余命1年日記

2017年4月15日 (土)

余命1年日記 -70- 母の一周忌  4月第3週(2017.4.15)

2016年4月13日、母が死にました。

きょうは、そういった話をします。

(この話は、以前書いた「末期の水」

シリーズのうちのひとつです。)

 

 

 

 

母が死んだのは、その日の朝だったらしい。

『らしい』というのが悔しい。

わたしは『その瞬間』に間に合わなかった。

 

毎日病院に行っていながら、なぜ肝心の

『今際の際(いまわのきわ)』に間に合わないのか。

ということを思い出そうとしたとき、

とても不愉快なことを思い出す。

 

親父のお陰で、俺は病院にいけなかったのだ。

 

 

『母の死の2日前』俺は打ち合わせにいっていた。

以前書いたK氏の仕事である。

 

だから、図面やファイル、書類などを持っている。

『2日前』に来ていた私は、その日泊まり込む

つもりでいた。

だから帰るつもりはなかった。

ところが親父は違ったらしい。

『ほら、一緒に帰るぞ。』という。

 

『一緒に帰るか?』ではなく、『一緒に帰ろう』でもなく、

50過ぎた息子の意思など無視して『帰るぞ』である。

てめえだけ帰れ、と思って無視していると、

この馬鹿、図面と書類が入った袋を持って

行こうとする。

それを持っていかれちゃ困る。  

取り返そうとするが、こいつ馬鹿だから  

すごい虜力だ。すでに腹水が

ひどくなりつつあった私はかなわない。

 

おまけに病棟の真ん中でそんな騒ぎが起きても

神戸市中央市民病院内科病棟は仲裁に来ない。

ナースステーションと一続きのカウンターで

ありながら騒ぎがおわってからでてきた。

そして、一方的に俺を責めた。

出ていかなければ警察を呼ぶ、と。

それでも『親の死に目』に会わせないのも

可哀想かと『病院がつける警備員の同行』を 

条件に面会が認められた。

それ以降私ががこの病院に行くと、

妙に如才ない警備員がいつのまにか出てきて、

脇を押さえた。

馬鹿親父が袋を盗って騒ぎを起こしたとき、 

親父の馬鹿を制止せずに無視したのは

いまでも許せない。。

母の治療でも最後の1ヶ月間、家族への説明と

矛盾した投薬をしたおかげで、

決定的に容体を悪化させた。

 

みんな、神戸市中央市民病院には行くなよ。

あそこの連中は平気で嘘をつく。

あそこに行くと、殺される。

 

 

この事件のあと義姉がわざわざ神戸まで来て、

『natsu さんは中央市民病院で騒ぎを起こして

出入り禁止になってます。どうせもう死ぬんなら、

治療しないでくれ。とF先生に言いに来た。

 

中途半端に余分に生きると、見たくないものを

見ることができる。

 

 

 

『なんで、荷物を持っていこうとした?』と

あとになって聞いたとき、

『あの荷物はnatsu が大事そうにしているから、

持っていったら、困るだろー。

俺に逆らわずに家に帰ると思ったんだー。』だと。

 

こどもだ。

気違いだ。

 

しかも、この内容を不思議な光を湛えた瞳で

まっすぐに見つめて話されたときには、

背筋が寒くなった。

 

母が危篤になったせいで、

父の精神状態が変わったわけではない。

 

父との同居は、この時ですでに20年。

嫁が出ていって、離婚裁判に勝手に興奮して

『俺が酒をやめさせる』かなんか言って、

神戸にやって来て以来だ。

以来20年。アッチェルしながら続いている。

 

たとえば、うちの部屋は比喩ではなくボロボロである。

トラブルの度にこの馬鹿が、挑発するからだ。

ふすまやボードには穴が開き、建具はすべて壊れている。

これも、理由を言わせると、

『この家はnatsu のものだから、黙って壊させておいた。

落ち着いたら気がつくだろー。』だそうだ。 

気違いだろう。

憎しみが増すだけだ。

 

病気の原因なり、悪化の理由を他人のせいに

するつもりはないが、

この強烈な個性の照り返しを20年浴び続けると

家族が皆不幸になる。

 

少なくとも、俺に関して精神的な安定など、

望み得ないことが分かるだろう。  

だから、退院が近づくと憂鬱だ。

 

 

 

 

母が死んだ。

死因は、腎不全。

息子は、私のほかに兄貴がいてこいつは

不肖の弟に比べると、ずっと立派で 

ちゃんと地位と職業を作っている。 

こどもは3人。私にはいないから、母の孫は

3人。

享年83

 

 

 

 

 

母は40代に乳ガンに罹っている。

抗がん剤や放射線治療を行ったらしい。

伝聞形なのは、わたしがガキすぎて

母の治療について、理解していなかった

からである。

結局それらの治療では、思わしい効果が

得られなかったらしい。

 

最終的な手段として、乳房摘出がされた。

いまから40年前、『部分摘出』ということが

できなくて『全摘』ということになった。

あれは気の毒だといまでも思う。

 

ただし、あの時代の常識からみて、

手術後40年以上、ガンの再発はなかったわけだから

手術としては大成功。

ただし、わたしはまだ小学生だったし、 

兄貴は中学に上がっていたか?

不安があったはずだ。

さらにホルモンのことなどわからないが、

体調の不安も大変だったらしい。

 

だから、手術後は、

『あたしは長生きできないんだから』が口癖だった。

『うちの母は、ガンで早く死んでいるからね』も

口癖だった。

 

ははのははつまり、わたしのお婆ちゃんは

肝臓がんで七十歳台で死んでいる。

ところがお婆ちゃんの没年齢を越えて、

母が長生きすると、

『うちの家系は体が弱くて』に変わった。

 

しかし、長く生きられるのは、嬉しかったらしい。

彼女が80になったときに、『80は「なに寿」というのか?』

と聞くから、『さんじゅ』と答えた。

怪訝そうな顔をしているから、手のひらに

『傘寿』と書いてやると、嬉しそうになんどか

なぞった。

 

 

 

 

私自身に関して言うと

親不孝だった。

いつわたしが、酒に戻ってしまうか、ということを

心配させ続けた。

知り合いもいない神戸に閉じ込めることになった。

私の仕事が安定しないため、心配をかけた。

 

もっとも、母も

おとなしく不幸に耐えるようなキャラクターでらなく

マシンガントークで言い返してきた。

特に人を疑うことにかけては、天下一であり

よく喧嘩した。

その一方、父がその異常なキャラクターで

家族を支配したとき、顔を歪めて、しかし

なんとか従っていた。

 

 

 

母は、昭和9年(1934年)浅草に生まれた。

私が生まれてから

『あたしぁね、三代続いた江戸っ子だよ。

あんたたちみたいな千葉生まれの田舎もとは

違うんだからね。』と

実の息子に言っちゃうのである。

てめえが千葉に嫁に来たんだろう。

 

この、『千葉に嫁に来たら田舎でびっくりしてがっかりした。』

という話は繰り返し言っていた。

うちの前のバス通りが、ゆるやかな上り坂に

なっているのだが、その坂のことを

『あんまり急な坂で、なんかすごい田舎に来たな、

と思うとがっかりした。』と言っていた。『急坂=田舎』というのがなんかリアルだな、と思った。

 

彼女は10歳の時に、東京大空襲にあっている。怖かったそうだ。

家族に不幸がなかったのはなによりだが、

店はなくなった。

浅草近辺からも一族は、皆離れてしまったらしい。

『大きな店だった』と自慢するが一昨年くらいに

ストリートビューを見せてやったとき、

場所の特定に苦労していたから、どうだろう。

 

子供の頃は、春と秋の彼岸に墓参りをした。

母の家の墓があるのが、上野と浅草の間の

稲荷町。母は必ず、上野から浅草まで歩いた。

我が家があった千葉からでていた、私鉄の

京成の東京がわのターミナルが上野。

母の家の墓が在るのが、上野と浅草の間の稲荷町。

 

墓参りをすませると、母は毎回浅草まで脚を伸ばす。

仲見世を冷やかして観音様に参り、

決して入らない花屋敷のジェットコースターの音を聞く。

六区の辺りまで行って、毎年『変わったねえ』

と言う。

そうして、黙って土産を買ってくる。

土産は、薬研堀の七味唐辛子と、

舟和のいも羊羮と黒白の餡ころ玉。

 

毎回こう。

頑固なくらいである。

 

 

『母と歩いた記憶』を手繰ってみたら、これが出てきた。  

 

大阪で独り暮しをしていたころ、一緒に車で来て

信貴山に夜中に車で行って夜景をみたり、

神戸に来て直ぐのころ、遊びに来たので

六甲山に夜中に行って夜景をみたりしたのに。

 

夜景ばっかりだ。

 

 

昭和40年代の空気と共に、この墓参りの記憶が

真っ先に出てきた。

 

もっとたくさん一緒に歩けばよかった。

 

 

 

 

 

残り115

  

亡くなった日は、 

とても暖かい日でしたよ。

 

 
 
 
 

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2017年4月 9日 (日)

余命1年日記 -69- 断食からの回復  4月第3週(2017.4.9)

結局、私の『断食』は、4月3日で終わった。

3月30日から入院していたので、まる5日間である。

 

4月3日に胃カメラを飲んで消化菅に異常がない、

となって以降、重湯になった。

 

極限まで薄くした重湯を、

味噌がはるか遠く聞こえる薄い汁と共に頂く。

温かくないと飲めない。 

その『果てしなくお湯に近い二種類の汁』が

全メニューだった。

 

しかし、5日間完全断食だったのである。

残したりせずに、ありがたく戴く。

むしろ、中途半端に味覚中枢を刺激されたので

腹が減る。

 

 

 

「断食する人」はたくさんいる。

 

『断食=栄養の遮断』だとして、

単純にダイエットを目的とする人がいる。

『断食=徹底的な排泄』だとくして、

デトックスなどの効果を求める人もいる。

 

イスラム教徒は、ラマダンに1ヶ月間断食を行う。

キリスト教徒は、まもなく4月16日にやって来る

イースターの前には、肉食をしないという

ブチ断食をする。

こういう、宗教を理由にした断食もある。

 

『健康』のような能動的な断食であれば、

それを思い立つ理由もあるだろうし、

継続するための『心の葛藤』があるだろう。

 

『宗教』のような受動的な断食ならば、逆に

『理由』というのは『習慣』でしかない。

『葛藤』のようなものはない。

 

もっとも1ヶ月の断食、ということになると

それなりに心を奮い立たせる必要があるだろうが、

 

私の断食の場合、そんなもの+の方向にも

-の方向にも、どこにもない。

『消化菅の中で静脈瘤が破裂したから

しばらく休ませとけ』というのが断食の理由。

『美に対しての欲求』もなければ『宗教的高揚』も

なんにもありゃしねえ。

 

 

実際は、救急搬送されてきた30日から

断食が始まるのだが、

最初の数日はひたすら辛かった。

 

吐血こそしなくなっていたが、吐気と腹の底の

違和感がひどくて、とても食欲どころではなかった。

止血処置の直後から、血尿、発熱、貧血と

気になる症状が続いたため、

7日まで、いくつか検査を重ねた。

 

結果、どれも異常はなかった。

そこで4月7日に配管が解体されて、

3分粥になった。いま、この段階だ。

 

週末になると食欲まで出てきた。

今週の最後の回診の時、

F先生と全く違う話で盛り上がってしまい、

『週末は検査かなくて暇だから外出しよう。』

という話をし忘れて、看護師に頼んで

連絡を取ってもらったら

『食事制限があるやつが生意気言うな。』と

言われてしまった。

10日前には静脈瘤が破裂して、

死にそうになっていたのだ。

 

そりゃもっともだ。

懲りないやっちゃな。

 

ちなみに、このときF先生としていた

『大変盛り上がる話』は、本当に大変なので

あとで必ず話します。

 

『3分粥』というのは薄い粥。

米1に対して水5くらいの比率で炊く。

食べても米粒を感じないくらい、薄い。

 

もっとも『米臭い湯』でしかなかった重湯

と比べると3分粥のほうが、

 『粥』というだけあって、米っぽい。

こんなもん結婚していた時分でさえ作ったこと

なかったから戸惑う。

 

しかし、おかずの方はさらに戸惑うぞ。

ちょうど4月8日の夕食のメニューをす

もって帰ってきているのでご覧いただこう。

 

『2017/04/08/ 胃潰瘍食B

3分粥 300g

牛乳 

 

卵とじ

かつお和え

粉ふき芋

赤だし           』

 

しかし出てくるのは、小皿に盛られた

色違いのペースト。

掬って食べてみると、それぞれ『卵とじ味』

『かつお和え味』『粉ふき芋味』なのであった。

出来上がった料理を、それぞれフードプロセッサーに

ぶちこんだのだろう。

消化をよくする、という意味はありそうだが。

『歯触り』って、大事だなあ。

 

あと、『舌触り』とか、噛み応えとか、

食べる時の『味覚』以外の口の中の感覚全部。

この『フードプロセッサーペースト』では、

そういうものが全部失われる。

『味』は確かにするけど、『食べる』って

そういうことじゃない。

 

いま、私が食べている『胃潰瘍食B』では、

まだかろうじて料理ごとに個別に提供されているが

これが、全部の料理をいっしょくたに

ペーストしていても、栄養荷的にはもちろん、

ひょっとしたら、味的にも変わらない。

見た目にも気がつかないかもしれない。

『胃潰瘍食A』がそんなスタイルだったりして。

 

絶対食わねえ。

 

『料理のプロセッサーがけ』は意外だったが、

しかし、毎日決まった時間に管理されたメニューの

食事を摂るということは、体を健康にするらしい。

量も、毎日増やしてくれているようだ。

 

これから、『5分粥』『全粥』と変化していく

食べ心地とともに、

私の受け止め方の変化も記していきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

残り121 

 

  

でも、刺身とか納豆とか、

歯応えが違うやつも食べたい。

 

 
 
 
 

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2017年4月 5日 (水)

余命1年日記 -68- 根性花見をしよう    4月第2週(2017.4.5)

神戸でも桜がほころび始めた。

 

 

 

 

 

うれしい。

 

 

 

 

 

 

 

神戸は花見の名所がないので苦労するが

日本中、花見だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は全国的に晴れだったが

あさっての日曜日は天気が崩れるそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで提案。

 

 

 

『雨の中で宴会』というのを

やって欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昔、花見ではないが

『雨の中、カッパを着て外で宴会』

というのをやった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

若さ、でもあった

 

 

 

 

 

『馬鹿さ』でもあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

酒はいい、薄くても酒だ。

 

 

 

でもやっぱり鍋が欲しいよね。

ということで3つの班が挑戦した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カセットコンロは惨敗した。

雨より、風に弱かった。

 

 

 

 

 

 

 

登山用のコッヘルは健闘した。

なかなか優れものだが1人用なので

すぐなくなるのが欠点だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

勝利したのは七輪だった。

かんかんに炭を熾すとなかなか消えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

しかし常に息を吹き込まなければいけないのと

灰が舞い落ちるので、ちっとも落ち着けなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

料理はことごとく失敗したが

みんなげらげら笑ってた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

若かった、

 

 

 

 

 

 

 

 

それ以上に馬鹿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さあ、西日本の今週末は雨だ。

日本全体でもこの週末は天気が悪いという。

 

 

 

 

 

これを読んだ皆さん。

この文章を参考に雨の中の

根性花見をして見てください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに責任は取りません。

 

 

 

 

 

HNKの『プロジェクトX』の

ナレーションで読んでください。

 

 

 

 

 

 

 

 

残り125 

 

  

いいな、花見。

 

 
 
 
 

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余命1年日記 -67- 桜が咲きました     4月第2週(2017.4.4)

神戸でも、

3日の月曜日に、桜の開花宣言が出された。

 

ところがニュースを見ると、東京ではとうの昔に

満開なのだという。

鹿児島では、まだ開花もしていないらしいぞ。

せっかちだな、東京もん。

 

今日、病棟の間の大きな窓ガラスのある渡り廊下から、

外を見ると、外に植えられている桜に花が咲いている。

 

 

感慨深いなあ。

 

 

腹水がひどくて入院して、初めてF先生に診てもらって、

でも状況に絶望されて『余命宣告』をくらった、

去年の7月は、この窓から見える桜の樹は

深い緑色でみっしりと暑苦しかった。

 

秋には黄色に赤に、桜の紅葉って綺麗だ。

もっとも秋は腹水にヘルニア、と忙しかった。

 

冬には、梢が葉をすべて落として銀色の枝が

金属的な姿で白い空に伸びていた。

正月で誰もいなくなった、病院のロビーから

その風景を眺めた。

 

なんだ。四季をここで過ごしてしまっているではないか。

 

 

 

季節ばかりではない。

 

ヘルニアの時の入院は、前の退院と日付こそ

違え半日違いだったし、今回の静脈瘤破裂は

これも2日違いだ。

 

 

僕は神様に愛されていない。

 

 

果てしなく吐血して病院に来ると、

いつによらず厳しい顔つきのF先生と、

初対面だから厳しいかどうかわからない、

胃カメラの先生が

破裂した静脈を縛って、血を止めてくれた。

 

そればかりか、

破裂しそうに膨らんでいる静脈を6ヶ所、

止めてくれた。

1時間30分以上に及ぶ大手術で終わったときには、

『あー、終わった。』とすっかり治った気が

していた。

 

『そうではない。』ということを知ったのは

施術後にも、厳しい顔つきを解かなかったF先生から

こんな話を聞いたから。

 

お前が助かったのは、以下の理由で偶然だ。

 

1.出血量が多すぎる。

今回の出血した分だけで、

全部の血液の1/4に匹敵する。

  これでもう少し、全部の半分が出ていたら

死ぬのだ。

  「あとがなかった」ことは間違いない。

2.出血箇所が1箇所だからなんとかなったが

  これが複数ならやはり死んでいただろう。

3.出血箇所の位置の問題もある。

  食道の奥から大量の血液が奔流として流れて

  来たとしたら、胃カメラの視野が奪われてやっぱり

  助けられない。

  今回助けられたのは、たまたま問題の静脈瘤

  が胃の入り口に近く見通しが利いたからだ。

4.そもそも、そんなに血が出ていたら意識を

  失うのが普通だ。

破裂直後に躊躇なく救急車で運んでいなければ

  やっぱり死んでいた。

 

確かに親父は、今回救急車を呼ぶに当たって

真剣に『119』という番号を忘れて悩んでいたのだ

 

 

『だから、あなたが助かったのは偶然です。』

 

声を出せずにいると、

とにかく、出血した消化菅を養生しなさい。

静脈瘤破裂は肝硬変による腹水の副産物なんだから、

この病気だけの訓練法なんてない。

絶対安静にして消化器を回復させろ。と

 

だから、今回の絶対安静とは。

『絶飲、絶食、完全点滴、排水量測定』

『脈拍数、血圧、血中酸素濃度、心電図24資間測定』

2日目から、完全絶飲ははずれたが、水だけ

1回100cc。

 

雀も水浴びできない。

 

 

べつに拘禁部屋にいるわけではないので、

病院内であれば歩いても構わないはずだが

あんだけたくさんのケーブルやルートや機器をもって

いけるわけがない。

 

 

この生活を一週間続けて、月曜日に血液と

検尿とレントゲンと、そうして胃カメラを撮るぞ、と。

 

 

 

 

 

いやだなあ。

 

これであたらしく、見落としていた危ない静脈瘤が

見つかったら、同じように処置してあとはまた

一週間、絶対安静だ。

 

今回処置した静脈瘤に事故が見つかったりすると

『処置ににいつまでかかるかわからない。』と

なるだろうって。

 

あーあ。

 

 

 

 

 

そうして、昨日3日が、その検査の日だった。

 

また、胃カメラで腹の中をぐりぐりとされて、

『気になる静脈瘤はいくつかあるけど、

まだいいから切りません。』

『いいんですか?』

『病気としては悪いです。』

 

あ、そっち?

 

F先生も血液検査の結果をみながら、

『先週、入院したときと比べると、

随分よくなりました。』と、言ってくれた。

うれしいような顔をしていたらしいが、

すぐに被せるように、

『あ、悪いですよ。普通からしたら。』と言われた。

 

そうですか。

 

 

 

 

 

しかし、我ながら

すごい回復力じゃないだろうか。

 

最初言われた、『余命一年』は残り3ヶ月を

切って、平然と歳を重ねていきそう気がする。

今回の静脈瘤破裂では一週間で驚異の回復だ。

 

『死ぬ死ぬ』いながら死なない。

 

ぼくは、神様に愛されている。

ありがとう。神様。

 

 

 

なんてことを、F先生に冗談ぽくいったら、

『次に大規模に破裂したら、もう助からないんですよ?』と、

静脈瘤破裂の処置をしてくれたときよりも

厳しい表情で怒られた。

 

 

 

 

126 

 

  

ごめんなさい。

 

 

いまは、『絶食絶飲』の禁制が解けて、三食

重湯を飲んでおります。

あとは、

限界まで薄くしたスープとホットミルク。

 

 

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2017年4月 1日 (土)

余命1年日記 -66- 再び静脈瘤破裂の日々       (2017.3.31)

28日に内科を退院した。

この日は早く起きて、昼前にはうちに帰った。

荷物をおいて、いつものように喫茶店にいった。

29日も同じような生活。

しんどいのだ。遠出ができない。

しかし、まだ寝込むほどのことはない。

 

 

様子が変わったのが明けて30日朝。

コンビニに行って帰ってきて、

6時くらいから猛烈に気分が悪くなった。

ときどき吐き気が上がってくる。

 

実際吐くべきものが来ていたのだが2度ほど

飲み込んでしまった。

 

寝ているとま楽なので仰向けになっていると、

不意に込み上げてきて寝たまま吐いてしまった。

顔の上に広がった、自分の吐瀉物を見て驚いた。

 

紫色なのだ。 

血の入った粘液だ。

 

 

 

鮮やかさも明るさもない、鈍く暗い紫。

血、なんだろうな。と思うけど、

そう言い切るのを躊躇する 紫。

 

 

静脈瘤破裂である。

 

 

顔に吐いたあとは、ゴミ箱に大量に吐いた。

だから、トータルの吐いた量がわかった。

1L弱。

8時くらいから気持ち悪さがひどくなって、

10時ごろからピーク。

 

おまけに血を吐くんだから、徹底的な低血圧になる。

地べたに横になればましだが、立ち上がると

辛うじて立ったら、動けない。

 

すごい貧血だから、

洗面に行って顔色を見ようと思ったら

目の前が真っ白になってふらついた。

洗面ボウルに掴まろうと思ったら、

掴めなくて真後ろにこけた。

 

しかも、時間が経つとさらに立てなくなる。

 

よこになった状態から四つん這いになって、でも

立てなかったとき、真剣に『死ぬ』と思った。

 

 

11時ごろに派手に吐くと、親父に

『救急車を呼んでくれ』と頼んだ。

吐いた量だけでいうと、ごみ箱に出た分だけ

でもペットボトル3本くらい出た。

 

『救急車って何番だよう。』ボケているじいさんを

怒鳴りあげて10分以上かかって救急車を呼んだ。

わたしは、というとゴミ箱を抱えて紫色の液体を

吐きながら、とても起きられない。

 

 

救急車が来た。なかでも吐きながらK病院に行く。

 

ストレッチャーに乗せられて救急処置室に

入ると、F先生がいる。

木曜日は外来の診察日のはずだが・・・

 

改めて診断するまでもなく、当たり前のように

静脈瘤破裂の処置が始まる。

F先生も何時もよりもきびしい顔つきで

検査の指示を出す。

 

ところが、平日の診療時間だから、心電図や

胃カメラが、順番待ちになってしまった。

胃カメラは静脈瘤と出血箇所を確認し、

止血するめに決定的に必要だ。

F先生が、いらいらしている。

 

対してこちらは果てしなくきもちわるい。

膿盆を抱えてうなっていた。ときどき吐いた。

私も胃カメラを待たされるのはつらい。

 

結局、先に病室に行って少しの間待たされた。

呼ばれて胃カメラ検査室に行く。

胃カメラのモニターの横に寝ると、

壁に大きな時計があって午後3時だった。

 

胃カメラの操作はF先生がとは違う先生。

スプレーで麻酔薬を吹き付ける。

ライトとカメラがついた固いケーブルを

喉の奥に差し込むから、思いきりえづく。

 

食道から胃の上面まで丁寧に見ていく。

もっともカメラのモニターは、患者からは見られない。

 

それでも、先生が

『あー、こっから出てるねー。』

『あー、こっちにもいっぱいあるね。』

なんていうふうに、実況してくれる。

 

『じゃあ、止血しましょうか。』というと、

狙いを定めて『行きますよ。』と、緊張する間もなく、

『はい、止まりました。』

その間、およそ3秒。早い。

 

『じゃあ、ほかにも危なそうな所を

止血しておきましょうか。』

 

正直、横になっていてもしんどかったから

血が止まったんなら,もうやめてほしかったが

これはやってよかった。

 

どうやって出血しているのを止めるのか、というと、

瘤の回りに輪ゴムを掛けて締める。

これで血が止まる。

血が出ていない瘤も、危なそうだとこれも締めておく。

瘤なんだから輪ゴムが引っ掛かる、という

ことらしい。

 

今回は、出血箇所1箇所、危なそうな所6箇所を締めた。

静脈瘤をひととおり締めると4時30分だった。

 

 

 

静脈瘤というのは、

静脈に無理矢理入り込んできた血流による血管のこぶ。

 

腹水によって門脈圧が亢進してしまうと、

消化菅から肝臓に栄養が行かなくなる。

消化菅から肝臓への血流を確保するために

門脈以外のところ、食堂や胃などの他の臓器の血管に

これをこじ開けるために大量の血液が流れる。

これによってできるのが静脈瘤。

その部分の血管は薄くなっているから、

これが破けると静脈瘤破裂。

 

肝硬変の、典型的な合併症のひとつである。

 

 

私は、去年の夏、K氏T氏とおこなった最低の

打ち合わせのときにこれになって以来二度目だ。

 

痛くはないんだよな。ただ今回はむやみと気持ち悪い。

 

 

 

 

ただ施術中、こんなのんきなことを考えていたのは

私だけだった。

事態はもっと容易ならざるものだったのである。

ということを、終わってからF先生の話から

知ることになる。

 

 

施術が終わってF先生が、出血箇所1箇所、

危なそうな所6箇所を締めたことを教えてくれる。 

 

 

そうして恐ろしいことを言いだした。

 

『今回は、体の血液全体の4分の1くらいが出ました。』

『・・・そんなに?』

『入院前の最高血圧は120。いまが100いかないですから、

そのくらいでしょう。』

恐ろしい。

血液の3分の1が失なわれると、

意識障害をおこすひとがあらわれ、

2分の1が失なわれると死ぬんだそうである。

 

4分の1・・・ 

 

6時間で4分の1なら、あとやっぱり6時間で

半分だ。 

死んでしまう。

 

ちなみに『血液の4分の1』というのはどれだけか、 

というと、体重の13分の1が血液。

私の体重は80kgだから、血液は6kg。

今日外に出たのは、4分の1だから1.5kg。 

 

生き血1.5kg・・・

 

これを聞いたとき『手触りをもって』死をかんじた。

 

 

 

しかも今回、出血箇所が1箇出血所だから、

なんとかなったが

これが複数あったら、やはり死んでいただろう、と

 

そうではなくとも、整復しにくい場所、例えば

狭い食堂のなかで大出血してたら、胃カメラの視野が

なくなって静脈瘤が見えないから直せない。

今回、食道が胃に出るところで、

多少見えたから助かった。という。

 

 

正直、危なかったのだ。

 

 

 

 

 

胃カメラ室を出て手術後の人が安静にしているための

観察室というところに移る。

 

そうして身体中に、

血圧、酸素濃度、心電図、点滴、脈拍、などの

くだに繋がれて寝る。

生まれてはじめて輸血をする。

280g 2単位 560g。出た血液が1.5kgだから、多いか少ないか。

いや、多いな。

 

 

出血は止めたが、ひどく気持ち悪い。 

まだ静脈瘤からでた血液が残っているので

それを幾度となく吐く。

 

そんなことを、半日続けた。

でもいまも、

今週いっぱい断食。水も飲めない。

立ち上がろうとするとひどく身体が重い。

とても、まだあるけない。

 

術後10時間経って、吐き気こそなくなったが

まだとてもだめだ。

 

これからしばらく安静生活だなあ。

 

 

 

 

 

 

 

残り129 

 

  

死の淵を見た。

 

 
 
 
 

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2017年3月27日 (月)

余命1年日記 -65- 壊れる直前の話 2           (3月第5週 2017.3.27)

プランを作る作業が始まった。

ベースとなるのは、最初の打ち合わせで私が提案した

階段を道路側にもってきて、道路に直行して南側に、

住戸が2戸並ぶプラン。

 

あとは、これのプランを詰めていけばよかろう。

当初の予定では、来春着工、秋竣工。を予定していた。

もはや、勝利は疑いようがない。と思っていた。

 

 

マンションの中身について、打ち合わせを担当したのが

K氏の奥さん。

 

まぁ、女性にありがちだが住宅のプラン、住宅設備の

仕様についてはたいへんなこだわりを

持っているようだった。

その事自体は構わない。

無関心な施主よりも遥かにいい。

 

ところが、ある日打ち合わせにいくと、彼女が

自分で描いたスケッチを出してきた。

マンション全体のプランである。

 

マンション全体に口を出すとは思わなかった。

私の案で、道路側にあった階段が、

住戸と住戸の間にある。

こういうのは困る。

結局は、反論できないんだからずるい。

 

基準階だけ見れば悪くない。

無駄な廊下がなくなるし、廊下に面した住戸の

壁面がなくなり、全戸三面開放になる。

しかし、いかにも素人の図面で

一階が全く成り立っていない。

道路から階段までどうやっていくのか訊くと、

『階段の下を・・・』とかいっている。

そんな頭を打つようなところ、行けるか。

 

1階の階段から道路側のスペースは住戸として

使えないし階段の両側で建物が二つに別れるから、

私の案で6本だった柱が8本になる。

基礎も杭も同じだ。

不経済この上ない。

 

私が一通りそういうことを説明して、苦り切った

顔をしていると、

『駄目ですか?』と下から見上げるように訊いてくる。

 

私に泣きついても仕方ないと思うが、

ここで悪魔が囁いた。

『恩を売っておくか。』

プランを変更することになった。

こんな提案、却下するべきだった。

これは、私のミスでもある。

 

もちろん柱が増える分、メンバーを小さくして

鉄骨量がむやみに大きくならないように留意したが。

 

 

この変更と、その他二つの理由によって、

着工はずるずるとずれ込んだ。

ひとつは構造設計と設備設計の協力事務所の確保。

もうひとつが施工会社の確保。

 

 

 

 

ここまでが、一昨年の夏のK氏との出会いから

去年の春までの様子。

 

 

K氏の奥さんは、なにしろ細かい人だから、

住戸の1/100のプランを山羊が下痢を起こす勢いで書き、

一般図、詳細図、申請図、むりょ百数十枚を

2ヶ月ほどで調え、後は果てしない修正。

早く決めてくれ。

図面は施工会社に見積もりを頼むためにも必要

だから、本当に急いで描いた。

 

 

このとき、K氏に強く求めたのが早急に

施工会社を決めてほしい、ということ。

今回の計画では、隣地境界との離隔距離など、

K氏からの要求で、かなりぎりぎりの寸法に

なっていた。

描くには描いたが『施工会社との打ち合わせ次第で

変更しますよ。』と、伝えてある。

 

なにぶん小さな建物だから、販売面積を

ちょっとでも増やそうとして、隣地との余地とか

バルコニーなんかをケチリ倒すのだ。

設計者として毅然として断らんかい、と

思うだろうが、言うこと聞かないんだもん。

あの夫婦。

 

計画段階ならば、変更するのは構わないのだ。

しかし、実施、申請図面がどんどん出来ていくなかで、

ペンディングの項目をたくさん残したままにしているのは、

将来の手戻りの手間を増やすだけだ。

 

小さな建物とはいえ、百枚以上の図面の作図

施主、検査機関、協力事務所との打ち合わせ、

そして果てしない修正。

 

その上で、いまはまだ決まってもいない

施工サイドとの間で、工法、コストの

打合わせを残していたら、いつ終わるかわからない。

意匠だけではない。すでに構造も設備も動き出している。

構造、設備設計の協力事務所の費用を

負担しているのは私なのである。

 

ふざけるな。

 

 

 

K氏に対して、悲鳴をあげた。

 

 

 

施工会社を探すのは、私も協力した。

図面の説明や、地盤、基礎工法の説明などだ。

なるべく早く、という思いは強かったから、

計画がスタートした、一昨年の秋から

阪神間の工務店を、K氏と一緒にずいぶん回った。

 

 

決まらない。

 

 

体も次第に壊れた。

一昨年の夏の計画スタートから、入院こそしなかったが

次第に腹水が出て体が重くなり、去年の4月に

母が死んだ時には、あらゆるスーツに腹が納まらず

焼香の時にふらついてぶっ倒れかけた。 

 

5月に入って

『確認申請出しますよ。もうすぐ着工できまっせ。』

とつたえた。

 

意匠、構造、設備の設計が完了し協力事務所に

支払いをしてやらないといけないのだ。

確認を取って、2回目の支払いをしてもらわないと、

着手金だけでは、弊社の資金がショートしてしまう。

 

 

K氏の方からも、7月着工、とか言ってきている。

こんなことになったのは、

お前のせいだ。お前のっ。

 

 

そしてようやく、

『大阪の工務店にTという人がいる。

話はしてあるから連絡してくれ。』と

言ってきた。

 

立ち会って紹介してくれる訳ではないのである。

つくづく失礼な男である。

 

 

 

そうはいっても時間がない。T氏に電話する。

電話の時点では私は、T氏とK氏は契約、までは

行っていなくても、今回の工事の請負について

基本的に合意している、と思っている。

 

ところがどうも様子がおかしい。話か通じない。

そこで『神戸のKという人を知っているか?』

と、訊くと『知っている。』という。

 

ここで気付くべきだったのだ。

K氏は、私があんまりうるさいもんだから、かつて

付き合いがあったT氏に

『設計のやつがうるさいから話だけでも

聞いてやってくれ。』と頼んだのだ、と。

 

 

こっちはそうは思っていない。電話する前に

話をスムースに進めるために、延べ数十枚の

図面をPDFに焼いてメールで送っている。

 

『それを見てくれたか?』と訊くと、

『見てない。』という。

この野郎、と思ったがグッとこらえて、

『一度会って打合せしたい。』と申し入れた。

ところが『あさってから一ヶ月東京出張だ』という。

 

 

切れた。

 

 

私は切れると相当に乱暴な口を利くらしい。

この時も、怒鳴りあげたそうだ。

 

しばらくして、正気を取り戻すと、T氏に

『東京から帰ったら連絡をくれ。』と言って

電話を切った。

 

ところがTの野郎、

まっすぐにK夫妻に電話した。

『あんな怖い設計の先生とは付き合えない。』

 

 

すぐにK夫妻から苦情が入った。

理不尽だが、もう確認が下りるのだ。

ここで施工業者に逃げられたらたまらない。

 

彼が東京から帰ってきた6月、K妻の立ち会いの元で

T氏と会うことになった。

場所は大阪の京橋。当時T氏が持っていた

現場のそばの喫茶店だそうである。

 

 

当日のメンバーは、施工側がT氏ともう一人、

もう一方は私一人。立ち会い人がK嫁である。

名刺交換もして、私から電話での非礼を詫びた。

釈然としないがこの時点ではT氏が悪くないことは

理解している。頭を下げた。

気の弱そうな兄ちゃんだった。

K嫁が第三者然と、仲裁者づらしているのが腹が立つ。

 

手打ちが終わるとすることはない。

みんな昼飯を食い出した。

私は食欲がないから、アイスコーヒーをすすった。

 

盛り上がらない昼食会が終わると、

『これからよろしく』と言い合って席を立った。

 

私も席をたつと、目の前が冥くなってぶっ倒れた。

 

 

 

食道の静脈瘤が破裂した。

 

 

 

すぐに目が覚めて

『タクシーを呼んでくれたら一人で帰れる。』

と言ったが、呼ばれたのは救急車だったので、

運ばれたのは中津の済生会病院だった。

2週間、済生会病院に入院した。

 

退院するとき、

救急搬送されて来たおれの、静脈瘤破裂の

破孔を塞ぐ様子を見せてもらったのだが、

ぴゅーぴゅー血が出ていたので、うん、死ぬね。

こえー

 

 

 

 

やっと退院して確認の審査を続け、もうすぐ

確認が下りるという段階まで来た。

ところが、ようやく現地に縄張りに入ったT氏が

『こんな施工余地じゃ工事はできない』と

いまさらのように言い出した。

 

しかも、北側隣地の越境部分はそのままだ。

k氏を問い詰めると

『越境部分を直せるなんて言ってません。』

 

なに?

 

『それよりセンセ、越境した現況でも入るよう、

図面を直してくれって

この間言うたじゃないですか』とK妻。

また切れたら、打ち合わせに寄り付かなくなった。

 

7月に、また倒れて救急搬送され、

F先生に穿刺してもらって

そのまま入院。月末に余命宣告。

 

 

あとは、この日記の通り。

 

 

 

 

これが、私が『壊れる直前の話』である。

 

 

 

 

この計画は秋に正式に放棄された。

 

秋に必ず次の計画の話を持ってくる、と

言っていたK夫妻からはあれから連絡がない。

 

『着工』しなかったから、着手金のはした金しか

貰っていない。

 

 

 

 

 

 

 

残り133 

 

  

あの夫婦、七代裔まで祟る。

 

 

 

 

 

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2017年3月26日 (日)

余命1年日記 -65-壊れる直前の話 1           (3月第5週 2017.3.26)

寝てばかりいて暇なのでなので、

『わたしが壊れるまで』の話を空こすしづつしていきます。

(この話は、以前書いた「末期の水」のシリーズです。)

 

もちろん、こんなこっぱずかしい話、

整理して書ける訳がないので、時系列はめちゃくちゃです。

 

『人生五十年』のうちの、ごく一部しか書けないし、書かないし

そもそも毎週は書けません。

 

とても読みにくいと思いますが、たぶん感情を整理して

書くことはできないと思うので、どうか申し訳ない。

どうしてもきれいな文章にしたい人は、

僕が死んだ後に編集してください。

すみません。

 

 

 

 

 

 

ここから本編。

 

まとまった仕事として、最後に請けた仕事は、

一昨年の8月に弊社事務所に架かってきた一本の電話。

余命宣告を受けた、去年の夏の一年位前に、

弊社事務所兼自宅に電話があった。

 

 

『設計の依頼をしたい。』と。

 

 

最初に母が電話をとった。

しかし、なにぶん年寄りなので、仕事の依頼の電話など、

わからない。

おろおろしながら私に電話の子機をもってきた。

しかし電話で話を聞いても要領を得ない。

どうやら、マンションの設計の依頼らしい。

 

建設予定地を見に来ているから、敷地を見ながら説明をしたい。

来てくれ、と。

名刺交換もしないうちにせっかちなことだが、

仕事を選ぶ余裕などないので、指定された店に向かった。

まだ、腹水は溜まっていかったからスーツを着ていった。

 

しばらく待たされて、それらしい人の肩を叩いて、

名刺を出して挨拶した。

彼は『Kです。』と名乗ったが、名刺はくれなかった。

彼とは1年半の付き合いがあったが、ついに最後まで

名刺をくれなかった。

失礼な男だと思った。

背ばかりひょろ長い兄ちゃんだった。

彼との案内で敷地を見に行く。

 

あきれた。

 

狭いのだ。ワンルームとはいえマンションが建つような敷地じゃない。

間口7m50、奥行き15mくらい。敷地面積100㎡ちょっと。

こんなもん戸建ての敷地だ。

 

あきれながら土地を眺めると、更地になっているから

『ここは以前何があったんですか?』と訊くと

『隣のような住宅です。』と右隣の家を指差す。

隣には、木造二階建ての、お世辞にも上等とは言えない家が

敷地ギリギリにピッチリ建っていた。

『しかもこの家、うちの敷地にはみ出てるんですよ。』というから

境界に建っているブロック塀の足元をみてみると、

なるほど、道路に打たれた境界標よりもこちら側に

塀の厚み分くらい10cmほど、はみでている。

 

『どうするんですか?』と訊くと『下げさせますよ。』『着工までに?』

『当たり前ですよ。』と、えらく勢いがいい。

 

 

結論から言うと、彼はこの約束を守れなかった。

敷地の狭さに加えてこの越境問題が、この計画が

不調に終わった理由のひとつとなる。

 

敷地も狭いが隣地もろくなもんじゃない。

今言ったように、北側は越境しているし、西側も、

一軒おいた隣には十階建てのマンションがある。

南側は開けているが駐車場だから、将来は

どうなるかわからない。

東側だけは川を挟んで道路があって幅20mほど

開けている。

狭いなあ。

 

どうもなんだかうらぶれた気分になって、

憮然と辺りを眺めていると、

『どこか座って話をしましょう。』というので 

近所のファミレスにいく。

なんでこんな小さなマンションを作るのか?ということを訊くと

その答えに驚いた。

 

ほとんど自己資金なしで、銀行からの借り入れで

土地を買い、マンションを建てる。

客を募集し満室になったら、収益物件として、

客ごとマンションを売り飛ばしてしまう。

 

不動産会社でそういうことをする所はありそうだが

個人でそんなことをする人がいるとは思わなかった。

しかし、そうであればうまく仕事を繋いでいければ

私も食いつなげる。

やる気の起きる仕事ではないが、ちょっとやって見ようか、

という気になった。

 

しかし?K氏の嗇囑さを甘く見ていたために、

のちのち散々に苦労することになる。

 

 

1DK、30㎡の住宅ということになると、

1フロア2戸しか取れない。

その他の法的条件をカ考えると、5階建てまで建ちそうだ。

道路の奥から2戸の住宅、道路側に直通階段を

設ける、という100人が考えて100人がそうする、

という基本プランを提示した。

 

5階建てなので『EVはどうします?』と訊く。

当然必要だろうが、つけたら1フロア2戸が取れない。

そこまで説明すると、K氏は2秒考えて、

『じゃあいいですよ。要りません。』

と答えた。

 

こりゃ、相当貧乏臭いものになるな、

と思ったが

その日はそのまま帰った。

 

 

 

 

 

あー、長え。

 

ここで一度切ります。

すぐ続きを書きます。

 

あんまり事態の推移を細かく書くつもりはないのだが

この話を理解してもらうためには、彼のキャラクターに

触れないわけにはいかないので、書きました。 

 

彼が反論出来ない、こうした場で一方的に言うのは

卑怯だとも思うが、この事件の責任を一方的に

押し付けられて病気に追い込まされ、

約束を反古にされたことは、許せない。

 

今日は書けなかったけど、彼の奥さんが

さらに強烈なキャラクターなので、乞うご期待。

 

 

 

 

 

 

 

残り134 

 

  

いや、期待しなくていい。

 

 

 

 

 

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2017年3月22日 (水)

余命1年日記 -64-いつまで生きられるのか。    (3月第4週2017 3.22)

今回入院する際、F先生に今回の症状を説明するときに、

『去年の6月、余命宣告を受けた時のような』

という説明をした。

先生も、あの時の私のへろへろっぷりは、

覚えていてくれた。

 

しばらくいまの病状の話をして、あらためて

『あの時の「あと、一年。」という宣告は

まだ、有効か?』と、聞いてみた。

 

F先生は『有効?』、と笑いながら、

『去年の7月に救急で来られたときはひどかった。

腹水で固くなった腹から、穿刺と利尿剤で

なんとか水を抜こうとするんだけど、

今度は腎臓が悪くなる。利尿剤をやめると、

穿刺だけでは腹水が抜ききれない。

 

とにかくたくさん水がでる。こんな具合で腹水や

体調が制御できなくなったら、「あと1年」と

言ったわけです。』

 

『実際、その時の状態はその後しばらく続いて

その時は9月末まで入院していたし、

その後も断続的に入退院が続いた。

しかし、その後は今回また入院するにしても

腹水の具合が制御できる範囲内にあるような気がします。

このままうまくバランスがとれれば1年を越えて

行けるような気がしています。』

 

 

うん、僕も最近そんな気がしていたんだ。

 

この『余命○年、○ヶ月』という表現を使う病気は

ほかにもあってガンもある。というかそっちが代表だ。

ガンという病気は進行性である。

死の淵に向けて進んでいく。

そのスピードは様々で、活動してるんだかしてないんだか

何十年も腹のなかにある奴がある。

かと思うと、おや、と思って罹患に気がついてから

一月ほどで命に関わるほど成長が早いやつもある。

余命というのは、そうしたガンの力が

生命力と体力を食らいつくす時間ということだ。

進行性の病気が生命を占領する過程、である。

ガンの場合、なにが「進行」するか、というと

健康な細胞が変異した腫瘍、ということなる。

 

 肝硬変でも肝臓は次第に固くなっていくわけだから、

「進行」と言えば進行だ。しかも、抗がん剤や

放射線で腫瘍の成長が止まったり縮退することが

あるガン細胞に対して、縮んでしまった肝臓は

もとに戻ることはない。

もっとも腫瘍の大きさが、病状にストレートに

対応するガンに対して、肝硬変は肝臓での細胞の状態を

直接反映しない。

 

病気が見えない。

さらに、肝硬変は死に絶えていく細胞の数が

病状にダイレクトに反映するわけではない。

病状を決めるのは、腹水や静脈瘤等の合併症だ。

名医F先生が危うく匙を投げ掛けたのも、この

難治性腹水というやつだった。

 

今回の入院も腹水が原因だから、危機は続いている。

しかし、一応『期限』は外れた、と考えていいらしい。

 

 

 

そうなればそうなったでいろいろ悩ましいんだが・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

残り138日

 

 

このカウンターは残しておきます。

 

 

 

 

 

 

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2017年3月19日 (日)

余命1年日記 -63-ひさしぶりに穿刺         (3月第4週 2017. 3.19)

入院の翌日、3月14日の朝、

F先生が回診にやって来た。

 

『おはようございます。』

『おはようございます。気分はどうですか』

『まだ、気分が悪いです。』

と、ここで先生が唐突に、 

『今日穿刺しましょう』

は?なに、『帰りにスタバ行こう』みたいな

ノリで穿刺とか言ってんの?

痛いのに。

 

 

『だいぶ腹水が溜まっているから、入院後

なるべく早い時期に抜いた方がいいです。』

うー、久しぶりだ。

 

『あとで迎えに来ますよ。』と

F先生が出ていく。

早速した準備を始める看護師が、

『あれって痛いんでしょう。』と訊くから、

『痛いよう。腹の皮膚に直接針刺すんだぜ?』

『ふーん、麻酔しても?』

『麻酔。あんの?』

『あるはずですよ。』

『あるんだったら、使うように先生に言ってよ。』

『はあ。』

 

麻酔があるんだったら、

どうして使ってくれなかったんだろう。

意地悪されたんだろうか。

くすん。

 

 

 

昼少し前に、F先生がやって来て、

すぐに出ていった。

入れ違いに看護師がきて、

『狭いから、場所を移る。』と

いま、私がいるのは6人部屋。

以前、ヘルニアで入院して時の部屋と同じタイプだ。

ちなみにその部屋は、私がいる部屋の

ひとつ隣にある。

 

おや?と、思ったあなたは鋭い。

いま私は、内科患者の癖に外科病棟に間借り

させてもらっているのでした。

 

 

 

確かに広い部屋に移って先生が準備をする。

少しかかるから暇だな、と思うと携帯がない。

 

そうか、いつもの部屋ではないから

なにも持ってこなかったのだ。

そこで、看護師に頼んで持ってきてもらうことにした。

彼女は、私の携帯と一緒にワンセグももってきた。

 

このとき、私が『ワンセグはいらない』と

返せばよかったのだ。

ところが受け取ってしまった。

これがいけなかった。

 

 

 

消毒が始まる。久しぶりだ。緊張する。

そうしてしばらくすると、穿刺する場所の

辺りでチクリチクリという感じがする。

ん?

『麻酔ですか?』

『麻酔です?』

やった。あの看護師、ちゃんと言ってくれたんだ。

さあて、いよいよ穿刺だ。

あの、熱い棒をねじりこまれるような感じを待つ。

・・・

・・・

あれ?痛くない。

いや、痛いことは十分痛いんだ。

でも、麻酔がないときと比べたら半分以下ただ。

 

すごい。

すごい。すごい。

みんな。

穿刺が痛くないんだぜ。

 

これがどんなにすごいことか、というのは、

8月5日のこの日記『2.穿刺とは。』を見てくれ。

 

 

 

これからドレーンを固定したり、

いろいろ下準備があって、5分くらいすると

F先生が『すごい勢い出ていってますよ。』

と言う。

『これなら意外に早くおわるでしょう。』と言って

部屋を出ていった。

 

 

 

ふむ、これでしばらく寝ているだけだ。

しかし、仰向けのまま画面を見るために機械を

持っているとどうしても体を傾けてしまう。

特にワンセグはそうだ。

 

そんなことをしばらくやっていた。

様子を見に来たF先生がやがて、しばらくドレーン管を

調べて、差し込み部を調べて、『中止しましょう。』

と言う。

『は?』

『液が流れていません。』

『は?』

『管が抜けてしまいました。』

『は?』

『そんな風に体を傾けないと駄目ですか?』

『あっ』

おれのせいか・・・

『・・・腰が痛くて・・・』

 

 

管を抜いて、傷口まわりの処理を終わると

『とにかく今日は終わりです。』と言って

機械の方の方付けに入ったから、その背中に

『すいませんでした。』と言うと、顔をあげずに

『ああ』と言った。

そのまま三連休に入ったからそれきりだ。

 

はあ

 

しまったなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

残り141日

 

 

こわいなあ。

 

 

 

 

 

 

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2017年3月17日 (金)

余命1年日記 -62-また 腹水、また入院      (3月第3週 2017. 3.16)

前回、「腹水が出ているのかも、」怯えていた

腹の膨らみはやっぱり結局、腹水でした。

 

 

遅刻して病気に行き、長いこと待たされて

血液検査と検尿をやった。

この検査の結果がでるまでが長いので

廊下のベンチで待つのだが、

これも長いこと待たされるので、

待ちきれないから、空いたベンチを探して

横になってしまう。

F先生に起こされて、診察。

 

診察室に入ると、

やや厳しい顔つきになった先生が

血液検査の果を説明してくれる。

『今回の血液検査の結果がよくない。

肝臓の数値が高くて、

腎臓の数値が低くて異常です。

Naが少なくて血小板も少なくて、

ほかにもいろいろおかしいから、

もうあんた、入院しなさい。』

ひどい言われようである。

怒ったような口調だった。

 

今回は、前回までの『入院しますか?』という

聞き方ではなく『入院しなさい。』という

強い口調だった。

 

その前にCTとレントゲンを撮ってこい、と

言われた。

これも長いこと待たされたから、

やっぱり寝ながら待った。

 

呼ばれて診察室に入ると、モニターを見ながら

先生は今度は『大分腹水が出ています。

一月前にはなかった腹水が、二週間前に

すこしでるようになって、

今回は穿刺の必要があるくらい出ています。』

こっちの内容もひどい。

 

いままでは、『いっぺん帰宅してから

帰ってきてもいいですが。』と言ってくれたが

この日はあんまりしんどかったので、

『いまから入院します』と、答えた。

 

すぐに、病室を用意してくれたから、

部屋に案内されると倒れるように寝た。

 

 

 

いま、寝ながらこれを書いてます。

 

 

あー、しんど。と

 

 

 

 

 

残り144日 

 

  

明日は、穿刺。 

 

 

 

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