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2011年12月14日 (水)

討ち入りのあるべき姿と、赤穂の塩

12月14日は『赤穂浪士討ち入りの日。』

(Wikipedia 元禄赤穂事件)

 

 

 

 

 

 

 

吉良上野介がいじわるしたから

浅野内匠頭がキレた。 

 

そこで、殿中で刃傷、という名の致傷事件を起こした。

江戸城中での狼藉である事も許せないが

勅使というのは天皇の名代で、その式典を血で汚した。 

 

五代将軍綱吉は激怒した。

浅野は即日切腹。

 

 

ここまでの処分は、わからんでもないのだが

吉良にはおとがめなし。

 

むしろ、『お怪我は大丈夫かな?』といった

慰めの言葉さえ下しおかれる。

 

さすがに江戸町民も『そいつぁ、おかしいだろう』

という事を噂し始めるのだが、

まだ『世論』というのが成立する時代じゃない。   

 

 

しかし、町衆の期待は相当なものだったらしく

結果として、刃傷事件から1年半後に

赤穂浪士は吉良上野介の首を取る。 

 

ざまあ。 

 

とまあ、ここまでが、

世間に流布するところの『忠臣蔵』のあらすじ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

でも、それでよかったのか?

というのが、例によってへそ曲がりな、この日記のテーマ。

 

浅野が切腹しても、吉良が殺されてもどうとも思わないが、

上野介も、赤穂浪士もうすこし、

粋な納め方があったんじゃないかと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

吉良家というのは『高家』といって

くそくだらない礼儀作法を教える家だった。

 

『勅使は天皇の名代だから、

畳の縁はウンゲン縁でなければなりませんぞ』等と言って、

内匠頭に江戸中の畳職人を借り上げさせたりする。 

 

賄賂なんか取っていなくても、

仕事の内容は、売春婦以下のくだらなさで、

しかもこの家系は室町時代から、そんなことばっかりやっている。

 

 

歴代のくず、

気合いの入った人間のくずだ。

 

 

 

こういうことを書くと、吉良家側の人は怒るかも知れないが、

私が、故識古典の知識を振りかざす奴を憎むことは

それはもう、新妻がゴキブリを憎む以上のものがある。

ちっとも同情しない。

 

 

かかって来やがれ。

 

 

 

 

 

 

従って、江戸詰の吉良の家臣は弱い。

それはもう、びっくりするくらい弱い。

ざまあみろ、というくらいに弱いのだが、

 

この卑怯者たちは多少知恵が回りやがって

国許から、腕が立つ奴を集めた。

 

有名なのは、たとえば清水一学。

  

吉良家は官位は高かったが、所帯が小さく

大した連中は集められなかったのだが

息子を養子に出していた山形の上杉家からも応援を頼む。

それで、数十人の手練れを集めた。

 

更に、上野介自身も危機感を持っており

とっとと隠居して、

息子が殿様をやっている上杉家に避難するつもりでいた。

 

赤穂浪人の過激派がいても、まさか他家の大名領、

しかも山形までは攻めて来るまい。ということ。 

 

 

 

 

実際、その構想は、ほとんど実現していて、

上野介は『年末に江戸を離れるから、よろしく』と

旧知の友人を集めて2日にわたって茶会をした。

 

それが12月14日。

 

満足した上野介は、酔っぱらって深い眠りにつく。

もう、これで安心だ、と。

 

赤穂浪士の噂は聞いていたが、

まさかこの泰平の時代に騒乱は起こすまい。

来週には、米沢に行くのだ。

 

家臣にも油断があった。

腕を頼って集めたはずの清水一学も、新貝弥七郎も

眠りについていた。 

 

 

 

その14日の深夜に、

完全武装の47人の男達が雪崩込んだ。

 

 

 

圧勝である。 

 

 

 

 

 

攻城戦、というのは意外に少数で守れる。

西南戦争での熊本城は、3500人の鎮台兵で

20000人の西郷軍を70日にわたって守り通した。

 

ただし、それは充分な準備と戦意があってのこと。

 

いくら腕が立つ奴を集めても、

夜に布団に入らせたら駄目である。

 

何人かは勇敢に応戦したらしいのだが

寝起きで、鎖帷子を着込んだ連中に戦いを挑んでも

なぶり殺しだ。

 

 

 

 

 

結果を知っている奴が、あれこれ言うのは可哀想だと思うのだが

油断しすぎじゃないか?

 

昼日中に討ち入りをすることはない。

危機管理として、『腕の立つ奴は不寝番』という事を

徹底すべきではなかったのか?

 

如何に勇敢でも、

寝間着で戦ったら負ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤穂浪士の側の狙いも、よくわからない。

 

首領は大石内蔵助。

ただし、この人は武力蜂起に慎重で

まずは、『御家再興』を図った。

 

結果を知っているから、荒唐無稽と思ってしまうが、

本人は真剣だったし、応援する人もいた。

 

 

 

 

ただし、赤穂の浅野家は5万石でしかない。

独力での政治工作は、ほぼ不可能だった。

 

しかし、浅野家は広島に本家がいて

そこは40万石の大大名だった。

しかも、刃傷事件の裁定をおかしいと思う人は各方面にいて

内蔵助を応援した。

 

内匠頭に息子はいなかったが、弟に大学という人がいて

学識もあって家臣にも信頼がある。

だから、内蔵助はそこに賭けた。

 

『御家再興』はリアリティのない話ではなかったのだ。

 

 

 

さらに、内蔵助は見込みのある浪人が他家に

再就職することを責めなかった。

むしろ斡旋した、と言う。

 

かならずしも『忠臣』の論理で動いていた人ではない。

 

 

 

 

ただ、浅野家というのは豊臣系の外様大名で

綱吉の頃は、外様が幕府を恐れることは子猫以下だった。

 

刃傷事件から1年半後、

浅野大学は広島本家に預かりとなり

長らく主不在で捨て置かれていた赤穂城に

幕府譜代の永井氏が入城する。

 

御家再興の途は絶えた。 

 

これで、内蔵助も武装蜂起を決めた、というのだが…

 

 

 

 

 

 

 

 

江戸時代というのは、やたらと武士がいた。

人口の一割が武士、という時代で

幕府は、なんとかこいつらを減らそうとした。

 

家康は、関ヶ原や大阪の陣で、

自分に刃向かった大名を取り潰し

家光の時代まで、ほとんど言いがかりのような理由で

外様の大名を潰していく。

 

従って、街には失業武士があふれ

由井正雪が反乱を起こそうとしたりする。

 

武士が余っているから、

綱吉の時代でも、他家に再就職するというのは

よほど優秀じゃないと不可能で、

腕は立つけど根本は馬鹿、という浪人を数十人も抱えて

内蔵助も、こまったなあ、と。

 

唯一の方途が『御家再興』だったのだが

それが途絶えたから蜂起した、と。

 

 

でも、どうしても武士である必要は

なかったんじゃないか?

 

 

 

 

 

 

 

 

商売をやればよかったのに。

 

応援する人はいたんだから、元手はできただろう。

『浅野浪士は何かやる。』と噂されていたから、

江戸では商売がやりにくかったかも知れないが、 

よその街でなら『浅野屋』なんて言う屋号で

商売をしてもよかったんじゃないか?

 

 

 

 

堀部安兵衛が、店先で、

『あ・こ・う・の塩っ。』

とか叫んだら、受けたと思う。

 

 

 

 

 

商人じゃなくても、

それだけの団結力があれば

未開の原野を開拓してもよかったのに。

 

まだ、日本中にフロンティアがあった時代なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

仇を殺して、自分たちも切腹。 

 

世間的には受けたから、

いまでも年寄りは忠臣蔵が大好きだ。

 

当時の世間も敏感に反応したために、

綱吉の態度は一変。

死罪こそ命じたが、切腹という名誉を与えられた。

 

そしてにっくき吉良の息子義周は配流となって罪人扱いだ。

 

 

しかし、下手をすれば、

広島の浅野本家に累が及ぶ危険もあったはずだ。

 

 

戦闘に勝つことは間違いなかったが

トータルの政治的なことを考えたら、

博打としては危険に過ぎたんじゃないだろうか。

 

 

そして、少なくとも粋じゃない。

 

 

 

どうすればよかったんだろうね。

 

 

『就活』なんていう事で、

あれこれと馬鹿どもが、いろんな新聞に得意そうに

『こうすれば就職確実』なんてことをを書き散らかしている。

 

馬鹿。

 

『赤穂浪士討ち入りから見た、再就職の作法』

なんていう記事があったら面白いのに。

 

それはつまり、

『文句を言う奴には討ち入る。』

ということで、すごく痛快でウォール街なのだが、

そこまで根性のある新聞はないらしい。

 

 

面白くねえ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の一枚。』

 

 

 

 

 

 

 

 

兵庫県の赤穂市には、お城の遺構があって、

石垣と堀しか残っていないのだが、本丸広場には

御殿の間取りが、実寸で描かれている舗装がある。

 

0000akoujou_2 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わかりにくいけど、この舗装に間取りが描いてある。

 

 

『内匠頭はここに座っていたのか。』

なんて思うと、楽しい。 

 

殿様と、お女中の役に別れて

『ほれ、いいではないか。』なんていって

鬼ごっこするのも、とても楽しいんだけど

すごく広いから、ちょっと死ぬ。

 

 

 

 

どうでもいいけどこの写真、

天守台の上から撮ってるよね。

 

立ち入り禁止じゃないのか?

 

 

 

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コメント

先日、赤穂城址を見てきました。石垣は美しく修復されていますが、そもそも戦略的には無駄なデザインだそうですね。いかにも太平の時代に建造された、お飾り的お城だそうな。とすると、いわばおもちゃの兵隊が仇討をしたようなものでしょうか。忠臣蔵……時代とともに日本人の記憶から消えていくようでさみしいです。

投稿: fullpot | 2011年12月16日 (金) 23時32分

fullpotさん ありがとうございます。
 
赤穂城、確かに
割といきなり本丸に入れちゃうし、
本丸の中に御殿があるのも変だし
実戦向きの城ではなさそうです。
 
忠臣蔵については、
浅野悪人説から、浪人再就職運動説まで
語り尽くされた感じがあって、
さすがに飽きてきたんでしょうか?
 
ちょっと寂しいですね。

投稿: natsu | 2011年12月18日 (日) 18時00分

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