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2012年6月の投稿

2012年6月30日 (土)

日本で今年一番長い日

『さあっ。今日7月1日。

日本期待の衛星『毎度毎度ごめんやっしゃー』号を積んだ

H22Cロケットが打ち上げられます。』 

 

『日本の民間衛星打ち上げも商業ベースに乗る、と。』

 

『大いに期待したいですね、』

 

『さあっ。この鬼ヶ島宇宙センターは晴天

絶好の打ち上げ日和です。』

 

『今日の7月1日は、日本民間衛星の自立の日、として

長く記念されるでしょう。』 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『いよいよカウントダウンです。』

  

『15,14,13,12,11,メインエンジン・イグニッション。』

 

『おおう…』

 

『10,9,8,7,6,…』

 

『いよいよ「日の丸宇宙船」が商業ベースにっ。』

 

『5,4,3,…』

 

『おおう、いよいよだ。』

 

『2,1,もう一度1そしてゼロぉーー』

 

『え?え?』

 

ごおおおおおぉぉぉぉぉ。

  

『……』

 

『……』

 

『飛びましたね。』

 

『飛びましたよ。』

 

『なんで1秒遅れたんだい?』 

 

『どういうことです?』

 

『さっきの秒読み、おかしかっただろうっ。』

 

『今年の7月1日の午前8時59分と

午前9時の間には「うるう秒」があるんですっ。』

  

『だからなによ。』

 

『ねえ…』

 

『でもせっかくだからどっかの国で

そういう冗談をやらないかな。』

 

『うーん…』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『あ、ばあちゃん?俺だよー。俺。』

 

『はて、どちらさんでしたかな?』

 

『やだなあ。可愛い孫の声も忘れたのかよー。俺だって。』

 

『ああ、その声は、茨城の…』

 

『そうだよー、茨城のー…俺だってばー。』

 

『茨城の美沙子のところの3男の

カルロス・サントロメオ・ジュアン・トシキだね?』

 

『そうそう、オメガっと俺だよー。』

 

『いい加減からかわれてることに気がついても良さそうだけど…

一体どうしたんだい?ジョバンニ。』

 

『あのさあ、ちょっと交通事故しちゃってさあ。

ヤバ筋の人みたいですぐに金がいるってー。』

 

『あらあら、あんたには怪我はないんだね?』

 

『うん。俺は平気なんだけどー。

その人がとりあえず入院費用に200万居るってー。』

 

病院は保険に入ってるわよ。

身柄ごと消えちゃうんならともかく

足腰立たないくらいにしてやったんでしょ?』

  

『あ、うん。骨折。』

 

『なら大丈夫よう。

何をビビってるの?』

 

『とにかくお金がいるんだ。すぐに送金してくれないか?』

 

『ふーん?銀行なんか行かないわよ?』

 

『そんなんじゃないんだ。

クレジットカードがあるだろう、それでもって

今日、7月1日のの午前9時丁度に今から言う口座に

キャッシング振込をしてくれ。』

 

『そうやって、時刻を指定することで

そのお金をすぐによそに転送して

ロンダリングしてしまおう、

ということね?』

 

『なに言ってんだよう。オレだよ。オレオレ。

カルロス・トシキを信じてくれよ

それに、トシキで海部を思い出すのは、

相当に歳がばれるよ?』

 

『それでどうしたらいいんだい?』

 

『2012年7月1日午前9時丁度に

さっきの口座に振り込んでくれ。

信じてくれよ、9時まであと一分だ。』

 

『わかったよ、クレジット番号を打ち込んだよ

あとはタイミングに合わせて

「Enter」のキーを押したらいいんだね?』

 

『そうさ、頼むぜバーちゃん。このミッションに失敗したら

俺の家も嫁も車もみんな…』

 

『はいはい、もういつでも押せるよ。』

 

『よしっ。10.9.8.7.6.5…』

 

『あああっと…』

 

『2012年7月1日、

午前9時。ゴーー。』

 

『……』

 

『……』

 

「…どうだい?うまくいったかい?』

 

『ばあちゃん。データが流れないよ。

7月1日午前9時にきっかり合わせて設定してあったのに。』

 

『ほほほ。それはね…』

 

『な、なんだよ。』

 

『2012年7月1日は

「うるう秒」で一秒長いんだっ。

日本で「今年一番長い日」なんだよっ』

 

『く、くそっ.』

 

『まともな銀行とか金融システムは

今回のことを織り込んでいるはずなんだけどねえ…』

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『おいっ。この請求書はなんだっ。』

 

『はい?…』

 

『2012年7月1日のスパコン「京」の賃借料だ。

なんで6月より100万円も高いんだっ。』

 

『それは2017年7月1日は1秒長いんです。

1秒1京回計算できるんだから仕方ないですよ。』

 

『高すぎる。

どうして2万じゃダメなんですか?』

 

 

 

Renho_daijin

 

 

あたしもだめだと思うわよ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

『ご注文の品です。』

 

『おおう、この艶やかなえんじ色。』

 

『さすがは生レ…』

 

『しっ。』

 

『お客様。呼び名にご注意ください。

こちらは7月1日からは、ご禁制の品です。』

 

『うーん、じゃあ…生肝臓?』

 

『しかし、この2012年7月1日の時点で

フレッシュな生…肝臓を食べてるのはわれわれだけだぜ?』

 

『…違法じゃないのかい?』

 

『はははっ。今日の午前8時59分と9時の間には

午前8時59分60秒、という本来あり得ない時刻がある。』

 

『…うん…』

 

『この、生…肝臓の注文が通ったのは

まさにその時間だっ。』

 

『…うん…』

 

『その瞬間は7月1日じゃないんだよっ』

 

『そうかなあ…』

 

『そうともさ…』

 

『……』

 

『うっ。』

 

『どうした?』

 

『おなかが痛い…』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『わしは超地球衛星1965。

同世代の衛星が、次々と地球に落下していく中で

わしは、ツオルトップスキー博士の緻密な計算によって

地球周回軌道に浮かんできた。 

 

しかしもはやバッテリーもほとんど尽きた。

カメラもレーダーも効かない。

 

そもそも、50年以上の間に数十回繰り返された

閏秒のおかげでいまでは、30秒くらい遅れている。

本来あるべき位置とはまるっきり違っている。

 

俺の位置は、アマチュア天文家には把握できまい。

  

 

 

 

 

 

 

おや?指令がきたようだ。

ずいぶん久しぶりのことだ。

 

 

 

 

どれどれ?

『貴船の最期の任務を通達する。

このままアメリカに突っ込め。』だと?

 

ずいぶん乱暴な指令だな。

いくら何でもNORADは僕の位置を把握しているだろう。

この突入は無理じゃないか?

 

『日本時間だと2012年7月1日 

午前8時59分から9時までの間が1秒長い。

そこを狙って突入せよって。 

 

 

そこに隙はあるのかなあ…

 

 

 

 

まあ、いいか。……』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の「日本で一番長い日」。』

 

 

 

 

 

 

昭和42年公開の映画。

『日本で一番長い日』の予告編。 

【予告篇】日本の一番長い日 投稿者 Rui_555

  

 

 

 

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『政局がらみ』で『閏秒』のストーリーを作れなかったあたり

ストーリーテラーとしては敗北さ。

 

 

 

  

 

 

 

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2012年6月29日 (金)

ロンギヌスの槍の日

6月28日は『アンティオキアの戦い。』で

十字軍が決定的な勝利をおさめた日。

(Wkipediaの記事へのリンク)

 

 

 

 

 

またややこしいところをついてきたなあ、

といわずに聞いてください。

 

 

 

 

 

アンティオキアというのは、いまのトルコ南部にある街。

 

いまでこそ遺跡しかないが

ローマ時代にはコンスタンティノープルから

中東へのメインルートにある街だった。

 

7世紀にイスラム教が成立して、

1089年にトルコに占領され、直後に起こったのが十字軍で、

激戦になったのがこの攻囲戦。

 

 

なにぶんとんでもない城塞なので

ここでの攻防戦が、第1回十字軍の重要な決戦になった。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十字軍(クルセイダーズ)というのは、11世紀から

200年にわたって起こされた『エルサレム奪還戦争。』

数え方にもよるが大規模なもので7回もある。

 

 

主唱したのはローマ教皇だった。

つまりバチカンのカソリック法王。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キリスト教が、ローマ帝国公認になってからしばらく

キリスト教会の一番偉い人はローマ皇帝だった。

 

西ローマ帝国が滅びるとコンスタンティノープルの

東ローマ皇帝が一番偉くなって、偉そうにする。

 

その後、東西教会は聖像破壊運動

そのほか神学上の、信者ではない人間には

わけがわからない理由によって仲違いした。 

 

バチカンの法王は、西ヨーロッパ世界全体の教皇だと

思っているのだが、東ローマ皇帝からしたら笑止であって

馬鹿にされるので悔しい。

 

そこで、西ヨーロッパを征服したカール大帝

『キリスト教世界の保護者』となるべく

『ローマ帝国』の皇帝冠を与えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな書き方をしたらカソリック世界の人に

殺されてしまいかねないので

カールの戴冠の伝説を書いておこう。

 

『800年12月25日の午前中のミサで、

ペトロの墓にぬかずき、身を起こしたカールに、

教皇レオ3世は「ローマ皇帝

(神により加冠されし至尊なるアウグストゥス、

偉大にして平和的なる、ローマ帝国を統治するインペラートル

;serenissimus Augustus a Deo coronatus,

magnus pacificus Imperator Romanorum gubernans Imperium)

として帝冠を授けた。』

 

 

 

 

 

 

ただし、カール大帝個人の超人的才能で統合された

ゲルマンでの彼の『帝国』はたちまち分裂。

フランク王国を庇護者として東ローマに対抗しようとした

カソリック教会も困ってしまう。

 

 

 

 

 

ローマ皇帝冠は右往左往したあげく、

なんとなく『ドイツの一番えらいひと。』という地位に納まる。

これが神聖ローマ皇帝。

うわあ、大丈夫かな、こんな表現。

 

 

その一方、王様も頼りない。

 

『中世ヨーロッパ』というと

王様がもりもりしたカツラをかぶり、

壮麗な宮殿で貴族をかしずかせていたのかと思うが

10世紀くらいには全然違った。

 

王様よりも、騎士というか貴族というか諸侯というか

そういう連中の方が強かった。

王様だってほかの王様の家来だったりしたので

今日的なフランス、イギリス、という国家自体が

まだ成立していない。

   

 

 

 

 

  

 

  

十字軍までの中世ヨーロッパというのは

そういう意味で『権力の空白期間』にあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その一方、教皇は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世に対して

『カノッサの屈辱』を食らわせたりしている。

 

 

 

それからも、ヨーロッパでの教皇権と皇帝権との対立が続く中、

東ローマ皇帝アレクシオスが

『イスラムの奴がうるさいから、ちょっと助けてくれよ。』

という。

 

 

 

  

申し出を受けたのはウルバン2世。

 

この人は『カノッサの屈辱』で対立したハインリヒと争った

グレゴリウス7世の弟子で、跡を継ぎ

勢いを盛り返したハインリヒとまだ戦っていた。

(カノッサ事件の決着は1122年のヴォルムス協定。)

しかも、反教皇派が立てた対立教皇なんかとの争いもあった。

 

もちろん政治的な意味合いもあったんだろうが

アレクシオスからの救援依頼はうれしかったらしい。

  

『これでローマ法王が一番だと知らしめてやれる』と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いってみれば、

東ローマ皇帝は本家の兄嫁である。

 

しかも、いままでさんざんに

『あー気が利かないわねー。』

『だから分家の嫁は。』

とか、ねちねちねちねち言われていたのが

『助けてくれ。』だって。

  

 

 

 

超いい気持ち。

 

 

 

 

ウルバンは興奮した。

彼はヨーロッパ中に煽動使を飛ばして

諸侯ばかりか庶民までを煽る。

『エルサレムを救え。』と。

 

 

『神、それを欲し給う』と。

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

で、

 

 

十字軍の背景はもういいか。

いいかげん疲れちゃった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

表題の『ロンギヌスの槍』というのは

『キリストを殺した槍。』

 

 

 

 

 

 

十字架にかけられたキリストを刺した最後の槍、

ということでキリスト教徒とラノベ読者には有名だ。

 

ロンギヌスというのは

キリストに最後に槍をつけたローマ軍の兵士の名前。 

 

これが一体アンティオキア攻防戦と

なんの関係があるのかというと

この槍が、攻城戦の時に城の地下から発掘されたのだ。

 

 

 

 

 

 

掘り出したのは、

ペトルス・バルトロメオなる人物。

 

キリストの死後1000年後に

完全な形で槍が出土するわけないだろう。とは

藤村新一旧石器時代の遺物をねつ造した男。)

ならずとも思うはずだが、

不思議なことにヨーロッパ人はそうは思わない。

 

  

いまでも、キリストの死体を覆っていた布で

レントゲンで映すと顔がっ、とかいう聖蓋布とかいう

『聖遺物まがい』が山ほどあるのだが

100%嘘である。

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヨーロッパ人の『聖遺物信仰』というのは

日本人の感覚とはかなり離れていて

例えば、ヨーロッパ中世の神学者で

教科書にも載っている、トマス・アクィナス、という人は

あまりに偉大であったために死ぬとすぐ髪の毛を切られて

丸坊主にされた。

遺髪を分けるためだ。

  

 

さらに、悲しみにくれる弟子たちは

師匠を大鍋に入れて、ぐつぐつと煮出した。

 

 

骨をとるためだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そもそも、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂自体が

聖ペテロの墓の上に建っているので

聖堂の下には、彼の骨があるのかも知れない。

 

 

そうやって、名前の通っている教会や修道院は

その聖人の聖遺物を所有している事は確からしい。

それは要するに、骨なんだけど

 

うーん… 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いまでは観光名物にしているところがあるが

むかしは、聖遺物を前面に出して争いごとを納めたりした。

  

争っている双方を街の広場に連れ出し、

ケースに入れた『ポータブル聖遺物』を持ってくる。

そうして聖遺物の前でそれぞれの主張をさせる。 

  

 

『聖遺物を前にしたら舌がもつれるだろう。』

という、『神明裁判』というのを行なう。 

 

 

 

 

 

 

心理的な圧力にはなったと思うが、

こんなもん自白の強要よりひどい。 

 

しかし、そうやって聖遺物の威力で争いごとを納めれば

教会にとっては教勢拡大になるわけであり

一般庶民にとっては

『おれも聖遺物が欲しい。』

ということになった、らしい。

 

 

思考のプロセスを

若干すっ飛ばしてるんじゃないか?

と、思うのだが西欧人の不思議なところは

明らかに嘘である『聖遺物』に

きれいに引っかかるところだ。

この、『聖遺物への欲求』は、結構笑えない。

 

 

例えば、キリストを架けたとされる

世界中の『十字架の遺物』を

正直に足し算していくと軽く10tあったりとか、

馬鹿じゃないの?と思うんだけど、  

 

これをエネルギーにしたのが

十字軍だった事は否定させない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実際、十字軍従軍をを煽った煽動使たちは

『エルサレムでいかにキリスト教徒がひどい目に遭っているか』

を説くのと同時に、

 

『中東に行けば、聖遺物がざっくざく。

なあに、イスラムの連中は興味がないから

つかみ取りですよ。』

と付け加えるのも忘れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

実際、イスラムの連中よりもむしろ、

イタリアあたりのキリスト教徒の商人のほうは

聖遺物よりもお金に興味があった。

彼らは聖遺物を贋作する。

 

200年も続いた十字軍の期間には

そういうことがシステム化されて、コンスタンティノープルでは

『聖遺物を扱う専門店街』が出来た。

 

 

  

 

 

 

 

いまでも出回っている民間の聖遺物は、

すべて、この時代につくられた偽物だ。

 

 

 

 

 

 

 

ロンギヌスの槍にしても十字軍が

コンスタンティノープルに入城した際、実は

そこで、1本目が見つかっている。

 

 

 

 

なんじゃそりゃ…  

 

 

 

 

 

 

宗教というのはキリスト教に限らず、(以下自粛)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の一枚。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロンギヌスの槍の発見は従軍兵士の意欲を高めたが 

『嘘じゃねえか?』と思う人は当時にもいた。

 

 

 

 

 

 

 

発見した、とされるバルトロメオは

神明裁判にかけられる。

 

さっきも出てきたが、彼が受けたのは

別のスタイルの神明裁判。

 

無茶なことをやらせて

それで無事なら『神様が味方してるんじゃないか?』

ということでその人の主張は正しい。とされた。

  

熱湯に手を突っ込んで指輪をとったり、

冷水に飛び込んで聖句を唱えたり…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この程度のことで偉大ならば、

出川やダチョウ倶楽部は

聖人に列してもいいと思うのだが

当然そんなことはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

バルトロメオは、

『燃えさかる板の間を走り抜ける。』

という、3D『阿含の火まつり』

みたいなことをやらされて

二週間やけどで苦しんだあげく、死んだ。

 

250pxgustave_dore_crusades_barthele

 

 

 

神明裁判直後の

バルトロメオ。

手当てしてやれよ。

   

 

 

 

 

ちなみに彼が見付けた槍は、

所有者が二転三転したあげく、

現在はウィーンのホーフブルク宮殿にあるそうです。

 

まだ貧乏な画家だったヒトラーが

ウィーンでこの槍をみて天啓を受けた、という。 

 

 

 

にせもんに感動してるんだから

こいつもやっぱりにせもんだ。 

 

 

 

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2012年6月28日 (木)

五稜郭の日

6月27日は『五稜郭の戦いの終結の日。』

(Wikipediaの記事へのリンク)






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五つの角だから

五稜郭














この戦争で反乱軍を率いたのが榎本武揚


江戸幕府滅亡に際し、彰義隊の戦いや

勝沼甲州のまぬけな戦いで破れた新撰組などの

敗残兵を収容して北海道に逃げる。

そして新政府軍と戦った。




彼自身は陸軍は指揮できないので艦隊を指揮する。

数度の海戦を戦って兵力を消耗し

函館沖海戦で全滅するまで戦う。 


彼は『Repubric of EZO』を独立国にしようと活動したり

『内地』からやってきた人間に

様々な殖産の途を教えたりした。













陸戦での部隊長の一人が土方歳三。

この時代の人は写真が残っていて、いい男なので、 

だから、今日は『土方歳三』をとりあげる

テレビやブログがたくさんあるだろう。



300pxhijikatatoshizo_2




僕が死んだのは

6月20日ですけどね







五稜郭防衛戦というのは絶望的な戦いだった。

『要塞の作り方自体が間違っていたんじゃないか?』

ということを、司馬遼太郎でさえいう。


しかし、あの時代。

北海道に函館以外、拠るべき城塞はなかった。




『近代攻城戦』ということでいえば

はるかに前近代的な構造だった熊本城は

11年後の西南戦争で

2万人の西郷軍を防ぎきっている。





『ほんのちょっとの時代の差。』 

だったと思うのだが

五稜郭は時代に間に合わなかった。





なにしろ沖合の軍艦から

どかどかと大砲を撃ち込まれている。




要塞、という存在は50年後の日露戦争で

さんざんに日本軍を苦しめるので、この時代、

まだ存在意義を失っていたわけでは無いはずなのだが

艦載砲が撃ち込まれるような構造じゃ負けるよなあ。









土方は、沖合に見える海軍の奮闘をみつつ

『こりゃ、駄目だな。』ということで

自ら躍り出て敵陣に躍り込んだ。


なんてかっこいい。


飲んだくれて部下に逃げられ、戦に負けて

さらし首になった近藤勇と違って

こういった死に際の潔さが、

歴女(ぷっ)とやらの心をつかむのだろう。








部下、超迷惑。






大戦略からしたら勝てないのだ。

目の前で味方の軍艦が燃えていくんだから。

勝ち目がないことはわかってる。








『でも、吶喊しろ。』と






そりゃ、あんたは

京都で何十人も人を斬ってきた剣術の達人だもん。

最後尾にいて「我この柵にありて、退く者を斬る!」って

いわれたら、突撃するしかないよなあ。










安部公房に『榎本武揚』という随筆と戯曲がある。



榎本は、新体制への武力抵抗を訴える過激派を

自ら引き受けて、北海道で自滅させた。 

という過激な仮説の上に書かれていてとても面白いのだが、

まだ絶版になっていないらしいのでこれ以上は書きません。

是非読んでください。







ただし、江戸幕府時代には榎本の家系は

歴代の旗本ではなかった。


父親が婿養子になって幕臣になったのが彼がこどもの頃。

その後、昌平坂学問所(いまの東大)に学び

海軍操練所を経て、幕府の留学生としてオランダに学ぶ。

帰国していきなり幕府海軍頭取並になる。

(連合艦隊司令長官みたいなもんか?)




家歴を考えるとすさまじい栄達といってよく、

家歴がないだけにこの人自身の才能、

というのは恐るべきものだったんだろうと思う。











大政奉還後は徳川海軍(ということは日本の全海軍)副総裁。

旧幕府海軍全艦隊(8隻だけど)を率いる。

幕府海軍をそのまま率いて品川沖で彰義隊の壊滅をみる。


その後彼は『まだ東北に味方がいる。』といって

江戸を出港した。




ところが、房総半島を回った時に

暴風雨で軍艦1隻を奪われる。



0000kannrinnmaru_2


失ったのはこの船。

日本初の太平洋横断で

教科書にも載ってる咸臨丸




なにやってんだろうね。







江戸城開城以後も交渉などに応じず

『品川沖にとどまる』

という選択肢もあったはずなのだ。



なにしろ、くそ田舎の浦賀に来た黒船で

政権がひっくり返っちゃうような国だ。






なのに武揚は東北に拠らずに北海道に行った。

この辺の行動は確かに不自然で

安部公房の発想の根拠になってるらしいのだが

最終的に函館の五稜郭に立てこもって、破れた。


しかし破れた後、投獄されたのはほんの少しで

その後栄達を重ねて、大臣を歴任。

最後は、海軍中将 正二位 子爵にまで昇りている。













戊申戦役後のこの人の栄達は不思議だ。


才能があるのはわかるんだけど、 

同時代の人にも批判があった。

もっとも有名なのが、福沢諭吉の『痩我慢の記』




『(前段・江戸城を明け渡した勝海舟に対する罵倒。) 

 また勝氏と同時に榎本武揚なる人あり。

これまた序ながら一言せざるを得ず。

この人は幕府の末年に勝氏と意見を異にし、

飽くまでも徳川の政府を維持せんとして力を尽し、

政府の軍艦数艘を率いて箱館に脱走し、

西軍に抗して奮戦したれども、

ついに窮して降参したる者なり。

 

その勝算なきは固より明白なるところなれども、

榎本氏の挙は所謂武士の意気地すなわち瘠我慢にして、

その方寸の中には竊に必敗を期しながらも、

武士道の為めに敢て一戦を試みたることなれば、

幕臣また諸藩士中の佐幕党は氏を総督としてこれに随従し、

すべてその命令に従て進退を共にし、

北海の水戦、箱館の籠城、

その決死苦戦の忠勇は天晴の振舞にして、

日本魂の風教上より論じて、

これを勝氏の始末に比すれば年を同うして語るべからず。

 

 
 然るに脱走の兵、常に利あらずして勢漸く迫り、

また如何ともすべからざるに至りて、

総督を始め一部分の人々は最早これまでなりと覚

悟を改めて敵の軍門に降り、

捕われて東京に護送せられたるこそ運の拙きものなれども、

成敗は兵家の常にして固より咎むべきにあらず、

 

新政府においてもその罪を悪んでその人を悪まず、

死一等を減じてこれを放免したるは

文明の寛典というべし。

氏の挙動も政府の処分も共に

天下の一美談にして間然すべからずといえども、

氏が放免の後に更に青雲の志を起し、

新政府の朝に立つの一段に至りては、

我輩の感服すること能わざるところのものなり。
 

 

 敵に降りてその敵に仕うるの事例は

古来稀有にあらず。

…然れども、榎本氏の一身は

これ普通の例を以て

掩うべからざるの事故あるがごとし。

すなわちその事故とは日本武士の人情これなり。

氏は新政府に出身して啻に口を糊するのみならず、

累遷立身して…またついに大臣にまで昇進し、

青雲の志達し得て目出度しといえども、

顧みて往事を回想するときは

情に堪えざるものなきを得ず。

 

 
 当時決死の士を糾合して北海の一隅に苦戦を戦い、

北風競わずしてついに降参したるは

是非なき次第なれども、

脱走の諸士は最初より氏を首領としてこれを恃み、

氏の為めに苦戦し氏の為めに戦死したるに、

首領にして降参とあれば、

たとい同意の者あるも、

不同意の者は恰も見捨てられたる姿にして、

その落胆失望はいうまでもなく、

ましてすでに戦死したる者においてをや。

死者若し霊あらば

必ず地下に大不平を鳴らすことならん。

 

伝え聞く、箱館の五稜郭開城のとき、

総督榎本氏より部下に内意を伝えて

共に降参せんことを勧告せしに、

一部分の人はこれを聞て大に怒り、

元来今回の挙は戦勝を期したるにあらず、

ただ武門の習として一死以て

二百五十年の恩に報るのみ、

総督もし生を欲せば出でて降参せよ、

我等は我等の武士道に斃れんのみとて憤戦止まらず、

その中には父子諸共に切死したる人もありしという。

 
 

 漢楚軍談のむかしと明治の今日とは

世態固より同じからず。

氏が維新の朝に青雲の志を遂げて富貴得々たりといえども、

時に顧みて箱館の旧を思い、

当時随行部下の諸士が戦没し負傷したる惨状より、

来家に残りし父母兄弟が死者の死を悲しむと共に、

自身の方向に迷うて路傍に彷徨するの事実を想像し

聞見するときは、

男子の鉄腸もこれが為めに寸断せざるを得ず。

夜雨秋寒うして眠就らず残燈明滅独り思うの時には、

或は死霊生霊無数の暗鬼を出現して

眼中に分明なることもあるべし。


……

 
 すでに他人の忠勇を嘉みするときは、

同時に自から省みて聊か不愉快を感ずるもまた

人生の至情に免かるべからざるところなれば、

その心事を推察するに、

時としては目下の富貴に安んじて安楽豪奢余念なき折柄、

また時としては旧時の惨状を懐うて慙愧の念を催おし、

一喜一憂一哀一楽、来往常ならずして身を終るまで

円満の安心快楽はあるべからざることならん。

 

されば我輩を以て氏の為めに謀るに、

人の食を食むの故を以て

必ずしもその人の事に

死すべしと勧告するにはあらざれども、

人情の一点より他に対して

常に遠慮するところなきを得ず。

 

 
 古来の習慣に従えば、凡そこの種の人は

遁世出家して死者の菩提を弔うの例もあれども、

今の世間の風潮にて出家落飾も不似合とならば、

ただその身を社会の暗処に隠してその生活を質素にし、

一切万事控目にして

世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ。

 

 
 これを要するに維新の際、

脱走の一挙に失敗したるは、

氏が政治上の死にして、

たといその肉体の身は死せざるも

最早政治上に再生すべからざるものと観念して

唯一身を慎み、

一は以て同行戦死者の霊を弔して

またその遺族の人々の不幸不平を慰め、

また一には凡そ何事に限らず大挙して

その首領の地位に在る者は、

成敗共に責に任じて決してこれを遁るべからず、

成ればその栄誉を専らにし敗すれば

その苦難に当るとの主義を明にするは、

士流社会の風教上に大切なることなるべし。 

 

すなわちこれ我輩が榎本氏の出処に就き

所望の一点にして、

独り氏の一身の為めのみにあらず、

国家百年の謀において士風消長の為めに

軽々看過すべからざるところのものなり。

 

 
 以上の立言は我輩が勝、榎本の二氏に向て

攻撃を試みたるにあらず。

謹んで筆鋒を寛にして苛酷の文字を用いず、

以てその人の名誉を保護するのみか、

実際においてもその智謀忠勇の功名をば

飽くまでも認る者なれども、

凡そ人生の行路に富貴を取れば功名を失い、

功名を全うせんとするときは

富貴を棄てざるべからざるの場合あり。

……

 榎本氏が主戦論をとりて脱走し、

遂に力尽きて降りたるまでは、

幕臣の本分に背かず、

忠勇の功名美なりといえども、

降参放免の後に更に青雲の志を発して

新政府の朝に富貴を求め得たるは、

曩にその忠勇を共にしたる戦死者負傷者より

爾来の流浪者貧窮者に至るまで、

すべて同挙同行の人々に対して

聊か慙愧の情なきを得ず。

 

これまたその功名の価を損ずるところのものにして、

要するに二氏の富貴こそ

その身の功名を空うするの媒介なれば、

今なお晩からず、

二氏共に断然世を遁れて維新以来の非を改め、

以て既得の功名を全うせんことを祈るのみ。

天下後世にその名を芳にするも臭にするも、

心事の決断如何に在り、力めざるべからざるなり。

 

 
 然りといえども人心の微弱、

或は我輩の言に従うこと能わざるの事情もあるべし。

これまた止むを得ざる次第なれども、

兎に角に明治年間にこの文字を記して

二氏を論評したる者ありといえば、

また以て後世士人の風を維持することもあらんか、

拙筆また徒労にあらざるなり。






さすが、一万円札になるほどの男である。

私ごときの罵詈雑言とは格が違う。




読むと短い文章なんだけど、

コピーするのが、死ぬほどめんどくさかった。

青空文庫に入っているので違法ではないはずだが、

ルビまでつけたら、とてもじゃないが引用できないので

もう一度リンクを張っておこう。 (痩我慢の記)





あーつかれた。
















では、『今日の二枚。』











実をいうと、今日は五稜郭の話をするつもりだった。

いつも以上にとっちらかった文章になっているのは

いつも以上に主題が絞れていないからです。







15世紀に小銃が一般化されると、

敵に『十字砲火』を浴びせるための

こういう、ヒトデみたいにとげが出た『稜堡式城塞』

というのが作られる。


220pxolomouc_map_1757_3



チェコにある

オルモウツという街。

すごい痛そう。









五稜郭だと中にあるのは奉行所だけだが

ヨーロッパでは街ごとくるんだ不思議な城壁が出来る。 






特にルネッサンス時代には

『理想都市』というのが流行って

なにもそこまでしなくても、

という幾何学模様の街が出来る。 


220pxpalmanova1600

16世紀に出来た

イタリアの街

パルマノーヴァ

雪の結晶みたい




うっそでー、 






と思うのだが、この冗談みたいな形の街は、

ちゃんとある。


Paruma11





うわあ








でも、上から見るとかっこいいけど、

地上に降りちゃうとわかんないよね。 





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2012年6月26日 (火)

本願寺の日

6月26日は現在の築地本願寺が竣工した日。

(築地本願寺のHPへのリンク)




 

260pxtsukiji_honganji_2009



前庭(っていうのか?)

が広くていいなあ。








このお寺っぽくない外観は

浄土真宗本願寺派の法主だった大谷光瑞の考えによる。

江戸時代の築地本願寺は、瓦の大屋根が特徴で

江戸のランドマークだったのだが、

『寺というのは、

本来はそんな形じゃなかったはずだ』

考えたらしい。













うん、まあそうかな。とは思うんだけど、

私程度の俗物で貧乏人だったら、『思う』だけだが

この人は自ら探検隊を率いて

仏教のルールを探しに、西域からインドへ

まるで三蔵法師の蹟をたどるような探検をやった。




 

この時同行したのが伊藤忠太という建築家。

法隆寺の柱を見てエンタシスを思い浮かべた人である。

 

で、二人が意気投合して出来たのが築地本願寺。

インド風、という解説が多いのだが

これがインドなのかなあ?


 

明治に入って、だいぶ敷地が小さくなってしまったのだが

それでも一辺100m以上ある巨大な敷地だ。










で、

 

 

 

この。『変わった本願寺』というのは神戸にもある。


 

240pxhonganji_kobebetsuin






モダン寺といった方が

神戸の人には通りやすい。 









実をいうと、この文章を書くまで

神戸のモダン寺は、築地本願寺の『別院』

なんだと思っていた。

ところが、当たり前だが本山の西本願寺というのは京都にある。 

築地も神戸も『別院』という意味では同格なんだそうだ。

 

まあ、信者じゃないからどうでもいいし、

そもそも光瑞自身が気にしてはいなかっただろう。





















 

しかし、Wikipediaの写真ですら、このていたらくで

モダン寺は前面の引きがない。

狭いのだ。




築地本願寺は、

銀座から晴海通りを海に向かって歩いてその正面にある。

 

境内には広々と前庭を抱えて

悔しいけど、東京のランドマークだ。



 

そこに行くとモダン寺は下町だ、

築地だって下町だが、

モダン寺の周囲の下町っぷりといったらない。



 

何しろ、よその街の人に場所が説明できない。



 

『じゃあ、モダン寺の山門の前で。』という

待ち合わせをするカップルは、まずいないと思うのだが

よその街の人には、若干説明しにくい。



 

ここだ。

2012y06m26d_101936556


















ほら、わかんないでしょう。

花隈駅のすぐそばなんだけど

まずそもそも花隈駅がわかんないだろう。


 

『花隈駅』が通じるかしら?










 

昭和43年開通の神戸高速鉄道の開業時から

40年時間が停まっている。

 

0000hanakuma



列柱にタイルの

花隈駅。








この写真は、何かのイベントらしくて

妙にたくさん人がいるが普段はほとんど人がいない。

博物館動物館駅のような場所だ。








 

周辺も下町だ。

 

水害や戦災や震災でも生き残ったような

店が周辺にあって、たのしい。

有名な洋食屋さんとか老舗のまんじゅうやとかがある。

こんにゃくやさんとかもある。


  

2012y06m26d_182737867


ただ街並みはこんな。

右手にあるのがモダン寺

マンションと雑居ビル…

工事中の場所もマンション。







2012y06m26d_183231923_2




モダン寺の裏の辺りも

すっかり変わった。







左手の青い看板には

『割烹用鮮魚 魚平』

と書いてある。

料亭が多かったわけです。










 

老舗じゃない店もたくさんあって、

花隈駅からモダン寺までは100mもないのだが

昼からやっている飲み屋がある。

もちろん飲み屋じゃない店もある。

ちっとも盛り場っぽくないのがさらにいい。

 

盛り場でもなく商店街でもないのに、

妙にもりもりとした建物の密度感、がある。







 

モダン寺のすぐ裏には銭湯があって

むかしは平屋で、トタン葺きの屋根で、

天窓からほこり臭い夕日が差し込んできて

都会の真ん中にいるはずなのに

客がいなくて、異空間のようでよかった。

 

よそもんだから、こういう無責任なことがいえるので

当事者は危機感を持っていたらしく

震災後にビルに建て替えられてしまった。


 

ただ、ありがたいことに銭湯としては営業していて

3層構造のややこしいミニ・スーパー銭湯になっている。









JRの高架下にはモトコーがある。

この通りについてはもはや説明はいるまい。







で、

 

『本願寺の日、』とか言いつつ

ちっともモダン寺に触れていないあたり 

この日記の心意気だが、廻りがあんまり下町で、

というか

廻りの街並みと比べると、

あまりに異質で

スケール感が違うからびっくりするよ?


 

なんか、豊満なインド美人が

ぱっつんぱっつんの服を着ているみたい。








 

門徒じゃなくてもイベントのうちのいくつかは

一般公開されているらしいんだけど

さすがに、おっさんが一人ではいるのは敷居が高い。




異質な外観と、それをあっけらかんとして受け入れている

普段着すぎる街がいい。










このお寺は
JRの電車からも見える。  


JRのこのあたりの区間は、

西日本で一番はじめに高架鉄道になった場所で

その一方で神戸の山が一番海に迫ってくる場所だ。


従って立体的にごちゃっとした街並みの中に

冒頭のお寺っぽくない外観の建物が

雑居ビルの間から、にょっと出てくる。 

 

よその街から来た人に、予告しないでこの風景を見せると

たいてい驚くのでたのしい。















 

大谷光瑞という人は神戸にいくつか別荘を持っていた。

須磨浦公園、というのは関西の人には

説明無用の絶景で、駅を降りるとロープウェイがあって

山の上には小さな小さな遊園地があって、

展望台があって、昔はぐるぐる回っていた。

いまもあるのかなあ?

(あった。須磨浦公園のHP。

それよりも、これほどやる気のないHPがあるのだろうか、

という脱力感がすばらしい。)

 

眼下には瀬戸内海が陽光をあびている。

ここに、この人の別荘があった。









 

さらにこの場所を譲ると、神戸の岡本に別荘を造った。

 

阪急岡本駅というのは駅自体がすでに相当に丘の上で

周辺は高級住宅街なのだが

その西側を延々と坂道を登って、

さらに参道の階段を100段くらい上ると岡本八幡神社、

というのがある。

 

私が毎年初詣に行くところなので

御利益のほどは頼りないのだが、

振り向くと、碧色の海と街が見える。












ここだって十分に絶景なのだがまだ丘の中腹で、光瑞は、

これを登り切ったところに二楽荘という別荘を造った。


 

0000nirakusou



これは一体

なに風、というんだろう









なにしろ、ほとんど一般公開されていない建物で

築後25年で消失してしまったためにろくな写真がないのだが

シルエットだけ見たら、ラブホテルのようだ。


 

六甲の山腹にそんな建物があれば

絶対に行っていただろうと思うのだが、いまはない。

この建物も伊藤忠太の設計なので

怪しげなラブホテルとは

画然と一線を分けたデザインだったのだが、

残念ながら焼失してしまった。

 

一部が廃墟として残っているらしいのだが、

ここはいま、とある宗教団体の私有地なので入れない。



















 

では、『今日の岡本八幡。』








 

岡本八幡神社名物。

奉納しゃもじ

0000shamoji_3



















岡本神社には、普通のお守りもあるのだが

変わっているのがこのしゃもじ。

大・中・小の三つをセットで買う。

 

それぞれに名前と願い事を書いて、

小は、こうやって神社に絵馬のようにお供えする。

 

中は家の鴨居に飾って、

大は普段のしゃもじとして使う。


 

だから、大には願い事は書かない。

たいてい6月くらいに

『あああ、今年も駄目だああ。』といって

ご飯がよそえなくなるからだ。








むう。







 

岡本神社からの夜景。

0000nirakuen





















これの、さらに上からの夜景を独占できたんですってよ?

おくさん。






 

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どうでもいいけど、手前のビールはともかく

ゆでイカリングはなんなんだろう?

 

 

 

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2012年6月24日 (日)

ベルリン封鎖の日

6月24日はベルリン封鎖の日。

(Wikipediaの記事へのリンク)

 

 

 

 

 

 

 

1948年のこの日、

米英仏が共同占領していた西ベルリン地区に対し

その周辺地域を占領していたソ連が、

電気、道路交通、鉄道の全てを停止。

西ベルリンを封鎖した。

 

 

 

 

そこで米英空軍はベルリンに大空輸作戦を行った。

ざまあ露助はあきらめて11ヶ月後の翌年5月に

封鎖解除。

そのかわり、東西ドイツの分裂は決定的になり

直後に西ドイツ、半年後の11月に東ドイツが

成立して、これ以降40年以上分裂状態となる

 

 

 

というのが、大体のあらすじ。

事実は事実として、

ここまでの大騒ぎになったのは何故だろう?

というのが例によってへそ曲がりなこの日記だともさ
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

背景をもう少し詳しく見ていきましょう。

 

 

 

第二次大戦で敗れたドイツは

米ソ英仏の4カ国の共同統治下に置かれた。

 

250pxmapgermany1947_svgうす黄色の部分は

戦後にドイツが失った領土 

ドイツ自体が4カ国統治。

ベルリンはソ連統治区域の中での

さらに入れ子の4カ国管理区域

 

 

現実には東西の分割統治だったのだが、

建前は共同管理で

ベルリン市に関しては『4カ国共同管理』

というのが1990年のドイツ統一まで、

法律上は維持される。

(壁はあったけど。)





 

だから、終戦の時点で戦勝4カ国は、

ドイツを分割させるつもりはなかった、

とはいえる。






『分割統治』というと、どきっとするが、

このこと自体はほかでも例があって第二次大戦では

オーストリアもそうだった。

(オーストリアは1955年に統一して独立を回復) 

 

 

180pxdivideandrule_plan_of_japan

 

戦後の日本にも

分割統治の案があった。

しましまの近畿地方は

どうなっていたんだろう。

 

 

 








いまでこそドイツはEUの屋台骨。

選挙で落ちちゃったサルコジさんのかわりに

メルケルさんが、

頼りないギリシアやスペインやイタリアなんかを

背負っているかのように見える。










 

しかし、終戦直後の戦勝国の思いは違った。




 

『もうやだ。こんな国。』と

2度も世界大戦を起こしやがって、と

 

 

戦争に関してはそれぞれに言い分があるだろうが、

特にフランスとイギリスはこりごりしていた。










フランスは過激で、仏独国境の鉄炭鉱地帯を

占領して自分のものにしようとした。

 

カール大帝後のフランスの1200年は

ほぼ、ドイツとの喧嘩の歴史と言いきっても

いいのだが

『気持ちはわかるが、さすがにそれはやり過ぎだ』

ということで諫められ、

『じゃあ、国際管理にしてくれよ。』

ということでECSCになった。 





 

これが、EEC,ECを経て

いま、EUになっている。




チャーチルは、ドイツの戦後処理に関してこう言った

『無能なデブにしておけばいい。』

 

 

第一次大戦のあとの戦後処理で過酷な賠償金を

課したため、ドイツ国民は恨みを抱いて、

ヒトラーを生んだ。

もうさんざんだ。あんなちょびひげ。

 

だから、『経済的な自立は許すが、

軍事的、政治的に生意気なことは言わさん。』と。

 

『デブ』とは『経済的な自立』の比喩で

『無能』は『まだ、そんなことないもん』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






ただ、『言わさん』、と偉そうにいったところで

イギリスにはもうそんな力はなかった。

 

 

 

 

 

 











世界史の教科書でこんなメモを見たことが

ないだろうか。

 

0000_ww2

東欧の勢力分割に関する

チャーチルとスタ-リンの秘密メモ。 

(国名 勢力比(英)/(ソ))

ルーマニア 10/90

ギリシア   90/10

ユーゴ    50/50

 

 

 



現実の政治がこの通りに行かなかったことは

ご存じの通りだが、

イギリス国家の根性のなさはチャーチル本人さえ

考えられなかったくらいに情けなかった。







 

このメモの中で『イギリス90%』と書かれている

ギリシアでは、1944年にドイツが撤退してから

すぐに内戦が始まるのだが、

イギリスは共産主義者を止めらない。





 

ほかにも1947年になるとパレスチナも大変だし、

インドも大変だし、もう海外のことなんて知らん。

『七つの海を支配した』大英帝国は

もっとも大事にしていた地中海の権益さえも

維持できない。



 

ついにこの年、イギリスはアメリカに、

ギリシア、トルコへの

軍事支援の停止を通告する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トルーマンは驚いた。

まさかそこまで

イギリスが衰えていると思っていなかったらしい。






『戦争が終わった。』と言うことでアメリカ国民は大喜びで

復員して結婚して、家を買って車を買って

せっせと赤ん坊を作っているのだ。 

こないだまで味方だったスターリンは悪い奴なんだ。

といっても、みんな結束してはくれない。


 

トルーマンはルーズベルトよりは

スターリンへの警戒心が強かったらしいが、

まさかベッドから出て、もう一度銃を持て、

とは、とても選挙民にいえない。


『しょうがねえなあ。』

ということで取り急ぎ始めたのが『マーシャルプラン。』

ヨーロッパを中心にお金を配ろう。というもの。

経済に弱いと、こういう乱暴な解説が出来る。







 

対象は戦勝国だけではなかった。 

だから、ドイツは交付対象地域になった。

西側諸国だけでもなかった。

東欧諸国にも呼びかけた。

実際、チェコスロバキアは閣議で『援助受け入れ』を決定し、

パリ16ヶ国会議に代表団を送るのだが

あわててスターリンが止めたために不参加になった。


 

東ドイツは、まだ独立国ではなかったから

参加の選択肢はなかったが、

結局は西側諸国だけに行われたこの援助が

東西ドイツの分裂を決定づける。









 

マーシャルプランが始まったのは1947年。

この当時、ドイツは東西で同じ通貨を使っていた。

建前上同じ国家なんだから当然なんだけど、

すぐに東西ドイツの経済格差が現れてくる。

そのうえ、ライヒスマルクの印刷所をソ連が

押さえてしまって、マーシャルプランに

対抗してお札を増刷したため

東ベルリン市内でのお金の価値が西の半分以下

に下落する。






 

『ベルリンの壁』建設以前だから東西の交通は自由だ

おなじライヒスマルクなんだけど、

東西で価値が違うとなれば、

西から東にものを持って行って換金する、という

担ぎ屋のようなことをやれば大儲けだ。

ベルリン市内ではインフレが起こった。


 

そうじゃなくても、東にすんで西で働く人、

あるいはその逆なんていくらでもいた。

人間もお金も動く。

『高きから低きへ。』は水に限らずお金もそう。










 

しかし、せっかく苦労して議会を説得して

4億ドルも送っているアメリカからしたら

たまらない。



 

そこで1948年6月21日に米英仏は、その管理区域で

ドイツマルク(西ドイツマルク)への

通貨切り替えを実施した。


 

そうなるとソ連地域はたまらない。

紙くずになったライヒスマルクが大量に流入してきて

猛烈なインフレが起こった。


 

ソ連も、その管理区域で通貨を切り替えるのだが

それとともに始めたのがベルリン封鎖。

 

 

 

 

 

 

あ、やっと戻ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

分裂国家というのは、いまでも

キプロスや朝鮮半島、中国と台湾のように

いくつかあるのだが

どれも戦争がきっかけだ。

 

それがいいことだとは思えないが、

当事者には覚悟があったと思う。


 

ただ、東西ドイツ分裂というのは

この芝居じみた『ベルリン封鎖』から始まった。









 

ソ連は輸送機を撃墜しなかったし

『連合軍はバターの数まで計算して輸送した。』とかいうが、

1年近くにわたった封鎖作戦では燃料が足りなくて、

市民は西ベルリンの街路樹を引き倒して薪にした。

 

 

 

 

 

ベルリン大空輸の舞台となった、

テンペルホーフ空港はいまは公園になっている。

 

800pxtempelhofexterior

 

 

テンペルホーフ空港

ターミナルビル

 

 

空港っぽくない建物だなあ、という感想は正しくて

これは、ヒトラー時代に作られた、

『第三帝国の帝冠様式。』

 

 

 

 

 

 

 

このナチス丸出しの飛行場に米英軍の輸送機が

こうやって列を作っていた、という皮肉。

751pxc47s_at_tempelhof_airport_berl   

 

荷物を降ろす

米軍のC-47 








































では、『今日の一枚。』

 

 

 

 

 

 

 

 

ベルリン封鎖の経緯自体は面白くない。

プロパガンダばかりで、今日でも実情が

よくわからない。

Germansairlift1948





















おそらく『ベルリン封鎖』に関する、

もっとも有名な写真。

アメリカの輸送機を見上げる西ベルリン市民。

 

 

 

 

嘘つけ。と思わないか?

 

 

 

 

 

 

 

みんなの服がよそ行きなのだ。


 

1948年って昭和23年だから、

同じ時期の東京なら

浮浪児とルンペンが山ほどいたはずだ。





 

それがこの写真では、

パーマをかけた女性がジャケットに

ミニスカートでパンプスを履いている。

 

看板に登っているガキだって

サスペンダーつきのズボンにワイシャツ。って

そんなの七五三の服だっ。




ベルリン封鎖の本質は、こういう

ふざけたプロパガンダ合戦にあったんだと思う。


 

この11ヶ月で、

相当数の飢餓者や病人やがいたはずなのだが

公表されているのはこんな写真ばかりである。






 

大人って汚い。

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2012年6月23日 (土)

九段下の駅を越えて

6月20日に東京の地下鉄、九段下駅で

都営地下鉄と東京メトロのホームの間の壁に

穴が開いた。

(毎日jpの記事へのリンク)
















『穴』の前で『利用者のために

都営とメトロは統合化するべきです。』

と吼え上げる、猪瀬東京副知事。 



0000inose

 

 

とりあえず

床屋に行こう

 

 







猪瀬さんの言い分としては

『都民は、メトロと都営の両方があるおかげで

乗り換えや料金で大変苦労している。

そこに俺が風穴を開けたった。』

  

という論調。












うるせえよ猪瀬お前、

地下鉄なんかない(自粛)の出身だろ?












とりあえず

テレビに出る時は床屋いけ。

虎刈りで気持ち悪い。













これから『東京地下鉄建設史』について

語ってやる。

東京都がいかに卑怯な存在だったかを

明らかにしてやろう。















東京に初めて地下鉄ができたのは

1927年(昭和2年)。上野ー浅草間だ。

これを掘ったのが東京地下鉄道株式会社

社長は早川徳治である。









早川はヨーロッパに遊学し

ロンドンの地下鉄に感動した。

『帝都にもこれを作ろう。』と決意する。




だから帰国して、その建設を運動するのだが、

東京市も、府も国も反応がない。








そこで早川は

『そんなら自力でやってやらあ』と、

男前なところを見せた。

民間に拠金を求め『東京地下鉄道会社』をつくる。



鉄道に関しては、かならず顔を出す、後藤新平

田園調布を造り『田園都市線』なる

日本初の近郊鉄道を造った渋沢栄一の応援を受ける。









ただ、お金はなかった。








従って銀座線は『列車限界』という

ぎりぎりの断面で建設された。


さらに、当時の地下鉄は『オープンカット』と

いって、道路の表面から掘り下げていく

建設方式なのだが、深く掘るとお金がかかる。


覆土を浅くしたために、

昭和20年の東京大空襲では大被害を受けた。

徹甲弾で破壊されたわけではなく、 

焼夷弾で壊れた。












そこまでして早川が開業を急いだ理由は

上野ー浅草間を開通させて

地下鉄の魅力を知らしめようとした、ということ。








そのうえで資金を集めようというわけだ。








彼は、浅草ー上野で終わるつもりは当然にしてなく

東京中に地下鉄網を作るつもりだった。

当面の具体的な計画としては

いまの浅草線のルートを通って品川まで行き

そこで京浜急行と相互乗り入れすることだった。




日本において、というか世界において

地下鉄と地上鉄道との相互乗り入れは1960年の

都営浅草線と京成電鉄が最初、とされているが

構想としては

50年前の早川の時代からあったわけだ。







人気は出た。



上野、浅草というのは当時の日本一の繁華街。

『5分乗るのに2時間待たされる。』という

くらいの大人気になった。

 
 
  
 

だけど、所詮5分だ。

  




当然、たいした儲けにはならない。

早川は行き詰まった。












この時登場したのが東京市である。

(現在の東京都)

早川の成功を見て、

『地下鉄は金になる。』と思った。







いまさらなんだ、と思うのだが、卑怯なことに

東京市は国に願い出て『新宿ー築地』の区間の

地下鉄の敷設免許を取った。

だが、東京市にも金がない。





鉄道建設史を見ると、この『金がない』という

台詞を日本中で見ることになるのだが

それにしたって、その時に生きていたら

借金してでも東京の地下鉄に投資したのに。













猪瀬も思い知れと思うのだが

とにかく貧乏な東京市はあきれたことに、

地下鉄免許を民間会社東京高速鉄道』

譲渡して株式の半分を売り飛ばしてしまう。







これを買い取ったのが東急電鉄の五島慶太

渋澤栄一から、田園都市鉄道を奪った男だ。











で、

  

こいつが経営していた東急は渋谷がターミナル。

東京市の免許は『新宿-築地』って書いてあるのに

始発駅を渋谷に持ってきた。










新宿だって言ってんじゃん。








このあたりのWikipediaの記述は

東急の社員が投稿しているんだろう。

というくらいに五島に偏りすぎだ。

 
 
 
 
 
 
 

で、

  



この『強盗慶太』はとりあえず地下鉄を

新橋まで建設する。

早川の地下鉄も品質の上で褒められたものではないが 

五島の地下鉄はもっと酷くて安く上げた。

私有地を通ると、当時でも地主の間で補償とか

がややこしかったのでカーブばかり。

しかも、駅のホーム長を三両分しか作らなかったから

あとから8両分に延長した銀座線は

あらゆる駅でホーム自体が曲がってしまった。

 





さすがに都内の一等地だから、いまでは

ホームドアもつけられるようになってきたが、

昔は『ホームと扉の間に御注意ください』

なんて当たり前。

車掌席から、ホームの様子を確認するテレビが

つけられたのは

銀座線が日本初で、たぶん世界初。





そのうちのひとつ、赤坂見附駅は変わった駅だ。

丸ノ内線と2層構造になっている。

営団同志だから大変に便利だ。

当然、連絡線もある。普段は使われないのだが

赤坂だから、二・二六事件のようなことが

起こった際の非常通路か?

なんていわれている。















当時はオープンカット工法だから

当然浅いところを通るのだが、

彼がごり押しした渋谷駅に至っては、

というくらいだから谷だ。







三宅坂、道玄坂、公園坂、とどれも下って

結構谷底にある街なのだが

『そんなところに地下鉄通したら高い』

という目がくらむくらい頭の悪い理屈によって

銀座線は渋谷駅の手前でたかだかと高架を渡って

地下鉄のくせに、ビルの3階のターミナルに入る。














さらに五島慶太は早川の東京地下鉄道の

乗っ取りを考えた。

お金のなかった早川の地下鉄もがんばって

新橋までやってきていた。




五島の地下鉄の免許は築地駅(建設されず)

までだったのだが

とりあえず、ごく近所の虎ノ門まで来た。




そこで早川に『新橋での相互乗り入れ』を

申し入れる。



申し入れたばかりじゃなく、五島は

早川の地下鉄新橋駅のすぐそばに、

自分の会社の地下駅を作る。

 

0000shinbashi      

 

五島が作った

東京高速鉄道の新橋駅。

8ヶ月間だけ使われた幻の駅

 

 
 
 
 
 
 
 
しかし結局は力の差で、

五島は早川の会社を買収。

写真の新橋駅はたった8ヶ月で廃棄されて

現在は、鉄ちゃんなら基礎知識以下の廃駅である。




大変残念なことだ。









ところが、天網恢々、あ、そこもっと

ということで戦時体制になると、日本中の鉄道が

国の統制に置かれる。





五島の株式は国に買い上げられて、

東京高速鉄道は『営団地下鉄』となる。

五島は、確実に紙くずになるであろう株券を

握りしめてひとり、幕夜に涙を流したという。

ざまあ。










従って、営団改め東京メトロの株式の

53.4%は現在も国が所有している。

そして、当初の『免許委譲』の経緯から

残り46.6%の株式の所有は東京都だ。













ところが、戦後になって東京市改め東京都が

『やっぱり俺たちも地下鉄やりたいなあ。』

といいだした。





自治体自営の大阪地下鉄(当時は赤字ではなかった)

の成功などを見て、うらやましかったらしい。

さらに、市区改正や震災復興事業で

さんざんに道路の拡幅をけちってきたくせに

戦後になって、

『市電では市内交通を処理できない』

という当たり前のことに気がついたのだった。











ところが国からしたら面白くない。

営団地下鉄の競合路線を造られるのも腹が立つが

そもそも営団地下鉄にしたって、

『東京市が作りたい。』と言い出したものだ。

それを戦争のためとはいえ、

国が半分引き取っている。










ええかげんにせえよ、と。







だから運輸省も建設省も大蔵省も冷淡で

『じゃあ、勝手にやれば?』と言う。

気持ちはわかるけど大人げないなあ。






しかし、東京も東京で戦後になったら

金が出来たもんだから

がしがしと地面を掘り出したおかげで

いまでは都営地下鉄の路線総延長距離は109km。






いまや路線延長距離で言えば、

阪神、西鉄、京阪、東急、京王といった

大手私鉄をさえ上回る巨大鉄道会社だ。

  



さらに全ての沿線が世界最高の人口密度だ。

収益が上がることは世界一である。 

それなのにこの会社は累積赤字2000億円以上

だという。

よほど無能が経営していたのだろう。

 




あのラッシュで赤字かよ。     







とは都民ならずとも思うだろう?













そんな理由があって、営団地下鉄あらため

東京メトロと都営地下鉄は、大変仲が悪い。

東京メトロの銀座駅に、早川徳治の胸像があるのだが

都営日比谷線のホームに背中を向けて建っている。





































そこで、改めて冒頭のニュースを眺めて欲しい。

九段下の駅に営団と都営の駅が並んでいたのは

大昔からのこと。

そんな知識、鉄ちゃん検定10級以下だ。





東京メトロと猪瀬(寝癖)副知事は

『利用者のために統合を』と、

まるでベルリンの壁を倒したかのように

吼え上げているんだが、

だから髪の毛をとかせ。





歴史的な経緯を考えたら勝手な話だ。

ということをわかっていただけましたか?







『利用者のため』とか言うなら

初乗りダブルカウントの料金制度を変えてくれ。 

それで十分だ。

明日からできる。






そして、都営地下鉄はもちろん東京メトロも

どちらも『都』が大株主である以上

絶対にできはしない。






いいか。みんなで

猪瀬の寝癖根性を確認しようぜ。





そもそも、よその街から来た奴は

パスモなんか買わねえよ。

























では、『今日の三枚。』
















貧乏な東京の地下鉄と違って

1933年(昭和8年)に梅田-心斎橋間で完成した、

大阪の御堂筋線ははるかに立派である。

 

0000umeda2

開業当初の4駅は

8両停車できる長さで

上下線共通の巨大な

ボールト天井を持ち

その高さは10m近い

  

御堂筋建設と同時に作られた地下鉄は

東京の地下鉄よりも、

早川があこがれたロンドンの地下鉄よりも立派だ。

 

戦前の大阪の心意気と、豊かさを思い知る。

 

 

 

  

しかし、この写真を見て、

おや?と思ったあなたは正しい。

実はこの写真は1987年のもの。

 

よその街の人にはわからないだろうが

『天王寺行』の列車がここに止まっている風景は

いまはない。

 

 

 

 

 

  

梅田から南、難波方面の列車は

写真の、巨大ボールトのホームに隣接した

このホームから発着している。

 

0000umeda3    

 

 

南行きホームと違って

天井の高さは

4mくらい。

 

 

 

 

写真左側にアーチになっている通路が見えるが

ここを通ると、さっきの旧御堂筋線ホームに出る。

 

 

0000umeda     

 

 

南行ホームが

なくなっている。

 

 

 

で、さっきの天井の低い南行きホームは

元々は谷町線の梅田駅ホームとして

作られていたもの。

  

戦後の大阪は戦前の勢いはなくて

谷町線ホームの天井は低くなってしまった。

もちろんあれでも、ほかの街よりは立派なのだが、

谷町線の東梅田駅自身は、路線のルート設定の

問題があって、

現在は御堂筋線の駅の約100m東にある。

 

 

 

しかし、大阪の地下鉄は全て市営であったから

はじめから乗り換えしやすいように、

こうやって隣接してホームを建設できた。

  

そして、梅田駅の乗降客数が増加すると

ホームにあふれる乗客の安全のために

谷町線ホームの間との壁をぶち抜いて

こうやって連絡した。

 

いまのようなかたちになったのは1989年のこと。

 

 

 

 

  

東京のローカルニュースのくせに得意げに

全国のトップニュースで扱い、

猪瀬・寝癖・副知事が

ベルリンの壁でも崩したかのように、

どや顔していることなんて、大阪では

20年以上前から行われているのだ。





むしろ東京で

メトロと都営のふたつの地下鉄がある方が不思議。













おまけ












爆風スランプ『大きな玉ねぎの下で』  

 

九段下の駅を降りて坂道を

人の流れ、追い越していけば、

黄昏時、雲は朱く焼け落ちて

屋根の上に光る玉ねぎ。

 

 

 

 

 

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2012年6月22日 (金)

ごたごた荘から散歩に行くには往復一時間

6月21日、読売夕刊『見聞録』というコラム

に腹が立った。

これも署名記事なので、名前を出して

罵倒しないと相川さんに失礼だろうから書く。

古沢由紀子という編集委員だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

記事の趣旨は、東京都練馬区の

認可外保育園(国の認可は得られない)

ただし東京都認証保育園

(国の基準と監督部署が違う)

である『ごたごた荘』褒め称える、

ということに尽きる。

 

 

 

 

 

いわく

『…遊び場は日替わりだ。…この日は14人が

…緑地に30分かけて歩いてきた。

…様々な公園に行くのは

園庭がないからでもある。』  

 

 

 

 

 

 

 

 

危ねえだろ? 

 

 

 

 

 

 

あんよも上手、じゃないような子供を

車の往来がある中、毎日往復1時間も

歩かせるのを

まるで、『ほのぼの』な事柄であるかのように

褒め称えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『…4年ほど前、私はごたごた荘を訪れたこと

がある。

当時はプレハブの平屋で路地の奥にあったこと

などから、都の…認証保育所制度に

移行できないと悩んでいた。』

 

 

 

 

違法だっ。

 

 

 

 

こういうところで火事とかがあったりすると、

『どうしてこんな危険な立地に保育所が…』

『ここは認可外保育園だったらしいですよ?』

『国も危険に関しての基準を作るべきでは?』

ということを、まっさきに書くのが読売だ。

 

 

 

 

 

 

なんだろうね。

この、ダブルスタンダード。

 

 

 

 

 

 

 

 

『結局、少しはなれた場所に二階屋を借り

都の認証を得てスタート切った。

(ただし園庭はない)

中に入ればごたごたした雰囲気は変わらず

0~6歳の26人が兄弟のように育つ…』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

超近所迷惑。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同じことを発言小町に書けば、

『保育所だから一日中うるさい。』

『園庭もないからうちの窓が開けられないんです』

『迎えに来るママ友のおしゃべりもうるさくて』と

散々に非難が立つだろうに。

 

 

 

 

 

 

だから、なんだろうね。

この、ダブルスタンダード。

 

 

 

 

 

 

東大泉なんていう住宅街でよく文句が出ないな。

そもそも『最低基準』ではこども一人あたりの

保育室の面積なんかが定められている。

当然、保育士の数も決まっている。

ごたごたしてちゃいけないだろ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でな、それ以前に

古沢、お前間違ってる。

 

 

 

 

 

 

 

 

日本国には『児童福祉施設最低設置基準』という

鼻くそのような決まりがあって、

子供一人について1坪の庭を作れ、とか

大した内容じゃないのだが、

それさえ守れないのが認可外保育所。

 

  

ただ、田舎では地主である

百姓とか寺とか坊主とかクソ坊主とかが

偉そうに保育所を作って、節税だ脱税だ

娘はブスだけど一部上場の企業じゃないと嫌だ

って言うんだ、

どこか知り合いはいないかね?とか言って

にええええええええ、憎らしい。

 

 

 

  

 

えーと、なんだっけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

待機児童が都心に多く、

都心では園庭が確保できる認可保育所が

作りにくい、という事情はわかる。  

認可外保育所が一律に悪い、

と言うつもりもないんだ。

  

認可外保育所に、『ごたごた荘』のような

家庭的な施設があるのも、確かかもしれない。

 

 

 

 

 

 

でもな?

認可保育所認可外保育所

というステレオタイプな書き方は犯罪だ

 

 

  

 

このコラムは、短文ではない。

堂々読売新聞の、紙面の1/4を占める。  

 

それだけの文字数を費やしての結論がこれだ 

 

 

 

 

『4歳男児を預ける高橋麻彩子さん(42)は…

「認可園に決まっていたが

こちらを選んだ」という。』

 

  

わかった、麻彩子。

息子がストレートに大卒で就職できたとしても

還暦で、

ヒッキーの息子を片付けて孫の顔を見るときは

喜寿だな?

 

じゃなくて、

認可園にもいい所があると思うよ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の一枚。』











さすがにリンクできないあたり、

読売も著作権を大事にしているのかもしれないが

こちらも『保育所問題のエキスパート』である。 

  

批判に耐える度量があると信じたい。

さらに議論ができればありがたい。












出典を示して罵倒するあたり、

リングに乱入する前に

『どうも、こんばんは』といってしまった

ラッシャー木村のようではないか。

 

 

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どうしてもおちゃらけないといけないのか?

と言われたら、そうかもしんない。

 

 

 

 

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2012年6月21日 (木)

曽根崎心中と大坂と

6月20日は『曽根崎心中』の日。

(Wikipediaの記事へのリンク)

 

 

 

 

 

 

 

『曽根崎心中』というのは、

近松門左衛門が書いた人形浄瑠璃の演目。

6月20日はいまから400年前にこれが初演された日。

 

有名な題目なんだけど、正直ストーリーを知らなかった。

人形浄瑠璃なんて見ないもんね。

ということでWikipediaで勉強しました。

 

 

  

 

 

 

ちゃんとしたストーリーを知りたい人は

ちゃんとしたWikipediaでも見てもらいたいんだけど、

ちゃんとしてないのかよ。

 

 

 

 

 

 

あらっぽく私が解釈した内容は、こう。 

 

曾根崎新地の遊女お初は、醤油問屋の手代にして将来は

その大店を継ぐことが決まっている徳兵衛と恋仲になる。

へっ、

遊女と二代目で恋仲もないだろうが。

とにかく、恋仲ながらなかなか会えずにいたふたりは

旅先で偶然に出会い、

お初は徳兵衛をさんざんに責め立てる。

 

 

『おまいさん、どうして文のひとつもおくれでないかい。

あんまり不実じゃないかいな。』

 

 

こういうことを発言小町に書くと、

『そうだぜ、お初レッツゴー。』

『酷いぞ徳兵衛、女の敵。』

というコメントが立ち並ぶので

情けない徳兵衛は

『わかったお前を嫁にとろう。』って

女郎屋でプロポーズするなよ。

 

 

 

 

そこで徳兵衛はあれこれ悩むのだが、

その間に醤油屋の店主である叔父が

縁談を調えてしまう。

 

江戸時代の25歳で、店を継がせようという若者だから

嫁の世話をするのは、お節介だとは思えないのだが

徳兵衛はこの時になってやっと、

お初の存在を明らかにして

結納を取り消して欲しいと頼む。

 

 

 

叔父は激怒して大坂から出ていけ

結納金も返せ、と

21世紀的にも非常に妥当なことをいうのだが

徳兵衛は結納金が返せない。

 

 

 

 

 

なんだろうね。このへたれ。

 

 

 

 

 

 

で、

 

 

 

 

 

継母に結納金分のお金を借りたところ 

ジャイアンみたいな知り合いの九平次という男が登場。

『お、なんだ。金もってんじゃん。貸してくれよ。

三日で返すからさあ。』ということを

『ごめん借金があったどうしても金が…』と言い換えるという

典型的なサギに引っかかってしまい、貸したあげく返ってこない。

 

 

 

 

ここで、徳兵衛は死を決意する。

 

 

 

 

 

なんて素早い現実逃避。

ちょっとは戦え徳兵衛と思うのだが

彼のタナトスへの想いはとまらない。

 

しかもお初を道連れにして、だ。

もうやだ。この醤油屋。

 

 

 

 

 

 

この戯曲を『江戸文化の精髄』

『近松文学の傑作』とか言う奴がいるんだけど

それなら一緒にがらんどうの文楽劇場で話をしよう。

 

 

どんな古典も馬鹿な作品は馬鹿だ。

 

 

 

古典に意味があるのは

歴史の審判に耐える、

という覚悟がある場合だけだ。

 

 

無能っ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

えーと、まだこいつら死んでなかったな。

 

 

そこでこの醤油屋はお初のいる売春宿に行き

ひそひそ話をしていたところ、

売春宿だから次々と客が来る。

次にあがって来たのはにっくき九平次だった。

 

 

『あ、あんた隠れて。』

 

 

というお初の機転で、醤油屋は床下に隠れたのはともかく

耳をそばだてるなよ。

っていうか、恋人来てる時に客を取るなよ。

 

 

 

  

 

 

耳をそばだてていると九平次は

徳兵衛から金をだまし取った経緯を得々と話して

にえええええええ、憎らしい。

 

 

 

床下から埃だらけで這い出した徳兵衛は

『今晩死のう。』とお初に言って

『露の森』なるところに行くのだが

この醤油馬鹿が最期まで煮え切らない。

 

 

あれこれ言ってこのやりとりが

浄瑠璃での見せ場なのだが

『もう、うるさいわね。』と

お初が男前なところを見せて首を掻ききり

しかたなく徳兵衛も死んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

文句があるならかかってこい。

浄瑠璃文化400年の歴史をかけて文句を言ってこい。

 

 

 

文句が来たら全力で謝る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この二人が出会った曾根崎というのは、

『曾根崎新地』といって現在は『北新地』ともいう。

大坂はもとより、日本随一の高級飲み屋街だ。

江戸時代は高級売春街だった。

 

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東西の境目は

梅田新道と四つ橋筋

南北の境目は

曾根崎川(蜆川)と堂島川

 

 

 

 

 

 

蜆川というのがわかりにくいと思うが

いまの国道2号線の少し南側にあった川。

このあたりは『埋田』というくらいで、

低湿地なので昔はやたらと運河や排水路があった。

 

 

『新地』と言うくらいだから、このエリアは埋立地で

新開地で、いわゆる大坂の『番外地』だった。

このエリアの北側に作られた大阪駅は

実は開業当初は大阪市ではなかった。

 

 

そうはいっても遊里、しかも中之島に近い。 

『天下の台所』大坂の中之島には

日本中の藩の蔵屋敷が立ち並んでいたので、

このエリアは各藩の武士が公金で遊ぶ

高級売春窟だったのだ。

 

醤油屋のくせにそこに立ち入れた

徳兵衛という男の身の上を思いやって欲しいし、

近所にできてしまった大阪駅のおかげで

いまも繁栄、してるのかなあ。

 

まあ、行かないから知らないけど

北新地のことを思いやると、なんとなく

『へー』と思うと思います。

 

 

へー。

 

 

としか思わないけどさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日のお初天神。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お初、徳兵衛が心中した『露の森』は

いまは露の森神社という、小さな神社になっている。 

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そういや昼間に

行ったことなんかないな

 

 

 

  

 

 

大阪人には『お初天神』と言った方が通じる。

ここへの参道は『お初天神通』といって

北新地とは対照的に庶民的な飲み屋街である。

 

 

 

 

 

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でも、客層は

北新地と同じだと思う

 

 

 

 

  

 

 

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文中『醤油問屋』に対して不適切な表現があったかも知れませんが

千葉出身者としての誇りにかけて言わせてもらうと

醤油は大好きです。

 

 

だからなんだ?

   

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2012年6月20日 (水)

台風の日

台風4号日本接近。

 

 

 

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日本縦断

  

 

 

 

 

『台風よんごう』とキーインしたところ、

それが全て『四合』、『4合』としか変換されなかったあたり

私の私生活を慮ってください。

 

 

そんなに飲んでないもん…

4合なんて…

 

 

 

 

 

 

 

 

しかしまあ、すごい風。

今回は風台風なのかな?

あんまり雨は降らない。

しかしすごい風だった。

 

雨と風だと外出しない理由になるのだが

風だけだとそうもいかない。

もちろん風で死んじゃう人もいるので、

うかつなことは言えないのだが

面白いくらいに風。

 

 

 

 

いや、だからおもしろがっちゃいけない。

 

 

 

でも、雨が降っていたら傘が裏返ったり

すっ飛ばされたりしてそれどころじゃないのだが

風だけだとおもしれえ。

 

風上に向かって

『かかってこい、地球。』と言いたくなる。

 

 

もちろんかかってきたら全力で謝るけどな。

『ごめん、地球。』と

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これ以上書くともっと不謹慎な思い出や

不謹慎な出来事を思い出して書いてしまうので

やめておきます。

 

 

 

 

 

 

でもさあ、風速40m/secに向かって

「わああああ」って叫ぶと、なんか楽しい。

 

子供が本気で吹き飛ばされてるのを見ると

もっと楽しい。

 

子供自身よろこんで飛んでるから

たぶんいいんだろう。

「うひゃあああああ」って。

 

 

 

 

三つ子の魂、俺みたいになるなよ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

 

 

 

 

 

では、『今日の台風5号。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5号追撃

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うひゃあ、あさっても台風ですってよ。奥さん。

 

 

 

 

 

 

和歌山県白浜市で高波を見物する地元のバカ皆さん。

(19日 読売新聞より)

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危ねえよ。 

 

 

 

 

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もちろん、筆者は安全を確認した上で吹き飛ばされています。

子供に危険が及んだ場合、自身の安全など顧慮せずに

写真を撮りまくる、身を挺して彼らを救うつもり満々であります。

へっ。

 

 

 

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2012年6月19日 (火)

ワーテルローの日

6月18日は『ワーテルローの戦いの日。』

(Wikipediaの記事へのリンク)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かつて、ナポレオンというおっさんがいた。

ちびだ。

それはともかくこのちびはフランス革命の時には

共和派でパリの反乱を鎮圧したりして頭角を表す。

   

さらに、フランス革命というのは諸外国の王様から見たら

面白くはなく、散々な介入を受ける。

 

ナポレオンはこれに対して『革命軍』を率いて

ヨーロッパを席巻。

ついには皇帝にまで昇り詰める。

 

革命軍が皇帝?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナポレオンのフランスは、大陸ヨーロッパを制覇する。

これはフランス人にとっては栄光の記憶で

後にナポレオン3世とか勘違いした人を生み出す。

 

 

ヨーロッパを制覇したフランスだが

海ではネルソン提督率いるイギリスに勝てず

『イギリスと仲良くしたらシカトな。』

という『大陸封鎖令』なるものを出す。

ところがロシアが言う事を聞かない。

 

 

ロシアを海上封鎖しようと思ったら

デンマーク海峡とボスポラス海峡をふさげばいいはずだが

その程度の力もなかったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結果として、ナポレオンは

海峡封鎖よりもはるかにエネルギーがかかる

『ロシア遠征』に乗り出した。

 

60万人で始まったこの征伐戦は

『雪が降って寒い』という理由だけで

ほとんど実戦がないまま撤退。

5000人しか残らなかった。 

 

 

 

 

 

弱りきったナポレオンは、ライプツィヒの戦いで敗北して退位。

エルベ島に流された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

ところが跡を継いだルイ18世というのが人気がない。

ギロチンにかけられたルイ16世の弟で

マリーアントワネットの義弟なのだが人気がない。

 

この王様の大臣にタレイランという人がいて

世界中の外交官が憧れる嘘つきだ。

 

なにしろ貴族出身のくせに

フランス革命が起きると共和派に参加。

ナポレオンとともに統領政府を作る。

 

そのくせ

『フランス革命以前に生きたことのない人に、

人生の甘美さはわからぬ。 』と言い切ってしまう。

アンシャン・レジーム(旧体制)の信奉者で

ゴリゴリの身分差別主義者だった。

 

その後ナポレオンと離れて、ロシア戦での敗退後の

ルイ18世のフランスで外務大臣になって

ウィーン会議を仕切ったりするが

このおっさんは

主君であるルイ18世の悪口を

書き倒している。

 

 

 

いわく

『…極め付きの嘘つき。…』

『…私が彼にに見たものは、

エゴイズム、鈍感、享楽家、恩知らず…』

 

 

 

いやしくも『主君』に対していうセリフじゃない。

言われる主君にも問題があったんだろうが

タレイランという男は、美酒美食に関しては

世界一の伊達男、なのだそうである。

 

 

外交官なんて、人間のクズだよな…

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

とにかくそんな部下にしか恵まれなかったルイ18世の

悪評はエルベ島にまで届いた。

 

まだナポレオンは45歳。

『よっしゃー』と海を渡ったら、

逮捕に来たはずの『ルイ18世の兵隊』が続々と軍勢に加わる。

あっさりパリに入城して、ルイは逃亡。

 

 

驚いた外国軍が起こしたのがワーテルローの戦い。

英蘭普10万人がベルギーのワーテルローに向かった。

 

 

 

 

 

ナポレオンの恐ろしいところはカリスマ性で

エルベ島の脱出が2月末だったのに

6月のワーテルローで72000人の軍隊を揃えている。

 

しかし、さすがに準備不足で、

彼の主力軍は決戦場で機動軍と連絡が取れなくなり

『グルーシー将軍はどこに行った。』というセリフを

残して敗退する。

 

 

 

最期は、セント・ヘレナ島でヒ素を盛られて死んだ。

52歳。

 

 

 

まあ、痛快な52歳かなという気はする。

こんな『人生50年』なら、羨ましい気もする。

 

ただ、フランス国民にとって迷惑だったことは間違いない。

この人が皇帝として政権にいたのはたったの11年なのだが

その間のフランスの戦死者は80万人もいる。

 

19世紀初めのフランスの人口が

2750万人だった時代だ。

まあ、迷惑だよな。

  

  

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の一枚。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベートーベン、「交響曲第3番 英雄」の表紙。

Eroica_beethoven_title

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平民出身のベートーベンは、ナポレオンを

アンシャン・レジームからの解放者として期待した。

 

 

彼のために作ったのが交響曲第3番 英雄。

 

 

ところが完成直後にナポレオンが皇帝に戴冠した

というニュースが伝わって、

『あの男も俗物だったか。』と表紙を破り捨てた。

とされているのだが、ちゃんと表紙は残っている。

 

 

Sinfonia eroicaと書いたあとに本来は

『偉大なボナパルトのために』と

書いてあったらしいのだが、

ご覧のようにグリグリと消されている。

 

腹が立ったらしい。

 

 

 

まあね。

 

 

 

 

 

  

 

せっかくなので、交響曲第3番第1楽章も貼っときましょう。

 

クラシックって飽きるわあー 

 

 

 

 

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2012年6月18日 (月)

ゴー・ストップ事件の日

6月17日は『ゴー・ストップ事件の日。』

(wikipediaの記事へのリンク)

 

 

 

 

 

 

 

 

なんのこっちゃというと

『ゴー・ストップ』というのは戦前に一般的

だった「交通整理のおまわりさん」のこと。

信号が少なく故障や停電が多かった時代では

普通の光景だった。

 

 

昭和8年のこの日、大阪市内、天六の交差点を

『公務ではなく』歩いていた一等兵が

交通法規に違反した。

これに気づいた巡査が注意したところ、

この兵隊は激昂。

  

複数のコメントが、

『制服を着ていたにも係わらす酔っ払っていた

コイツは交通違反の常習者だった。』

ということを書いているのだが、

このクソくだらない事件は

中村一等兵が軍装であったことで

ややこしくなった。

 

 

 

 

軍服を着ている以上軍人で、

『陛下の赤子である』と。

つまりMPである憲兵と上官には従うが

警官など知らん、と。

  

警官だって、「陛下の部下」なので、

これがのちのち大事件になるのだが

昭和8年当時は、一等兵程度でも

こんな思い上がりを持っていたらしい。

 

『帝国軍人は警官に従わなくてもいいんだ、

馬鹿野郎。』と

大立ち回りをしたことで収拾がつかなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時の警察は、今日とは違って

全国一律に内務省の管轄。

  

日本のKGB。内務省の解体は陸軍の悲願だったから

この事件は陸軍中央に使われた形跡が大きい。

結局、この事件は半年に渡る大騒ぎになる。

ただ、陸軍もこの一等兵を救うつもりが

あったのか疑問で、この年の11月に

この馬鹿は満期除隊になっている。

 

除隊なら民間人だよな。

それなら逮捕してやらあ、

と大阪の警察が息巻いたために、

この事件は素敵に長引く。

 

 

 

 

 

結局この事件は、なんと昭和天皇が仲介して

兵庫県知事立会の元、

当事者の巡査と一等兵が握手して終わった。

 

 

もちろんそれ以外にも連隊長と警察署長と

府知事と師団長が、それぞれが相互に訪れて

謝って、あー馬鹿らしい。

  

 

 

 

 

 

 

ただしこの事件以降、日本では

軍人は制服着用の場合一般犯罪を犯しても

憲兵にしか拘束されることはなくなる。

  

ついでに、当時の大阪の曽根崎警察署長は

心労のあまり死んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『させこっ。あんなスキャンダルを

起こしやがって。』

  

『はいっ。サーセンっ。』

 

『お前はしばらく、博多に行ってもらうっ。』

  

『はいっ。』

 

 

 

 

 

 

 

『ちょっと待ったあー。』

  

『あんたら、九州馬鹿にしとると?』

 

 

 

(怒られたので以下自粛)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では。『今日の一枚。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Baka    

握手する

中村一等兵(左)と

戸田巡査(右)

 

 

 

 

 

 

戦後になり中村政一は次のように語った(『証言・私の昭和史』2文春文庫)。

 あのときは丹波の篠山で演習を済ませて外泊もろたわけでんな。そいで親のうち(東淀川区小松町)にいんで、天六に帰ってきて、長いこと電車待ってましたんやけど、こんもんやさかい、ひょいと都島の方を向いたら電車きたんですねん。ほんで歩道を回ってね、ずうっと渡ったらええやつを、一〇間あまりはすかいに車道へ降りたわけだんな。それが結局、巡査にしたら腹が立って、エリ首ギャッとつかんで押すようにするわけだんな。ほいでやっぱり兵隊が盗人みたいにされたらかっこう悪いさかいに「離せ、逃げんさかいに離してくれ」というたんやけど離さへん。そいでそのまま交番所へいったわげだんな。
 中でしぱらくいい合いましたけど、「憲兵だけのことしか聞かん」とか、そんなこというたような覚えはないしな。今になったらなんやわからん。向こうにしたら抵抗したとか、どづいたとかいうてますけど、こっちはどづかれたから受身にはいったわけだんねん。結局、どづかれ損ちゅうことやから、そこにええところがあるちゅうて、連隊長なんかが警察に抗議したわけだんねん。

中西(旧姓戸田)忠夫は次のように語った)

 私は従来、梅田の阪急前で勤務なんですが、天六交差点に立つ係の方がたまたま病気で休まれた関係上、私があの日天六へいったわけなんです。ところが一一時半ごろ、通行していた方が「も,しもしお巡りさん」とおっしゃるんですよ。これ巡査さん、兵隊さんがあんなとこ歩いてきてあぷないじゃないか」とおっしゃるんで、ほっと振りむいたところが中村さんやったわけなんです。
 であるから、メガホンで「歩道へ上がってくれ」と数回に及んで注意したところが、やっぱり当時の軍隊意識といいましょうか、もう平気なもんですねえ。であるから、兵隊さんといえども交通規則は守っでもらわなきゃ困る。一般の市民に対して示しがつかんからと頼んだわけです。
 ところが、中村さんは「俺は憲兵のいうことは聞くが、警察のことなんかなに関係あるんや」と、こういうようなことなんですね。乱闘などは絶対ありえないんですよ。相手が五の力を出せば、私が六の力を出さなんだら、相手方を連行することはできないんですわ。乱闘というようなことは報道陣の付け加えなんですね。
 私も実際あれについては、未だにどうなっておるのか、実に不可解でかないませんがな。上層部においてですね、いろいろお考えになることであって、われわれ下級の者がですね、そげなことをどうだこうだと、あえて考える必要はないんだということになってしまったわけなんですね、これは・・・。

 

 

随分文章を脚色しているな。

兵隊がこんなに馬鹿だとも思わないが、

たかが巡査が

こんなにかしこげにしゃべるとも思えない。

  

 

履歴は敢えて書かないが

ここまでの差はないように思う。

(検索すると差別用語がザクザク出てくるので

どうぞ。)

 

 

 

 

 

 

 

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なんで最後に敵を作るんだろう、というと

そこはほら。

うーん…

 

 

 

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2012年6月17日 (日)

アパッチ族の日

6月16日はジェロニモの誕生日。

(Wikipediaの記事)

 

180pxgoyathlayx_2    

アメリカ軍に捕らえられた直後

とされる写真、  

 

 

 

 

この人は『アパッチ族』という

ネイティブ・アメリカンの出身で仲間とともに

最も勇敢に白人と戦った人物として知られている。

 

 

お前、そうやって狭いところをつつくのを楽しんでいるだろう

と言われたら、うーん、そうかもしれない。

          

 

Wikipediaの記述は白人側に偏りすぎだ。

『部族の生業である略奪に励んだ。

アパッチ族にとって、策略は勇気に勝るとされ、

夜陰に乗じて牧場から牛や馬を攫うという手法は

部族の美徳とされていた。』

なんていうのは抗議が来ないんだろうか?

 

 

もちろん、アメリカ大陸には

アパッチ族をはじめとした

ネイティブ・アメリカンの方が先にいたのは

事実で、白人であるアメリカ人は

『土地の簒奪者』だ。

  

そればかりではなく、『白人』は

追い出した『インディアン』を

散々に殺戮した上で保留地と呼ばれる荒地に

拘禁した。

 

多くのインディアが立ち上がった

ジェロニモはそのうちの最も勇敢な一人で、

ジェロニモと数十人のアパッチの仲間たちは

5年以上にわたって延べ数千人のアメリカ軍を

翻弄した。

  

アメリカ軍が山岳ゲリラに弱いのは、

今の対タリバン戦などと同じ。

さらにマスコミが戦争を盛り上げるのも

今と同じで、カリフォルニアあたりの新聞社は

「シエラネバダ山脈には恐ろしいインディアン

がいて、西部入植地はもうだめだ。

という情報をたれながし続けた。 





































で、個人的にアパッチ族といえば

小松左京の『日本アパッチ族』だ。

  

え、ジェロニモおしまい?と言われたら

その通りだ。





大阪の都心にに大川という川が流れている。

かつてここの沿岸には大工場が並んでいた。







三菱金属の工場なんかは割と最近まで

残っていたのだが

いまは帝国ホテルが建っている。

いま、工場として残っているのは造幣局くらい

だろう。

日本中の硬貨は、現在も桜宮のこの建物で

作られている。

 

  

0000zouheikyoku敷地内にたくさん桜があります。

春になると、『通り抜け』といって

中に入れます。

ただし宴会はしてはいけない。

 

 

  

大阪というと『商人の街』というイメージが

あるが戦前までは、むしろ重工業都市だった。








この造幣局のすぐ南側に

大阪砲兵工廠という巨大な工場があった。

どのくらいでかいか、というとこんな。

  

250pxosakaimperialarsenalfig_svg 

となりの大阪城と

比べてくださいよ。

 

 

 

  

『砲兵工廠』というので、大砲や砲弾、

のちには戦車や橋梁なんかも作った。

          

当然徹底的に空襲されて戦後は廃墟になった。

現在は、OBPというオフィス街や、

地下鉄の車両基地、団地や公園になっているが

戦後ながらく放置されていた。

  

持ち主だった陸軍がなくなって戦後米軍に

接収されるが、接収解除のあとは

大蔵省が管理していたはず。

しかしなぜか10年以上、空き地のまま

放置されていた。

 

理由のヒントが『日本アパッチ族』に

書かれている。








(日本アパッチ族 角川文庫版 20版 昭和58年)

『ー正面のトーチカの横には

「帝国陸軍近畿師団歩兵第8連隊」。

「近畿財務局」「大阪府警本部」

「近畿法務局」「大阪高等裁判所」

その他ずらりとお役所の札が並び、下の方に

「以上共同管理」と書かれていた。

一体なぜ追放地をこんなにたくさんの

お役所が管理しなくてはいけなかったのか、

さっぱりわからなかったが、

要するに縄張りあらそいの結果だろうか…』





大阪城のすぐ隣、大阪の都心になぜか数十年

鉄錆とともに陽炎のように浮かび続けていたのが

『砲兵工廠』だった。 




現実の人たちはもっとしたたかで、 

巨大工場だから膨大な量のくず鉄が埋まっており

敷地に入り込んでそれを掘り出す人達がいた。

彼らに付けられたあだ名が『アパッチ』だった。









なぜその名前がつけられたか、

という理由の一つが『差別。』


在日韓国・朝鮮人の人が多かった。

小松左京の小説でも、

くず鉄を扱う朝鮮人ボスが出てくる。






『アパッチ』という言葉の選び方にも

そういう、よそ者に対する恐怖と軽侮が

見て取れる。









つい最近まで大川河川敷には「寄せ屋集落」が

あった。

 

寄せ屋というのは不法に収集してきた金属類を

分類して三流会社に卸す。

つまり、空き缶であれば直後に潰し金属ごとに

分類する。

銅線のような高価な金属だと盗みや喧嘩まで

起きる。 

  

大川の河川敷にいたのは○○人であり、

明らかに河川敷は不法占拠であり、

しかもそこに金属ゴミを運んでいたのは

ホームレスだった。

 

街中のゴミ箱をあさって空き缶を集めてくる。

違法すれすれの手段で銅線を盗んでくる。

古タイヤをホイールごと盗んでくる。

    

早朝の天神橋に、空き缶を満載した

巨大なリヤカーが歩いていた。

 

大川で花見をしたら、宴会が終わる時に

周辺の闇のなかから

無数のホームレスが沸いてきて

空き缶をとっていく。

  

彼らが一般の人に乱暴をすることは

ほとんどないが、目の前でビールを飲み終わる

のを待たれたことがある。

あれは落ち着かない。

     

 

00000_kuzu     

銀座の「東京吉兆」の

横にいた空き缶拾い  

 

 

 

砲兵工廠の跡地は1960年後半に大阪市に

払い下げられ、1/4が大阪城公園。

1/4が市営地下鉄の操車場、

1/4が市営住宅、そして1/4がOBPとして

副都心になった。

  

OBPのランドマークTWIN21の竣工が1986年と

バブルのど真ん中だった。

 

大阪人は、常に東京の後塵を拝していた

「大阪の復権」をイメージしたのだが、

バブル真っ最中でさえ大阪にパワーはなく

その後の建設は遅々とした。

 

あの街には昼間人口で10万人に近い

エリートサラリーマンがいるはずだが

最寄駅の京橋駅は

あいかわらず『ええ街でっせ』である。

  

桜ノ宮近辺の『寄せ屋街』がひっそりと

撤去されたのは今世紀に入ってからだ。

大阪が『戦後を超克』したのは、

実はつい最近なのである。

  

しかも、それは『砲兵工廠』のことだけで

実は。大阪駅にも釜ヶ崎にも『戦前』はある。

シャッター商店街も、交通弱者も木賃アパートも

『越えられてない過去』はいくらでもある。

  

歴史はつながっている。

そして意外にきちんと精算されてはいない、

と思う。






任せてみないか?

面白くしてやるぜ?


























では、『今日の一枚。』














ジェロニモは実態以上に恐怖された。

  

18861年に降伏し砂漠の収容所で

10数年の余生を送る。

後年はこうやって、「いかにもインディアン」

という装束をさせられて、見世物にされた。

最晩年の画像がこれだ。  

 

 370pxgeronimo_as_us_prisoner

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『最も偉大なインディアンの酋長ジェロニモ。

アメリカの刑務所に入っている。

著作権W.N.mertein』

 

『プリズナー』と書いているくらいだから

この人に自由はなくて、

「故郷に行きたい」という願いは叶えられずに

この殺伐とした荒野で死んだ

 

アメリカというのはこういうことをする。

 

 

 

 

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2012年6月16日 (土)

タメ語が好かれるわけねえだろ?

読売新聞に、こんな鼻クソみたいな本が紹介されていたので

ご紹介する。

 

 

 

 

 

嫌われる敬語 好かれるタメ語』
 
  

内山 辰美 ( 中経出版 2008.12.4)

 

Uchiyama_pic01

 著者の内山先生

 講義を印象深く話す力は天下一品。

 というだけあってコッテリ顔。

 

 

 

 

 

タイトルについては、キャッチーにして

関心を呼びたい、のかなと思う。

 

 

彼女が講師を務めている、

『株式会社話し方研究所』というのが

社名からして日本語間違えてないか?と思うのだが

書評欄に載っている内容説明が

ガツンと頭が悪いのでめまいがした。

 

 

頼むよ、最近血圧も高いんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

例えば、新しく担当としてA社に行くように言われた場合

 

『A社ですか? はい、早速お伺いします。

課長のお知り合いの方のご紹介いただけるのでしょうか?』

 

というのはよくないそうだ。

感謝の気持ちが出ておらず、事務的で冷めた印象を与えるんだと。

このくらいの言葉遣いができたら十分だと思うが…

『お知り合いの方のご紹介いただける』という日本語は変だが。

 

 

 

 

対して、『好かれるタメ語』

 

『え? ほんとですか!? ありがとうございます!

 よろしくお願いします』

⇒上司の気持ちに感謝して、やりたいという熱意も伝わる

 

 

 

うっそでー

 

まず初めての会社に行くのなら

A社なる会社についての情報を聞くのが最初だろ?

A社担当になるのが憧れだったとしても、

その驚き方は不自然だし、

そもそも一般論にする話じゃない。

  

内山先生の本を買って密かに『勉強』していたのなら

とんでもなく嫌な奴だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに別の事例。

『たとえば、上司から急に仕事をふられたしよう。 
もともと、上司が今週中にすると
自分で公言していた仕事だ。 

 
 しかも、週末の金曜日にいきなりあなたにふってきた。 
 だまって引き受けるのはしゃくだ。
 何か言葉を言い返したい。

「それは、課長がお引き受けくださったものでしたよね。
 私の仕事の状況はご存じでいらっしゃいますよね」』

 

 

と、これは良くない、と。

これはコピーペーストであって、著作権のことはともかく

一言一句丸写しなんだけど日本語おかしい。

しかしまあ、喧嘩になるかなあ、という気はしなくもない。

そこで、

 

 

 

 

『ええっ!?今からですか?今日が締切ですよ。 
何とかならないんですか・・・』

とフランクに言えば上司も

「でもうちのワイフも怖いんだ。手伝ってくれよ。」

 

 

と大いにOK。

上司とのコミュニケーションも取れて

君はもう島耕作だ、という。
 

 

 

 

 

 

 

 

お前サラリーマンやったことないよな?

っていうか人生なめてるだろ?

 

 

 

 

 

 

俺が何が嫌いかと言って、

マナーとか作法とかを賢しらに教えてくる馬鹿だ。

松の廊下で叩き切ってやる。

 

 

そしてこうやって、日本語の基礎が怪しいくせに

生意気に話し方講座、とかやるやつ。

「タメ語」とか言っている時点で日本人としてダメだろう。

 

 

 

 

ビジネス会話であれば、『立場』がある。

取引先に値上げを伝えるとき、あなたの会社が

上位であれば逆にへりくだってはいけないことがある。

 

上司と部下であっても、馴れ馴れしい会話が許されるのは

一緒にカラオケを歌ってからだ。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大変失礼しました」と改めていわれるよりも

「ごめんなさい」と素直に謝られた方が

好感を抱くこともある。 

 

というのは大間違いだと思うよ?

ビジネスシーンで単に『ごめんなさい』とか言えば

『馬鹿だなあ。』と思われるだけ。

 

結局人間関係なんだろうな。

知らない奴に『タメ語』を使われたら

素直に腹が立つし、

だいたい目下の人間がそんなことをするなら

まずは一緒に飲みに行こう。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の一枚。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな本が出版されることも驚きだが

ビジネス書の9割がこんな具合だ。

森林資源の無駄、として

怒ってもいいんじゃないだろうか?

 

Prinsess_mononoke

  

 

人間なんか大嫌いだ。

 

  

    

 

 

 

 

 

 

 

 

そうは言っても、以下の一節はとても気に入った。

 

 
上司に好かれるタメ語

 
食事してちょっと一杯、と思っているんですが、

よかったら一緒にいかがですか?


◆ポイント
 ・上司だからといって仲間外れにされるのは腹が立つ

 

 

 

ポイントがポイント。

うん、腹立つよね。

こういう間抜けさが『愛される三流本』

なんだよなあ。

 

 

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2012年6月15日 (金)

ノーチラス号の日

6月14日は私の誕生であるという以外にも

世界史に重要な事件が起きている。

 

 

例えば1952年のこの日は世界初の

原子力潜水艦ノーチラス号の起工の日である。

(Wikipwiaの記事へのリンク。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ごめんなさい。

僕の誕生日なんかどうでもいいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ノーチラス号というのは世界初の原子力潜水艦

原子力潜水艦というのは潜水艦の中に

原子炉を積む。

   

 

庭山馬鹿桐生市議員もびっくりだ。

   

 

原子力推進、なので航続力はほぼ無限。

速力も飛躍して1951年という終戦直後の

くせに、ノーチラス号の最大速力は

23ノット(時速50km/h)くらいあった。

 

 

 

今の原子力潜水艦の水中速力は

当たり前だけど、最高度のトップシークレット

なのでよくわからない。

   

しかし北朝鮮の工作船が全力を出そうと即座に

撃沈できる程度の速度はあるらしい。

 

 

 

 

真面目な話、帝国海軍の潜水艦は水中では

時速20kmも出ない。

これがノーチラス号ではいきなり60km/hに

飛躍した。出力が圧倒的に違う。

 

 

    

原子力潜水艦、というのは日本は持ち得ない

存在だ。

『永遠の航続力』というのに期待して、

日本でも『原子力船むつ』なんていうものが

建造されるのだがあっさりと失敗して、

いまの日本ではタブーである。

 

 

  

原子力潜水艦が本来の意味を持つのは

SLBMを積むようになってからだが

その登場はニュースとして配信された。

 

 

Underway on nuclear power

 

 

『本艦、原子力にて航行中。』

最初の航行でワシントンのテムズ川を

渡った時に発信した通信である。

 

もちろん平文で、

世界中に宣伝するためにこういうことをやった

  

ソ連が最初の原子力潜水艦Kit級

(ノヴェンバー級)を就役させたのは

1958年。

ただ、宇宙開発やSLBMの開発で遅れをとって

いたこともあって、アメリカ海軍は

この艦のことを割と熱心に宣伝している。

 

ソ連初の原子力潜水艦が就役した1958年には

太平洋から北極点を通過して、

一度も浮上しないでグリーンランドに抜ける

という『太陽作戦(Operation Sunshine)』

実行する。

 

 

 

 

その時、ノーチラス号が打電した『位置情報』

 

Nautilus_90n_record

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

位置;北極点

進路;90度00分 北

  

というせりふがかっこいい。

だけどよく考えたら、北極点にいる艦は

どっちを向いても

『進路は南』なんだけどなあ。

 

 

    

潜水艦というのは卑怯な兵器だ。

ヒソヒソと眼の前まで近づいて

魚雷をぶっぱなす。

 

 

潜水艦の登場は記録によって違うが

1864年フランスでプロンジュールなる艦が

できる。長時間航海できて魚雷が撃てる。

 

 

これに世界が驚き、第一次大戦で

ドイツが組織的に通商破壊戦に運用したことで

『潜水艦とは恐ろしい兵器だ。』  

という認識が深まった。

   

 

太平洋戦争末期の日本を苦しめたのは

空襲も原爆もそうであったが

潜水艦による通商破壊も辛かった。

 

 

 

 

 

 

ところが第二次大戦までの潜水艦は

電池で動く。

当然吸気しないといけないので、浮上する。

   

今の自衛隊の潜水艦だって同じことだが

時々浮上してディーゼル機関を動かして

充電する。

潜水艦、といいながら戦闘海域にいないときは

浮上しているのが普通だった。

 

 

 

           

これを変えたのがノーチラス号だった。

潜水艦が文字通り『常に沈んでいる艦』になった。

  

レーダーや、世界中の海底に置かれた

超長波ソナーのおかげで潜水艦の隠密性

というものはだいぶ失われたのだが、

生き残っているのは核ミサイルのため。

 

         

核兵器というのは  持っているだけでは

意味がない。

ここら辺がジョンウンくんが勘違いしている

ところなのだが、先制攻撃を受けても

反撃できる体制を持っていることが大事。

 

  

核兵器の生存性、というやつで

かつてアメリカは世界中に水爆を落としながら

『核パトロール』を行う。

しかしさすがに危ないよな、ということで

潜水艦発射型のミサイルができると

これに移行する。

 

 

 

 

 

  

実際の話、アメリカもロシアも

いま現在、敵の原潜がどこにいるかくらい

リアルタイムで把握している。

  

撃沈しようと思ったら即座に可能なんだけど

その直前に核ミサイルを撃たれたら終わりだ。

 

 

世界は、

こんな氷の刃の上で生きている。

 

   

原発がれきの話なんかよりはるかな危険が

ここにある。

庭山くんも、もう少し勉強しような。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の太陽作戦』

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

まあ、ね。としか思わない。

こんなのを後撮りして国威発揚に

なったんだろうか?

 

 

まあ、ね。

 

 

 

 

 

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2012年6月14日 (木)

メリー・誕生日

じゃねえな。もう○○歳だぜ。

   

  

  

  

 

 

ちなみに6月14日はチェ・ゲバラの誕生日でもある。

このことはすごく自慢。

 

キューバの革命家、なのだがこの人は、

その事績よりもこの写真によって有名だろう。

 

200pxchehigh_2

    

   

  

なんてフォトジェニックな人だろう。

 

 

 

 

 

 

実際いい男なのだ。

キューバ革命が成功した直後。

30歳の時の写真がこれだ。

 

220pxche_guevara_june_2_1959

   

   

     

女でもこの顔なら

相当な美人だよな。

  

  

   

  

 

この人は、もともとはお医者さん。

ゲリラの指揮者としても活躍したが

どちらかというと、キューバ革命政権のコメンテーター

というかアジテーターとしての印象が強い。

 

 

 

  

 

  

有名な言葉がたくさんある。

 

  

『酒は飲まない。タバコを吸う。

女を好きにならない位なら、男を辞める。』

 

   

うーん。

タバコはやめたけどね。

男を辞めてもいいけど、恋はないなあ…

 

 

 

 

『祖国か、死か!

祖国が、革命家の情熱を持って君を抱擁するだろう。』

 

 

 

そんないい祖国に生まれてない…

  

  

  

  

   

   

  

    

   

   

 

 

 

 

 

 

 

   

では、『今日の6月14日。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月14日は『中ピ連』誕生の日でもある。

正式名称は

『中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合』

 

へー。

 

ガキの頃は『中央ピンク連盟』だと思ってたよ。

『主婦連』と『中ピ連』を勘違いしている人なんか

今でもたくさんいると思う。

 

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中ピ連解散を報告する

榎美沙子代表

   

 

   

消費者運動としての主婦連ではなく

妊娠中絶問題なんかともあんまり関係がなく、

『最近あの人が冷たいんです』というおばさんの手紙だけで、

不倫相手のサラリーマンがいる会社に乗り込んだりした。

 

発言小町のような集団である。

 

 

  

  

ただ、一部にコアなファンがいたおかげで勘違いして

1977年に参議院選挙に多数の候補者を立てる。

 

その主張は

「内閣はすべて女性とする」

「公務員はすべて女性。男性は臨時職員かアルバイトとする」

といったもの。

  

全員落選して中ピ連を解散した時の映像が上。

 

選挙惨敗という意味では

オウム真理教のような、幸○党のような存在である。

  

 

 

維○の会も案外そんなことになるんじゃないだろうか?

  

 

  

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自分の誕生日のことを嬉しげに投稿するのは

みっともないからやめなさい。と言われてしまった。

ちぇー

 

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2012年6月13日 (水)

桶狭間の日

6月12日は桶狭間の戦いの日、

1560年のこの日、織田軍が今川軍を破った

(Wikipediaの記事へのリンク)

 

 

 

 

 

 

織田氏はこれ以降、天下布武に向けて駆け上がり

今川氏の支配下にあった徳川氏も独立して

織田氏と同盟し、将来の政権獲得に向けて

力を蓄える。

 

というのが、一般の解説。

 

 

 

 

 

 

 

 

織田氏側が寡兵でもって奇襲したのは事実らしいが

今川氏側の兵力は諸説ある。

2万5千というのは、戦前に陸軍参謀本部が

編集した戦史叢書によるもので、

これの根拠は「兵隊の供給能力は1万石あたり

250人くらいだった」というもの。

 

 

ただし『最少』の側の戦力を書いているらしく

資料によっては、『今川氏10万。』とか

書いてある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

兵種や時代を超えてこの原則を適用するのは

むちゃくちゃで

そもそも今川氏というのは戦国大名としては

軍隊として、あまり近代化されていなかった。

 

 

今川氏の所領は駿河の国。今の静岡県東部。

今の静岡全県の人口が370万人くらいだから

東半分で450年前であれば2万5千人も

動員できたかしら。

というのが今日のお話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

またわけのわからんところを

つついてきよったなあ

と言わずに聞いてください。

 

 

実はこの戦いの40年後に起きた

関ヶ原の合戦での

参加兵力は東西両軍で20万だ。

 

 

17世紀初頭の日本の人口

1200万人くらいだったそうだから

総人口の1/60が

あの平野に集結していたことになる。

刀持って…

 

 

 

 

 

 

 

なんて重武装な国家だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いまやっている『平清盛』は

ストーリーがわかりにくくて

ちっとも人気が出ないんだそうで、

確かに何回か見てみたけど

保元の乱の背景なんて知らんわなあ。

 

で、平氏がサムライの由来、

みたいな前提にしようとしているあたりが

さらにわかりにくい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信長や家康的な武士の由来になったのは

平家のライバルになった、

源氏率いる東国武士の方だった。

 

平家的な『公卿の私兵』みたいな存在に近い方が

むしろ、今川氏の軍勢であったろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東国武士は、『戦う農民』

公卿や坊主から搾取されることに耐え兼ねて

武装した。

 

『一所懸命』というくらいで

領地のために命をかけるのが武士。

ただしそれでは法的な権利が担保されないので

担ぎだしたのが頼朝。

 

頼朝本人に200年続く魅力があったわけではなく、

源氏政権が緻密な支配システムを作っていなく

源氏なんかどうでもよかった、というのは

3代で滅んだあたりでわかりますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だから、武士が普段どうしていたかというと

百姓をやっていた。

 

もちろん、『いざ鎌倉』という際には、

何をおいても鎌倉に駆けつけるのだが、

『いざ』じゃないときは畑を耕して、

旅人をもてなすのに

柿の木を燃やしたりしていた。

 

 

 

 

だから、この時代の戦いはのどかだ。

『やあやあ、我こそは』という口上から始まる

『近くばよって目にも見よ。』って言うのは

名前を売るため。

東国武士がもっとも重んじたのが『名』だ。

でも老眼だしなあ、とか思ってみていると

那須与一が、ひょうとかいって鏑矢を射る。

 

これが扇に当たると、

敵も味方もそのへんのものを叩きまくって

大喜びだ。

 

戦闘の進行が演劇のようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなことやっているから元寇で

危うく滅びかける。

神風が吹いた神国日本は救われたが

ほぼ同じ時期の中世ヨーロッパは、

似たようなことを

鉄兜の騎士連中がやって散々に踏み散らかされた。

 

日本で戦争のスタイルが変わったのは

戦国時代から。

足軽、というものができた。

『やあやあ、我こそは。』の時代から

『数で襲ってごちゃっ。』という時代になる。

 

それを可能にしたのは日本の農業革命。

先ほどの、日本の人口遷移を見てもらったら

わかるが、室町幕府成立の14世紀から

江戸幕府成立の17世紀まで、

800万の人口が1200万余に増えている。

 

 

 

 

 

この時期の農業革命は

人糞施肥法とか灌漑法とかの改良で

どちらかというと単位収量あたりの増加が

メインだった。

(17世紀以降は新田開発などの

農地の増大が大きい)

 

 

農地が増えずに人口が5割増える。

農家の2男3男4男5男はぐれ果てる。

『京都に出て一旗揚げてやるぜ』と勘違いする

 

そうは言っても、旗なんか立たず、

平和な時代であれば

心斎橋の殺人鬼のような迷惑者になるのだが

幸か不幸か、15世紀末から日本は

戦国時代になった。

 

 

 

余った人口は『悪党』と呼ばれて野盗になる。

 

で、これを吸収したのが足軽。

これが戦争のスタイルを変えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

変えたのは織田氏の功績ではないが

最も積極的に、これを導入したのは

織田氏だった。

 

 

 

戦場が大型化したから、大兵力が欲しい。

ということはいいとして

たくさん雇用したのが織田さんち。

跡を継いだ豊臣さんも似たようなものだった。

 

 

 

 

 

 

織田信長末年の木下藤吉郎は

20万の軍勢を率いて中国征伐に向かうが

そもそもその軍勢の9割が、

『ノブナガからの借り物』だった。

 

 

 

 

つまり『傭兵』である。

 

 

 

 

秀吉自身が百姓だ。

出自を問わない、ということは信長の凄みでも

あったが

急速に広がっていく版図を支配する必要がある

基本的な人材がいない、ということでもある。

 

傭兵というのは弱い。

これは世界史で共通のことだが

だから信長軍は弱かった。

対等の兵力で戦ったらほぼ完璧に負けている。

(例:金ケ崎の戦い。)

 

 

 

そこでどうしたか、というと金をかけた。

三段構えの鉄砲を買ったり

城を水攻めにしたり

『貴様、それは武士として卑怯だろう』

というものである。

 

織豊政権は意外に野戦での戦争をしていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただし天下統一の目処がたってくると、

『流石に兵隊を増やしすぎたかな?』

とは豊臣政権も実感する。

 

いくつか実行しようとした政策はあるのだが

具体化したのは刀狩り。

 

ガキの頃は『農民の反乱を防ぐため』とか

聞いていたのだが

『刀狩り』の本当の理由は『兵農分離』だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実は『合戦の大兵力化。』ということに

関して言うと

そこで、大抵の田舎大名は脱落している。

 

冒頭にあげた今川氏にしても

氏族共同体だった彼らは

即応性のある兵団を投入できなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『戦場の大型化』に対して

家臣を直接動員兵隊にしてしまおう、

という考えもある。

最も進んでいたのは四国の長宗我部氏。

 

長宗我侍は、普段は田んぼを掻き

いざ、法螺貝がなったら、あぜ道に置いてある

具足をつけて走る。「一領具足」と呼ばれた。

 

 

 

 

 

言ってみれば『国民皆兵』だ。

もちろん今日的な意味とは、全く違う。

 

しかし、歴史を見て、『傭兵』と『国民兵』を

比較したら国民兵の方が圧倒的に強い。 

 

 

 

 

 

 

 

それが分かっていたから、織豊政権以降の

統治機構は、武士を所領から切り離す。

 

江戸幕府での旗本は数千石クラスであれば

「○○国のうち○○郡○○村ほかを与える。』

とか言って、名目上の領土があったのだが

彼ら、『殿様』が所領を訪れることはなかった。

 

末端の武士になると、

『○人扶持、○○石』という具合で

土地もしめされなくなる。

 

 

逆に言えば、統治者の側から言えば

家来を土地から引き離す、ということは

非常に重要な意味を持った。

 

 

 

『一所懸命』の呪縛を説いたのだ。

ようやくそれが可能になった。

 

 

 

 

 

豊臣政権によって天下統一が成ったあとから

集中して始まる城下町の成立にも、

同じ意味がある。

家臣をみんな城下町に住まわせて、名目上の

『領地』からさえ引き離した。

武士の城下集住には、こうした意味が

あったのだよ

五郎君。

 

 

 

 

江戸時代の政権の安定の理由は、実はそこにある。

 

そして、土地の呪縛を離れた日本のバブルの

狂想曲といったら…

土地の安定を失うことは

国家を失うことですよ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012年6月12日 (火)

会社のトイレをすべて和式にして踏ん張れ

野村ホールディングスの株主が株主総会で

『会社のトイレをすべて和式にせよ』と

訴えるのだという。

(ロイターの記事へのリンク)

 

 

 

 

 

 

『「オフィス内の便器は全て和式とし、

足腰を鍛錬し

株価四桁を目指して日々ふんばる旨

定款に明記するものとする』と提案、

なのだそうだ。

 

理由については「今が『ふんばりどき』であり

和式便器に毎日またがり、

下半身の粘りを強化すれば、

かならず破綻は回避できる」なのだそうだ。

 

 

 

 

 

く・くだらねえ…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

野村證券のような大きな会社の株主総会に

出席ができ、しかも10以上の案件を

総会に提出するらしいので

生半可な金持ちではない。

 

馬鹿だとは思うけど、金持ちの心情なんて

私のような貧乏人には

なんだかよくわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まあ、この人の主張はどうでもいい。

しかし、『踏ん張る』のはともかくとして、

『洋式トイレ』が世界標準のような

扱いなのは許せない。

 

 

野村ホールディングスの話なんか

どうでもよくて、

今日はトイレの和式と洋式のお話。

 

 

 

 

 

 

 

 

いまは、オフィスだけじゃなく

ホテルやデパートでも洋式便所が当たり前。

学校でも洋式便所じゃなくちゃ嫌だってことで

わざわざ和式便所を洋式に

取り替えているという。 

 

住宅でも洋式便所が圧倒的で

お父さんは座っておしっこをすることを

強制されて、まだ朝には俺だって、

と思いながら

あれはつらいよ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

椅子式の洋式便座は

ギリシア、ローマ文化だけの

ローカルルールだった。

 

蹲踞してうんこする『和式』の方が

むしろ世界的には標準だったのである。

 

 

 

 

 

 

 

今だって、

知らない人と同じ座面に腰をかけなければ

いけない洋式便所は嫌だ。という人がいる。

 

特に女性に多い。

だから、割と世間一般の理解を得られる

話題だと思うのだが…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

椅子式の「洋式便所」と蹲踞式の「和式便所の

地理的な境目はトルコのアナトリア半島にある

トルコなどのアジア系の人は蹲踞、

これがギリシア・ローマ圏だと

頑固に椅子式だ。

古代文明、プレ・ギリシア時代から

変わらない。

 

 

その後、ヨーロッパを征服したゲルマン人も

便所に関してはローマ式を引き継ぎ

ヨーロッパ中世都市は『洋式便所』だった。

 

 

 

 

ただし、中世初期の時点で高層化していた

アパートでは洋式便所、

といったところで排水がない。

 

おまるのようなものに大小便をし、

そこが満杯になると窓から外に撒いた。

 

 

 

きたねえなあ。と思うのだが

一応ルールがあって、

『S'il vous plaît noter les frais généraux』

(頭上にご注意!)

と叫ばないといけない。

 

どういう意味か、というと文字通り。

その当時、ヨーロッパでは空からうんこが

降ってきた。

 

 

地上に降ってくるうんこを避けるために

男性はマントをまとい、

地上に溜まったうんこを踏まずに避けるために

女性はハイヒールを履いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そもそもヨーロッパ人は便所を作らない。

ベルサイユ宮殿にはほとんど便所がなかった

 

 

『エチケット』というと、

いまは『マナーの中でのルールや気遣い』という

意味になるんだろうが、もともとは『札』

という意味だ。

 

ワインのラベルも『エチケット』という。

なんで『札』がルールになったのか、というと

ベルサイユ宮殿にいた貴族や貴婦人が

立ち小便や野糞をしたからである。

 

トイレがないから、庭園の植え込みでやる。

匂いがするし庭木が枯れる。

庭園係はたまったもんではない。

 

 

『ここで野糞をするな。』ということを

もう少し上品なフランス語で

書いた立札が、いまの

『エチケット』の語源になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

繰り返すがイスの『洋式』と蹲踞の『和式』と

の境目はギリシアとトルコ文化の境界だった。

 

例外が、現在はトルコ領土である

アナトリア半島西部(イズミール地方)は

かつてギリシア文化圏であったため

そこでの遺跡は椅子式だ。

 

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だから、同じトルコでも違う町では

和式だったりするのだ。 

これでは進歩とかかっこいいとか衛生的だとか

そんなことが、トイレの和洋には

なんにも関係がないことがわかりますね。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに、ヨーロッパの都市は、

19世紀はじめ、コレラが流行った時に

あまりの不潔さのために壊滅しそうになった

 

そりゃそうだ。

さすがに窓からうんこを投げ捨てることは

やめていたが、

産業革命が起こって街中にスラムが出来ていた

当然、下水はない。

 

伝染病も起きる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うんこを飲み水に混ぜるな。

という当たり前のことに気づいたのが

スノウというイギリスの医者。

ヨーロッパでは、19世紀に競って

公共下水道ができる。

 

下水道ができたことで、いままでおまるだった

ヨーロッパの便所が水洗になった。

ヨーロッパの住宅は伝統を大事にするんだ

なんていうことを言う。

 

 

しかし、水洗便所にはあっさり敗れていて

100年くらい前に大改修している。

 

給湯器が普及した時には既に改装が

できなかったので

ヨーロッパのアパルトマンというのは

悪名高くお湯がぬるいのだそうだ。

(住んだことがないから知らん。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

対して日本の便所、といえば汲み取りだ。

 

日本は遅れている。というやつは

ちょっといい料理屋に行ってご覧なさい

 

女性用トイレは知らないが、男であれば、まず

小便器と大便器は分かれており

小便器のストールには、ちぎりたての杉の葉が

敷いてあった。

 

もちろんその上に小便をするのだ。

そうすると、杉の葉の青々しい香りで

匂いが抑えられる、

しぶきが跳ねない、音がしない、

といった理由があって三重に効果がある。

 

 

 

 

それ以上に

『この便所の手入れは誰がするんだろう。』

と思ったら無駄に贅沢な気分になれる。 

 

葉っぱを片付けるトイレ掃除の人は

たまったもんではないだろうが

まだそんな風に職業に貴賎があった時代だ。

 

 

 

 

で、まあ高級な家の人はこのスタイルだった。

お殿様とか天皇陛下なんかは、

画然と大小を行う場が分かれており

大を行う場所は畳敷きで8畳くらいあって

当然蹲踞だ

 

8畳間の真ん中に金隠しと穴があって、

その前には、香炉と脇息がある。

 

大をする直下の場所にも杉の葉が敷かれており

さらにそれは焼灰が敷いてあって

引出しになっている。

一度ごとに交換され、ひり出されたそれは

御典医の診察に供されて健康がチェックされた

 

 

 

 

杉の葉を敷き詰めた便所、というのは

今でもいちびった料理屋なんかに行くと

あるかもしれない。

大便器の場所以外に小便器スペースがある家、

というのは

昭和30年代くらいまでは普通だった。

 

ところがこれが、家が狭い時代になると

『大小便兼用便所』というものになってくる。

 

なんのこっちゃ、というと、

便器の前後に段差がある。

つまり大をする時には『上の段』で蹲踞するが

立ち小便するときは『下の段』でに立つ。

 

和式便所で立ち小便をやると、

しぶきが飛び散ってしまうので高さを稼ぐために

こんなことになった。

 

今でも古いビルに行くとこういうスタイルの

便所がある。

酔っ払って便器で踏ん張って、

足がしびれて立ち上がろうとした時に

ふらつくと

下半身満開で下の段に倒れこむ。

 

 

 

 

 

 

 

むう。

 

 

 

 

 

 

 

 

田舎の家に行くと、もっとワイルドだぜ?

学生の頃、3泊ほどさせてもらった農家が

あるのだが便所が母屋から離れている。

 

一日中遊んで酒をご馳走になって、

さあ寝ようか、ああ、トイレに行こうと思って

外に出ると目が覚める。

 

ところが真っ暗だ。

街中みたいに街灯があったり

車や電車が走っていたり

コンビニがあったりするのとは違って、

本気の暗闇だ。

 

 

それでも目を馴らして便所まで行き

さらに真っ暗な中で泣きながらスイッチをつけると

20燭光くらいの黄色い明かりの中に

穴に渡された、2本の足場板が見えるのだった

そこにまたがってせよ、と。

 

一気に酔いが覚める。

 

 

 

 

『なんで素掘りの穴なんだ?』と訊くと

『穴がいっぱいになったら

隣の場所に掘るのだ』と

当然のように言われてしまった。

 

なんだか、野戦陣地の仮設便所のようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

椅子式の洋式か、蹲踞の和式かは

下水の方式とも深く関係する。

 

コレラのおかげで下水道を整備した

ヨーロッパでは

高層アパートでも水洗便所が普通になった。

 

ところが日本はそうはいかない。

下水道整備の前にコレラ菌が発見され

治療法が確立してしまった日本では

下水道の整備は後回しにされた。

 

 

それでも、日本の住宅は平屋だったから

良かった。

江戸は当時世界最大の都市で、

最高の人口密度を誇っていたが

町家は、ほとんど平屋である。

 

 

想像してもらうとわかるが和式のぽっとん便所で

高層建築だったら、

とても面白い成り立たない。

 

 

 

 

 

 

 

 

この事情が変わったのは、戦後の団地の登場。

 

「団地」という言葉は

日本中に『団地妻』を産みだすくらい

日本人のライフスタイルに影響を与えた

のだが、

その内の一つが水洗便所。

 

多くの書籍が、『ステンレスキッチン』こそが

団地妻誕生の理由だ、

といって、それはそれで間違いではないのだが

昔は便所だってひどかった。

 

 

 

 

 

 

 

何しろ汲み取りだ。

 

 

ここまで書いたところで、

まだみんな汲み取り便所の

恐ろしさを分かってはいないだろう。

汲み取り便所ということは、

週に一回バキュームカーが来る。

とても、臭い。

 

 

しかし、恐怖の本質はそこではない。

汲み取り便所ということは、常に便器の下には

なみなみとうんこが満たされているのである。

 

そうなるとどうなるか、というと、虫が出る。

わかりやすくいうとウジが出る。

ちょうど6月の今頃なんて、ウジの頃だった。

 

流石に詳細な描写は避けるが扉を開けたら

びっくりするよ?

さらに、そういう次第であれば

成虫のハエの数は今とは比較にならず

ちゃぶ台の上に吊るされた『ハエ取り紙』に

触れてしまうと

決して取れないネバネバを取るために、

数十匹のハエの死骸とともに

悶え苦しまないといけないのであった。

 

 

 

水洗便所では、この恐怖がなくなった。

当時の水洗便所は圧倒的に和式で

高置式水槽という危険なシロモノだったのだが

それでも清潔さは比類ない。

 

水洗になれば洋式にするのもそんなに手間ではない。

和式便器の上に洋式便座を模した

『洋式便器もどき』がうれたりした。

 

 

Images

 

これは『洋式便器なのに

和式便器のように蹲踞できる台』

 

 

 

 

 

 

 

さらに、日本で水洗式便所が遅れた理由は

もう一つある。

 

人糞を肥料にしたからだ。

これを日本の貧しさだ、という馬鹿がいる。

ヨーロッパはそんなことしなかったのに、とか

キ○ガイみたいな解説をする奴がいて、

こんな奴はデニス・ムーアに

食わせてやりたい。

 

 

人糞肥料は窒素空中固定法ができる以前には

圧倒的に有効な施肥法だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

温帯モンスーンで土壌が豊かな日本の

農業生産性はヨーロッパよりはるかに高い。

EU加盟国27カ国のうち人口で日本を上回る

国はない。

 

以前も言ったように、

日本人が卑屈になるほどには、

日本は狭くないのだが

平野が少ないこともあって、

人口一億二千万人以上を飼っているのは無茶だ

 

それを可能にしたのは、日本の肥沃さ。

 

 

 

 

 

 

そして、人糞肥料をはじめとして、

灰を埋める、魚肥を埋める、といった

農地改良のための日本人の

飽く無き欲求だった。

 

地味の乏しいヨーロッパで何故人糞肥料が

忌避されたのかよくわからないが、

日本では近世城下町が成立した

16世紀末から、糞尿回収はシステム化されて

いた。

 

江戸の場合、糞尿回収は

いわゆる肥たごを両天秤に担いだ人が柄杓で

すくって集め、

それを川船で集めて荒川から埼玉や武蔵野に

送る。

 

こういった業者は、まあヤクザであり

『糞尿ビジネス』には巨大な利権があった。

 

 

江戸時代だけではなく、

戦前には鉄道による糞尿輸送というのも

行われた。

現在の西武池袋線は創立時には

『西武農業鉄道』といい、

そのために敷設された。

(実際には行われなかったらしい)

 

こうした、人糞肥料の広範な普及が、

日本における洋式の普及を妨げた。

 

 

戦後、化学肥料が主流になってはいくが

トップメーカーのチッソは、

公害を垂れ流して水俣病を引き起こす。

 

 

 

 

 

 

日本で、人糞肥料が衰えたのは、

ようやく1970年代。

化学肥料の普及もあるが、さらに大きな理由は

寄生虫だ。

こういうことに日本人が神経質になり始めた。

 

今の子供たちも検便くらいはするだろうが、

おそらくぎょう虫検査のポキールなんて

いうのは、もう知るまい。

 

 

 

 

Pokile

起き抜けに肛門にシールを貼る。

寄生虫は何故か律儀に肛門の外に

産卵するので虫卵がわかる、と。  

 

 

 

 

 

昭和40年代のうちの小学校には、

畳2枚分くらいの大きさで『回虫がつくまで』

というポスターがあった。

いわく、人糞に虫卵がついていてこれを撒くと

野菜につく。

人間が食うと腹の中で大きくなるということが

イラストで書いてあったのだが

すごく嫌だった。

 

 

 

 

1970年代、日本の下水道普及率は

2割台だったのだがこれ以降急速に伸びる。

『水洗=洋式』ではないことは繰り返し述べて

きたことだが

水洗が洋式便所を可能にした、

ということも事実だ。

 

 

 

しかし、下水道の本管が来て、あるいは

浄化槽設置に

手厚い補助金が出るのなら水洗にしたい。

せっかくなら、あなた洋式にしない?

そうよお父さんそうしなさいよ。ということで

平屋でさえ日本の家は水洗便所になっていく。

 

 

 

 

 

 

日本では『水洗便所』は遅れてきた技術であり

『団地妻』もとい『団地』とともに登場した

洋式便所は遅れてきたが故に、

何故かハイカラだった。

 

正直、公衆便所で洋式便座に座るのは

私でさえ抵抗があるのだが、施工的な理由も

あって、いまや不特定多数が利用する施設では

便所のほとんど全てが洋式である。

 

もう少し『和式』を復権させてもいいと思う

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もっとも、冒頭のニュースの野村の株主は

「会社の商号を『野菜ホールディングス』に

変更するよう求める」

とか言ってるそうなので

およそ、精神の平衡を欠いた人なのだろう。

 

 

馬鹿でも金持ちならいいよなあ…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日のデニス・ムーア。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

デニス・ムーア、デニス・ムーア

ふんふんふんふんっふふん   

 

 

 

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2012年6月11日 (月)

『北京の55日』と伊丹十三

6月10日は義和団事件で日本が北京に軍隊を

派遣した日。

(Wikipediaの記事)  

1900年、というから日露戦争の4年前。


















こいつ、またわけのわからん事件を持ち出して

きよったぞ。と言う前にこれを見てください。

 

 

1963年の映画『北京の55日。』














北京城に立てこもった

日米欧8カ国連合部隊500人の戦いを

描いている。

     
 

これはラストシーンの部分。

各国の救援部隊が入城して

籠城していた外国人に迎えられる場面。

 
   

日本軍部隊の指揮を執ったのは陸軍中佐、

柴五郎。

この映画で、彼の役を務めているのが若き日の

伊丹十三。

この動画では、末尾で救援に来た日本軍部隊を

迎えるシーンで、ほんのちょっと出てくる。















世界史の教科書でこんな写真を見たことがない

だろうか。

 

250pxtroops_of_the_eight_nations_al     

8カ国連合軍の兵士たち。

 

 

         

この作戦に出動した、

露・仏・米・印・独・伊・英・墺・日の

各国兵士みなさん。

明治時代というのは日本人の体格が

一番小さい時代だったとはいえ、

こんな写真は人種差別だ。
















義和団事件自体はめちゃくちゃな事件だった。

義和団、というのは初めから組織された団体

ではなく反欧米、ということで盛り上がった

民衆運動。

 
 

これに西太后が乗っかって北京駐箚の

列強公使館を襲い、宣戦を布告した。

北京城は清国軍と義和団によって

攻囲されてしまう。

        
 

退去と降伏を通告されたのに拒否したため

起きたのが冒頭の動画にある篭城戦。

『55 Days at Peking』である。

6月の籠城から8月の連合軍進駐までだから

『55days』。


















日本でも攘夷運動のあげく

薩英戦争とか下関戦争をやっているので

あんまり人のことは言えないのだが、

この戦いで敗れた清は、

その後の歴史ではもうまったく駄目だった。

        
  

しかし正規軍が信用できないからといって

暴動に身を任せた西太后は無茶である。

当然負けて、

この人は中共では未だに名誉を回復されて

いない。

 

        
 

1984年に『西太后』という映画があった。

宮中のライバルの女性の手足を切り落として

胴体と頭をでかい瓶の中にいれ、

自らの糞尿にまみれさせて、

豚とともに飼っているというシーンがあって

あれはカップルで見に行く映画じゃなかったね

 
  

もちろん、こんなふうに外国軍がつるんで介入

するあたり、

帝国主義時代の列強もひどい話である。





















この映画は1963年公開ということもあって

徹底的に、アジア人を馬鹿にした視点から

描かれていて、むしろ痛快ですらある。

 

 

      
 

この精密で巨大なセットは、当たり前だけど

毛沢東時代の中国に作られたわけではない。

スペインの荒野に組んだんだそうだ
         

 

実際の義和団事件では、

地理的に近く、政略的に不平等条約改正や

日露戦争も睨んだ日本帝国が最大の役目を

果たした。

         
 

彼が演じた柴五郎は最大の『功績者』なのだが

この映画での29歳の伊丹十三は、

全く端役の扱いである。

 

 
   

2012y06m10d_171124155大砲があるから皆殺しにしよう

という提案に反対する伊丹十三

 

 

 

伊丹十三のメジャー映画デビュー作で

この人はこの時代、ヨーロッパ滞在の経験を

もとに『ヨーロッパ退屈日記』とか、

『女たちよ!』といったエッセイを書いている

 

日本人観光客がまだ珍しかった昭和30年代に

海外に出て俳優デビューをしたし、

年齢も20、30代だったから、

いかにも「背伸びした若造」の文章である。












この役を演じた直後に、

『日本人はスパゲッティを知らない。

イタリア人は、スパゲッティを茹でる時、

「アル・デンテ」という「芯を残した」感触を

最も大事にするんだ。馬鹿野郎』

という文章を書いていたのかと思うと、

なんか切ない。 

 

    
  

2012y06m10d_182735525主役チャールトン・ヘストンに

叩き起こされる日本軍水兵。 

海軍はいなかったはずだが

 

 

 

          
皮肉ではなく、伊丹十三は私が最も尊敬する

エッセイストだ。

『小説より奇なり』に所収されている

エッセイは、脱力感に溢れているくせに、

妙な凄みがあってかっこいい。

 

 

あんな文章が書きたい。

 

  

しかし逆に、『退屈日記』のあたりの時期、

正直この時代の文章は、あまり好きになれない

この時の伊丹が、今の私よりも20くらい

若かったということもあって、なんとしても

やりきれない。












この時代の日本人を体現するかのように

背伸びしていた、

とかいうまとめ方をすると陳腐だな。

 

 

 

 

  

むう。

 

 

 

 

 

 

1960年代、民間人で海外に行けたのは

トランジスターのセールスマンか

兼高かおるくらいだった。

      
 

だから彼の文章は新鮮だったのだが

同じ時代に海外に行っても

『どくとるマンボウ航海記』を書く人もいれば

『太平洋一人ぼっち』を書く人もいる。










若干、高踏的で難解な人だった。

しかし、最高のエンターテナーだった。









































では、今日の『北京の55日』





















なによりも、この映画の精密さが素晴らしい。

ヨーロッパ中の中国人を動員した、

というのもうなずける。

 

 

そしてさらに恐ろしいこと。

最近のYou tubeは著作権に妙に厳しいのだが

この映画に関しては

こうやって全編が見られてしまうのである。







うーん…








字幕を見ると、南米あたりからの

流出品らしいが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おまけ。






















伊丹十三。映画監督デビュー第2作

『タンポポ』の一シーン。

 
 

『最後のチャーハン。』

 

 

この印象的な演技をした女優さんは三田和代と

いって『コピーは三田』の会社のオーナーの

娘さんだそうだ。

 

 

 

 

むう。

 

 

 

 

伊丹プロダクションは映画の予告編さえ

削除して回るくらい著作権に厳しいので、

すぐに見られなくなると思います。

 

 

 

 

 

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じゃあ、リンクするなよ…

 

 

 

 

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2012年6月10日 (日)

免許更新と神戸散歩

今週金曜日に自動車の免許の更新をしてきた。

   

何分私の誕生日は6月14日なので、

6月14日なのでっ。                  

(著作権@キクチ)

それ以前に行かないといけない。

  

   

  

   

   

私はなにぶんにも、優良ドライベー

金色免許証の所有者であるので

明石の免許更新センターで

2時間も3時間も講習を受けなくてもよろしい。  

   

 

 

 

 

 

 

 

従って、講習は青色免許証の未熟どもが通わねばならない

埃くさい伊丹の免許センターなどとは違う。

元町の県警にある

『優良免許者更新センター』なるところで受ける。

全館空調の素晴らしい施設。

  

   

ただしすげえ、流れ作業。

  

 

用紙をもらって、それに書き込んで

証紙を買って、視力検査をして、

写真を撮って講習を受ける。

 

 

その流れによどみがない。

私が受付に行ったときにはほかにも、同時に申請に来た

『優良ドライバー』が50人くらいのいたのだが、

免許証をもらってトイレから出たら

もう、みんないなかった。

  

あのまま残っていたらハムにされていたかもしれない。

   

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なにぶん優良ドライバーなので

もういっぺん言うと、優良ドライバーなのでっ、

警察の皆さんもとても優しい。

      

警察というのは敵に回さなければ、こんなに心強い組織はない。

敵に回したのかよ。(著作権@キクチ)

 

 

 

これだけの手続きなのだが、全てに間断がない。

視力検査のためにコンタクトレンズを新調したのだが

5秒で終わった。 

 

  

  

まあ、あんまりねばられても困るけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

ただし、昼休みが2時間もあるのはまいった。

時間を持て余してしまった。

でも、おかげで、元町から花隈、神戸のあたりを

うんと歩き回った。

 

 

このあたりをこんなに歩いたのは

20年ぶりくらいのような気がする。

 

 

元町から花隈のあたりは、崖が海に落ちるところで、

等高線に沿って細い細い路地がある。

 

そういった路地沿いに、

下見板張りの料亭なのか待合なのか

それともただの家なのか、しかしそんな家があって

あじさいと一緒に雨に濡れている。

   

でも、昔よりそういう雰囲気は減ったな。

昔はもっと、元気がなくてよかったのに。(ほめてます) 

 

でも地形は変わらない。

どんどんほそくなっていく路地や、

突然階段に落ちていく曲がり角とか、どきどきする。

 

 

 

 

   

 

神戸は、元町の丘の上には県庁があり、

県警もあるし、官民合わせてオフィス街だ。

 

これは明治時代から変わらない。

日本の県庁所在地では、結構市役所の場所を変える街

というのは珍しくないが、意外に県庁は動かない。

 

兵庫県の場合も、明治時代の県庁舎が

現在も『兵庫県公館』として公開されている。

 

Ca3g0003_4

  

ペプシバオバブと一緒に。

背景にあるのが兵庫県公館  

  

  

 

 

 

  

役所の周りには街ができる。

  

料亭とか、待合とか、郵政省御用達の料理屋とか

なんじゃそれは?という家が、結構きちんと繊細な造作で

欄間とかが凝っていたりすると歴史を感じる。

そういう家がひっそりと雨に打たれていたりするのはいい。

  

『スナック カラオケ ○○会館』なんていう建物が

『誰が来るんだろう。』という崖の下に佇んでいるのもいい。

色タイルを多用した昭和40年代の建物なのもいい。

そして今でも、

スナック・ピカタは営業しているらしいのがいい。

 

誰が行くんだろう…

 

 

 

 

 

 

もちろん、花隈のあたりは、役所とは関係がなく

神戸で一番古い街の一角で

『なんでこんなところに、どっしりとしたまんじゅう屋が?』

という店があったりもする。

五平餅みたいなのを売っている店に、

観光客ではなさそうな地元のおばさんが入っていくのもいい。

 

でも、やっぱり20年前からだけでも、だいぶ変わったね。

  

  

 

 

 

 

   

元町から三宮のあいだには、

震災前後から、不思議な雑貨屋とか無国籍ご飯屋とかが

増えて面白い。

  

ひさしぶり、本当に10年ぶりくらいに丹念に歩いたら、

声をかけられた。

  

まだ震災前によく通っていた店のマスターに声をかけられて

本当に驚いた。

  

 

 

 

   

   

まあ、ここから先は言わないでおきます。

もったいぶっているわけではなくて

本当に、驚いたのだ。

 

こういう文章だと、雨に濡れる紫陽花の写真なんか載せると

奥行が出るんだろうけど、残念ながらそんな写真はない。

  

ケータイの電池がなくなりそうだったからである。

うーん。・・・

   

   

  

 

 

機会があれば、読者の皆さんを

「神戸 元町ツアー』に案内してあげたい。

  

決して名所旧跡を案内しない。

モダン寺の背中しか通らない

モトコー四流グルメも楽しい。

いいですか?真面目な案内はしませんよ。

でも絶対楽しいことは保証する。

   

 

さあ、どうだ?

     

  

  

  

  

 

  

 

 

 

 

 

  

 

  

 

では、『今日の一枚。』

 

 

 

 

 

 

 

 

0000arigura

 

   

    

    

     

   

  

フロアの面積が、4倍くらいに

広くなったそうですよ?  

  

   

   

   

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2012年6月 9日 (土)

安土城の日

6月7日は『安土城竣工の日。』

まあ、あんまり確かな裏付けはないらしいが

安土城の天守閣が完成したのが1576年のこの日。

(Wikipediaの記事へのリンク)

 

 

 

 

  

 

  

  

 

  

  

  

  

   

   

 

 

 

 

滋賀県立安土城考古博物館のウェブサイトというのがある。

(リンク)

  

その内容たるや、

周辺案内だったり学芸員の自慢だったり

「催し物案内」のリンクが切れていたり

実に見事に安土城と、その城下町の本質に迫らないあたり、

ナイス嘉田知事。

 

 

 

0000kada_2

   

えー

知らないわよう

         

   

   

で、それはどうでもいいのだが安土城というのは滋賀県にある。

琵琶湖に面している。

  

岐阜から進出してきた信長が、地盤である東海と、

経済の中心であった関西を結ぶ拠点として

この地を選んだ。  

  

ただ、この地が、『天下布武』の中間地点だったことは

信長自身も自覚していたはずで、

彼は足利義昭を擁立しつつも、自ら京都入城を目指した。

石山本願寺との闘争を経て大坂に首都を置きたかったらしい。

   

その構想は秀吉の時代に実現する。

    

    

    

     

    

     

   

    

    

      

    

    

 

安土城、というのは今は遺跡しかないが、

びっくりするくらい駅前だ。

最初に行ったのは学生の頃だった。

安土山という山に築かれた平山城で麓に街があった。

   

もちろん遺構はない、

最近は復元されているのかもしれないが

30年前は『セミナリヨ』の跡を探すのも大変だった。

(石碑しかなかったぞ。)

 

   

城に登るのも大変だ。

安土山はせいぜい200mくらいの標高しか無いのだが

すごい急坂。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まだゼミ生だったからファイト一発なんだけど

なんだよ、あの階段はよ。

   

今なら階段というのは、安い建物では

蹴上げ200mm踏面250mmくらいで作っている。

 

(用途によって違います。保育所でこんな階段があったら違法です。

ここら辺共産党西宮市部のバカどもはわかっていない。馬鹿野郎。)

    

 

 

 

ところがこの城では

蹴上げ50cmくらいでごろた石が積み上げてある。

   

しかも、山城のくせに山中に『羽柴秀吉屋敷跡』とか

『森蘭丸屋敷敷地跡』なんていう立札がある。

言われてみるとちょっと平らだけど

『屋敷』とか建つかなあ、という敷地。

    

    

   

多分、常時住むような場所ではなく、

『屋敷地を賜った。』ということが大事だったんだろう。

   

そう言う意味で、

安土は『近世城下町』ではないのだが

騎乗できる武士や、輿に乗れる連中はともかく

あの城に『通勤』しなければならなかった

桃山時代の下っ端武士は可哀想だ。

    

   

   

   

   

   

   

   

   

安土城は、今はない。

   

山そのものが天守台みたいな城なんだけど

山頂にあるのは礎石だけだ。

   

信長の時代には

足下に琵琶湖がひたひたと迫っていたらしいが

今日はその風景はない。

   

安土城喪失の原因は確かではないらしいのだが

放火だとか落雷だとか言われている。

   

仮に時代を生き延びても略奪に合わなかった可能性は乏しく、

江戸時代、旗本に落ちぶれた織田家に

維持できるはずはなかった。

   

ちなみに、フィギュアスケートの織田信成くんは

信長の七男、信高の十何代か後の末裔である。

    

 

 

 

  

 

 

 

『安土城がなくなるのは必然だった。』と思う。

その後の政権闘争は関係なく

『家臣の城下集住』ということを徹底できなかった安土が

近世を生き残ることはできなかったはずだ。

  

  

そもそも信長自体、ここを『中間地点』だと考えていたのは

冒頭に述べた通り。

 

逆に、信長が『天下50年』で終わらなければ

こんな琵琶湖の浅瀬の街は

あっさりと見放されていたような気がする。

 

この人が70まで生きてたら、どこまで行っていたんだろう。

秀吉がそうしたように、朝鮮や中国まで行っていたか?

呂宋を経てシンガポールあたりに

海洋帝国を築いていたか?

 

   

 

そういうことを考えるのも楽しいけど

いずれにしても、歴史の虚像だ。

 

明日、また別の街を取り上げるが

滅びるべくして滅んだ街。というのはなんとなくいい。

   

地元の人にはいい迷惑だろうがなんとなく、いい。

   

   

   

    

     

    

    

    

   

    

    

   

    

では、『今日の信成くん。』

  

   

    

   

   

   

 

    

信長が自害の前に舞ったとされる舞

『敦盛をバックに踊る信成君』という

キャプションがついている動画。   

   

『人間五十年、化天のうちを比ぶれば、

夢幻の如くなり。一度生を享け、

滅せぬもののあるべきか。

      
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、

口惜しかりき次第ぞ。』

   

 

という音楽をバックに踊ってます。

 

うーん…

 

  

 

 

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2012年6月 8日 (金)

『ベビラン』は危険じゃないのか?

子供を三輪車に乗せて親がランニングする、

『ベビラン』なるものが紹介されていた。

(読売の記事)  

 

 

 

 

ベビーカーを押して子供とランニングしよう。

お父さんも参加すれば楽しいよ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言ってみれば『乳母車で全力疾走』みたいな

もので、子供が揺さぶられて危ないだろう。

と思うのだが、

リンクした読売の記事では、

この乳母車を紹介して

『エアタイヤにサスペンション、

頭が揺れないから子供にも安全』

と言っている。

 

 

さてどうだろう、というのが今回のテーマ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月6日の読売新聞に掲載されていた写真。

0000unnkokusobaka

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この『ベビラン』運動というのは、

読売の記事にある神戸市の主婦と旦那が

夫婦で立ち上げたらしい。

 

それは別に構わないのだが、

肝心の車両の構造について調べようと思ったら

びっくりするくらい情報がない。

 

このおばさんは、『○○という媒体に

取り上げられました。』

『今度イベントをやります。』ということの

宣伝は熱心だが車両の構造には、

あまり興味がないらしい。

そもそも工学の基礎を全く知らないんだろう。

 

 

 

従って読売の写真を引用した。

ご丁寧に、禁無断転載と書いてあるものを

フルサイズで引用しているのだが

真面目な話だ。聞いて欲しい。

 

危険を告発することに

著作権なんか関係あるか、馬鹿野郎。

かかってこい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず、この写真の撮影場所は『神戸市東灘区』

とあって個人的にはほぼ場所が特定できる。

 

うん、ごめん。そんなことじゃないよね。













まず『エアタイヤ』というのを読売は

自慢している。

つまりチューブで空気を入れるタイヤ

ということだがチャリンコでは昔からそうだ。

そんなこと当たり前じゃないか。

乳母車は違ったのか?

 

そっちのほうが驚きだ。





そして、『サスペンション。』つまり、

ボディと車輪を切り離すシステム、なのだが

ここで引用した写真を見て欲しい。
 


左右の赤い車はボディから、フリーヒンジの

バーが出て、それを油圧か空気か知らないが、

ダンパーで支えているように見える。

違うかもしれない。

そうだとしたら、非常に原始的な

リンク式サスペンションだ。

真ん中の黄色い車は、

そういう機構がないようにも見える。

後輪に関しては、いずれもそういったものが

ありそうには見えない。

それなら車軸を支えるフレームにコイルばねが

仕込んであるかと思ったが、そうも見えない。

うーん・・・













でまあ、問題はバネじゃないんだ。








振動の問題というのは非常に面倒くさいのだが

工学系にいる以上、専攻を超えて

永遠のテーマだ。


 

ベクレルもステラジアンも知らない

読売の文系記者が

したり顔で解説を加えるなんて、片腹痛くて

先生、私の肝硬変まだ治ってませんか?







 

ボディと車輪の間に作る、バネやダンパーなど

の機構がサスペンション。

車輪からの振動がボディに伝わるのを防ぐ。

滑らかに走ることができるようになると共に

接地力を失わないで走れるために、操作性と

安全性が高まる、
 

そして、ボディに対してサスペンション以下の

車輪の部分の重さ(バネ下荷重)を軽くすると

地面に対する追従性が良くなって滑らかに走る
 
 
 
 
 
そこで考えて欲しい、

子供なんてせいぜい体重数キロだろう。 

『乗客』はひどく軽いのだ。
 
 

そこに、複雑な車輪をつけてバネ下荷重を

相対的にうんと重くたくしたうえで

背中からハンドルで揺さぶったら拷問だ。
 
 
 
  

紹介はしないが、このおばさんのHPには

もっと凝ったベビーカーが載っていて

F1なみのマルチリンクサスペンションに

大口径タイヤを履いていたりする。
 
 
 
 
 
  
 
 
  

重いでしょ?







  

子供は口が利けないが、

どう考えても乗り心地は悪い。
 

『あら、笑ってるわよ。』とかいう

想像力のないやつは

ものづくりに参加してはいけない。

あなたの子供は魯鈍かもしれないじゃないか。

















 

そして、もっと根源的なこと。


 

ベビーカーは後ろから押すのだ。

お母さん、あるいはお父さんが背中から押す。

したがって、おばさんがどたどたと走った

その振動は

ハンドルを通じてダイレクトに車体に伝わる。


 

そのボディが中途半端なバネで支えられて

いたら、

逆にゆわんゆわんと

車体を揺らすだろう。





 

車輪そのものに直接駆動力を伝える、

つまりバネ下部分しか動かない

自動車とはここが決定的に違う。



 

接地部分である車輪とボディとを緩衝する

サスペンションは

本来は、地面からの振動を抑えて

なめらかに走らせる機能がある。

しかしボディを直接押すのであれば

おばさんの息遣いもろとも伝わる。



 

だから、車体そのものを

ドタドタと押すのであれば、

凝ったサスペンションには

なんの意味もない。
 
 
 
 
 
 
  
 
  

まだある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

そうやって、背中のハンドルで押す以上、

荷重のほとんどは後輪にかかる。

そうなるとどうなるか、というと

直進安定性が悪くなる。






 

一度でも車椅子や乳母車を押した事がある人は

わかると思うが、

普通に押しても真っ直ぐ進むのは結構気を遣う

そういう車は、小回りをよくするために

あえてそうしている部分があるわけだが、

背中から押して走る、

というのであればそうはいかない。


 

直進安定性をよくする方法はいろいろあるが

手っ取り早い方法は、前輪と後輪の距離

(ホイールベース)を伸ばすことだ。

 
   
  
  
 
 
 
 
 
 
 
 
  

ドラッグレースというものを

知っているだろうか?

ゼロヨン(0-400m)の直線を

いかに早く走るか、というレース。

強力なエンジンを積み、後輪駆動で走る。

市販車を改造したレースも行われるのだが

それだけのためにに開発された車、

というのもあって、たとえばこんなの。

 

240pxdragster       

極端に長い

ホイールベース

    







直進安定性をよくするためにこんな事をする。

ここまでになると、ほとんど曲がれない。






  

ここで改めて冒頭の写真を見てもらうと

三輪にして、前輪を前に置くことで

長いホイールベースを得ている。






 

もっとも、そのために三輪にしているとも

思えない。

ただでさえ、安定のためには四輪でないと

意味がないのだが軽量化のためだろうか?

しかし、こうなると前輪にかかる荷重は

極端に低い。

速度がつきすぎたら、ご自慢の車輪ごと、

ぐりっと、あさっての方に曲がって

いきかねない。










 

実際ドラッグカーがバランスを失うと

こんな事故が起きる。 

 

レース用にチューンされた車でもこうなる。 

前後輪の荷重バランスを考えないと

危険なんだ。 


























ブレーキが貧弱なのも気になる。



 

冒頭の写真の『ベビーカー』は

どれもディスクブレーキを持っていない。

 

昔見た、介護専用の車椅子は

乗っている人が一切操作できない代わりに

背中から押す介護者のハンドルには

ブレーキバーがあり、タイヤには、ホィールの

1/5くらいの口径のディスクブレーキがあった

 
 
 
 
  

あの車椅子なら四輪ドリフトができると思う。
 
 
 
 
 
 
 
  

当たり前だけど、
 
 
 

『走る』ことが前提ならば、

それ以上に『止れなければならない』

 

 

 

 

 

 

 

 

その批判に耐えられるのか?

 

 

 

 

 

 

 

ベビランして、曲がり角で人にぶつかったら

全力で発言小町に投稿して

相手を責めやしないか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『なによ、アメリカで実績があるのよ』、

というかもしれない。

でもそれは危険の免責にならないんだ。

事故があった時に、『だって、アメリカで…』

というのか?

 
 
 
 
 
 
 
 
 
    

真面目にやろうぜ?

大人だろ?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そして、体感速度のスケール感というのも

考えて欲しい。


  

子供の体重があなたの1/10だとしたら、

子供が感じる『速度感』はあなたの10倍

ではない。



   

ここらへん、文系が勘違いするところなのだが

『平方』と『立方』を間違える。





  

速度感は1000倍、とまでは言わないが、

絶対に体のスケール以上にある。

あなたが泣き叫ぶ『絶叫マシーン』は

実は50km/hくらいだったりするのだ。


















   

ほかにも、これほど普段遣いしにくい輸入車

であれば普及しないだろうな、とか

クラブミーティングのように、同好の人が

公園などの安全な場所でやるならともかく

冒頭の写真のように公道で走って事故でも

起こったら社会問題になるぞ、

とかいろいろ思う。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

だからおやめなさい。

主催者であるあなたのためも思って

言っている。

ちがうな。
 
 
なにより子供のためだ。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

これが『ランニング』ではなく、

子供と一緒にウォーキング、

くらいだったら文句は言わないのだ。

しかし、このおばさんのHPが、

ほぼ自分の自慢とイベント紹介に

尽きているところが私の怒りの琴線に触れた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
    

なんて切れやすい琴線だろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
     

読売の写真で場所はわかった。
 
 
 
 
 
  

そもそも、

あんな風に公道で走っていたら違法だ。
 
 
  

事故に遭っても文句は言わん、

ということだな?




 

いい度胸だ。

ふざけんなよ?



































  

では、『今日の三輪車。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こうやって自分で運転できるんなら

文句を言うつもりはないんだ。

一番体が大きいやつが

びりなのもいい。








三輪車ワールドグランプリ2010

IN富士サーキット。

 

素晴らしいくだらなさ。

こういうのがいいんだ。



 

健康とか育児とか関係あるか、

この馬鹿野郎っ。








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今回の記事を見て場所及びほぼ個人が特定できたことで

これは脅迫じゃないか?

なんてことを思う人がいるかもしれないが、

とんでもない。

 

僕は○○駅から、みなさんのベビランカーを見て、

星明子のように電信柱の影から見守って差し上げる。

そして、目の前を通ったら・・・

 

ふっふっふっふっふっふっふっふっふっふっふっふっ

ふっふっふっふっふっふっふっふっふっふっふっふっ

 

 

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2012年6月 7日 (木)

謝罪ホテルの歴史

今年5月に死者7人を出した、

広島県福山市のラブホテル経営者が土下座して

謝罪。

(読売の記事)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

0000kansaka

 

 

 

ごめんなさいっ

 

 

 

 

 

ああ、こいつは殺人焼肉屋。

コイツが今どうしているのかというと、

知人の飲食店でバイトしているんだという。

 

うわあ、こわい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、まあホテルのオーナーといえばこいつ。

0000_apa

 

 

ごめんなさいっ

 

 

 

 

あ、うん。ごめん。

こいつは、2007年に京都市内の

複数のホテルで耐震強度偽装が発覚した

APAホテルの元谷社長。

 

 

 

 

 

 

 

 

『殺人ホテル』といえば、

こいつだこいつ。

0000_yokoi

 

 

本日は早朝より

お集まりいただき

ありがとうございますっ

 

 

 

1982年に死者33人を出した

ホテルニュージャパンのオーナー横井英樹

まだ鎮火していないホテルに集まった報道陣に

対してハンディマイクで冒頭の発言をした。

 

ホテルニュージャパンは都心にありながら

格安だということで人気を集めたが、

この火災で廃業。

その後は長いこと廃屋のままで放置された。

 

バブルど真ん中のご時世に『呪い』もなにも

あったもんじゃないはずだが、

日本で一番有名で地価が高く

交通至便な廃墟であった。

 

現在は、森ビルが経営するオフィスビル

プルデンシャルタワーになっている。

月命日の8日深夜には幽霊が出るらしい。

出ないという話もある。どっちだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、まあ。これらのビル火災に共通するのは

ビルが違法だった、という非難。

 

焼肉屋はどうでもいいが

APAホテルの耐震偽装は故意であり、

ニュージャパンに至っては

スプリンクラーヘッドを偽装してまで

消防検査をごまかした。

 

これでは犠牲者がやりきれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あ、忘れていた。

今回のラブホの経営者はこちら。

0000hotel_prince

 

 

 

ごめんなさいっ

 

 

 

 

 

事件からひと月も経って、いまさらなんだ。

と思う。ふざけるな、と。

 

で、こいつのホテルの場合、

木造の建物にRCの建物を増築して

違法建築だったという。

 

ただ増築しても、

連絡部分にきちんと排煙や区画をとっていれば

『消防法上の別棟』ということになるので、

それだけで違法とは言えないと思う。

 

 

『正義のマスコミ』はこういうニュースを流す

一方で、増築増築で迷路のようになった木造の

日本旅館を

『いやあ、隠れ家感覚の

素晴らしいお宿ですねえ。』

とかいって宿泊券をプレゼントしたりするので

マスコミなんて、みんな死んでしまえ。

 

 

 

しかし、こいつのラブホは、

きちんとはしていなかったらしい。   

そればかりか、窓を塞いで煙が抜けなくなる

ようにしたり誘導標識が不十分だったという。

 

 

 

 

 

ここでまじめなお願い。

 

仮に既存不適格であっても

せめて排煙と誘導標識はちゃんとしよう。

これなら明日できる。

廊下の曲がり角ごとにマークを貼り付け、

窓を塞いだコンパネを引っペがせばいい。

 

 

 

 

 

 

窓を塞いでクロスが貼ってあったら

室内からは絶対にわからないし、

そもそもラブホに行く奴はそんなところを

見てはいない。

 

ラブホテルで死んだら、

葬式で親族も身の置き所がなかっただろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

APAホテルは現在も経営しているが

焼肉酒家えびすも、ホテルニュージャパンも

既にない。

(精算法人としては存続しているらしい。)

このラブホテルも破産だろう。

 

 

 

いかがわしい建物は嫌いじゃないけど

命に関わっちゃいけねえよな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日のラッパー。』

 

 

 

 

 

 

 

 

血族としては横井英樹の孫。

戸籍上は実子である、

ラッパーZeebra君のPV。

 

出自を隠さないあたりは評価してやろう。

 

 

 

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2012年6月 6日 (水)

ドライブインシアターの日。

6月6日は世界初のドライブインシアターがオープンした日。

1933年、というから昭和8年のこの日、アメリカで誕生した。





 

 

 

 

 

 

 

 

 

いまの時代、ドライブインシアターの解説がいるのかなあ。




   

文字通り巨大な駐車場で

巨大なスクリーンに映画を上映する。

観客は車に乗ったまま映画を観るわけだ。




   

1933年だから、テレビの一般放送はまだなく、

アメ公の娯楽は映画とドライブだけ、だったとはいえ

日本には国産乗用車がなかった時代だ。






 

こんな国と戦争したら負けるわ。

 

 

 

 

 

 

アメリカでは1970年代には人気が衰えた、という。

ところが日本に登場したのは意外に最近で1981年。

船橋のららぽーとにできた。

 

0000lalaport          

閉館直前のPROUD

ちゃんとららぽーとって書いてある 

       








当然リアルタイムに覚えている。 

大阪だと万博記念公園にあったな。 








 

入場料は、人数単位ではなく車一台あたり、だった。

カップルで映画館に行くのよりは少し割安、

というくらいの値段だったと思う。



音声は、車のアンテナにFMの受信機を取り付け

カーステレオで聞く。


  

アメリカで時代遅れになったこの映画館が

1980年代の日本に登場したのは二つ理由がある。















   

ひとつは、当時の日本がバブルに向けて

走り始めていた頃だったから。




  

「デートカー」なんて言って、

プレリュードとかが大ヒットしたのがこの頃。


  

童貞どもはドラえもんに言われるまでもなく、今よりもはるかに

嫌味な教習所の教官にいじめられながら免許を取って

無理をして車を買ったのだ。












   

車を買って彼女が出来て

ドライブインシアターまで持ち込めば、

それはもう,柔道でいう『押さえ込み』である。







 

うん、そろそろ文章を制御しなといけない気がするが

そこに持ち込めば

そこはもう個室なのである。






   

もちろんららぽーとでそんな不埒なことをしてはいけないが

隣の車だってよろしくやっているんだ、と

強い心を持てば、

そこはもうパラダイスだ。

















ごめんなさい、うそついてました。

そんないいことありませんでした。














   

えーと「二つ」とか言ってひとつしか理由を書いてなかったな。





以前も書いたが、昭和50年代後半、というのは

日本中に郊外型大型ショッピングセンターが

出来始めた時期だ。



シネコンとホームビデオの時代の隙間、でもあった。


 

徒花といえばその通りだが

そんな時代が、日本にも一瞬だけあったのだ。








しかし、若造どもが今よりも猛然と免許を取っていたことは確かだし、

今より鼻高々だったバブル女たちが車のない男を

相手にしなかったことも確かだった。

 

 

そんなことより、なにより車に乗るのはたのしい。


真夜中クルージングなんていうのはガソリンと時間の無駄で

地球温暖化の敵かもしれないが、

たくさん乗ってドライブインシアターに行くのは新鮮ではあった。













正直、『一台あたりいくら。』という料金なので

4.5人が乗っていけば圧倒的に安い。


酒も食べ物も持ち込み放題なので

運転手以外は大宴会だ。(今は違法です。)












   

もちろん、FM受信機といったところで、船橋のような大都会、

しかもそばには高速があって違法な無線機を積んだトラックが

ばんばん走っているようなところだから、雑音が入りまくる。



  

さらに後部座席で画面を楽しむことはほぼ不可能で、

5人も乗ったら身をよじりながら

2時間悶え続けないといけない。




   

でもそんなことが楽しかった。

 

 

 

 

もちろん、シネコンができて、ビデオが一般的になって、

このスタイルは日本でも人気を失っっていく。







 

 

なにより

音声を聴くためにはステレオをつけないといけないし

夏であればクーラーをかけるから、

数百台の車が常にアイドリングをしている。



 

さすがに近所迷惑だし、

音声さえ我慢すれば、近所から画像は見放題である。

配給会社からも文句が出たらしい。


 

ポルノやホラー。戦争映画は流せない。

コンテンツが続かなくなっていく。


  

いま、日本で常時営業しているドライブインシアターはない。














 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ということでですね。』


 

『却下だっ。』

  

『アイディアくらい聞いてくださいよ。

ドライブスルーシアターって言いましてね。』


  

『スルーしちゃダメだろう。』


  

『違いますよ、ドライブスルー方式のDVD屋です。』


 

『シアターじゃないじゃん。』 


  

『でも店員の顔を見ないで、好きなタイトルの

DVDが買えるんです。』


 

『ごいっしょに何をお勧めされるんだ?』


 

『…ティッシュ?』


 

『きょうは、とみに下品だな、おい。』


 

『いつもと変わりませんっ。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 








『じゃあ、いま「車中泊」がブームだから、

ドライブイン有料チャンネル。』


  

『なんだよ、それ。』


  

『御夫婦のナイトライフを彩る69のチャンネルを

あなたの車のナビに有料で御中継。』


 

『その昭和なかな遣いも嫌だけど、

違法なことを言うのはやめようよう。』





   

『じゃあ、タワーパーキングシアター。』


  

『お前毎日そんなことばっかり考えてるのな。』


  

『だから、機械式の立体駐車場に入るとですねえ、

てっぺんに着くまでたっぷり映画を楽しんで

てっぺんについたら屋根がなくて、

満開の夜景なんです。』

  

『あ、いいじゃん。』


  

『映像は、持参のナビかDVDでご覧になれる。。

貸出の大型モニターもあります。

騒音もないし、映像で近所迷惑になることもありません。』


 

『おー…』


 

『ただ一つだけ問題があって・・・』


  

『なによ…』


 

『片道2時間だから、

恐ろしく回転率が悪いんです。』

 

『……』


『……』


 

『まあ、消防法とか建築基準法とか

いろいろと違法だしな。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
















では、『今日のプレリュード。』




 

 

 

 

 

 

 

 

1982年発売の、2代目ホンダ・プレリュード。  

うわあ、なつかしい。   

 


フェンダーミラーなのが時代を感じさせますねえ。










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2012年6月 5日 (火)

逃亡者の日

元オウム真理教、菊池直子が逮捕。

(毎日jpの記事へのリンク)

  

   

   

   

   

   

  

   

   

17年以上の逃亡の末に逮捕。

 

「菊池か?」と訊かれて「はい。」と素直に答えた、というのは

いい加減疲れていたのだろう。

   

   

   

最初にこのニュースを聞いたとき

17年なら時効じゃないのか?と思った。

   

かつて『死刑に相当する罪』の時効は15年だった。

これが逃亡9年目の2004年に25年になり、

2010年にさらに法律が変わって、

殺人等でで死刑に相当する罪は時効がなくなっている。

    

そもそも、オウム事件というのは、やたらとたくさん被告がいて

ずーっと裁判をやっていたから、この人はいくら逃亡しても

時効がカウントされることはなかった。

   

    

    

   

   

   

     

    

   

   

しかし、この人を殺人罪で起訴できるだろうか?

   

『サリンの製造』に、実際に関わっていたとしても、

『何を作っているかは知らなかった、』というのは

おそらく事実だろうと思うのだ。

   

生命に関わる危険物だということを認識していたとしても

それだけで殺人罪になるのだろうか。

そんなことをいえば堺の包丁鍛冶の人は、みんな

捕まってしまいかねない。

『あんな切れ味のいい刃物を作るからいけないんだ。』と。

  

起訴されても、あっさり自白すれば

意外に軽い罪で終わるような気がする。

   

   

あれ、そうなると時効は?

   

    

    

      

    

    

     

    

   

   

    

    

 

例えばあなたが人を殺したとする。

あなたが殺人を犯す、という意味ではない。

単純に頭のゲームだ。

   

   

遺体を隠そうとするなら愚かだ。

山奥に遺棄すれば発覚が遅れるだろう、

うまくすれば「行方不明」ということで迷宮入りになるかもしれない、

と考えるかもしれない。

   

しかし、そこまでどうやって持っていく?

部屋から出して車のトランクに積もうとして

「畜生、なんでこんなに大女なんだ。

この車は『超小型車』で超かっこよくてトレンディなんだけど

車体の幅員が1.2mしかないんだぞ。』

と後悔しやしないか?

   

   

ああっ。死後硬直が始まってるじゃないか。

しかも俺ってば、ドラえもんにあれだけ言われても

免許を取っていなかった。てへ。

 

   

 

そこまででも大変だ、ということ。

そして、てへじゃねえよ。

   

   

   

   

   

    

    

    

   

 

   

安部公房の小説に『無関係な死』という短編がある。

   

帰宅したら、死体があった。

全く知らない人だ。

何だこんなの知らないぞ。

諸事情があって警察には通報できないけど

もう、ないことにしちゃえ。

  

   

むちゃくちゃなシチュエーションドラマだが

死体を部屋の外に出した彼は、重大なことに気づく。

 

「血痕がある」

   

これでは捜査の手が及んだ時に

確実に犯人にされてしまうではないか。

今は「ルミノール反応」という検査法があって

どんなに少量の血痕でも反応が出ちゃうらしいじゃないか。

どうしよう…

 

その後、彼はカーペットに染み込んだ血痕を特殊な薬剤で

消去して、ふーやれやれ。

ところが消去した部分のカーペットは元の色が抜けていた。

これはいかん、どうしよう。

『そうだ、ほかの部分も脱色しちまおう。』

彼は部屋中に敷かれたカーペットの脱色をはじめる。

   

  

夜が明けて、彼が気がついたときには

まだらに脱色された部屋いっぱいのカーペットだった。

   

   

   

   

   

   

  

  

   

  

  

   

   

だから、遺体を隠すのは愚かだ。   

   

   

それ以前にも、遺体をトランクまで運ぶ、遺棄する。

その過程が見つからないはずがない。

   

この科学捜査と、監視カメラの時代で

とても可能だとは思えない。

    

いや、殺人なんかしない、

遺体の処理に困らないというのが一番だ、というのは

この際、一応なしにしてつきあってください。

          

   

   

   

   

   

   

   

 

だから逃げる。

  

 

  

   

   

    

   

   

遺体なんて隠さなくてよろしい。

あなたが地縁血縁、あるいは仕事の上で『死者にとって関係者』

であるならば、警察はプライバシーなんか無視して捜査する。

 

取り調べに耐える自信がなければ、

逃げるしかない。

   

   

   

   

 

 

全く無関係な強盗として、気づかれて殺しちゃった、

とか言うのなら、格闘のあとも含めて

隠しきれない物証があるだろう。

  

逃げるしかない。

   

   

   

 

 

 

   

で、殺人者が逃亡する理由はいくつかある。

まず 『時効を期待する人』

  

有名なのが時効成立3週間前に捕まった、福田和子

 

 

あんまりいい動画じゃないけど。

この人は、『(15年間)逃げ切ってやる。』と言っているから

確信犯である。

   

この人の逃亡劇はテレビそのほかのメディアで

散々に伝えられているから有名だ。

   

この人に関しては、『逃亡』そのものが

ゲームになっていたのだろう。

   

追われていることは十分に認識していたはずだから

その状況に酔っていたんだろうな。

  

複数の支援者がいて生活費には困らなかった、という。

実際こいつが捕まったのはおでん屋だった。

昼から飲んでいたのだ。  

こんな、くされま○こに金を出す奴がいたのか?

   

   

   

   

   

  

  

  

  

  

   

   

   

 

 

 

 

対して今回捕まった、菊池某は慎ましい生活で、

その住居は、ほぼあばら家である。

  

0000kikuchi

  

ここの1階に住んでました 

   

   

   

同情する気は起きないが、

『苦労したんだろうな。』という気はする。

実際、すごく痩せた。

  

   

2012y06m04d_212021275

    

   

BEFORE

   

   

   

  

2012y06m04d_211924565

   

   

  

AFTER 

  

   

   

   

出所して、『逃亡ダイエット』とか

そんな本を出さないだろうな?

    

   

   

   

   

   

   

まともな犯罪者であれば、

支援者がいる。

起訴されて差し入れや接見が自由になれば 

本の閲覧も自由だ。

 

暴力団関係者が服役中に、テレビや手紙

果ては酒や女まで手に入れていた、という。

    

    

     

     

     

      

       

 

      

 

 

 

 

ところがこいつは孤立無援だった。

   

母体のオウムが崩壊したから金がない。

多少の逃走資金は与えられたんだろうが、

まさか40歳まで逃げるとは思わなかっただろう。

  

『やれやれ。』と思っているかもしれない。

  

 

 

    

   

   

   

   

   

 

   

援助がない彼女は

介護士などでバイトして、自力で働いたそうだ。

 

バイトとはいえ、雇用する以上

社会保険に加入させる義務が

あるはずなのだが雇用主は、

きちんと身元確認をしなかったらしい。

   

   

彼女がよく働いていたかどうか、なんて

どうでもいい情報だ。

   

   

   

そういうことを教えると、いろいろ

悪いことを考える奴が出てくるぞ。

   

 

   

  

 

 

 

  

  

   

信じていた教団が嘘つきで、滅んだ。

夢も希望も、支援者もいない。

いま40で17年間逃亡ということは

『女盛り』を棒に振ったわけだ。

  

 

ある意味、こんなに孤独な人はいない。

未来が見えない、という意味では終身刑だっただろう。

 

  

同情する気は起きないけど、

なんか哀れだな、とも思う。

  

   

   

   

所在がわかっていて時効がなくて、

おそらく起訴しても大した処罰が与えられないことが分かってて

しかも、いつでも捕まえられるんなら

誰か一人刑事を『菊池番』として貼り付けて

あのあばら家で泳がせておけばよかったのに…   

  

社会的な制裁として…

  

ひょっとしたら、ほかの逃亡者が接触してくるかもしれない。

『エサ』として泳がせておいても…

と思ったけど、あの家を見ると気の毒かな…

   

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

   

では、『今日の逃亡者。』

         

    

 

  

 

 

 

 

 

 

 

逃亡犯というのはたくさんいて、

有名な例で言うとドラマにも映画にもなった、『逃亡者』

これは実在の事件をモデルにしている。

 

『身に覚えがない、妻殺害事件の容疑をかけられた

医師、リチャード・キンブルはジェラードリ警部の

執拗な追跡を逃れ…』  

という冒頭のセリフが懐かしい。

   

  

   

   

   

   

   

   

   

   

でもいまの人はこれだろうな。

1993年公開の映画『逃亡者』

   

ハリソン・フォードかっこええ。   

   

   

   

  

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2012年6月 4日 (月)

ミッドウェイ海戦の日

6月5日はミッドウェイ海戦の日。

   

   

   

太平洋戦争の天王山。

アメリカ軍の参加兵力、空母3隻を基幹とする50隻。

日本側、空母6隻を基幹とする100有余隻が激突。

       

     

       

     

日本軍が自ら企図して攻撃を仕掛け、

しかも参加戦力ではアメリカを圧倒した最期の海戦である。

   

そして負けた。

   

  

真珠湾から半年。

 

  

   

はやっ。

    

   

   

    

   

    

   

   

 

 

   

    

   

で、まあこの海戦の詳しい経過や敗因そのほかについては

ちゃんとしたWikipediaでも見てください。ちゃんとしてないのかよ。

  

 

   

 

負けた戦いなんかどうでもいいんだけど。

この戦いのあと、有名な「大本営発表が出される。

いわく。

『敵空母2隻沈没、

我が方の損害は空母一隻喪失、同一隻大破。』

  

   

『まあ引き分け。』

という雰囲気に持って行きたかったわけだが

実際の喪失空母は、

日本4隻に対してアメリカ1隻。

   

   

   

        

艦船の生産力や、飛行兵の教育システムの違いから、

日本帝国が、この時点のような戦力的優勢を持って

戦場に臨むことは、これ以降なかった。

    

   

   

    

この戦いについては、

   

『アメリカ舐めとったやろ。』

『南雲がアホや。』

『いや、うんと後方にいた五十六もアホやぞ。』

   

といった評価が多いのだが、実はこの戦い以前に

ニューギニア沖海戦というものがあり、

アメリカの空母レキシントンは沈没してるんじゃないのか?

そうじゃなくても戦線に戻れまい。

さらに空母サラトガも雷撃で仕留めてやったぞ。という

後世から見ても『こりゃ勘違いするよな。』という判断があった。

 

  

アメリカの空母は出てくるまい、出てきてもせいぜい2隻だ。

という判断を責めるのは簡単だが、

あなたが海軍参謀として同じ状況に置かれても

おそらく同じ評価以下しか下せないと思う。

   

   

   

しかし

   

    

   

海戦で散華した英霊に対してはもちろん、

国民を裏切ったのが、その後の「大本営発表」。

   

嘘満開なのはどうしたことか?

    

   

   

   

    

例によって前置きが長いなあ、おい。

   

海戦後、自軍の被害については

当たり前だが海軍は正確に把握していた。

  

しかし、それを半分以下にして国民に報じたばかりか

陸軍にも秘したのはひどい。

もっとも陸軍だけではなく、国民の広い層にも、

実は、『この嘘』は割と早い段階でばれていたらしいが…

      

   

   

ただ、こうやって『嘘をつく』のが癖となり

しかも、海軍の嘘は陸軍に伝わらないもんだから、

台湾沖航空戦でこんな誇大な嘘をついた。

    

●轟撃沈 航空母艦11隻 戦艦2隻 巡洋艦3隻

●撃破 航空母艦8隻 戦艦2隻 巡洋艦4隻

   

   

この戦果報告に天皇陛下から感状がくだされ

この戦果報告をもとにしたフィリピン決戦は惨敗に終わった。

   

   

   

    

    

    

    

     

もちろん宣伝の嘘は陸軍も同じようなものであり、

昭和19年から来襲したB29を、陸軍防空隊は、常に

『敵多数撃破、我が方の損害僅少なり』

報じた。

   

   

   

遠くの海でやっている海戦ならわからないが

毎日来ているB29はそんなに墜ちてないじゃないか、ということで

『大本営発表は信じられないぜ。』ということに

ようやく日本人も気がつき始めた。

      

    

  

  

   

   

   

   

で、まあこのことを

今回の福島原発の事故と、その後の対応に

関連付けようと思ったんだけど、なんかもういいや。

   

いま、『事故調査委員会』とかが開かれて、

エディが『いやあ、あの時は僕も自信がなくて

記者会見で困っちゃいました。』なんていう。

 

菅さんが、『官邸には何も情報が上がってこないから。

僕自らヘリで行って、現場の人とトモダチになれました。』

なんていう。

   

つくづく駄目だねえ…

   

   

   

   

  

    

   

あの頃は、ちょっとは信じていたのにな・・・

   

   

   

  

   

    

   

こんなニュースを聞くと、

    

この夏の電気だって、案外足りるのかもしれないし、

福井の原子力発電所にしたって、

1000年に一度程度の地震では大丈夫かもしれないが

エチゼンクラゲが大発生したら、取水口が詰まって

冷却水が取れなくてメルトダウンするかもしれない。

 

と思う。

    

   

 

 

あんまり心配しすぎるのは心の健康に悪いと思うけど、

ほんの1年前のことを、

簡単に謝ったり開き直ったりされたら

ニュースが信じられない。

   

  

 

むかし杞という国に

『いつか天が落ち、地が崩落して

身の置き所が無くなってしまうのではないだろうか。』と

心配して眠れなくなってしまった人がいるそうだが

いまの『日憂』は、

がれきを受け入れる市役所に脅迫メールを送る。

  

   

  

そんなことが笑い話になるようにしてくださいよ。

   

     

    

      

       

   

        

         

       

      

       

   

   

   

      

     

では、『今日のミッドウェー。』

   

   

    

    

    

     

    

    

     

    

    

当時のカラーフィルム。

   

   

 

   

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2012年6月 3日 (日)

大坂落城の日

6月3日は『大坂落城の日』

 

1615年のこの日、大坂夏の陣で大坂城が陥ちた

これで豊臣秀頼やマダム淀君以下、

豊臣家の首脳たちは自害。

豊臣家の男子の正統は絶えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これ以降『江戸時代』なんていって、

東京モンが偉そうな顔をする時代になる

 

真の江戸モンならまだ許せるが

この時以降、豊多摩、埼玉、多摩の

いわゆる三多摩の馬鹿が

『えー。あたしって昔から東京の人だしぃー』

とか、気持ちの悪いアクセントでしゃべり

腐りやがってっ。  

 

 

明治時代初め、帝都で頻発したコレラの

原因は、東京の上水源である多摩川に

うんこを不法投棄した奴がいたからだ。

 

上流で、誰かがうんこを流すので

多摩川の水源まで管理しなければならなかった

だけ。

 

 

 

それを勘違いして三多摩の田舎者が千葉県に

対して『あらディズニーランドの向こうにも

街があるのね』なんてことを

け言いやがってっ。  

 

うんこを取締るために東京府は

何のメリットもない三多摩を

編入した。   

 

 

 

 

 

歴史的に厳然たる事実だ。

悔しかったらかかってこい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

農業や商工業でもかような具合で、

関東地方は後進地であった。

その証拠に、江戸幕府ができても

商都としての大阪は残された。

 

むしろ優遇された。    

 

 

何故か?というのが今回のお話。

 

 

 

 

 

話を始めるまでに、

いちいち喧嘩を売らなくてもいいんじゃないか

と、われながら思わなくもないのだが、

そこはほら、ホルモンのバランスが…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

徳川幕府創設当時、つまり17世紀初頭の

日本の人口の重心は

いまよりも圧倒的に西日本にあった。

 

これも紛れもない事実で、

家康の京・大坂に対する態度は

単に権威に対する追従ではない。

 

しかし、徳川政権というのは、関ヶ原で実権を

握り、この大坂の陣で政権を握ると

豊臣譜代、あるいは親豊臣の大名を

がんがん取り潰していく。

 

しかも、その理由たるや、『小姓を脅かした』

とか『裸踊りを見に行った。』という

ほとんど言いがかりのようなものだった。

 

徳川が「豊臣的なもの」に対して与えたのは

『寛容』ではなかった。

むしろ、恐怖を持って接した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、江戸時代の大阪に対しては

破格に厚遇だ。

大坂城下30万の人口に対して、

大阪町奉行所の侍が300人を

超えたことはない。

 

『町奉行所』と言いながら、この組織は

今日の市役所と府庁と地方裁判所を合わせた

くらいの機能を持っていた。

それが300人。

その所帯なら、橋下さんも平松さんも

あんなに喧嘩しなくても良かったのに。

 

とにかく武士をそれしか配置していなかった

ということはほかの天領も似たようなもんだが

「武力を背景に大坂を支配する」ということを

始めから考えていない、ということでもあった

 

そんなぬるいことを言っているから、

由比正雪の乱が起きたり

するんだけど。      

 

 

 

 

 

しかし、江戸幕府が大坂に対する姿勢は

ほかの天領一般に対してよりも終始一貫

寛容であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人口の多さや資本の集積、産業の発達の程度等

関東と畿内には歴然とした格差があった。

 

 

さらに、もうひとつ

 

 

17世紀当時、陸運というのはまるっきり役に

立たなかった。

運送を担なったのは船であった。

そして、海運という意味では

江戸は恵まれない街だったのだ。

 

今でもあちこちに『旧街道』の痕跡

というのがある。

中山道の妻籠、馬籠というと大変な観光地だが

すぐ近所に『旧中山道跡』というのがあって

こんなもん登れるか。

といくらいの坂道。

 

 

 

 

 

 

 

 

海もひどい。

何しろいきなり太平洋だ。

 

江戸湾を出て房総半島を回ると黒潮で荒波。

江戸から東北への太平洋航路が開かれたのは、

家康から100年も経った、

河村瑞賢の時代になってからだった。

 

 

 

三浦半島を回って相模灘の方に出ると

そこは「灘」というくらいだから

こっちも航海の難所。

 

しかも三浦半島の先端や伊豆半島の先端は

岩礁のかたまり。

明治日本が、開国して真っ先に建設したのが

伊豆半島の沖にある神子元島の灯台だった。

 

07mikomotoshima

 

神子元島灯台

明治3年点灯 

 

 

 

 

 

江戸というのは、

海に恵まれない街だったのだ。

 

瀬戸内海を通じて四国・九州。

北前船を通じて北陸・東北・北海道と

つながっていた大坂には

敵うべくもなかった。 

 

 

 

 

 

 

 

織豊政権が、岐阜ー安土ー京都ー大坂と、

だんだん、海に近づいていったのには

理由がある。

 

物流、できれば海運を押さえようとした。

それに成功したから、

この政権はとんでもなく金持ちになった。

 

16世紀の日本は世界最大の産金国でもあった

から、まさに『黄金の国ジパング』。

 

 

 

大阪における富の蓄積は圧倒的で、

江戸政権もそれを認めるしかなかった。

 

 

 

だから、江戸時代を通じて大阪は経済の中心で

あり続けられた。

歴史と地理的な条件によるもので、

『これがなにわのど根性やあ。』とかいうもの

ではない。

むしろ大阪人はその遺産を食いつぶして

今日に至っている。

 

 

 

 

 

大阪の繁栄は

関東大震災で東京が衰えた昭和初期まで

続くのだが、それ以降はあっさりと抜かれて、

もはや見る影もない。

 

大阪市の人口260万に対して、

東京23区は800万。

大阪府、886万人に対して東京都は1319万人

である。

 

 

 

 

 

 

 

 

別にもう、抜き返したりしなくてもいいけど、

やっぱり何か、モノとか人の流れの節目に

ならなきゃね。

それが空港なのか、港なのか鉄道なのか

情報なのか。

 

 

 

うーん。

 

 

 

おもしろいなあ。

どう変わるかなあ…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の二枚。』

 

 

 

 

 

 

 

 

秀頼と淀君が自害した場所に建っている碑。

0000hideyori

 

 

 

 

 

 

 

『秀頼、淀君ら自刃の地』って書いてあるから

そうなんだろうけど

今ひとつありがたみにかける碑文。  

 

 

 

 

 

 

どこにあるか、というと、ここ。

2012y06m02d_132601575

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この地図で見ると本丸のすぐそばみたいだけど

けっこう迷うよ。

 

そもそも大阪城には、

豊臣時代の遺構は、ない。

 

 

 

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2012年6月 2日 (土)

スパイと日本

中国大使館の一等書記官がスパイだった。

というニュース。(読売)

      

   

   

   

   

   

   

   

   

中国の諜報機関の総元締、『総参謀部』出身のこの男性は

何回かの滞日経験のあと

中国大使館の一等書記官となって日本に赴任した。

 

いろいろと盗んでいったらしい。

 

例によって頭が割れるくらい、ざっくりとした解説なのだが、

詳しいことは、ちゃんとしたサイトを読んでください。

ちゃんとしてないのかよ。

 

 

   

 

    

それはともかく、諜報機関出身の人なんてのは、

ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人)

として、少なくとも駐日公館勤務を

断ってもよかったはずじゃないのか?

 

   

それをしなかった外務省って馬鹿。

 

    

       

       

    

こんなものは、外交慣習で

法律に細かい決まりがある訳じゃない。 

着任前に身分照会があったはずだが、

チェックしなかったのか?

 

   

  

諜報機関出身の人間を入国させて、

しかも外交官特権を与えるか?

 

 

  

 

 

 

   

   

どうも外務省って頼りない。 

警察庁だって頼りない。  

 

  

特に、日本人の外交官は地球の田舎ものだ。

本人と家族は『俺ってエリート。』と勘違いしているが

外人は『生意気に猿がワルツを踊ってやがる』と思ってる

 

そうかといって、逆に白州次郎を褒める馬鹿なんてのは、

どこがどう屈折したらそうなるのか?

 

そこらへん一切を勘違いして、外人にへいこらするのが

『国際通』だと思っている馬鹿が、まだいる。 

実際にそうだとしても、  

   

中国は警戒しようぜ?

    

   

    

     

      

  

   

    

   

   

なんて言えないんだろうね。   

はあ…

 

     

   

 

こうやって、『世界にはまだスパイがいる』

なんていうことがニュースになるのは

日本が平和だからなんだろう。

    

  

   

    

   

   

   

   

     

もちろんかつては日本にも、世界的スパイはいた。

例えば明石元二郎

    

日露戦争の前後にロシアと、ヨーロッパに滞在し

諜報活動はもとより、

帝政ロシアに反発する共産主義者や民族主義者を支援した。

   

『坂の上の雲』において、司馬遼太郎に

『ロシア革命を起こしたのはこの人物だ。』と言わしめた。

   

   

    

    

   

    

    

   

    

外国人スパイで日本史に影響を与えた人物、

というのもいる。

例えば、ソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲ。

  

公的な資格がないくせに

ドイツ大使館に自由に出入りしていたこの人物から

漏れ出た情報は『日本はソ連に参戦しない。』

という貴重な判断に昇華して、その後の歴史を狂わせた。

   

墓に小便引っかけてやろうか…

      

   

   

   

   

    

   

    

もっと直接的な暴力をふるったスパイ、というのもいて

例えばキム・ヒョンヒ。北朝鮮の工作員で、

1987年に爆弾を仕掛けて大韓航空機を爆破した。

   

日本人の名前でパスポートを取っていたことや、

拉致被害者から日本語教育を受けたとされていて、

日本とも関係が深い。

  

別に、このおばさんと深くなりたくはない。

      

     

    

   

      

  

   

   

   

いまの日本では、公式にはスパイはいない、

ということになっているらしいのだが

それはそれでどうかなあ。

   

  

   

もちろん、諜報活動の大半が合法的に入手できる情報、

例えば新聞、ラジオ、テレビなどの情報の分析である、

というのは100年前から同じだろう。

  

そのくらいは日本もやっている、と信じたいが。

 

   

   

    

   

       

    

  

そして現在はネットからカーナビから、

ケータイの通信だってチェックしようと思ったらできる筈だ。

盗聴や位置の特定を恐れて、ビンラディンの隠れ家には、

電話もテレビもなかったそうじゃないか。

 

 

そう考えると、いまは膨大な量の情報があるから

その分析だけで大変で、007的なスパイ活動なんて

していられないんじゃないかと思ってましたよ。

   

  

180pxsean_connery_1980_crop

   

   

007といえばこの人。

ショーン・コネリー。  

    

        

   

そうはいっても、こうやって人間が接触してくる

古典的なスパイ、というのもまだいるのだなあ。

  

   

   

   

   

   

   

    

   

『密かに情を通じ。』という

『ハニー・トラップ』というのもあるそうなので

そんなのに引っかかっている

役人とか大臣とかいないだろうな

    

 

 

  

 

 

いそうな気がする…

 

 

 

 

   

『島耕作』は海外に行くと、

泊まったホテルに知らない女の人が必ず裸で寝ているので

もう、なんだろうね。この昭和で古くさい展開。    

 

 

昭和30年代の人間に

『古くさい。』と思われるようじゃ駄目だぜ?

   

     

     

     

     

   

   

     

まあ、なんかいろんな意味で

『大丈夫か?日本。』と思うわけです。

  

    

   

  

   

   

   

    

    

    

     

    

     

     

   

   

    

   

  

 

 

では、『今日のスパイ手帳。』

     

    

      

       

      

       

      

       

     

われわれにとって『スパイ』といえばこれだった。      

    

      

1970年の150円って結構高かったと思うんですよね。

それがこの内容…

   

   

   

   

 

Pack

 

    

その実物。

    

   

   

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で、その中身

  

   

    

   

クリックすると大きくなるから見て欲しいのだが、

死ぬほどくだらない。

   

そして恐ろしいのは、

このスパイ手帳で遊んでいた連中が年齢的に、いまや、

外務省とか警察庁とかの中枢にいる。

という事実である。

    

    

  

大丈夫か?日本…

    

    

    

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2012年6月 1日 (金)

たこフェリー廃止

たこフェリー復活断念、というニュース。(読売の記事)

 

 

Tako_2

 

 

ほら、いったとおりじゃん。










たこフェリーというのは淡路島と明石を結ぶフェリー。

明石のイメージがたこ、だからそういう名前をつけた。

観光客を集めようとしたが東京の人間が注目したのは休止直前。

同情してもお金はくれないので休止された。

地元の人間からしたら苦々しいことだ。


   

需要がなかったのか?というとそうでもない。

実際このフェリーを使って、

岩屋あたりから通学してくる高校生がいた。

洲本から通勤してくる人もいた。


  

『今日は海が荒れているから休みます。』

なんていう連絡が入ると、かっこいいと思った。   















        

それでも、高速料金が高かった頃には、

まだがんばっていたのだが

末期自民党が『高速1000円』を導入して大ピンチ。



民主党になったら、解除してくれるのかと思いきや

こんな票が取れるところでは

1000円高速をやめるわけにはいかない。


   

原口総務大臣(当時)が関西ローカルの番組で

『淡路島はシンガポールと同じ面積です。

僕はあの島をシンガポールにしようとしたんです。

淡路がシンガポールなら、廃止なんていう話になりましたか?』

とか。こいつに脳みそはあるのか?という

すっとこどっこいなことを言っていた。







   

否定するなら許さない。





       

こういう無責任な奴が大臣をやって、しかもケツをふかない、

しかも地震の後、たこフェリーが駄目になったあとになって

1000円高速もやめた。









  

誰のための政治だ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それはともかく、並行する明石大橋が1000円で通れるなら、

普通車を運ぶのに倍の時間がかかるうえに

それ以上の値段がかかるフェリーに勝ち目はない。


  

もちろん車じゃなくて、人間だけなら200円とか安かったのだが

淡路島の北の果てに置いて行かれて、どうする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そもそも、神戸・明石から淡路島、徳島、というのは

物流における阪神-四国間のメインルートだった。


   

四国-本州の間は、宇高連絡船というのがあって、

もともとはこれが輸送のメインだった。


  

もうひとつ、仁堀航路というのもあったし、

国鉄以外ならいまでも連絡航路はある。


   

ただし、岡山の宇部経由ではあまりに遠い。

寝台車で運ばれる旅客はともかく、

阪神間に四国の魚や野菜なんかの

生鮮食品を運ぶには淡路島経由じゃないか?

という声が多く、神戸ー淡路島間のフェリーは

国道28号線の海上区間として整備された。












   

国道にも『格』があって番号が少ないと偉い。

特に一桁、二桁というと偉い。


 

国道1号線は東海道で2号線は山陽道。

山陰道ですら9号線で、ぎりぎり一桁だ。


   

だから、『20番台』というと立派なもので

国道20号線は甲州街道、国道25号線というと御堂筋だ。


   

そんなわけで国道28号線は偉い。

日本にはほかにもたくさん『海上国道』というのがあるが

そんなのとは比べものにならない重要さだ。










国鉄の貨物輸送は、ストの頻発で

1960年代から荷主にそっぽを向かれ

1975年のスト権ストで壊滅した。

  

貨物輸送のモーダルシフトの理由を、トラックの方が便利だから、

とか眠たい解説をする馬鹿がいるが

1970年代の日本の道路なんか、

高速はないわ、穴だらけで舗装もないわ

それはもう酷いものだった。


 

それでも国鉄なんか嫌だ、

ということで発展したのがトラック。


トラックのいいところは道路だけじゃなく

フェリーなんかが使えるところ。

高速道路が不十分な時代には大事なことだった。


 

実際、四国に高速道路ができ始めたのは

ほんの20年前くらいからである。

 

 

たこフェリーもそういう時代の中で発展した。 

何しろ24時間運航だった。













 

漁港としての明石港は鉄道駅から少し西側にある。

対してフェリー乗り場の方は駅からまっすぐ海に降りたところにある。


   

もちろんこれは表現が逆で

城下町と港が先で、それにあわせて駅ができた。

むしろフェリー乗り場は

当時の繁華街を避けた位置にできているのだが

車でアクセスするにはとても便利だった。


   

そこに広大な駐車場があり、車は並んで待つ。

駐車場には巨大なカウンターがあって時間を示しているのだが、

数字は二桁だ。

待ち時間を示す。


  

深夜でも、一時間おきの発着だったから、

分数が二桁を超えることはないのだ。



デジタルである。





 

天気が悪くて運航が遅れたりしたらどうするか、というと

係員の人がいちいち車のところに来て

待合室に案内してくれる。

アナログである。

 

 

 

 

 

 

 

 






フェリーから橋へ、というきっかけになったのは、

宇高連絡船の紫雲丸事故。

小学生を中心に死者168名を出したこの事故は

確かに悲惨だが、事故がなくても四国に橋は架かっただろう。


   

何しろ本州ー四国には三本の架橋ルートがある。

1988年の瀬戸大橋、1998年の明石大橋、1999年のしまなみ海道

の開通で三本そろった。


 

 

 

 

 

 

人やチャリンコも通れて比較的、地域交通的な性格が強い

しまなみ海道は、『島をつないだら四国に届いちゃった。』

という雰囲気が強いが、

瀬戸大橋と明石大橋は、

『四国へのメインルートの座』を争った。


   

神戸ー鳴門ルートのうち、最初に開通した大鳴門橋は

実は鉄道併用橋だ。


  

瀬戸大橋と同じく、道路桁の下に鉄道が通せる。

もちろん新幹線規格だ。






   

明石大橋も、道路の下にスペースがあって、

一部が観光客に解放されていて、

アベックが『うひゃあこわい』とか言ってるのを見ると

そのまま海に蹴り飛ばしてやろうかと

思うが、あそこは鉄道は通れない。



  

原設計では通すはずだったが、途中で変更された。



  

『四国新幹線』をあきらめたからである。

このあたりの大人の事情を書き始めると、

あと3日くらいかかりそうなので勘弁してください。


  

しかし、倉敷ー坂出の瀬戸大橋ルートと、

明石大橋ルートは、結構うまく棲み分けているような気はする。


 

もちろん四国の人の意見は違うかも知れない。

特に、『宇高連絡線』というはしごをはずされた

香川の人は『うどん県』を名乗ったりしてたいへんだ。






 

 

 

 

 

 

でまあ、たこフェリーだ。

原口以下の民主党の馬鹿どものおかげで、

予定外に早い廃業となった。


  

『別にカーフェリーじゃなくても良かろう。』という検討も

行われていたらしいのだが、

『それなら金は出せないなあ。』とか堅いことを

明石市が言い出したおかげで駄目になった。


 

 

 

 

 

むう。










それこそ『交通弱者』のために、

小型旅客船を造っても良かったとおもう。

そんなのがあっても良かった。


 

ロケーションは最高なんだ。

目の前に明石大橋があって神戸まで1時間で行ける。

以前も書いたがナイトクルーズでもやらないかなあ。


   

物流ルートとしての時代の要請は

終わったのかも知れないが

地域交通としての役割は、まだある。



 

そうして、観光船としてなら

まだ十分に喰っていけそうなのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 













では、『今日の二枚。』




 

 

 

 

 

 

 

 

本州ー四国間の輸送をになったのは

宇高連絡船だけではない。


  

呉線の仁方駅から予讃線の堀江駅を結ぶ

仁堀航路、というのもあった。

 

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仁方駅

(桟橋駅)












250pxyosansen_horieekisya




堀江駅












 

 

 

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