関東大震災の日
9月1日は『防災の日』。
大正12年の今日、ほぼ正午、相模湾沖を震源とする
大地震が関東南部を襲った。
関東大震災である。
死者・行方不明者10万5千人超。
9割が火災による死者だったというのが、関東大震災の特徴。
『火事と喧嘩は江戸の華』というくらいで
江戸の街は、大火災が定期的に起こった。
江戸時代にはついに防げず、
明治政府は、
屋根防火や路線防火でそれを防ぐべく努力し、
少なくとも大火災の頻発は防いだ。
今日、(自粛)が土蔵の街として
『小江戸』なんていう風景を売り出しているが、
あれは明治時代のものだ。
なぜJAROは怒らない?
しかし、街の構造を変えることは明治政府には無理で
大正に入って、政党政治が始まると
地主・家主保護の政友会と
軍の支持を得ていた憲政会の政党抗争の中で
まるっきり都市改造なんかできないまま、9月1日を迎えた。
よく燃えた。
死亡者10万人以上、というのは
原爆以外のあらゆる災害を上回る。
関東大震災以降、日本は『帝都復興計画』を実施する。
内容は、多岐にわたっていて、
隅田川の勝鬨橋やお茶の水の聖橋のような『震災橋梁』から、
行幸通り、第1京浜、晴海通りの整備などたくさんある。
もちろん十分ではない。
しかも、その後の東京は、
帝都復興計画の不足を補うべく努力するのではなく
むしろ、その遺産を食いつぶす方向に進んだ。
隅田公園など、3大公園と、52の復興公園は
現在まで、東京の都市公園であり
呆れたことに、あの時代からひとつたりと増えていない。
しかも隅田公園は、いまやほとんどが
首都高速6号線の橋脚で
『橋脚、かっけ―』っていってる奴は、許せない。
奇跡的に、震災でも戦災でも焼けなかった
中央区の月島のあたりを
『いやあ。こういう江戸情緒はいいねえ。』という奴は
横網橋公園内の震災慰霊碑の前で腹を切れ。
しかし、以前も述べたような事情で
『帝都復興計画』は当初の予定よりも、
遙かに小さな規模でしか実現できなかった。
昭和天皇は、震災と、その後の空襲で二度も焼失した東京に
大いに心を痛めておられたらしい。
『震災のいろいろな体験はありますが、
一言だけ言っておきたいことは、
復興に当たって後藤新平が非常に膨大な計画を立てたが
いろいろの事情でそれが実行できなかったことは
非常に残念に思っています。
もし、それが実行されていたら、
おそらく東京の戦災は非常に軽かったんじゃないかと思って、
今さら後藤新平のあの時の計画が実行されないことを
非常に残念に思います。』
これは、関東大震災60年目、1983年の記者会見での
昭和天皇のお言葉。
(高橋 紘『陛下、お尋ね申し上げます。』より引用。改行のみ筆者。)
それでも、死者の9割が、火事で死んだということに
ショックを受けた日本国は、精一杯の対策をした。
焼失区域の9割以上、さらに、非焼失区域でも参加した
区画整理の実施。
これにより、街路の整理と拡幅がおこなわれた。
さらに、区画整理された区域では
地震にも火災にも強い鉄筋コンクリート造の
復興小学校が100以上もつくられ、隣接して公園も作られた。
防災拠点とするためだ。
ところが、東京大空襲では無力だった。
アメ公が、それ以上の力で
無差別爆撃をおこなったからだ。
アメ公の首魁は、カーチス・ルメイ。
ヨーロッパ戦線でも戦略爆撃を指揮していたのだが
せっかく爆弾を降らせても、ドイツの勇敢な消防隊が、
避難路を切り開いて、多数の市民を助けちゃったので悔しくて
徹底的に、「殺戮のための爆撃法」を研究した。
螺旋状に焼夷弾を落としてファイアー・ストームを起こす、
という悪魔の爆撃法を開発し、ハンブルグ大空襲で
一晩に4万人を焼き殺した。
この『功績』を買われて、
高々度精密爆撃に終始して戦果が上がらなかった
ハンセルに代わって、こいつがトウキョウに向かう。
『トウキョウ』に向かう事が決まると
研究熱心なこの悪魔は、日本家屋と、その街を調べるべく
日本で活躍していた建築家アントニン・レーモンドの協力で
アメリカの砂漠に日本の街を作り
低高度無差別爆撃+ジェリーナパーム弾大量撒布という
キチ○イの手法を開発して、
3月10日に、江東地区でこれを実施。
一晩で9万人を殺した。
戦後、ルメイは勲一等旭日大綬賞、という
日本国の最高勲章を受章する。
なんの冗談かと思うのだが、
裏の事情がいろいろあったらしい。
これほどの勲章であれば、天皇が親授するのだが
昭和天皇は、病気を理由にルメイに会わなかった。
関東大震災の、帝都復興計画は役に立たなかったのか?
といわれると、残念ながら、これはもう
都市計画でどう、というレベルの壊し方ではない。
東京への空襲は大規模なもので4回。
徹底的に焼き尽くしやがった。
我が家系が、累代の墓を残して
東京に痕跡を残していない次第である。
知った上で壊されたらかなわない。
そして、9月1日というのは、『不幸の特異日』で
『関東大震災』以外にも
ろくな事が起こっていない日、でもある。
地震や火事は日付を選んだわけではないだろうが
9月1日を検索すると、他にもいろいろと記念日だ。
空襲なんか、もうないだろうが
今回の震災に復興ってのも、
『災害に耐える。』以上の物にしないといけない。
せめて、それを教訓にしよう。
っていうか、
今年度、半分終わってんじゃん。
直人も、伸子も、88ヶ所1000本ダッシュだ。
なぜ、やらない。
『水曜どうでしょう』ならやるぞ。
うそつき。
では、『今日の一枚。』
関東大震災後、路線防火のために
こういう鉄筋コンクリートの長屋が造られた。
深川に、いまも存在する商店街。
『防火壁』に住んでいるのが幸せかどうかは、知らん。
もちろん、住んでいる人は承知のうえだ。
しかし、おそらく10年後にこの景観はないだろう。
怒る気はしない。
なんだか、哀しいだけだ。
| 固定リンク
「ふざけんなよ、こらあ」カテゴリの記事
- 隣に外国人(2015.11.07)
- 見えないところが深い(2015.10.27)
- 10段ピラミッドなんか、くそ喰らえだ(2015.10.03)
- 『こどもの詩』の嘘。(2015.08.05)
- 新国立競技場の解決策はこれだ。(2015.07.09)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
えーと、川越がどうしたって?
投稿: 六郎 | 2011年9月 1日 (木) 21時13分
六郎さん、ありがとうございます。
川越は豊かな街で、蔵造り瓦葺きの
商家が多かったのですが、
明治中頃の大火で数軒しか残らず、
いま建っているのは、それと
その時代以降の物です。
そもそも、あんなに密集して蔵造りの商家が並んでいた街なんて江戸時代には日本中に
ありません。
って、川越を特定する内容には
しなかったつもりなんですが。
川越とゆかりがあって、
気に障られたのならお詫びします。
すみませんでした。
投稿: natsu | 2011年9月 1日 (木) 22時37分
あー、いえいえ、
こちらこそ気を遣わせちゃってすみません。
私の方こそ、
「川越がどうしたって?(笑)」と書くべきでした。
しかし、やはり当たりでしたね。
っていうか、「小江戸」と書いた時点でもう…。
投稿: 六郎 | 2011年9月 1日 (木) 23時25分