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2011年11月 2日 (水)

あじあ号の日

『汽車時間表』昭和十一年九月号の巻頭には

「欧亜連絡※」という欄があった。

それによると、東京を午後3時に発車した「富士」は

翌朝、9時30分に下関に着き、…関釜連絡船に接続する。

桟橋には…急行「ひかり」新京(長春)行きが待っている。

第四日目の朝6時20分、哈爾浜着。…五日目の正午に

国境の町満州里に着く。

満州里では、午後2時20分発の莫斯科(モスクワ)行に乗り換える。

…(東京から)十一日目の午後3時30分に莫斯科に着いている。

    

とまあ、これは宮脇俊三の

『シベリア鉄道9400キロ』の冒頭部分。

 

※原文では旧字体

 

 

 

 

 

このうち、新京から哈爾浜(ハルピン)までの区間は

南満州鉄道に乗っていたはずで、

11月1日は満鉄に、特急「あじあ号」が走り始めた日。

 

0000ajia_2    

 

 一つ目小僧

 

 

 

 

宮脇先生もこのルートに乗ったわけではなく

『霞のおくのおくの夢幻の彼方』であったのだが

この人のすごいところは、

夢を実現するべく、『ソ連』という国が、

まだ厳然と存在していた時代に

シベリア鉄道に乗りに行っちゃったところである。  

 

 

「シベリア鉄道9400キロ」は、痛快に面白いのだが

それは、また別の話。

 

 

 

 

 

 

今日の話は、満鉄です。

 

日露戦争の結果、

苦労して日本帝国が手に入れたこの鉄道は

広大な『満鉄附属地』を持ち、

そこに住んでいる日本人は、

ほぼ無制限の無茶をしたおかげで

『日本帝国主義の象徴』のように言われている。

 

この鉄道を敷いたのはロシア人だが

鉄道を根拠地に植民地を広げる、というのは

欧米帝国主義国の常套手段で

それに憧れた日本帝国は後に

張作霖を殺したり、リットン卿をだまくらかしてまで

ここでの権益を守ろうとする。

 

 

ただ、冒頭にあげた宮脇先生の文章のように

この鉄道が、『欧亜連絡』の国際列車だったことは確かで

国際列車であればこそ、日本帝国は、

そこに世界一の超特急を走らせたかった。

 

ちなみに、

だましきれなかった、リットン調査団のレポートに腹を立てた、

松岡洋右が国際連盟を脱退して

ジュネーブからの帰りに乗ったのも、

この、あじあ号だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

超特急を作ろう、というのは日本ではかなわなかった。

内地での鉄道の最高速度は

戦前では特急「つばめ」の95km/h。

 

狭軌の内地では、機関車が決定的に小さくて馬力が出せず

しかも曲線が多く、山が多くて、これ以上速く走れるか、と。 

 

戦後になって、電車特急ができると多少速くなるのだが

それでも「こだま」の110km/hが最高で

新幹線で、いきなり210km/hを走らせたのは

ずいぶんな無茶をしたもんだ、と思う。

 

 

 

 

そうは言っても、海外では、戦前に既に

時速200km/hの営業列車があったりして

日本帝国としては悔しかった。

 

そこで作ったのが、特急「あじあ」。

最高速度130km/h。

 

世界水準、とはいえるけど格別速くもない。

とはいいつつ、Wikipediaの記事は、あんまりで

もうちょっと褒めてやれよ。

 

 

 

 

 

そうは言っても、『スエズ以東最速』だったことは間違いなく

シベリア鉄道でさえ、最高速度90km/hだったことを考えると

めちゃくちゃ速い。

 

そして、競争相手がいなかったことを考えると

無意味と言えば無意味である。

 

 

 

 

ただ、そんなことをいう奴は、野暮だ。

 

客車には、冷房がつき、

食堂車では、亡命ロシア人のね―ちゃんが給仕をしていた

この列車に乗れたのは、

すごく嫌な奴か

すごく嫌な地位に就いていたかのどちらかなのだが

夢は夢でいいと思う。

 

 

 

 

 

 

新幹線の商業的成功のせいで

日本はもとより世界中が高速鉄道を作るようになった。

中国なんか、事故を起こし続けてまで、列車を走らせ、

しかも輸出しようというのだから、片腹が痛い。

 

ああっ、日本の原発と同じだっ。

 

 

 

 

 

 

 

『超特急』が夢であり、

それが実現できた時代は、幸せだったな、と思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の流線型。』

 

 

 

 

 

最高時速130km/hといったところで

あじあ号の表定速度(平均時速)は80km/hちょっと。

そもそも先頭車両だけ、ぬるんとした形にしても

空力的に、あまり意味はないのだが、

『スピード感の象徴』としてあんなデザインになった。

 

そして昔は、

ああいう『空力デザイン』が

流行ったのである。

 

これは、戦前の『弾丸列車』の模型広告。

0000c53_2 

 

 

 

 

 

 

 

このすっとんきょうな列車は、戦後

C53の実験車両として実際に制作された。

 

 

 

 

 

これは、昭和59年まで走っていた

鹿児島交通の『流線型列車』

0000kagoshimakoutuu 

 

必然性のない丸頭  

 

 

 

私は『車両ファン』ではないので

この型式のスペックが、わからないのだが、

路盤が悪くて、時速40km/h以上は出せなかったという。

 

 

これだって、無意味と言えば無意味だけど、

日本の南の果てに、こういう列車が走っていたことを思うと

たのしい。

 

 

 

 

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