普天間基地とクラーク基地
5月15日は沖縄返還の日。
今年は40周年。
40年たっても解決しない課題は多いが
最大のものは沖縄に集中している米軍基地問題。
住民は、『県外に出ていって欲しい』と思っているのだが
もっとも話が進んでいた普天間基地でさえ、
鳩山さんの余計なひと言で問題がこじれてめどが立たない。
ところが世界には『出てってくれ。』と言われて、
実際に出て行った米軍基地があって
それがフィリピンにあった、ふたつの基地。
フィリピンには海軍のスーピック、
空軍のクラークというふたつの米軍基地があり、
いずれも極東最大の規模を誇った。
ピナツボ火山の噴火でクラーク基地の機能が失われ、
反基地の世論に押されてフィリピン上院が
米軍基地の延長協定の批准を拒否したため、
1991年、両基地とも閉鎖された。
跡地はどうなっているか、というと
どちらも経済特区になっている。
そして、返還から20年たったこの基地の姿は
沖縄の基地問題を考える、いいお手本になると思うのです。
まず、アメリカという国は『出て行ってくれ。』と言われて
素直に出て行くような、かわいらしい国ではない。
1991年というのはソ連崩壊の年。
崩壊後も『エリツィンの10年間』ロシアは経済的な低迷にあえぎ
軍の予算も削られて老朽化した原潜が
日本海で放射能を漏らす、という有様。
中国もペレストロイカの影響で民主化を求めて89年に
天安門事件が起きたりする。
91年はその反動の時代で、国内は混乱し
まだ脅威といえる代物ではなかった。
その一方東欧では混乱が続き、
ユーゴスラビアなどはすさまじい内戦の時代に入っていく。
湾岸戦争、イラク戦争、アフガン紛争。
中東も忙しくなっていく。
米軍はアジアの戦力を減らすべく
再編成しようとしていた訳で
ピナツボ火山の噴火はきっかけだっただけなのだろう。
フィリピンというのは火山が多く、同じルソン島にある
マヨン火山など、しょっちゅう噴火しているから
『富士山より美しいコニーデ火山』として有名だ。
ルソン富士
しかし、
『噴火で基地の大半が壊れちゃった』というのは
多少大げさにアナウンスされているような気がする。
どちらにしても『アジアの米軍を減らす』つもりだったのなら
沖縄をやめてフィリピンに集中してくれたらよかったのに、
と、日本人としては思ってしまうのだが
気前よく『思いやり予算』をくれる
日本のほうが都合が良かったという判断もあったらしい。
ところがいま米軍は海兵隊の配置を変えようとしている。
沖縄に集中していた海兵隊の一部をグアムや
オーストラリアに移そうとしている。
『沖縄への集中』をやめるのは県民感情を思いやってのことか?
というと、だからあの国にそんなかわいいところはなくて
中国軍が生意気に実力をつけてきたからである。
もちろんアメリカ自身は、中国に負けるなどとは
毛の先ほども思ってはいないのだが、
1500km先の空母を狙えるミサイルなんて言うのが登場したら、
一時的局地的に不覚をとることがあるかも知れん。
『パールハーバーはごめんだ』ということで
海兵隊を分散させようとしている。
鳩山さんの『腹案』とやらは、こういった米軍再編の中で
普天間くらいよそに押し込める、と思ってのことだったらしい。
しかし、米軍のどのレベルの人と話をしていたのか知らないが
一国の総理大臣が『腹案』の段階で大見得を切っちゃったのは
明らかに軽率だった。
おかげ普天間問題の解決は、逆に遠のいてしまった。
その一方、フィリピンはミスチーフ礁の領有問題や
南シナ海の開発問題などで、尖閣よりも露骨に
中国の圧迫を受けており、
クラーク、スーピックを返還しちゃったことを後悔している。
いまでは米軍との共同訓練など、協力関係を強めている。
このあたりの話は、
沖縄の人の感情を逆撫でするだけかも知れないが
ひとつの教訓、ではある。
返還後20年たった両基地の様子はどうか、というと
港湾機能がしっかりしているスーピックのほうは
敷地が狭いせいもあって、
そこそこ埋まってきている印象らしいが
マニラから80km離れたクラーク基地跡は
広大な敷地をもてあましているそうである。
当然私は行ったことがないのだが
このふたつの『見聞記』が極端に違うのが面白い。
『色眼鏡』というのは恐ろしいものだな、
と思う。
90年代には台湾企業が進出してきたが、
いま台湾は中国本土に工場を移す、という
脳みそが痒くなるような時代になって
代わりに韓国メーカーが来ているがまだまだ、なのだそうな。
リゾート観光地としても売り出そうとしているらしいが、
旅行の口コミサイトを見ると、
『あそこは、まあ怪しげなところだから気をつけてね。』
といった評判しか出てこない。
クラークのほうは空軍基地だから、立派な飛行場がある。
貨物航空のほうはそこそこ実績があったらしいが
いまや中国の深圳にその地位を奪われてしまった。
旅客空港としてもまだまだ。
マニラ国際空港の機能を移転しよう、という構想は
返還直後からあったらしいのだが
『遠い遠い。』ということで不評な関空-大阪より倍も遠い。
リニア鉄道なんか造れるわけがないので旅客は少なくて
ターミナルビルは、まだ米軍時代のものを使っている。
フィリピンは日本以上の島国で、
しかも鉄道嫌いのアメリカが統治していた所為もあって
国内の移動手段は、ほぼ全て空路である。
しかもAという地方都市からBという都市に行くのに
A-Bという直行便があるケースは少なく
A-マニラ-B、ということでマニラ経由になる。
だから、国内線のハブ空港となれば
それなりの価値があるんだろうが
マニラまで移動できないんじゃあね。
ということで、これから先どうなるんだろう。
このあたりの話は『関空の将来像』、とも
共通するところがありそうだ。
普天間の話でも同じである。
琉球新報は
『クラーク跡地は基地のインフラを活かして立派になった』
といっているわけだが、お前 普天間が返ってきても、
あそこを飛行場として使う気か?
跡地を住宅にして売り払ってしまえれば巨額の金が入る。
住民が増えれば税収も増える。
そういう選択肢もある。
代々木公園のように全部公園にしてしまう、という方法もある。
夢がある。
それも選択肢だ。
橋下さんが伊丹空港の跡地に
外国人特区みたいなのを作るとか言っていた。
兵庫だとリアリティがないが沖縄ならあるような気もする。
『返ってこない。』と嘆くのも大切だが
『返ってきたあと。』の夢を語ることで
大いに盛り上がってもいいんじゃないだろうか。
『ヤマトンチューは無責任なことばかり言う。』と
怒られるかも知れないが
少しは楽しいことも考えてください。
40年以上経って返ってきても、
その20年後の『地球の歩き方』に『気をつけてね。』って
言われるような街にだけはしないようにしよう。
では、『今日の730。』
いまから10年前に放送された、『復帰30年特集』
『県民希望の星』として具志堅用高が紹介されている。
あんなキャラクターになっちゃって…
とりあえず、入院前に書いていた文章をひとつ公開します。
『○月○日は、○○の日』という書き出しの文章は
大抵事前に書いています。
今回のものは5月15日の沖縄復帰40周年に併せて
用意したんだけどタイミングを外してしまいました。
でも、捨てるのももったいないので公開します。
よろしくお願いします。
| 固定リンク
« 帰って参りました | トップページ | ダム爆弾の日 »
「経済・政治・国際」カテゴリの記事
- 戦後日本が相手をしたテロ集団たち。(2015.12.14)
- もう、あとは違憲立法審査だ。(2015.09.19)
- オリジナルって何だ?(2015.08.16)
- 安倍談話と村山談話(2015.08.15)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
おかえりなさい!
よかったです。
大変でしたね。
私のありあまる健康をお分けしたいものです。
まあ、更年期障害を別にすれば
何も考えないクラゲのような生き方が
私の場合は功を奏しているのでしょうか。
30年って、長いスパンですね。
今から30年前の日本が
ばかばかしくもまぶしく思えます。
30年後の自分を思うと……くらーくなります。
私の跡地はどうなるんだろう――笑。
投稿: fullpot | 2012年5月17日 (木) 09時40分
ご退院おめでとうございます
まだまだ養生が必要だと思いますので
くれぐれもご無理のないようにお願いします
今回の記事はとても勉強になりました
ありがとうございます
「『返ってきたあと』の夢を語ること」
素晴らしい言葉ですね
沢山の沖縄の方々と、出来るだけ多くの
ヤマトンチューに届いて欲しいです
投稿: れ い | 2012年5月17日 (木) 18時33分
fullpotさん ありがとうございます。
健康って大事です。
ゆっくりやっていきます。
れいさん あいがとうございます。
ご心配いい只いてありがとうございます。
帰ってきたらこうするんだ、という話が
少なくとも県外の人間に
聞こえてこないあたりは
残念だな、と思うのです。
投稿: natsu | 2012年5月20日 (日) 00時26分
我が民族の長所については多くの識者がすでに述べている。
だから、私は自己慶賀はやらないことにする。
日本人の短所
意思がなして恣意がある。
成案がなくて腹案がある。
これらは、‘‘教育の問題’ と済ましていられない。
この問題を克服すれば、我々日本人は、さらに尊敬を集めることになる。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/
投稿: noga | 2012年6月 6日 (水) 20時26分