余命1年日記 -120- 嫌われものの夏 (7月第4週 2018.7.26)
最近の記録
6月 18日 K病院入院 本館4階病棟
7月 9日 外出 外泊
10日 (帰院できず)
18日 帰院 再入院 東館2階病棟
内視鏡検査
24日 内科病棟に謝罪
25日 (いまここ)
なにやってんだろ。
6月18日に入院し、腹水を減らしたり静脈瘤を
結紮したりしていたが、そろそろ退院だな。
でももう少し経過観察を、ということで
入院を延長していたが、ひま。
ということで7月9日に一時外出・外泊をした。
帰院予定日は翌日の10日。
ところが帰れなかった。
家に帰ると親父が泣いている。
年金振込口座の通帳を失くした、と。
机にはたくさんメモがあって、努力したらしい
痕跡はある。
しかし説明を訊いても要領を得ない。
この野郎、と思ったが仕方ない。
銀行に走った。
しかし、窓口が閉まる3時なんてすぐなんだ。
病院に帰る日も走り回って、ついでに他の用事
もして、倒れた。
このくそ暑い最中、入院患者を走らせるなよ。
16日17日18日などは全く動けず、クーラーの
ついた部屋で寝てばかりいた。
いや、だから病院に行けよ、という話なのだが
動けない。
『具合が悪いから病院に行けない』って、
どんな出来の悪い冗談だよ。
『帰るのが遅れる』とは病院に連絡した、と
思う。しかし毎日は連絡しなかった。
よく覚えてない。暑くて。
とうとう病棟のナースステーションから、
怒った声で連絡が来た。
『会計を済ませて、ベッド廻りに置いてあった
私物を取りに来てくださいねっ。』
あくまで『入院中の一時外出』の心算で
出てきているから、会計も私物の整理もして
いない。
F先生からも「とにかく来てください」と、
連絡が来た。
申し訳ない。
『明日は行きます』と、これもステレオタイプ
に「出前を忘れていた蕎麦屋」のような台詞を
毎日繰り返すけれども帰れない。
結局18日に下痢と吐き気が止まらなくなり、
血便と吐血のような状態が出てきたから救急車
を呼んでK病院に帰ってきた。
まったくもう。
救急車じゃないと病院に来られないとは、
とんだ重病人である。 (重病人です。痛くて気持ち悪いです)
救急処置室に運ばれてすぐに血液、レントゲン
CT、そして内視鏡検査。
ところが 見える範囲では、静脈瘤は破裂して
いなかった。
じわじわと滲むように、出血しているのかも
知れないがわからない。
していないのかもしれない。
処置してくれた救急の先生たちの意見は、
『破裂なし』に傾いているようだった。
そうなると 救急処置室の空気の動きは、
途端に緩やかになる。
時刻は既に夜になっていたから、F先生は
退勤した後だったが、救急の先生が
連絡を取って意見を聞くと『入院しましょう』
という。
従うことにした。
とにかくなんとしても身体が重くて気持ち悪い
そもそも私は『入院中』だった。
唸りながら待っていると、看護師が
『前と同じ病室がとれました』というから
狭いストレッチャーの上で大分待った。
うつらうつらしながら唸っていると、
『移動します』の声と共にガラガラと運ばれて
新しいベッドに移された。
『前と同じ病室』と聞いていたから、
疑いもしなかったが『なんか違うな』とは、
ちょっと感じた。
しかし、しんどかったからそのまま寝た。
翌日 周りを見てみると、やはり『前の病室』
ではない。看護師に聞くとここは東館だと言う
しんどいから口をきくのも大儀だったが、
いろいろ聞くと、前にいた本館のベッドは退院
扱いになっている、という。
それはまあ、もっともだ。
もともと、私みたいな緊急性のない患者が占領
していたベッドである。
それを更に、金も払わないで空席のまま占領
されては堪らないだろう。
それはともかく、気になることがある。
何故この部屋なんだろう。
病室に移動するまで大分待たされた。
『ベッドの用意が出来るまで時間が掛かる』と
いうのだ。その間に『前と同じ病室』だった筈
なのが東館2階病棟に変わったのだ。
何故変わったのだろう。
嫌な想像が起こった。
今回の帰院遅延の件で本館4階病棟に嫌われて
受入れを断られたのではないか?
いま、こうして文字に起こしてみると神経症に
罹ってしまったかのようである。
しかし、あの時は真面目にそう思った。
現に6Iは私の治療を受入れない、と言い出した
ではないか。
昔からこうだ。
酒を飲んでいた頃、私は酒を飲むと乱暴な口を
きくらしい。
それでよく喧嘩をした。
たくさん友人を失くし、仕事を失くした。
出入り禁止になった店もある。
それ以外にも、今回のようにやるべきことに
体調が追い付かず、結果として嘘をついたこと
も、たくさんある。
友人や、仕事のパートナーに迷惑をかけた。
後始末に関しては、みんな大人の対応で納めて
くれたが、終わるとみんないなくなった。
極端にプレッシャーに弱いので、期限が
差し迫ってくると、余計に身体が動かなくなる
ということもあった。
そんな時は、いつも逃げた。酒が飲めた頃は
酒に逃げた。論文や仕事で中途半端な出来上り
になったものがいくつもある。
みんな私が悪いので、誰を責めるわけにも
いかないが、私の廻りからは皆いなくなった。
死病に罹ったいまでもそうだ。
だから『誰かから疎外される』ということに
動物的な恐怖がある。
気の重い入院生活が始まった。
最初は絶食。24時間点滴。
仮に食事が出ても、吐き気と気持ち悪さで
とても食べられない。
点滴のラインと、心拍数・酸素濃度などの
バイタルを測るケーブル、ワンセグのイヤホン
などで身体中を巻き取られながら、
身を捩って寝る。
ベッドの上だけしか動けない 完全安静。
これが次第に身体が動かせるようになってくる
看護師の介助つきの車椅子でトイレまでだけど
行けるようになった。
時折、黒っぽい便が出る。
しかし、血ではなかろう、ということで
注意しながら20日から重湯、24日から三分粥
身体も動かせるようになって、介助つきの
車椅子から、点滴を吊るすハンガーを連れて
介助付きでトイレまで行けるようになった。
さて、そろそろ本館4階病棟に行くか。
何しに行くか、というと、謝るのだ。
とにかく大変な迷惑を掛けた。
彼らがどんなシフトで動いているのか知らないが、
とても全員に頭を下げる訳に行かないので、
その時ナースステーションにいる人と、
師長さんに謝ることにした。
一度お会いしたことがあるが、ここの師長は
無暗と明るいおばさんだった。
今回の入院は、ある意味この謝罪のため、と
言っていい。
幾つになっても『怒られに行く』というのは
気が重い。かつてのように逃げたくなる。
別にわたしが謝りになんか行かなくても、
その事で怒られることはない。4階病棟には
朝の光が指し、露が満ち、蝸牛が這い、
神、そらに知ろしめして、すべて世は事も無いのだ。
なんて考える。
・・・・・・
いや、行こう。
看護師の夜勤/日勤の交代時間に行っても
迷惑だろうから、それを過ぎた朝の9時過ぎに
ナースステーションに行く。
思いの外たくさん人がいてびびったが、
とりあえず入口付近にいた看護師に頭を下げた。
にこにこ笑いながら聞いてくれたが、
師長さんを・・・と言うと、あの輪の中にいる、と
室内で10人くらいでやっているミーティングを
指差した。
『じゃあ待たせて貰い・・・』と言いかけると、
『いいです いいです。あたしから師長に言って
natsuさんのベッドまで行って貰います』と
言う。それは失礼だと思ったが、あまり熱心に
言うから押し出されるようにベッドに帰ってきた
ところが来ない。回診に来たF先生に愚痴ると、
『まあ、単に通じていない、という可能性が
ありますから』と、慰めてくれたが、もう私は
『あんなことをしたから、俺の顔なんか
見たくないんだ』と、拗ねてしまっていた。
そのまま陰萎滅滅と昼寝していた。
しかし夕方、このまま退院するのも癪に障る、と
思い直した。一応ナースステーションに仁義は
通したから、あらためて訪ねる必要はないのだが
逆に言えばここで引いてしまえば、
二度と訪れることはない。
えい、朝も来たことなど知らん顔して、もう一度
行ってやれ。
師長は、いた。やっぱりナースステーションで
ミーティングをやっていた。
なんか一日中ミーティングしているな。
やっぱり入口のそばにいた朝とは違う看護師に、
『師長さんをお願いします』と、呼んで貰った。
すぐに来た。やはり朝、私のベッドまで来る、と
いうことは伝わっていなかったようだ。
私が外出の帰院日を守れなかったことを
謝りかけると、それを遮って
『あーよかった。心配してたのよ』といっぱいに
笑いながら言う。
私の体調を気遣い、更に 一度しか来ていない
親父の体調まで心配してくれた。
いい人だ。
胸のつかえが落ちた。
次の日の回診の時にF先生に、この話をした。
『あの師長さん、いい人ですね』と言うと
『F師長はいい人です』と、笑う。
私が「今回の入院で本館4階に戻れなかったのは
4階病棟に嫌われたからだと思っていた」と言うと
やっぱり笑いながら、
『過去に病棟内で暴力を振るった、とかで
なければ、病棟の判断で入院を断る、
なんてことはありませんよ』と言う。
・・・なるほど。
病気と関係ないことで悩みながら入院していた
7月ももうすぐ終わり。
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