« 会社のトイレをすべて和式にして踏ん張れ | トップページ | メリー・誕生日 »

2012年6月13日 (水)

桶狭間の日

6月12日は桶狭間の戦いの日、

1560年のこの日、織田軍が今川軍を破った

(Wikipediaの記事へのリンク)

 

 

 

 

 

 

織田氏はこれ以降、天下布武に向けて駆け上がり

今川氏の支配下にあった徳川氏も独立して

織田氏と同盟し、将来の政権獲得に向けて

力を蓄える。

 

というのが、一般の解説。

 

 

 

 

 

 

 

 

織田氏側が寡兵でもって奇襲したのは事実らしいが

今川氏側の兵力は諸説ある。

2万5千というのは、戦前に陸軍参謀本部が

編集した戦史叢書によるもので、

これの根拠は「兵隊の供給能力は1万石あたり

250人くらいだった」というもの。

 

 

ただし『最少』の側の戦力を書いているらしく

資料によっては、『今川氏10万。』とか

書いてある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

兵種や時代を超えてこの原則を適用するのは

むちゃくちゃで

そもそも今川氏というのは戦国大名としては

軍隊として、あまり近代化されていなかった。

 

 

今川氏の所領は駿河の国。今の静岡県東部。

今の静岡全県の人口が370万人くらいだから

東半分で450年前であれば2万5千人も

動員できたかしら。

というのが今日のお話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

またわけのわからんところを

つついてきよったなあ

と言わずに聞いてください。

 

 

実はこの戦いの40年後に起きた

関ヶ原の合戦での

参加兵力は東西両軍で20万だ。

 

 

17世紀初頭の日本の人口

1200万人くらいだったそうだから

総人口の1/60が

あの平野に集結していたことになる。

刀持って…

 

 

 

 

 

 

 

なんて重武装な国家だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いまやっている『平清盛』は

ストーリーがわかりにくくて

ちっとも人気が出ないんだそうで、

確かに何回か見てみたけど

保元の乱の背景なんて知らんわなあ。

 

で、平氏がサムライの由来、

みたいな前提にしようとしているあたりが

さらにわかりにくい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信長や家康的な武士の由来になったのは

平家のライバルになった、

源氏率いる東国武士の方だった。

 

平家的な『公卿の私兵』みたいな存在に近い方が

むしろ、今川氏の軍勢であったろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東国武士は、『戦う農民』

公卿や坊主から搾取されることに耐え兼ねて

武装した。

 

『一所懸命』というくらいで

領地のために命をかけるのが武士。

ただしそれでは法的な権利が担保されないので

担ぎだしたのが頼朝。

 

頼朝本人に200年続く魅力があったわけではなく、

源氏政権が緻密な支配システムを作っていなく

源氏なんかどうでもよかった、というのは

3代で滅んだあたりでわかりますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だから、武士が普段どうしていたかというと

百姓をやっていた。

 

もちろん、『いざ鎌倉』という際には、

何をおいても鎌倉に駆けつけるのだが、

『いざ』じゃないときは畑を耕して、

旅人をもてなすのに

柿の木を燃やしたりしていた。

 

 

 

 

だから、この時代の戦いはのどかだ。

『やあやあ、我こそは』という口上から始まる

『近くばよって目にも見よ。』って言うのは

名前を売るため。

東国武士がもっとも重んじたのが『名』だ。

でも老眼だしなあ、とか思ってみていると

那須与一が、ひょうとかいって鏑矢を射る。

 

これが扇に当たると、

敵も味方もそのへんのものを叩きまくって

大喜びだ。

 

戦闘の進行が演劇のようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなことやっているから元寇で

危うく滅びかける。

神風が吹いた神国日本は救われたが

ほぼ同じ時期の中世ヨーロッパは、

似たようなことを

鉄兜の騎士連中がやって散々に踏み散らかされた。

 

日本で戦争のスタイルが変わったのは

戦国時代から。

足軽、というものができた。

『やあやあ、我こそは。』の時代から

『数で襲ってごちゃっ。』という時代になる。

 

それを可能にしたのは日本の農業革命。

先ほどの、日本の人口遷移を見てもらったら

わかるが、室町幕府成立の14世紀から

江戸幕府成立の17世紀まで、

800万の人口が1200万余に増えている。

 

 

 

 

 

この時期の農業革命は

人糞施肥法とか灌漑法とかの改良で

どちらかというと単位収量あたりの増加が

メインだった。

(17世紀以降は新田開発などの

農地の増大が大きい)

 

 

農地が増えずに人口が5割増える。

農家の2男3男4男5男はぐれ果てる。

『京都に出て一旗揚げてやるぜ』と勘違いする

 

そうは言っても、旗なんか立たず、

平和な時代であれば

心斎橋の殺人鬼のような迷惑者になるのだが

幸か不幸か、15世紀末から日本は

戦国時代になった。

 

 

 

余った人口は『悪党』と呼ばれて野盗になる。

 

で、これを吸収したのが足軽。

これが戦争のスタイルを変えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

変えたのは織田氏の功績ではないが

最も積極的に、これを導入したのは

織田氏だった。

 

 

 

戦場が大型化したから、大兵力が欲しい。

ということはいいとして

たくさん雇用したのが織田さんち。

跡を継いだ豊臣さんも似たようなものだった。

 

 

 

 

 

 

織田信長末年の木下藤吉郎は

20万の軍勢を率いて中国征伐に向かうが

そもそもその軍勢の9割が、

『ノブナガからの借り物』だった。

 

 

 

 

つまり『傭兵』である。

 

 

 

 

秀吉自身が百姓だ。

出自を問わない、ということは信長の凄みでも

あったが

急速に広がっていく版図を支配する必要がある

基本的な人材がいない、ということでもある。

 

傭兵というのは弱い。

これは世界史で共通のことだが

だから信長軍は弱かった。

対等の兵力で戦ったらほぼ完璧に負けている。

(例:金ケ崎の戦い。)

 

 

 

そこでどうしたか、というと金をかけた。

三段構えの鉄砲を買ったり

城を水攻めにしたり

『貴様、それは武士として卑怯だろう』

というものである。

 

織豊政権は意外に野戦での戦争をしていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただし天下統一の目処がたってくると、

『流石に兵隊を増やしすぎたかな?』

とは豊臣政権も実感する。

 

いくつか実行しようとした政策はあるのだが

具体化したのは刀狩り。

 

ガキの頃は『農民の反乱を防ぐため』とか

聞いていたのだが

『刀狩り』の本当の理由は『兵農分離』だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実は『合戦の大兵力化。』ということに

関して言うと

そこで、大抵の田舎大名は脱落している。

 

冒頭にあげた今川氏にしても

氏族共同体だった彼らは

即応性のある兵団を投入できなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『戦場の大型化』に対して

家臣を直接動員兵隊にしてしまおう、

という考えもある。

最も進んでいたのは四国の長宗我部氏。

 

長宗我侍は、普段は田んぼを掻き

いざ、法螺貝がなったら、あぜ道に置いてある

具足をつけて走る。「一領具足」と呼ばれた。

 

 

 

 

 

言ってみれば『国民皆兵』だ。

もちろん今日的な意味とは、全く違う。

 

しかし、歴史を見て、『傭兵』と『国民兵』を

比較したら国民兵の方が圧倒的に強い。 

 

 

 

 

 

 

 

それが分かっていたから、織豊政権以降の

統治機構は、武士を所領から切り離す。

 

江戸幕府での旗本は数千石クラスであれば

「○○国のうち○○郡○○村ほかを与える。』

とか言って、名目上の領土があったのだが

彼ら、『殿様』が所領を訪れることはなかった。

 

末端の武士になると、

『○人扶持、○○石』という具合で

土地もしめされなくなる。

 

 

逆に言えば、統治者の側から言えば

家来を土地から引き離す、ということは

非常に重要な意味を持った。

 

 

 

『一所懸命』の呪縛を説いたのだ。

ようやくそれが可能になった。

 

 

 

 

 

豊臣政権によって天下統一が成ったあとから

集中して始まる城下町の成立にも、

同じ意味がある。

家臣をみんな城下町に住まわせて、名目上の

『領地』からさえ引き離した。

武士の城下集住には、こうした意味が

あったのだよ

五郎君。

 

 

 

 

江戸時代の政権の安定の理由は、実はそこにある。

 

そして、土地の呪縛を離れた日本のバブルの

狂想曲といったら…

土地の安定を失うことは

国家を失うことですよ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

にほんブログ村 その他日記ブログへ

|

« 会社のトイレをすべて和式にして踏ん張れ | トップページ | メリー・誕生日 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 桶狭間の日:

« 会社のトイレをすべて和式にして踏ん張れ | トップページ | メリー・誕生日 »