2017年6月21日 (水)

余命1年日記 -78- 脳症予防法 TIPS      2017年6月第4週(2017.6.20)

今週の記録。

 

6月08日 外来 入院 穿刺3L

   10日 穿刺3L

      はばたき振戦 徘徊

      12日 血液検査

       脳症の件でF先生面談

   11日

   |   穿刺なし

    22日

    12日 血液検査

    16日 外出 免許更新 下剤

    17日 帰院 下剤中止

    19日 血液検査 抗生剤    

    20日 抗生剤

      (いまここ)

 

間を開けたから振り返るのも大変だ。 

2017年6月の入院中の毎日の様子。

6月08日から入院。

穿刺と血液検査を行った日付は上記この通り。

 

この間の一番のトピックは、

なんといっても10日と11日の脳症騒ぎ。

実際、腹水のほうは穿刺して安静にしたら

8日の週には、さほど辛くなくなった。

わかりやすい身体だ。

だから10日の段階では、もうしばらく安静に

したら退院だろう、と思っていた。

14日が誕生日だから、それまでに一度

外出許可をもらって免許の更新に行きたい、

とは、F先生に伝えてあった。

 

ところが外出するなら念のため、と

慎重なF先生が、わたしを真っ直ぐ立たせたり

腕と指を真っ直ぐ伸ばさせたりしたら、

俺の身体ってば、まんまと振戦しやがった。

おまけに朝方呆けて徘徊するし、呆けて

「ベッドあらしが出た」と騒ぎ立てた。

 

我ながら怖かった。

 

以前も書いたように脳症の原因は、血中の

アンモニアである。

これが増えると呆ける。

アンモニアがどのくらいの数字になったら

呆けるのか、というのは

はっきりしないらしいのだが、

原因であることは間違いない。

したがって、脳症にならないためには、

血中のアンモニアを増やさなければよい。

 

・・・?

『呆ける真の原因』に正面から取り組まずに、

派生症状であるアンモニアの発生を押さえる

だけでいいのか?

 

まあ、私はいまひとつよくわかっていないが、

体内でのアンモニアの発生を押さえる方法は、

以下の二つ。

1.腸管の中に未消化の食物滓を

 留めておかないこと。

 (処方)→下剤によって滓を流して

          アンモニアの生成を防ぐ

 (危険)→下痢をしやすくなる。

2.アンモニアを発生させる細菌を減らす

 そのため、抗生剤を服用する。

 (処方)→抗生剤によって細菌を殺して

          アンモニアの生成を防ぐ

 (危険)→下痢をしやすくなる。

 

どちらも下痢をしやすくなるのが欠点だが

16日から下剤、19日から抗生剤の

服用を始めた。

下痢の様子を見ながらまずは重ならないように

短期間ずつ行うこととした。

 

服用を始めると下痢はした。てきめんに。

とくに外出から帰ってきた17日に催して

きやがって、ちょっと漏らしちゃった。

 

実際に服用を続けるかどうかは、服用後に

血液検査を行って、アンモニアが減っているか

どうかによって判断する。

安くない薬だから効果が薄ければやめる、と。

 

現在、この段階である。

 

 

 

また以前TIPS の話を聞きにいった

兵庫県医大のH先生が、6月にK病院に

移籍してきた。

また、実際に手術を担当する放射線科の先生も

移籍してきた。TIPS をK病院で行う態勢が

できるのだという。

 

腹水で、こんなにしょっちゅう入院するなら

TIPS についてもう一度考えてみたらどうだ?

F先生が言うから22日に話を聞くことになった

その先生がTIPS の手術の際に必要だとして、

私の身体の血管の走行を調べたいのだという。

21日に血管に造影剤をぶちこんで、

CT撮影をする。

 

それとは別に、病状自体は安定しているで、

今週中に退院しなさい、と。

しかしこの度、K病院では週末金土日の退院が

できなくなった。22日をのがすと週明けの

26日になる。

とっとと出てけ、というわけで

若干慌ただしいが、22日に退院します。

やっぱり患者の入院期間を短くしようと

してるんかな。

 

 

 

 

残り49

  

 

 

今朝はすごい雨。

 

呆けてるから、カウンターの数字が

めちゃくちゃになってたよ。

 

 

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2017年6月14日 (水)

余命1年日記 -77-病床のハッピーバースデー        2017年6月第3週(2017.6.14)

6月14日

きょうは、わたくしnatsuの誕生日です。

53歳になりました。

 

しかしクリスマスも正月も、

そのうえ誕生日まで病床で迎えることになる

とは思わなかった。

 

それにしても親父さえ見舞いに来ないんだぜ。

薄情だなー。

 

まあ、いまさら誕生日がめでたい年でも

ないけどさ。

でも、1年前には本当に誕生日が越せない、と

思ってたんだ。

 

 

まだ、元気です。

1年を越えて、しぶとく生きてやります。

まだ、よろしく。

 

 

 

 

残り55

 

 

え、F先生の年齢が・・・

 

 

 

 

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2017年6月13日 (火)

余命1年日記 -76- 肝性脳症     2017年6月第3週(2017.6.13)ふ

さて、肝性脳症とはなんだ?

というと『脳症』というくらいだからこれは、

馬鹿になるのである。

症状は内容、程度によりさまざまで、

よく見るのが昏睡度による分類。

下の表である。

 

症状
I 睡眠リズムの逆転、あるいは周囲に対する無関心など。
II 見当識の障害や、計算、書字などの障害。羽ばたき振戦(Asterixis, flapping tremor)と呼ばれる、腕を伸ばしたり手を広げたりしたときに、粗くゆっくりとした不規則な震えが起こるのが特徴。
III ほとんど眠った状態になるが、外的刺激に対しては反応して目を覚ます。ときに譫妄状態になったり、割合すぐ感情的になり、パニック癇癪を起こしながら声を荒らげたりし、時には暴れだす。
IV 完全に意識を消失するが、痛みに対しては反応する。
V すべての刺激に対して反応しなくなる。

 

で、

 

いま、個人的に問題なのは脳症になっても、

その死の淵から帰ってこられるかということ。

『死んでいる』の Ⅴ から、『意識消失』のⅣ

『ほとんど寝ている』のⅢについては

いまはどうでもいい。

 

患者の立場としては

1.脳症とはどんな症状が起きるのか

2.個人的にそれにあてはまる症状があるのか。

ということだ。

 

まず肝性脳症というのは、表のように進行し、

最終的には死に至る。 

それぞれの段階での症状は表の通りである。

私自身にあてはまる症状としては、表中にある

『はばたき振戦』というもの

肝性脳症の典型的な症状だそうだ。

(動画)https://m.youtube.com/watch?v=B53kXr_C5HQ

 

もっとも私の場合、

この動画ほど揺れたわけではなく、右手の薬指

と小指が少し揺れてるかな、というくらい。

あれから4日経ったいまは治まっている。

 

時間や場所の認識が怪しくなるという意味での

見当識障害もある。

 

11日早朝、

ベッドから抜け出して病院から出ようとした。

しかも、なぜかバルコニーから避難したのだ。

おまけに帰りには自分の部屋がわからない。

避難ルートというのは、

逃げる方向の一方通行なのだ。真夜中の病棟で

呆然となってしまって病院内を徘徊した。

いま思い出すと、かなり怖い。

 

そのほか、表にのっていない症状だけど、

関係がありそうなのが不随意運動というもの。

私の場合は、手足がつったり、片足が予告なく

びよんっと跳ね上がったりする。

下手をすると一晩中続くから、結構辛い。

もっともF先生は、不随意運動に関しては

いまのところ脳症との関係に否定的である。

 

で、

 

この肝性脳症の原因は私ごときが

付け焼き刃の知識で理解できるものでは

ないらしいのだが、確実なこととしては、

アンモニアが関係する。

アンモニアが増えるとぼけるのだ。

血中アンモニア濃度と症状が、

1対1対応するわけではないが

深く関係することは間違いないんだそうだ。

 

アンモニアが血中に溜まる原因としては、

肝硬変による肝機能不全によって、

門脈の血液が肝臓に入らず、肝臓での処理を

受けることなく大循環系に流入する短絡路を

作ってしまったりするから。

TIPS によって、強制的に短絡路を作った場合

も同様である。

 

いかに脳症を起こさないようにするか、という

ことになると、これはもう、いかに腹中に

アンモニアを溜めないか、に尽きるらしいが

これについては、また検査の結果が出てから

触れていきます。

いまはまだ理解してないし。

 

そしてなにより重要なこと。

脳症は回復する、というのだ。

 

良質なタンパク質を供給するための

アミノレバンという薬を服用ないし点滴して

大量摂取すればいい、と。

完全昏睡のⅤ度の患者も意識を取り戻す、

というから、ほんまかいなと思うが、

ここはF先生を信じようと思う。

 

いままでも、そうしてきたんだし。

 

 

 

 

 

残り56

 

 

疲れた

 

 

 

 

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2017年6月11日 (日)

余命1年日記 -75- まず6月10日のこと  2017年6月第2週(2017.6.10)

昨日は、

病気についての大事な話がありました。

まずは、6月1 0日のことを取り急ぎ。

 

 8時朝食

その後ベッドでに仰向けに寝て、ケータイを

見ていたが、ベッドのブースを覗いていた

じいさんがいる。

たちまち『不審者だ』と思い

ナースコールした。

警察だ何だと騒ぎ立ててまわった。

その後、病棟の関係者に経緯を説明した。

 

 16時頃、F先生が来る。

分厚い専門書を抱えて、

暗い顔で時折これをひもといている。

穿刺は12日なのに診察だろうか。

 

『来週外出ということになると、どうしても

気になることがありましてね。』という。

そうして、片足で立ってみろ、

手のひらが指が反るくらい拡げ、水平に並べて

保持してみろ。という。

意図を図りかねていると、

『これで時間が経ったときに、

揺れて止まらなくならないかを見ています』

 

その後F先生は、言いにくそうにしながら

『脳症の検査です。』

『え?』

『手のひらが揺れて止まらなくなるようなら、脳症を発症しています』

(はばたき振戦)

 

自分はどうか、と見てみると、

右の薬指のあたりが揺れている。

 

『揺れてますかね・・・』

『・・・少し』

『脳症ですか?』

『・・・』

『・・・』

『でも最近は日々の言動でも。』

 

むう。今朝の騒ぎを思い出す。

『でも、まだ軽症ですよ』といって、

F先生はしきりに慰めてくれた。

脳症には治療法もある。とも言ってくれたが

脳症の入り口を入ったのは確からしい。

 

その後しばらく話をした後、12日に穿刺する

といって、F先生は分厚い専門書を抱えて

帰っていった。

 

脳症かあ。

まだ、実感がわかない。

そうはいってもラストステージなんだろうか。

 

F先生の専門書は分厚かったけれど、

下ろし立てのように真っさらだったのを、

心の支えにするか。

 

 

 

 

 

残り59

 

 

まだ、帰ってこれる。

 

 

 

 

 

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でも、

 



 

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余命1年日記 -75- 告白     2017年6月第1週(2017.6.8)

いま、入院中です 

 

 

 

残り61

  

 

 

まだ、死なない

 

 

 

 

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2017年5月27日 (土)

余命1年日記 -73- わかりやすい身体     2017年5月第4週(2017.5.18)

今週の記録。

5月 12日 穿刺中止       

      |

      18日 穿刺中止     (いまここ)

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2017年5月13日 (土)

余命1年日記 -72- 足踏みの日々        2017年5月第2週(2017.5.13)

今週の記録。

 

5月  8日 穿刺 4L alb

      10日 穿刺中止 

      12日 穿刺中止

       (いまここ)

 

10日の朝に行った、血液検査で腎臓に関わる

数字が悪かった。 

(ex.クレアニチン 1.3mg/dl) 

 

腹水が辛くてしようがないので、

連休前から徹底的な除去を始めた。

具体的には、利尿剤と穿刺だ。

 

ところが腹水を出すように利尿剤を用いたり、

穿刺して腹の中の水を出してやると、

その分腹の中の水が減る。

それは大変結構なのだが、そのまま定着すか、

というとそうはならない。

今回の例で言えば、4月27日から5月8日までの

10日間で、腹水(16L)16kgを抜いた。

その減少が定着したか、というとわたしは

この10日間で、たった2kgしか減らなかった。

 

わたしの腎臓は、穿刺だけで16kg、

体重減少分の2kgを差し引いても14kgもの水を

『腹水あるいは尿』として

必死で作っていたわけだ。

 

そりゃ腎臓も悪くなる。

 

腹水を減らそうと、

一週間で3万円かかる、Sという薬をはじめ、

ぎりぎりを狙って大量の利尿剤を

投入していたのだが、

ちょっと限界を越えてしまった。

 

なにしてんだか。

 

このまま穿刺すると

腹水が悪化するので中止しよう、と。

いつか聞いたような話だが・・・。 

 

 

 

しかし真面目な話、

移植など、つぎのステップに進むためにも

腹水をなんとかしないといけない。

しかし、そのためには

腎臓の回復を待たないといけない。

そうなると、

薬と穿刺のペースを落とさなければない。

要するに、ひと休みだ。

腹水が続いてまともな日常生活が送れなければ

以前話題になったTIPS についても

視野に入れて考えなければならない

 

時間がないのに。

 

先月からの不調の理由には、

まずこの腹水のつらさがある。

そのほかに、精神的に弱りきっていたことも

あります。

 

 

 

12日、穿刺しようとすると、どうも

腹水の溜まりかたがすくない。

多少は取れるけど、とても4Lなんて無理。

どうしよう。

 

エコーを撮ると、内蔵の隙間がせまい。

えい、めんどくさい。ということで

12日の穿刺もなし。

週末だから、土日はなにもなし。

 

 

どうもなんだか、足踏みばかりです。

 

 

 

 

 

残り87

  

 

 

まだ、4時間。

 

もっと簡単に、

起きたことだけでも書いていきます。

 

 

 

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2017年5月 9日 (火)

余命1年日記 -71- 備忘録          2017年5月第2週(2017.5.09)

この二週間の記録

 

 

4月27日 外来 穿刺 2L

5月  1日 外来 穿刺 4L alb

        4日 救急搬送 穿刺 3L 

      この日から入院

        6日  穿刺 4L      

        8日  穿刺 4L  alb

       (いまここ)

 

 

 

 

 

 

残り91

  

 

 

まだ死ねるか。

 

 

 

 

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2017年5月 3日 (水)

いたい

くるしいからねます

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2017年4月15日 (土)

余命1年日記 -70- 母の一周忌  4月第3週(2017.4.15)

2016年4月13日、母が死にました。

きょうは、そういった話をします。

(この話は、以前書いた「末期の水」

シリーズのうちのひとつです。)

 

 

 

 

母が死んだのは、その日の朝だったらしい。

『らしい』というのが悔しい。

わたしは『その瞬間』に間に合わなかった。

 

毎日病院に行っていながら、なぜ肝心の

『今際の際(いまわのきわ)』に間に合わないのか。

ということを思い出そうとしたとき、

とても不愉快なことを思い出す。

 

親父のお陰で、俺は病院にいけなかったのだ。

 

 

『母の死の2日前』俺は打ち合わせにいっていた。

以前書いたK氏の仕事である。

 

だから、図面やファイル、書類などを持っている。

『2日前』に来ていた私は、その日泊まり込む

つもりでいた。

だから帰るつもりはなかった。

ところが親父は違ったらしい。

『ほら、一緒に帰るぞ。』という。

 

『一緒に帰るか?』ではなく、『一緒に帰ろう』でもなく、

50過ぎた息子の意思など無視して『帰るぞ』である。

てめえだけ帰れ、と思って無視していると、

この馬鹿、図面と書類が入った袋を持って

行こうとする。

それを持っていかれちゃ困る。  

取り返そうとするが、こいつ馬鹿だから  

すごい虜力だ。すでに腹水が

ひどくなりつつあった私はかなわない。

 

おまけに病棟の真ん中でそんな騒ぎが起きても

神戸市中央市民病院内科病棟は仲裁に来ない。

ナースステーションと一続きのカウンターで

ありながら騒ぎがおわってからでてきた。

そして、一方的に俺を責めた。

出ていかなければ警察を呼ぶ、と。

それでも『親の死に目』に会わせないのも

可哀想かと『病院がつける警備員の同行』を 

条件に面会が認められた。

それ以降私ががこの病院に行くと、

妙に如才ない警備員がいつのまにか出てきて、

脇を押さえた。

馬鹿親父が袋を盗って騒ぎを起こしたとき、 

親父の馬鹿を制止せずに無視したのは

いまでも許せない。。

母の治療でも最後の1ヶ月間、家族への説明と

矛盾した投薬をしたおかげで、

決定的に容体を悪化させた。

 

みんな、神戸市中央市民病院には行くなよ。

あそこの連中は平気で嘘をつく。

あそこに行くと、殺される。

 

 

この事件のあと義姉がわざわざ神戸まで来て、

『natsu さんは中央市民病院で騒ぎを起こして

出入り禁止になってます。どうせもう死ぬんなら、

治療しないでくれ。とF先生に言いに来た。

 

中途半端に余分に生きると、見たくないものを

見ることができる。

 

 

 

『なんで、荷物を持っていこうとした?』と

あとになって聞いたとき、

『あの荷物はnatsu が大事そうにしているから、

持っていったら、困るだろー。

俺に逆らわずに家に帰ると思ったんだー。』だと。

 

こどもだ。

気違いだ。

 

しかも、この内容を不思議な光を湛えた瞳で

まっすぐに見つめて話されたときには、

背筋が寒くなった。

 

母が危篤になったせいで、

父の精神状態が変わったわけではない。

 

父との同居は、この時ですでに20年。

嫁が出ていって、離婚裁判に勝手に興奮して

『俺が酒をやめさせる』かなんか言って、

神戸にやって来て以来だ。

以来20年。アッチェルしながら続いている。

 

たとえば、うちの部屋は比喩ではなくボロボロである。

トラブルの度にこの馬鹿が、挑発するからだ。

ふすまやボードには穴が開き、建具はすべて壊れている。

これも、理由を言わせると、

『この家はnatsu のものだから、黙って壊させておいた。

落ち着いたら気がつくだろー。』だそうだ。 

気違いだろう。

憎しみが増すだけだ。

 

病気の原因なり、悪化の理由を他人のせいに

するつもりはないが、

この強烈な個性の照り返しを20年浴び続けると

家族が皆不幸になる。

 

少なくとも、俺に関して精神的な安定など、

望み得ないことが分かるだろう。  

だから、退院が近づくと憂鬱だ。

 

 

 

 

母が死んだ。

死因は、腎不全。

息子は、私のほかに兄貴がいてこいつは

不肖の弟に比べると、ずっと立派で 

ちゃんと地位と職業を作っている。 

こどもは3人。私にはいないから、母の孫は

3人。

享年83

 

 

 

 

 

母は40代に乳ガンに罹っている。

抗がん剤や放射線治療を行ったらしい。

伝聞形なのは、わたしがガキすぎて

母の治療について、理解していなかった

からである。

結局それらの治療では、思わしい効果が

得られなかったらしい。

 

最終的な手段として、乳房摘出がされた。

いまから40年前、『部分摘出』ということが

できなくて『全摘』ということになった。

あれは気の毒だといまでも思う。

 

ただし、あの時代の常識からみて、

手術後40年以上、ガンの再発はなかったわけだから

手術としては大成功。

ただし、わたしはまだ小学生だったし、 

兄貴は中学に上がっていたか?

不安があったはずだ。

さらにホルモンのことなどわからないが、

体調の不安も大変だったらしい。

 

だから、手術後は、

『あたしは長生きできないんだから』が口癖だった。

『うちの母は、ガンで早く死んでいるからね』も

口癖だった。

 

ははのははつまり、わたしのお婆ちゃんは

肝臓がんで七十歳台で死んでいる。

ところがお婆ちゃんの没年齢を越えて、

母が長生きすると、

『うちの家系は体が弱くて』に変わった。

 

しかし、長く生きられるのは、嬉しかったらしい。

彼女が80になったときに、『80は「なに寿」というのか?』

と聞くから、『さんじゅ』と答えた。

怪訝そうな顔をしているから、手のひらに

『傘寿』と書いてやると、嬉しそうになんどか

なぞった。

 

 

 

 

私自身に関して言うと

親不孝だった。

いつわたしが、酒に戻ってしまうか、ということを

心配させ続けた。

知り合いもいない神戸に閉じ込めることになった。

私の仕事が安定しないため、心配をかけた。

 

もっとも、母も

おとなしく不幸に耐えるようなキャラクターでらなく

マシンガントークで言い返してきた。

特に人を疑うことにかけては、天下一であり

よく喧嘩した。

その一方、父がその異常なキャラクターで

家族を支配したとき、顔を歪めて、しかし

なんとか従っていた。

 

 

 

母は、昭和9年(1934年)浅草に生まれた。

私が生まれてから

『あたしぁね、三代続いた江戸っ子だよ。

あんたたちみたいな千葉生まれの田舎もとは

違うんだからね。』と

実の息子に言っちゃうのである。

てめえが千葉に嫁に来たんだろう。

 

この、『千葉に嫁に来たら田舎でびっくりしてがっかりした。』

という話は繰り返し言っていた。

うちの前のバス通りが、ゆるやかな上り坂に

なっているのだが、その坂のことを

『あんまり急な坂で、なんかすごい田舎に来たな、

と思うとがっかりした。』と言っていた。『急坂=田舎』というのがなんかリアルだな、と思った。

 

彼女は10歳の時に、東京大空襲にあっている。怖かったそうだ。

家族に不幸がなかったのはなによりだが、

店はなくなった。

浅草近辺からも一族は、皆離れてしまったらしい。

『大きな店だった』と自慢するが一昨年くらいに

ストリートビューを見せてやったとき、

場所の特定に苦労していたから、どうだろう。

 

子供の頃は、春と秋の彼岸に墓参りをした。

母の家の墓があるのが、上野と浅草の間の

稲荷町。母は必ず、上野から浅草まで歩いた。

我が家があった千葉からでていた、私鉄の

京成の東京がわのターミナルが上野。

母の家の墓が在るのが、上野と浅草の間の稲荷町。

 

墓参りをすませると、母は毎回浅草まで脚を伸ばす。

仲見世を冷やかして観音様に参り、

決して入らない花屋敷のジェットコースターの音を聞く。

六区の辺りまで行って、毎年『変わったねえ』

と言う。

そうして、黙って土産を買ってくる。

土産は、薬研堀の七味唐辛子と、

舟和のいも羊羮と黒白の餡ころ玉。

 

毎回こう。

頑固なくらいである。

 

 

『母と歩いた記憶』を手繰ってみたら、これが出てきた。  

 

大阪で独り暮しをしていたころ、一緒に車で来て

信貴山に夜中に車で行って夜景をみたり、

神戸に来て直ぐのころ、遊びに来たので

六甲山に夜中に行って夜景をみたりしたのに。

 

夜景ばっかりだ。

 

 

昭和40年代の空気と共に、この墓参りの記憶が

真っ先に出てきた。

 

もっとたくさん一緒に歩けばよかった。

 

 

 

 

 

残り115

  

 

 

亡くなった日は、 

とても暖かい日でしたよ。

 

 

 

 

 

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