アパッチ族の日
6月16日はジェロニモの誕生日。
アメリカ軍に捕らえられた直後
とされる写真、
この人は『アパッチ族』という
ネイティブ・アメリカンの出身で仲間とともに
最も勇敢に白人と戦った人物として知られている。
お前、そうやって狭いところをつつくのを楽しんでいるだろう
と言われたら、うーん、そうかもしれない。
Wikipediaの記述は白人側に偏りすぎだ。
『部族の生業である略奪に励んだ。
アパッチ族にとって、策略は勇気に勝るとされ、
夜陰に乗じて牧場から牛や馬を攫うという手法は
部族の美徳とされていた。』
なんていうのは抗議が来ないんだろうか?
もちろん、アメリカ大陸には
アパッチ族をはじめとした
ネイティブ・アメリカンの方が先にいたのは
事実で、白人であるアメリカ人は
『土地の簒奪者』だ。
そればかりではなく、『白人』は
追い出した『インディアン』を
散々に殺戮した上で保留地と呼ばれる荒地に
拘禁した。
多くのインディアが立ち上がった
ジェロニモはそのうちの最も勇敢な一人で、
ジェロニモと数十人のアパッチの仲間たちは
5年以上にわたって延べ数千人のアメリカ軍を
翻弄した。
アメリカ軍が山岳ゲリラに弱いのは、
今の対タリバン戦などと同じ。
さらにマスコミが戦争を盛り上げるのも
今と同じで、カリフォルニアあたりの新聞社は
「シエラネバダ山脈には恐ろしいインディアン
がいて、西部入植地はもうだめだ。
という情報をたれながし続けた。
で、個人的にアパッチ族といえば
小松左京の『日本アパッチ族』だ。
え、ジェロニモおしまい?と言われたら
その通りだ。
大阪の都心にに大川という川が流れている。
かつてここの沿岸には大工場が並んでいた。
三菱金属の工場なんかは割と最近まで
残っていたのだが
いまは帝国ホテルが建っている。
いま、工場として残っているのは造幣局くらい
だろう。
日本中の硬貨は、現在も桜宮のこの建物で
作られている。
春になると、『通り抜け』といって
中に入れます。
ただし宴会はしてはいけない。
大阪というと『商人の街』というイメージが
あるが戦前までは、むしろ重工業都市だった。
この造幣局のすぐ南側に
大阪砲兵工廠という巨大な工場があった。
どのくらいでかいか、というとこんな。
となりの大阪城と
比べてくださいよ。
『砲兵工廠』というので、大砲や砲弾、
のちには戦車や橋梁なんかも作った。
当然徹底的に空襲されて戦後は廃墟になった。
現在は、OBPというオフィス街や、
地下鉄の車両基地、団地や公園になっているが
戦後ながらく放置されていた。
持ち主だった陸軍がなくなって戦後米軍に
接収されるが、接収解除のあとは
大蔵省が管理していたはず。
しかしなぜか10年以上、空き地のまま
放置されていた。
理由のヒントが『日本アパッチ族』に
書かれている。
(日本アパッチ族 角川文庫版 20版 昭和58年)
『ー正面のトーチカの横には
「帝国陸軍近畿師団歩兵第8連隊」。
「近畿財務局」「大阪府警本部」
「近畿法務局」「大阪高等裁判所」
その他ずらりとお役所の札が並び、下の方に
「以上共同管理」と書かれていた。
一体なぜ追放地をこんなにたくさんの
お役所が管理しなくてはいけなかったのか、
さっぱりわからなかったが、
要するに縄張りあらそいの結果だろうか…』
大阪城のすぐ隣、大阪の都心になぜか数十年
鉄錆とともに陽炎のように浮かび続けていたのが
『砲兵工廠』だった。
現実の人たちはもっとしたたかで、
巨大工場だから膨大な量のくず鉄が埋まっており
敷地に入り込んでそれを掘り出す人達がいた。
彼らに付けられたあだ名が『アパッチ』だった。
なぜその名前がつけられたか、
という理由の一つが『差別。』
在日韓国・朝鮮人の人が多かった。
小松左京の小説でも、
くず鉄を扱う朝鮮人ボスが出てくる。
『アパッチ』という言葉の選び方にも
そういう、よそ者に対する恐怖と軽侮が
見て取れる。
つい最近まで大川河川敷には「寄せ屋集落」が
あった。
寄せ屋というのは不法に収集してきた金属類を
分類して三流会社に卸す。
つまり、空き缶であれば直後に潰し金属ごとに
分類する。
銅線のような高価な金属だと盗みや喧嘩まで
起きる。
大川の河川敷にいたのは○○人であり、
明らかに河川敷は不法占拠であり、
しかもそこに金属ゴミを運んでいたのは
ホームレスだった。
街中のゴミ箱をあさって空き缶を集めてくる。
違法すれすれの手段で銅線を盗んでくる。
古タイヤをホイールごと盗んでくる。
早朝の天神橋に、空き缶を満載した
巨大なリヤカーが歩いていた。
大川で花見をしたら、宴会が終わる時に
周辺の闇のなかから
無数のホームレスが沸いてきて
空き缶をとっていく。
彼らが一般の人に乱暴をすることは
ほとんどないが、目の前でビールを飲み終わる
のを待たれたことがある。
あれは落ち着かない。
銀座の「東京吉兆」の
横にいた空き缶拾い
砲兵工廠の跡地は1960年後半に大阪市に
払い下げられ、1/4が大阪城公園。
1/4が市営地下鉄の操車場、
1/4が市営住宅、そして1/4がOBPとして
副都心になった。
OBPのランドマークTWIN21の竣工が1986年と
バブルのど真ん中だった。
大阪人は、常に東京の後塵を拝していた
「大阪の復権」をイメージしたのだが、
バブル真っ最中でさえ大阪にパワーはなく
その後の建設は遅々とした。
あの街には昼間人口で10万人に近い
エリートサラリーマンがいるはずだが
最寄駅の京橋駅は
あいかわらず『ええ街でっせ』である。
桜ノ宮近辺の『寄せ屋街』がひっそりと
撤去されたのは今世紀に入ってからだ。
大阪が『戦後を超克』したのは、
実はつい最近なのである。
しかも、それは『砲兵工廠』のことだけで
実は。大阪駅にも釜ヶ崎にも『戦前』はある。
シャッター商店街も、交通弱者も木賃アパートも
『越えられてない過去』はいくらでもある。
歴史はつながっている。
そして意外にきちんと精算されてはいない、
と思う。
任せてみないか?
面白くしてやるぜ?
では、『今日の一枚。』
ジェロニモは実態以上に恐怖された。
18861年に降伏し砂漠の収容所で
10数年の余生を送る。
後年はこうやって、「いかにもインディアン」
という装束をさせられて、見世物にされた。
最晩年の画像がこれだ。
『最も偉大なインディアンの酋長ジェロニモ。
アメリカの刑務所に入っている。
著作権W.N.mertein』
『プリズナー』と書いているくらいだから
この人に自由はなくて、
「故郷に行きたい」という願いは叶えられずに
この殺伐とした荒野で死んだ。
アメリカというのはこういうことをする。
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コメント
造幣局の通り抜けでリンゴを売ろうと、青森の業者がはるばる
トラックに積んでやってきました
喉が渇いたので自販機を探していたところ、
リンゴを持った人に何人も出くわします
同業もいるのか、と思いながらもしや…?
大阪のおばちゃんは止めているトラックから
「ご自由にお取りください」にしてしまいました
27年前の話ですが、その年に行ったきり
通り抜けに行っておりません
人生、通り抜けずに淀んでおります
投稿: FREUDE | 2012年6月17日 (日) 23時57分
FREUDEさん ありがとうございます。
大阪のおばちゃんおそるべし。
酒が飲めない花見は
あんまり好きじゃありません。
だからといって飲み過ぎちゃいけません。
通り抜け、最近行かないですね。
桜ノ宮のあのあたりの
怪しさ、というか危うさは
今はどうなっているんでしょう?
投稿: natsu | 2012年6月19日 (火) 18時10分