の走行を確かめ、破裂してないけど

危ない静脈瘤に硬化剤を注入する方法はないか

と考えた訳である。

F先生が。

 

だから、造影検査後 初めての今日の診察は、

選択肢がたくさんあるけどどれにしよう、

という  うれしい悩みを相談されるものだと

思っていたら、

『今の時点では打つ手がない』だと。

どういうことか、と訊くと

『静脈瘤ができた血管がみんな細すぎる』

んだそうだ 。

これだけ細いと食道や胃にへばりついている

静脈瘤は扱いにくい。

つまり、硬化剤を注入したり

ゴムバンドで結紮するのがむずかしい。

食道の回りの静脈は捕まえるのも無理。

 

さらに静脈瘤ができた場所が悪い。

胃の中に静脈瘤があると、喉から内視鏡を

差し込んで、上から施術することができない。

静脈瘤を下から狙うために

胃の中で内視鏡を上に反転させることになる。

これも無理。

 

静脈瘤を結紮する場合も、血管が細く静脈瘤が

小さいので無理。胃の中も同じく困難。

 

腹部から針を刺して、血管にカテーテルを挿入

して、内部から硬化剤を注入する方法も

静脈瘤が小さすぎて無理。

また、肝臓を貫通してカテーテルを刺すことに

なるが、肝臓が負担に耐えられるかも問題。

 

TIPSやPSEは前にもH先生に言われたように

肝臓が弱りすぎていて無理。

直近の血液検査でChild Pughスコアが、

CからBに上がっていたが、

『まだまだ』なのだそうだ。

 

 

思い出しながら書き出しただけで

これだけある。

よくもまあ、うちの肝臓をここまで悪し様に

言いやがったな、と思うが  事実なのだろう。

『これでもう少し、静脈瘤が大きくなったら

施術できる箇所が多くなるんですが・・・』と

出来の悪い冗談を言う。

静脈瘤が小さいなら破裂しないだろう、と

単純に思うのだが、これでこのまま退院したら

また、ひと月経たずに破裂させてくるんだ。

何度も裏切られてきたじゃないか。

 

 

できることがない。

 

 

『退院しましょうか。』

『退院しますか?』

『できることがないんなら・・・』

『・・・』

『しかし座して死を待つ、

    というのは悔しいな・・・』

『それなら・・・』

ということで最後にF先生が出してきた手が、

『降圧剤を服む』という方法だった。

 

静脈瘤破裂の原因は門脈圧の亢進。

血圧と門脈圧では意味が違うが、

血圧を下げる作用がある降圧剤を服めば、

門脈圧も下がるそうだ。

試してみますか?⁉️ということだ。

 

よういろんなこと考えよんな、と思うが、

他に方法がないなら試すしかない。

イワシの頭でもイモリの黒焼きでも試すさ。

『でも、血圧を下げて立ち眩みが酷くなったら

元も子もありません』

 

ということで、この週末は

『降圧剤を服んで立ち眩みは出るのか』

ということの実験を、自分の身体を使って

やっております。

 

具体的には薬を服んで寝ること、です。

とろとろと寝てばかりいます。

あまり血圧は下がりません。

上が100から120くらいです。

日大の監督は、いけないと思います。

ベッドから勢いよく起き上がると、もれなく

頭から血が引いて、視野が狭くなります。

栃ノ心に優勝して欲しいです。

ひまだ

 

 

 

 

 

残り- 302

  

  

 

 

焦りはあるけど  出来ることがない

 

 

 

 

 

にほんブログ村 その他日記ブログへ

 

 

 

ここまで書くのにこんどは9日かかった。

 

 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2018年5月16日 (水)

余命1年日記 -114- 転院の理由 (5月第3週 2018.5.16)

最近の記録

 

5月   3日      静脈瘤破裂

                      六甲アイランド病院  再入院

         8日       六甲アイランド病院  退院

                       K病院  入院

       14日      (いまここ)

 

疲れた。

治療と関係ないことで一日中走り回された。

ややこしい書き方をしているが、

今回もやったことは『転院』。

六甲アイランドからK病院に移ってきました。

 

2日、大雨の日の深夜に静脈瘤が破裂した。

場所は食道ではなく、すこし下りた胃の中。

最初はゴミ箱に入っていたカップラーメンの

カップに吐いたが、

すぐに間に合わなくなってゴミ箱本体に、

咳をする度にえづいて吐いた。

それでも、今回は

『内視鏡でクリップ止めせずに、

前回みたいに自然に治らないか』と

淡い期待をもって唸っていた。

時々は治まったように思えたが、

結局血は止まらず、何十回目かの吐血をして

トイレに行こうと立ち上がったら、

二歩で目の前が真っ暗になって倒れそうに

なったので、諦めて救急車を呼んだ。

 

吐血をして下血して、体中から水が出ていくと

喉が渇く。

しかも今回は病院に行くのを避けようと、

10時間くらい血を上下から出していたから

猛烈に喉が乾いた。

4月に、親父に挨拶に来た二番目の姪と

その婚約者君が買ってきてくれた、

2lのペットボトルが10本ほど入った箱から、

よろけながら2本ほど取り出して空けた。

 

あの二人はあの分量のペットボトルを

どうやって買ってきてくれたんだろう。

婚約者君はずいぶん小さな人だったが

 

体の上下から出ていった水分は6~7lあったと

思うが、そういう事を考えると

純粋に出ていった血液だけなら2~3lか。

わたしの体重が80kg弱だから、

血液の総量は6lくらい。

いずれにしても、そろそろいつ失神しても

おかしくない水準になって来た。

今回は救急車を呼びたくなかったのだが、

いま目の前が急に暗くなって倒れても、

惚けた親父が119してくれる可能性はない。

(実際、今回も129にかけていた)

まだちょっと死にたくないので自分でかけた。

 

しかしこれは、失敗だった。

 

救急車が来て、隊員が受け入れ先の病院を

探してくれる。ところが何度も救急車を頼んだ

おかげで救急隊員はわたしの掛り付けがK病院

であることを覚えており、

『六甲アイランド病院が受け入れるそうです』

という。実はK病院と六甲アイランド病院は、

同じ資本の系列病院なのである。

従って医師も両方で融通しあっているらしい。

内視鏡担当の医師も隔日交代で病院をまわる。

そして、あいにく奇数日に関しては、

内視鏡の救急は六甲アイランドで

受けていたのであった。

 

嫌な予感が当たった。

あそこは前回の入院の際に、

わたしが内視鏡を 噛んで壊して以来、

どうにも敷居が高い。

 

実際、あの事件はわたしの予想以上に病院全体

の怒りを買っていた。

ともかく『あそこは止めてくれ。

K病の系列以外の病院にしてくれ』と頼んだが

『しかし、掛り付け病院がある場合

そこを優先しますから』と救急隊員は頑固だ。

繰り返し頼んだが聞いてくれない。

救急隊員なんて日本一忙しい人だろうから

もう諦めて六甲アイランドに運ばれてきた。

 

六甲アイランド病院での担当は

Oという先生で、前回の医師と違う。

前回の対応よりも露骨な冷たさは減ったが、

それは主治医に関してだけのこと。

病院としては違った。

入院2日目に『神経科の部長』と名乗る年配の

偉そうな医者が回診に来て、

『あなたは、退院するとすぐ戻ってくるね』

と言いに来た。なにをっ?と思って見上げると

『あ、安静にしていれば良くなるからね』

とだけ言って帰って行った。

怖かった。

 

8日の朝に『K病院に移るように』という

指示、というか命令を受けた。

転院についてはO先生も示唆していたし、

前回の憎まれようから、私自身覚悟していたが

施術5日目、未だ傷は癒えず経口食にすら

なっていない。立ち上がるのもおぼつかない。

しかも自腹を切ってタクシーで移動せよ、

と言われたから、さらに冷たい。

へろへろになってK病院に移ってきた。

(後で聞くと「転院の際の自腹タクシー移動」というのは一般的

なのだそうだ。しかしそう考えると、ストレッチャーに乗せられて、

ドクターカーで移動した前回の転院は、さらに異常だったことがわかる。)

 

本館3階の東北の角部屋のベッドに入ると、

朝に東の窓から朝日が、

夕方には夕日が射し込んでくる。

 

いまもそのベッドで、これを書いている。

疲れた。

 

 

 

転院した8日にF先生が来た。

非常に厳しい表情で、

『六甲アイランド病院(以下6I(ロクアイ))からの

手紙を読んだ。

そこにもあったが次回以降、6Iは

あなたの新規受け入れは出来ないそうだ。

理由は以下の通りである、と。

・退院―入院のスパンが短すぎる。

・内視鏡手術や輸血の費用も安くない。

・6Iはもうあなたは治らないとして見限った。

 

ショックだった。

『費用がかかるから受け入れない』なんて

医者の台詞じゃねえな、と思った。

 

さらに、

・再度出血したら輸血、内視鏡手術、いずれの

    手段も採らないということで良いか?

・今年1月にK病院に来た兄夫婦には、

    いかなる処置も無用という、

    極めて薄情な内容で既に了解を貰っている。

      (いままで知らなかった。こんな酷薄な内容に合意しておきながら、

       見舞いに来ていたのか。)

と聞いてくる。

 

この人は何を言っているのか?

いつものF先生が喋っているとは、

どうしても思えない。

 

その日はそこまでで終わった。

当面は通常の静脈瘤破裂の処置をする、と。

 

 

 

 

 

翌9日、10日と話をして、F先生の話の真意や

そうした判断に至った背景が、

なんとなくわかってきた。

 

 

わたしという人間は、

静脈瘤破裂の処置が終わって退院するや

『浴びるように酒を飲んでいる』

不真面目な患者である、と信じられている。

ということらしい。

 

したがって、

・そんな奴には、輸血も内視鏡手術も無駄で

    もったいない。

・六甲アイランドはあなたが出血しても、

    新規受け入れを拒否する。

・あなたはアルコール専門病院に入るべきだ。

これは.、6Iの医者の総意である、と。

 

頭が混乱しながらも、ここまでの内容を

やっと理解した。

つらい。

 

『わたしが現在進行形のalc病患者である、

と6Iが信じる理由はなにか?』と聞くと、

・退院して、再入院するまでの時間が短すぎる

・入院中に静脈瘤破裂を起こしたことはない。

・入院中は、緩やかながら肝臓も回復する。

 

酒臭かったり、血液検査に顕れたりといった

直接の証拠はない。

しかし、退院して生活サイクルや食生活が

不規則になったとしても、

こんなに急には変化しないんじゃないか。

退院したら 酒を飲んでいる、と考える方が

自然だ、と。

 

 

今回、六甲アイランドに入院して内視鏡手術で

処置してもらった日の夜に、嫌な夢を見た。

以下、そのときの夢。

何か資料を集めるために街のあちこちを歩いた

写真も撮った。ずいぶん疲れたが、

そこで自分がしていることは、目的か手段の

どちらかが間違っている、という自覚はあった

事務所に帰ってくると、皆よそよそしい。

デスクの間の通路を通ると、

話しかけてくることは決してないが、

視線と「こいつ、なにしに来た?」という

敵意を感じる。

最初の会社を辞める2週間前の頃の

『身の置き所のない寂しさ』を思い出しながら

自分のデスクに来ると、パソコンだけ残して

自分には関係のない資料が置かれていた。

回りに聞こうと思っても出来なくて、なぜか

電源が入らないパソコンの黒いモニターを

見ながら、その前に立ち尽くした。

 

目が覚めると、いっぱい寝汗をかいていた。

嫌な夢だった。

 

 

退院から再入院までの時間の短さについては、

私自身気になっていたので、この話を聞く前に

自分でも過去の履歴をしらべていた。

この日記を書いている期間、2016年8月から

2018年5月の1年10ヵ月の間について調べると

・入院回数        :     17回

・退院期間平均:  16.1日

・最長退院期間:     70日(2017.1.  5~3.16)

・平均入院日数:  18.6日

・最長入院日数:     49日(2017.5.  4~6.22)

                                              (2018.2.26~4.16)

(「退院期間」は退院から次の入院までの期間)

・累積入院日数:   317日(2016.8~2018.5の

                                               660日のうち)

 

確かに入院の回数が多く、入院と入院の間の

期間(退院期間)が短い。

『立て続けにしょっちゅう』という印象を

持たれても仕方がない。当の本人である私

でさえ驚いた。

「退院期間」には退院した当日に

ヘルニアになって、1日で病院に戻ったケース

も同様に計算にいれているから、

印象よりも短い数字にはなるが、それでも

16日、半月しか持たないというのは論外だ。

 

『退院期間が徐々に短くなっているのでは?』

とも  考えた。

短くはなっているが『毎回減っている』という

ほど傾向ははっきりしない。むしろ、

たまたま短いケースが続いた、ともいえる。

腹水での入院がなくなって静脈瘤破裂の入院

ばかりになった。静脈瘤が破裂する時期は

ランダムだから時期が読めないのである。

徐々に腹が膨らんでくる腹水と違うところだ。

 

もちろん『たまたま』であるにしても

いつ破裂してもおかしくない静脈瘤が育って

いることが前提なので『酒が静脈瘤破裂の

原因だったのか』という問いの答えには

ならないのだが。

 

『内視鏡噛み切り事件』で腹を立てた6I内科と

上層部が『こいつは一体何者だ?』と、

私の入退院履歴を調べて、

事態の異常に気が付いたらしい。

『こんなに退院期間が短いのは酒を飲んでいる

からだろう』と結論付けたということらしい。

内視鏡事件についてはつまらないことをした。

 

 

 

 

さて、長々と『私がなぜ疑われたか』について

書いているが、結局飲んだのか?といわれると

じつは飲んだ。

・・・なぁんだ、という話で、

ここまで読んでくださった方を裏切ることに

なるが、ここで嘘はつきたくない。

F先生にも正直に言った。

 

今年に入っていろいろあったが、肝移植が

生体肝移植、脳死肝移植のいずれの途も、

完全に途絶えた時に飲んだ。

 

ヤケになったわけじゃ・・・、なってたのかな。

ビビっていたから量は飲んでないし、

その後毎日飲んでいるわけじゃない。

あれで肝臓に影響が出るかしら。

 

いや、こういう台詞は

典型的なアル中の言い訳だな。

僕は弱い人です。

 

しかし、脳死肝移植の登録の条件、

『禁酒1年半』を気にしなくてよくなって

せいせいした。

 

もちろん飲めば肝臓には悪い。

肝臓が悪いから静脈瘤破裂にもなるのだ。

 

 

繰り返すが、ここで『毎日は飲んでないから』

とか『大した量じゃないし』なんていう

『いかにもアル中』的な言い訳はしたくない。

 

ここでは、

頻繁な入院が怪しまれて、

六甲アイランド病院には、私が退院期間中 

酒を飲み続けていた、と信じられている。

と、いうこと。

さらに、

実際に、私は今年に入って飲んだことがある。

と、いうことだけをご報告したい。

 

 

 

 

F先生がどう考えているかというと、

転院直後の8日には、

『再出血しても、輸血も内視鏡手術もしない』

と、6Iと同じことを言っていた。

しかし15日には、

『治療はしない、という6Iの考え方は

間違っている』と言ってくれた。

 

『alc専門病院に入院するべきだ』とは、

最初から言っていた。

10日に話をした時には、

『6Iの結論を聞いて、K病院の内科と放射線科

   でもあなたの治療に対する意思を統一した』

という。

その内容は、

・alc専門病院に入るべきだ。

   (しかし意識が明瞭である以上、強制はできない)

・6Iのように、治療しないという対応はしない

F先生にはそのうえで、

さらに入院を強く勧められた。

通院では治らない、と。

 

 

断った。

 

 

理由は、少なくとも私に関しては、

『入院が治療に結び付かない』ということを

自身の経験から嫌というほど知っているからだ

さらに今さら、精神科なんかに入院する時間を

取るのが嫌だ。

『静脈瘤破裂はともかく、肝臓はもう

末期の状態なんでしょう』と聞くと、

先生は渋い顔で『そうです』と、答えた。

『だから精神科の入院は要りません』

『・・・・・・』

『今回のことで懲りたからもう飲みませんよ』

 

結局、入院の件はペンディングになった。

 

 

理解のある先生たちに比べて、なんて我が儘で

嫌な患者だろう。

 

 

 

 

 

とりあえずK病院の精神科に『通院』という

形で、話をしに行くことになった。

先生の言葉通り『入院』を代替するものでは

ないが、精神科の先生と話をして、

すこし考えなさい、と。

 

しかし、なんとしても入院は嫌だった。

20年前、何年も嫌々通わされた専門病院や

自助グループの、独特の臭いを思い出す。

 

もう、最期だ。

もう、いいだろう。

もう、好きにさせてくれ。

 

そうはいっても時間だけあっても、

お金と体力がないないから

ちっとも『自由』を活かしていなかった。

無為の日々は、この日記にも書いてきた。

 

こんな日々が最期なのかなあ。

 

 

 

 

 

血縁、といえば近頃急速に頭と足腰に衰えが

きている親父と、医者に向かって

『こいつが救急で運ばれてきても

処置しないで見捨てて下さい』と言っちゃう

冷たい兄一家だけである。

 

 

 

 

(恵まれなかったから)子どもはいない。

(別れたから)嫁はいない。

だから毎日枕頭に来る人はいない。

何人かの友人が忙しい中、時々見舞いに

来てくれるが、

仕事で付き合いのあった人も来ない。

こんな騒ぎがあった後だと、病院のドクターは

もちろん、スタッフでさえ怖い。

 

今日の文章の前段に書いた

『敵意のあるオフィスでうろたえる人』は、

そのまま、今の自分だ。

 

嘘ばかりついて、嫌なことから逃げていた

50年の、決して短くなかった人生の決算書を

突き付けられて、呆然としている。

 

 

居場所がない。

 

 

 

 

 

 

残り- 293

  

  

 

 

疲れた。

 

 

 

 

ここまで書くのに一週間かかった。

 

にほんブログ村 その他日記ブログへ

 

 

 

 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

余命1年日記 -113- 退院 また入院 (5月第2週 2018.5.6)

最近の記録

 

4月   6日      新館、地域包括ケア病棟に移動

       26日      K病院  退院

5月   3日      静脈瘤破裂 

                      六甲アイランド病院  再入院

         6日      (いまここ)

 

4月26日に退院しました。

前日、F先生に『これからどうしますか?と、

聞かれた。

当然退院後のことだと思ったから

『八街には行きませんよ』と、言ったら

『そういうことじゃありません』と、

にべもなく言われた。

つめたい。

 

26日に退院。

地域包括ケア病棟の看護師さんは、笑って

見送ってくれた。

 

 

しかし、この日から一週間後に、私は

再び病院に戻ってくることになる。

2日深夜から吐血と下血を起こし、朝方

救急車を呼んで、また六甲アイランド病院に

運ばれてきた。

 

吐き気がして、血便の残りが果てしなく出る。

昨日まで一日中うなっていた。

まだ、苦しい。

 

 

稿を改めて続きを書きます。

 

 

 

 

残り- 283

  

  

 

 

 

一昨日、嫌な夢を見たんだ。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 その他日記ブログへ

 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2018年4月11日 (水)

余命1年日記 -112- 地域包括ケア病棟 (4月第2週 2018.4.11)

最近の記録

 

4月   5日       隔離解除

                       いつもの大部屋,235号室に移動

         6日       新館、地域包括ケア病棟に移動

         9日       (いまここ)   

 

 

インフルエンザの熱もひいた。

でも、退院はまだ。

そのかわり退院前に新館に行け、と言われた。

K病院の新館には療養病棟がある。

 

どんな病棟で病院を構成するべきか、という

ことは病院の経営の根幹に関わる。

その一方で制度の変遷が激しい。

したがって病院の数だけ解があるので、

放り込まれるだけの患者には全体像や

自分がいる病棟の意味がわかりにくい。

さらに、いま2020年を目処に何度目か

の大改革が行われている最中なので、正直

ちゃんと理解するのを諦めた。

従って、以下の記述は医療について、

体系的にきちんと理解していない五十男の、

ぼんやりした知識を書き留めたものであると

思ってやってください。

 

くれぐれもこの文章から実務的な知識を得よう

などと無謀なことは考えないように。

 

 

病院を構成する病棟はつぎの5つに分類できる

精神病棟、結核病棟、感染症病棟、療養病棟、

一般病棟である。

最初の三つはとりあえず今の私に関しては、

関係がない。

 

一般病棟というのは、まあみなさんが普通に

イメージするところの内科病棟である。

むかしはこれしかなかった。

ところがそうなると『元気はつらつに

退院させられる訳ではないけど、病院に

置いといても、こいつら簡単には死なねえぞ』

という爺婆の滞貨を大量に抱えることになって

保険財政が破綻しそうになった。

 

そこで作られたのが『療養病棟』というもの。

長期の療養を必要とする患者のための病棟で

部屋や談話室や廊下の広さ、幅員など

それにふさわしい広さと環境を備えたもの。

これも二種類に分けられ、医療保険の適用を

受ける医療療養病床と介護保険の適用を受ける

介護療養病床のふたつがある。

いずれも一般病棟よりも広い病棟と病室で

ゆっくり体力を回復してもらって退院して、

在宅での復帰を目指しましょうというもの。

(入院期間の目安は医療療養病床で3ヶ月、

介護療養病床で1年間)。

ただしスタッフ(医師、看護師、薬剤師)の数は

一般病棟より少なくさせてもらうよ、と。

療養病棟と一般病棟とを分けて、一般病棟に

医療資源を集中して早期の退院、自宅復帰を

促すことでベッドをを回転させてやれば

効率的な病棟運営が出来るだろう、と。

 

療養病床の診療報酬は『包括医療』という

考え方によっている。これは、原則として

処置や検査の内容に関わらず『1日当たりの

包括点数』で計算する。さらに入院費用の

基本である入院基本点数は、『療養』に

特化しており、リハビリに関しては手厚いが

治療とその前提である検査の費用は原則として

認められない。

たとえば内視鏡検査はもとよりエコーも

『検査』であるから費用は算定できない。

静脈瘤が破裂しても地域包括ケア病棟は無力で

ある。『治療』と『検査』は一般病棟で

受けろ、というわけだ。

不親切なことだ。

 

一般病床で感染症や褥瘡などの慢性の疾患に

罹っても、点数の計算の仕方が違うので、

『転棟』は大変に手間である。

杓子定規だなあと思うが、このややこしい

診療報酬の制度が、療養病棟のさらなる改革を

阻んでいる。

どういうことか、というと2020年までに

『介護療養病床』はなくなるのである。

 

国が療養病床の患者の実態を調べたら、

あれだけ何年もかかって緊急性の高い患者と

低い患者を峻別しようとしていたのに

未だごちゃ混ぜになってやがる。

急性期病床のほうが保険料が高くて病院が

儲かるからだが、この野郎、ということで

2020年に介護療養病床はなくなってしまう。

短気だ。

こんなふうに20年以上制度を作っちゃあ壊し

作っちゃあ壊ししているから、もはや患者には

病棟の制度は理解できない。

病院の設計の手伝いをしていた頃には勉強も

したけど、もうわからん。

わたしが質問しても『えーと』とか言っている

のでF先生もきちんと理解していない節がある

けど、もういいや。

 

 

 

さて、『療養病棟』について、長々と書いて

きたが、わたしが今居るところは療養病床

ではない。『地域包括ケア病棟』というもので

2014年にできた新しい制度。

在宅や介護療養を受けている人の

亜急性期のケアのサポートや

リハビリ、さらに在宅復帰支援などを行う。

入院自体の期間は短期で抑え、地域の医療機関

と連繋して、治療を完結させるのが目的である

したがって入院期間の上限は60日。

60日を超えて入院しようとすると、

一度別の病院に転院、あるいは転棟して

一般病棟などに移らないとならない。

面倒くさい。

 

設立の経緯が異なるのと、保険点数の計算が

融通が利かないので、

2020年になくなってしまう介護療養病床を

代替する実績は乏しい。

(いまの地域包括ケア病棟は一般病床からの

転換が多い)そうはいっても将来的には数的に

多数になるらしい。私は『リハビリ』と称して

1日寝てるだけだけど。

K病院の地域包括ケア病棟は、療養病棟から

病棟ごと転換したもので珍しい事例にあたる。

 

静脈瘤破裂も治り、血液検査の結果も改善。

低かった血中のアルブミンなどの蛋白質や

血小板が回復してきて、

いつもの破裂ならそろそろ退院だろう、という

時期の転棟。

『リハビリをしてきてください』という

釈然としない指示だったが、真の目的は

この病棟の機能の一つである『在宅復帰支援』

であるのだろう。

 

静脈瘤破裂は防げないが『立ち眩み』などは

入院中になんとかしたい。

あと、先生は口に出さないが、退院したあと

兄貴のところには行きたくない、ということを

相談したから、そこを慮ってくれたのかも

しれない。

先生に迷惑をかけてはいけないが。

 

と、思っていたら、11日に内視鏡をのんだら

『静脈瘤が増えている』という。

さらに、胃が内出血していて胃壁が真っ赤だと

いう。こまったね。

 

 

 

 

暇と言えば暇。さらに建物自体も、もともと

療養病棟だったから大変にゆとりがある。

南側の海と港を見下ろす

陽の当たる斜面があり、広い談話室があるが、

そこでぬくぬくと陽を浴びていると

『退院したくないなー』と思う。

K氏の仕事をしていた頃と違って、

一刻を争う仕事はない。

むしろ、『退院しました』と挨拶回りをして

仕事を戴きにいかないといけない。

 

めんどくさい。

 

 

 

入院して暇になるのも考えものだ。

 

でも考えちゃうんだよな。

 

新しく増えた静脈瘤と胃壁の内出血って

どうなるんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

残り- 258

  

  

 

 

 

退院するのが億劫だ。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 その他日記ブログへ

 

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018年4月 5日 (木)

余命1年日記 -111- インフルエンザ (4月第1週 2018.4.5)

最近の記録

 
 

3月   8日       K病院転院

       26日       個室からいつもの3人部屋に移動

       31日       インフルエンザ陽性   

                       隔離    個室に移動

4月   2日       K君来訪

         5日      (いまここ) 

 

 

インフルエンザになった。

咳が止まらずに、しんどいなあと思っていたら

31日夜に、8℃台の熱が出た。

念のため、看護師さんが私の鼻の穴に針金を

突っ込む例の検査をすると、俺の身体ってば

まんまと陽性になりやがった。

これ以前にも9℃以上の熱が出たこともあって

検査を受けたこともあったのにその時は

陽性にならなかった。

 

即座に隔離決定。

 

空いている個室に放り込まれた。

もっとも今回の個室入院は、インフルエンザ

からの隔離という治療の必要に由るものなので

申請書を書けば差額ベッド代はただである。

当然書いた。

今回の入院はもう1ヵ月半になるが、大部屋に

いた5日間を除いて、ずっと個室にいる。

ただで。

 

ラッキー

 

この日記が、死線を彷徨う男の魂の記録、

ではなく、なにか軽すぎる印象を与える理由は

このあたりの緊迫感の無さ、なんだろう。

家族、友人と自由に面会するための『個室』

ではなく、病状に必要あっての『個室』である

というのは、もう少し焦ってもいい事態である

はずだ。

それが平気。

 

だって暇なんだもん。

 

もちろん隔離されてしばらくは辛かった。

咳が止まらない。この咳が苦しい。

喉が痛くなる。呼吸が苦しくなる。

咳はいまでも辛い。

熱があるうちは、果てしなく気持ちが悪い。

しかし、次第に発熱が治まってくると身体が

楽になってくる。

最近はだいぶ腹水も減ってきたので

腹が張った感じも減った。

立ち上がれないほど痛くて辛かった膝も

痛み止めのおかげでだいぶ楽になった。

もう歩行器もいらないと思うけど、

インフルエンザ騒ぎの一週間、

寝たきりに戻ってしまっていたので、また

歩行器から始めないとならないのだろう。

 

面倒くさ。

 

しかし、身体が楽になってくると

思うことがある。

 

ひま

 

『インフルエンザ前』は歩くのが辛くて部屋の

外に出られなかった。

『インフルエンザ後』のいまは隔離されている

ので、勝手に外に出られない。

トイレ付きたが6帖あまりの部屋で1日過ごす

となると、テレビを見るしかない。

今日1日で大谷は20本ホームランを打った。

大阪桐蔭は2回優勝した。

わたしはいま、『オフィス北野』の内紛に

ついて、日本一詳しい重病人であろう。

 

これでも、うちのボケ親父が私がリストアップ

した『生活必需品』の一部を長い時間をかけて

持ってきたからである。

これだって大変だった。

まず電話にでない。コールが尽きるまで

30回かけてやっとでるか、という確率。

耳が遠くなったせいもあるが、こいつ

『気が向かないと電話をとらない』のである。

携帯もないからエレベーターホールのにある

公衆電話を使ったが、やつの耳の遠さから、

どうしても大声を出さなければならず、

ナースステーションの目の前でもあったから

大変恥ずかしかった。

 

さらに電話が通じても、用事が一度ですまない

『腰が痛い、足が痛い』といって家を出ない。

最初『必要なもの』を電話で伝えたが、これが

全く通じない。入院していた病院に最初、

奴が持って来たのは2冊のマンガ雑誌だけだ。

仕方なくメモにしてメモ帳ごと持たせたが、

そこからまた荷物をみんな持ってくるのに、

二週間くらいかかった。

 

その間は更に暇。目は覚めたし体調も次第に

もとに戻ってくるのに、足が痛くて部屋から

出られない。

白いペンキの天井を見上げるばかりである。

 

足が立たないことも、咳が出ることも、

熱が出ることもみんな辛いが、今回の入院では

この『暇である』ということが、

一番辛かったかもしれない。

 

しかし、ようやく熱が下がって、今日辺りには

『隔離生活』から脱出できそうです。

 

でも、退院はまだ。

 

 

 

残り- 252

  

  

 

 

 

また、立ち上がるところからだ。

 

 

 

 

にほんブログ村 その他日記ブログへ

 

 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

«余命1年日記 -110- 最低の入院 (3月第5週 2018.3.28)