二・二六事件の『伝えられ方』
『その朝はかなりの雪が積もっていたので、
長靴で出かけた。
……
満員の帝都電鉄に六、七分揉まれて
渋谷に着くと、こんどは市電に乗換える。
ハチ公は一年前に死んで、すでに銅像になった
渋谷駅前から「9」という運転系統番号を示す
四角い札を下げた両国行きか、
あるいは「10」の隅田町行きに乗るのが
私の日課であった。
……
ところが二月二十六日の朝は
市電が止まっていた。
…私は雪の青山通りを二キロ近く歩いた。
学校に着くと先生が沈痛な面持ちで
「今日は東京が騒がしいので、
これからまっすぐ家に帰りなさい。」
と言った。私たちは大喜びで
雪を投げ合いながら帰った。』
(宮脇俊三 『時刻表昭和史』より。)
2月26日は『二・二六事件』の日。
昭和11年のこの日、
陸軍将校に率いられた反乱軍1400余りが
首相官邸ほかを襲撃、
霞ヶ関・永田町などを占拠した。
この事件の詳しい経過はWikipediaの記事でも
どうぞ。
5W1Hがわかりにくくて、
恐ろしく読みづらい悪文だけど。
この文章は、当時小学校三年生であった
宮脇先生が、府立青山師範附属小に
登校した時の様子を記したものである。
市電が止まっている程度で、
東京市内は意外と平静だった様子が伝わってくる。
しかも、封鎖線が敷かれていた三宅坂から
『宮脇少年』が通っていた小学校がある
青山五丁目までは、
たった3kmくらいしか離れていないのだ。
それなのに、
『大喜びで、雪を投げ合いながら帰って』
きてるし…
そして意外なのが、直後の報道。
(クリックで大きくなります)
2月27日の『長野』報知新聞 号外。
『国家革新』
『青年将校蹶起』
という表現に注目して欲しい。
この事件については、いろんな立場から
解釈できるのだろう。
しかし、Wikipediaの記事のように
陸軍内部の皇道派と統制派との対立が
大きな原因であり
個人のキャラクターが大きな影響を持ったかの
ような解釈は面白くないし、本質を見誤る。
そして、この事件の結果だけは はっきりしている。
これで、戦前の『政党政治』が終わった。
完全に軍部独裁の時代になっていくわけです。
我々の世代が受けた教育だと太平洋戦争前は、
真っ黒に軍隊が政治を牛耳っていた、と
教えられていた。
しかし戦前にも不完全ながら『政党政治』の
時代があった。
明治31年の大隈内閣(隈板内閣)が始まりと
される。
大正時代になると、一応普通選挙制度もできて
二大政党制が定着し『選挙による政権交代』も
実現する。
『衆議院の第一党から首相を出すのが
憲政の常道だ』という時代になった。
ところがこれが機能しなかった。
関東大震災後に、地主の利益を優先する
政友会が
大蔵省や、伊藤巳代治と一緒に後藤新平の
帝都復興案をつぶしたことは以前にも書いた。
党利に走って全体を見なかった訳です。
いまと同じじゃねえか…
世界大恐慌が起こると日本でも失業者があふれ
『大学は出たけれど』と、今日以上の就職難が
起こり、凶作も相まって、東北の農家は
『娘、売ります』という看板を軒先に立てる。
(現在の山形県長井市の一部)の
村役場に掲げられた
『娘身売の場合当相談所へ』という張り紙。
隣の『健康週間』のポスターが哀しい。
『悪いのは政治家じゃないか?』と
憤った青年将校がいた。
そこまでは、間違いじゃない気もするのだが
『それなら政府を倒しちまえ。』と、
神経が2・3本足りない連中が起こしたのがこの事件。
しかし『暴発はよくないけど、気持ちはわかるよな』
という気分はあったらしく、それが最初にあげた
報知新聞の号外の好意的な表現になっている。
もちろん、彼らを利用しようとした『皇道派』
とやらの意向も反映されているのだろう。
海外では、この事件は
明確に『クーデター』として報じられた。
正規軍の一部が完全武装で決起し、
政府首脳を殺して首都の中心を
占拠したんだから当然だ。
普通の国のクーデターだと、この後
反乱軍のトップが革命議会議長とか大統領に
なるのだが、
二・二六事件の場合、反乱軍の連中は
愛宕山のNHKを襲って、国内外に声明を出す
こともなく対外的には沈黙を守る。
『ジャポン、変な国ねー』ということで
外国人は困ったらしい。
反乱軍の思いは
『昭和天皇だけはわかってくださる』
ということらしかった。
もちろん、わかってくださる筈はなくて
事態を穏便に済ませようとする連中の
慌ただしい動きに
陛下は大いにご不快の念を示された、という。
ただし、26日の段階ではこの程度。
元老や襲撃を逃れた連中は事件を追認する事に
なってしまう内閣の交代はしなかった。
そのかわり、鎮圧命令も戒厳令も出さなかった。
翌日7日の朝日新聞朝刊。
(クリックで大きくなります)
まだ『青年将校の襲撃事件』という、
曖昧な表現を使っている。
岡田首相は一命を取り留めるのだが
26日の段階では死んだものと思われていた。
そうはいっても、総理の生死の情報が、
未確認のまま一面記事になっちゃうあたり
誰も報道規制なんか考えていなかったらしい。
今日であれば、株価も円相場も大混乱で
日本は沈没してしまっただろう。
27日も慌ただしい動きは続くのだが
ようやく戒厳令だけは敷かれた。
これ以降、新聞報道は沈黙する。
この日も、鎮圧への動きは鈍く、ついに陛下は
『朕自ラ近衛師団ヲ率ヰテ、
此レガ鎮定ニ当タラン』
とまで仰せになる。
これで、『青年将校の襲撃部隊』は『反乱軍』
となる。
実際の動きはまだぐずぐずするのだが、
29日になって討伐作戦が発動される。
といっても、鉄砲一発撃つわけではなく、
兵士たちに、『原隊に帰れ。』という説得が
始まっただけ。
このとき、戒厳司令部がばらまいた
有名なビラが、これ。
となっていることが大事
将校には呼びかけてない訳です
『お前達の父母兄弟は皆泣いておるぞ』と
言われても兵隊の立場からしたら迷惑な話だ。
命令に従っただけで、反乱の趣旨はおろか
出動の時には『演習』だと思っていた連中が
ほとんどである。
命令に従って配置についてから、
『なんか大変なことになってるぞ?』と動揺する。
この時、反乱軍の一員として動員された中に
小林という兵隊がいた。
後の人間国宝、柳家小さん。
『みんな緊張しているから落語をやれ』と
言われて演じはじめるのだが、
やっぱり緊張して誰も笑わない。
『面白くないぞッ!』のヤジに、
『そりゃそうです。演っているほうだって、
ちっとも面白くないんだから』
と返したそうである。
兵隊はなにも知らされていなかったわけだ。
29日にこのビラがまかれると
反乱部隊は帰順して、
あっさりと『事件』は終わる。
戒厳令は同日に解除される。
再び報道が堰を切る。
(クリックで大きくなります)
上段左の号外の日付は29日。
右端で『後継内閣問題』を論じて
元老の西園寺公望の顔を
でかでかと載せているのは、3月2日。
事件収束二日後に政局の話をするなよ…
もうちょっと総括の仕方があるだろう…
『意外、首相は生存』って
おまえが『意外』だ。
では、『今日の226』
1989年の映画『226』の予告編。
(見られない場合はこちら http://youtu.be/MahzyRPqQmw)
実際に、出動に際して こんな訓辞が行われた
という記録はない。
兵隊は作戦を知らされなかったし、
知る必要もなかった。
そして、それ故に日本軍は強かった。
それにても、竹中直人も三浦友和も若いなー。
そしてモックンは、こういう役柄を
(引用した新聞記事の日付の記載に一部誤りが
ありました。訂正します。)
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コメント
改めて、情報統制というのは恐ろしいのですね。下士官に情報を流さないから日本軍は強く、命令ひとつでコマとして動いちゃうから、2・26事件も可能になる。そして、それをまた情報統制で揺さぶり、瓦解させ、クーデターなどなかった顔をする。すごいもんです、日本のポーカーフェイスは。今はさすがに無理でしょうね。政治が弱体化するのも無理ないですね。首相は意外や、隣のおっさんと同じ輩なんですもん。今日のコメントは、おばさん大分、頭使ったぞ(笑)。おかげで一日遅れになっちった。
投稿: fullpot | 2012年2月27日 (月) 09時09分
fullpotさん ありがとうございます。
こちらこそ、返事が遅くなって
申し訳ありません。
どうも、中途半端な知識で書くと、
あちこち気になってしまって…
実際、陸軍はこの身内の反乱を
あくまで『不祥事』として
処理しようとしていました。
あの状況で、報道にどこまで
中立と正確を期待していいのか
後世の人間が批判するのは
気の毒な気はしますが、引用した記事は、
どれも冷静さを欠いている気がします。
おじさんも頭使いました。
投稿: natsu | 2012年2月29日 (水) 01時04分