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2012年6月28日 (木)

五稜郭の日

6月27日は『五稜郭の戦いの終結の日。』

(Wikipediaの記事へのリンク)






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五つの角だから

五稜郭














この戦争で反乱軍を率いたのが榎本武揚


江戸幕府滅亡に際し、彰義隊の戦いや

勝沼甲州のまぬけな戦いで破れた新撰組などの

敗残兵を収容して北海道に逃げる。

そして新政府軍と戦った。




彼自身は陸軍は指揮できないので艦隊を指揮する。

数度の海戦を戦って兵力を消耗し

函館沖海戦で全滅するまで戦う。 


彼は『Repubric of EZO』を独立国にしようと活動したり

『内地』からやってきた人間に

様々な殖産の途を教えたりした。













陸戦での部隊長の一人が土方歳三。

この時代の人は写真が残っていて、いい男なので、 

だから、今日は『土方歳三』をとりあげる

テレビやブログがたくさんあるだろう。



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僕が死んだのは

6月20日ですけどね







五稜郭防衛戦というのは絶望的な戦いだった。

『要塞の作り方自体が間違っていたんじゃないか?』

ということを、司馬遼太郎でさえいう。


しかし、あの時代。

北海道に函館以外、拠るべき城塞はなかった。




『近代攻城戦』ということでいえば

はるかに前近代的な構造だった熊本城は

11年後の西南戦争で

2万人の西郷軍を防ぎきっている。





『ほんのちょっとの時代の差。』 

だったと思うのだが

五稜郭は時代に間に合わなかった。





なにしろ沖合の軍艦から

どかどかと大砲を撃ち込まれている。




要塞、という存在は50年後の日露戦争で

さんざんに日本軍を苦しめるので、この時代、

まだ存在意義を失っていたわけでは無いはずなのだが

艦載砲が撃ち込まれるような構造じゃ負けるよなあ。









土方は、沖合に見える海軍の奮闘をみつつ

『こりゃ、駄目だな。』ということで

自ら躍り出て敵陣に躍り込んだ。


なんてかっこいい。


飲んだくれて部下に逃げられ、戦に負けて

さらし首になった近藤勇と違って

こういった死に際の潔さが、

歴女(ぷっ)とやらの心をつかむのだろう。








部下、超迷惑。






大戦略からしたら勝てないのだ。

目の前で味方の軍艦が燃えていくんだから。

勝ち目がないことはわかってる。








『でも、吶喊しろ。』と






そりゃ、あんたは

京都で何十人も人を斬ってきた剣術の達人だもん。

最後尾にいて「我この柵にありて、退く者を斬る!」って

いわれたら、突撃するしかないよなあ。










安部公房に『榎本武揚』という随筆と戯曲がある。



榎本は、新体制への武力抵抗を訴える過激派を

自ら引き受けて、北海道で自滅させた。 

という過激な仮説の上に書かれていてとても面白いのだが、

まだ絶版になっていないらしいのでこれ以上は書きません。

是非読んでください。







ただし、江戸幕府時代には榎本の家系は

歴代の旗本ではなかった。


父親が婿養子になって幕臣になったのが彼がこどもの頃。

その後、昌平坂学問所(いまの東大)に学び

海軍操練所を経て、幕府の留学生としてオランダに学ぶ。

帰国していきなり幕府海軍頭取並になる。

(連合艦隊司令長官みたいなもんか?)




家歴を考えるとすさまじい栄達といってよく、

家歴がないだけにこの人自身の才能、

というのは恐るべきものだったんだろうと思う。











大政奉還後は徳川海軍(ということは日本の全海軍)副総裁。

旧幕府海軍全艦隊(8隻だけど)を率いる。

幕府海軍をそのまま率いて品川沖で彰義隊の壊滅をみる。


その後彼は『まだ東北に味方がいる。』といって

江戸を出港した。




ところが、房総半島を回った時に

暴風雨で軍艦1隻を奪われる。



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失ったのはこの船。

日本初の太平洋横断で

教科書にも載ってる咸臨丸




なにやってんだろうね。







江戸城開城以後も交渉などに応じず

『品川沖にとどまる』

という選択肢もあったはずなのだ。



なにしろ、くそ田舎の浦賀に来た黒船で

政権がひっくり返っちゃうような国だ。






なのに武揚は東北に拠らずに北海道に行った。

この辺の行動は確かに不自然で

安部公房の発想の根拠になってるらしいのだが

最終的に函館の五稜郭に立てこもって、破れた。


しかし破れた後、投獄されたのはほんの少しで

その後栄達を重ねて、大臣を歴任。

最後は、海軍中将 正二位 子爵にまで昇りている。













戊申戦役後のこの人の栄達は不思議だ。


才能があるのはわかるんだけど、 

同時代の人にも批判があった。

もっとも有名なのが、福沢諭吉の『痩我慢の記』




『(前段・江戸城を明け渡した勝海舟に対する罵倒。) 

 また勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。

これまた序ながら一言せざるを得ず。

この人は幕府の末年に勝氏と意見を異にし、

飽くまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽し、

政府の軍艦数艘を率いて箱館に脱走し、

西軍に抗して奮戦したれども、

ついに窮して降参したる者なり。

 

その勝算なきは固より明白なるところなれども、

榎本氏の挙は所謂武士の意気地すなわち瘠我慢にして、

その方寸の中には竊に必敗を期しながらも、

武士道の為めに敢て一戦を試みたることなれば、

幕臣また諸藩士中の佐幕党は氏を総督としてこれに随従し、

すべてその命令に従て進退を共にし、

北海の水戦、箱館の籠城、

その決死苦戦の忠勇は天晴の振舞にして、

日本魂の風教上より論じて、

これを勝氏の始末に比すれば年を同うして語るべからず。

 

 
 然るに脱走の兵、常に利あらずして勢漸く迫り、

また如何ともすべからざるに至りて、

総督を始め一部分の人々は最早これまでなりと覚

悟を改めて敵の軍門に降り、

捕われて東京に護送せられたるこそ運の拙きものなれども、

成敗は兵家の常にして固より咎むべきにあらず、

 

新政府においてもその罪を悪んでその人を悪まず、

死一等を減じてこれを放免したるは

文明の寛典というべし。

氏の挙動も政府の処分も共に

天下の一美談にして間然すべからずといえども、

氏が放免の後に更に青雲の志を起し、

新政府の朝に立つの一段に至りては、

我輩の感服すること能わざるところのものなり。
 

 

 敵に降りてその敵に仕うるの事例は

古来稀有にあらず。

…然れども、榎本氏の一身は

これ普通の例を以て

掩うべからざるの事故あるがごとし。

すなわちその事故とは日本武士の人情これなり。

氏は新政府に出身して啻に口を糊するのみならず、

累遷立身して…またついに大臣にまで昇進し、

青雲の志達し得て目出度しといえども、

顧みて往事を回想するときは

情に堪えざるものなきを得ず。

 

 
 当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦を戦い、

北風競わずしてついに降参したるは

是非なき次第なれども、

脱走の諸士は最初より氏を首領としてこれを恃み、

氏の為めに苦戦し氏の為めに戦死したるに、

首領にして降参とあれば、

たとい同意の者あるも、

不同意の者は恰も見捨てられたる姿にして、

その落胆失望はいうまでもなく、

ましてすでに戦死したる者においてをや。

死者若し霊あらば

必ず地下に大不平を鳴らすことならん。

 

伝え聞く、箱館の五稜郭開城のとき、

総督榎本氏より部下に内意を伝えて

共に降参せんことを勧告せしに、

一部分の人はこれを聞て大に怒り、

元来今回の挙は戦勝を期したるにあらず、

ただ武門の習として一死以て

二百五十年の恩に報るのみ、

総督もし生を欲せば出でて降参せよ、

我等は我等の武士道に斃れんのみとて憤戦止まらず、

その中には父子諸共に切死したる人もありしという。

 
 

 漢楚軍談のむかしと明治の今日とは

世態固より同じからず。

氏が維新の朝に青雲の志を遂げて富貴得々たりといえども、

時に顧みて箱館の旧を思い、

当時随行部下の諸士が戦没し負傷したる惨状より、

来家に残りし父母兄弟が死者の死を悲しむと共に、

自身の方向に迷うて路傍に彷徨するの事実を想像し

聞見するときは、

男子の鉄腸もこれが為めに寸断せざるを得ず。

夜雨秋寒うして眠就らず残燈明滅独り思うの時には、

或は死霊生霊無数の暗鬼を出現して

眼中に分明なることもあるべし。


……

 
 すでに他人の忠勇を嘉みするときは、

同時に自から省みて聊か不愉快を感ずるもまた

人生の至情に免かるべからざるところなれば、

その心事を推察するに、

時としては目下の富貴に安んじて安楽豪奢余念なき折柄、

また時としては旧時の惨状を懐うて慙愧の念を催おし、

一喜一憂一哀一楽、来往常ならずして身を終るまで

円満の安心快楽はあるべからざることならん。

 

されば我輩を以て氏の為めに謀るに、

人の食を食むの故を以て

必ずしもその人の事に

死すべしと勧告するにはあらざれども、

人情の一点より他に対して

常に遠慮するところなきを得ず。

 

 
 古来の習慣に従えば、凡そこの種の人は

遁世出家して死者の菩提を弔うの例もあれども、

今の世間の風潮にて出家落飾も不似合とならば、

ただその身を社会の暗処に隠してその生活を質素にし、

一切万事控目にして

世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ。

 

 
 これを要するに維新の際、

脱走の一挙に失敗したるは、

氏が政治上の死にして、

たといその肉体の身は死せざるも

最早政治上に再生すべからざるものと観念して

唯一身を慎み、

一は以て同行戦死者の霊を弔して

またその遺族の人々の不幸不平を慰め、

また一には凡そ何事に限らず大挙して

その首領の地位に在る者は、

成敗共に責に任じて決してこれを遁るべからず、

成ればその栄誉を専らにし敗すれば

その苦難に当るとの主義を明にするは、

士流社会の風教上に大切なることなるべし。 

 

すなわちこれ我輩が榎本氏の出処に就き

所望の一点にして、

独り氏の一身の為めのみにあらず、

国家百年の謀において士風消長の為めに

軽々看過すべからざるところのものなり。

 

 
 以上の立言は我輩が勝、榎本の二氏に向て

攻撃を試みたるにあらず。

謹んで筆鋒を寛にして苛酷の文字を用いず、

以てその人の名誉を保護するのみか、

実際においてもその智謀忠勇の功名をば

飽くまでも認る者なれども、

凡そ人生の行路に富貴を取れば功名を失い、

功名を全うせんとするときは

富貴を棄てざるべからざるの場合あり。

……

 榎本氏が主戦論をとりて脱走し、

遂に力尽きて降りたるまでは、

幕臣の本分に背かず、

忠勇の功名美なりといえども、

降参放免の後に更に青雲の志を発して

新政府の朝に富貴を求め得たるは、

曩にその忠勇を共にしたる戦死者負傷者より

爾来の流浪者貧窮者に至るまで、

すべて同挙同行の人々に対して

聊か慙愧の情なきを得ず。

 

これまたその功名の価を損ずるところのものにして、

要するに二氏の富貴こそ

その身の功名を空うするの媒介なれば、

今なお晩からず、

二氏共に断然世を遁れて維新以来の非を改め、

以て既得の功名を全うせんことを祈るのみ。

天下後世にその名を芳にするも臭にするも、

心事の決断如何に在り、力めざるべからざるなり。

 

 
 然りといえども人心の微弱、

或は我輩の言に従うこと能わざるの事情もあるべし。

これまた止むを得ざる次第なれども、

兎に角に明治年間にこの文字を記して

二氏を論評したる者ありといえば、

また以て後世士人の風を維持することもあらんか、

拙筆また徒労にあらざるなり。






さすが、一万円札になるほどの男である。

私ごときの罵詈雑言とは格が違う。




読むと短い文章なんだけど、

コピーするのが、死ぬほどめんどくさかった。

青空文庫に入っているので違法ではないはずだが、

ルビまでつけたら、とてもじゃないが引用できないので

もう一度リンクを張っておこう。 (痩我慢の記)





あーつかれた。
















では、『今日の二枚。』











実をいうと、今日は五稜郭の話をするつもりだった。

いつも以上にとっちらかった文章になっているのは

いつも以上に主題が絞れていないからです。







15世紀に小銃が一般化されると、

敵に『十字砲火』を浴びせるための

こういう、ヒトデみたいにとげが出た『稜堡式城塞』

というのが作られる。


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チェコにある

オルモウツという街。

すごい痛そう。









五稜郭だと中にあるのは奉行所だけだが

ヨーロッパでは街ごとくるんだ不思議な城壁が出来る。 






特にルネッサンス時代には

『理想都市』というのが流行って

なにもそこまでしなくても、

という幾何学模様の街が出来る。 


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16世紀に出来た

イタリアの街

パルマノーヴァ

雪の結晶みたい




うっそでー、 






と思うのだが、この冗談みたいな形の街は、

ちゃんとある。


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うわあ








でも、上から見るとかっこいいけど、

地上に降りちゃうとわかんないよね。 





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コメント

鳥居耀蔵が高野長英を捕縛さえしなければ
徳川幕府も内側から崩れなかったのかも知れません
民主党はもう、内側から崩壊しておりますが…

鹿児島城は幕末、イギリス船から打ち込まれた大砲が
かすめていきましたね
当たっていたら、歴史も変わっていたことでしょう

投稿: FREUDE | 2012年6月28日 (木) 22時22分

FREUDEさん ありがとうございます。
薩英戦争では海が荒れて、
大砲が当たらなかったらしいですね。
 
民主党煮大砲を撃ち込む人は
いませんかね?

投稿: natsu | 2012年6月30日 (土) 13時57分

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