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2012年1月17日 (火)

1月17日

1月17日は阪神・淡路大震災の日。

今年は17年目。

 

 

 

 

 

 

昨年。2011年には東日本大震災が起こった。

そのとき、けっして流されなかった映像がある。

 

遺体だ。

 

 

 

 

死者・行方不明者2万人。

『救助』という名の『遺体回収』に当たった自衛隊員が 

『山ほど遺体があった。』という証言をしているのを

テレビで見た。

 

『ひどい屍臭だった。』とも言っていた。

 

 

 

 

 

事実なのだろう。 

 

 

 

 

 

阪神大震災の時に、震度7を体験した。

半壊の指定を受けた建物に、その後2年住んでいたのだから

被災者といっていい。

 

 

しかし その期間、死体を見たことはなかった。

屍臭を嗅いだこともなかった。

 

 

 

『お前が鈍感だったからだ。』といわれたら

そうかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

1月17日の朝、8時。

私は、JRの駅にいた。

電車は動いてはいないだろう。と思いつつも

そこに行っていたのだ。

 

同じようなことを考えた人はいたらしく

駅には十数人のサラリーマンがいた。

 

何故『サラリーマン』と、思ったかというと。

全員革靴に、スーツとコートだったのだ。

 

そして、私もそうだった。

ご丁寧に、スーツにネクタイ。そして革靴だ。 

 

 

『想像力がなかったからだ』と言われたらその通りだ。

 

 

 

 

 

しかし別の駅前では、広大な駐輪場の入口のBOXの中に、

管理人のおじいさんが座っていた。

 

彼も『日常の延長』として、1995年1月17日の早朝に、

決して人が来ないであろう 駐輪場に『出勤』していたのだ。

 

今、思い出しても、シュールレアリズムの

下手くそな映画を見ていたような気がする。 

 

 

 

 

 

 

 

しかしそれを笑えるか?

 

笑う、というやつがいるならいい度胸だ。

俺の眼の前に出てこい。 

 

全力で殴る。

 

 

 

 

 

 

 

 

1月17日は晴れていた。

 

すかんとした青空ではなくて埃っぽい。

 

まだ、火事は大きくなっていなかったので煤や煙ではない。

なんだろう。なんか、うす黄色かった。

崩れた家の埃だったのだろうか?

 

 

そして、どんな『臭い』がしていたか?というと、

ガス臭かった。 

 

即物的な感想だが、そのとおりなのだ。

 

 

 

 

 

 

駅の北側に木造家屋の一角がある。

ほぼすべて倒壊している。

 

人の気配はなかった。

音さえしなかった。

 

車は走っていなかったし、後に批判される

マスコミのヘリコプターもまだ、飛んでいなかった。

 

 

 

 

 

呆然としながら、駅から出掛かると、

やはり同様に駅を出たサラリーマンらしい人物が

懐からタバコを取り出した。

 

すると、瓦礫の中から中年の女の人が飛び出してきて

『火をつけないでください。』と叫んだ。

 

意味を理解するのに数秒かかった。

まさか、人がいるとは思わなかったのだ。

 

タバコを取り出した人も、

やはり数秒かかって事情を理解したらしく、

愧じた様に笑って、のろのろとタバコをしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これが、私が体験した『阪神大震災の臭い』の記憶である。

 

 

阪神大震災の死者は6500人。

東日本大震災よりも被災地の面積は狭かったから

『死の密度』は、より濃密だったかも知れない。

 

東日本大震災の死者は津波による被災が多かったので

『潮だまり』のような場所で、

特に集中していたのかもしれない。 

 

1月17日の朝にも

倒壊家屋の下には遺体があったのかもしれない。

 

 

 

 

 

しかし、『火をつけないでください。』という

おばさんの存在に驚いたように、

あの中に人がいるとは思わなかったのだ。

 

自分がそうであるように、避難しているだろう、と。

 

甘い、といわれたら実際にその通りだった。

だから、批判は受ける。

 

 

 

 

 

でも、そのとき私はスーツにコートだったのだ。

だから汚れるじゃないか、という意味ではない。

そんな事態、想像もしていなかったのだ。

 

あれほどの地震に揺さぶられて、停電しても

2時間たったら、スーツを着てしまうのだ。

 

人間の想像力の範囲なんて案外せまい。 

そのことを、我々は去年の地震で改めて思い知った。

 

だから東電を許せ、というのではない。

『なにぶん早朝のことで、初めての経験でもございましたから』

という、当時の村山首相を許せ、といっているのでもない。

 

 

 

 

 

しかし、私は、一体の死体も見なかったし

腐臭を嗅いだこともなかった。

 

それも事実だ。

そのことが卑怯だと思わない。

 

恵まれていたのかもしれないが

卑屈になるつもりもない。

 

もちろん、偉そうにするのは論外だが。

 

 

 

 

 

 

今年は17年目。

 

去年の地震がなかったら、

静かに想いを送れると思ったんだけど

今年は特別ですね。

 

 

 

 

がんばれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日のパペポTV。』

 

 

 

1995年1月23日。

阪神大震災6日後に収録された

『鶴瓶・上岡のパペポTV』

 

 

 

いま、見返すと、二人とも混乱しているのがわかる。

しかしこれが、あのときの空気だったと思う。

 

こういう放送が、何故16年後にできなかったのか?

 

 

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コメント

わかりますね。痛いほど。
わたしは住吉川の東岸に
実家は甲南本通りのすぐ西にありましたから
ひどく被災していたわけです。
それでも、主人は時間になれば仕事をしようとしました。一時間ほどしてそれに意味のないことに気付いたそうです。私はただ、そのあとの地鳴りを伴う余震がおそろしく……そんな被災地のまっただなかにいながら、私もご遺体は目にしませんでした……要するに、役立たずだったというわけです。幼馴染は、瓦礫を素手で掘り起こして、見ず知らずの他人の救助にあたったのに。
それにしても私たち被災者は着の身着のまま、お風呂にも入れないというのに、川を越えたところでは、高層マンションの上層階に洗濯物がひるがえっていました。シュールでしたねぇ。

投稿: fullpot | 2012年1月17日 (火) 21時44分

fullpotさん ありがとうございます。
どうも気が重いテーマで
返事が遅れて申し訳ありません。
 
日常と、非日常の境目を
鋭角で突き詰められたような朝でした。
 
高層マンションでは
洗濯物が干してましたか。
それはすごいな。
電気の復旧は早かったけど
水は苦労しましたから…

投稿: natsu | 2012年1月21日 (土) 07時53分

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