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2012年6月 3日 (日)

大坂落城の日

6月3日は『大坂落城の日。』

        

1615年のこの日、大坂夏の陣で大坂城が陥ちた。

これで豊臣秀頼やマダム淀君以下、豊臣家の首脳は自害。

豊臣家の男子の正統は絶えた。

            

       

 

 

 

 

   

  

   

   

           

これ以降、『江戸時代』なんていって

東京モンが偉そうな顔をする時代になる。

   

真の江戸モンならまだ許せるが

この時以降、豊多摩、埼玉、多摩のいわゆる三多摩の馬鹿が

『えー。あたしたちって昔から東京の人だしぃー。』とか

気持ちの悪いアクセントでしゃべり腐りやがってっ。  

   

   

明治時代初め、帝都で頻発したコレラは

東京の上水源である多摩川に

うんこを不法投棄した奴がいたからだ。

 

上流で、誰かがうんこを流すので

多摩川の水源まで管理しなければならなかっただけ。

 

   

   

それを勘違いして三多摩の田舎者が千葉県に対して

『あらディズニーランドの向こうにも街があるのね。』

なんてことを言いやがってっ。  

 

うんこを取締るために東京府は

何のメリットもない三多摩を編入した。   

   

 

 

   

   

歴史的に厳然たる事実だ。

悔しかったらかかってこい。

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

農業でもかような具合で、関東は後進地であった。

その証拠に、江戸幕府ができても

商都としての大阪は残された。

  

むしろ優遇された。    

   

   

何故か?というのが今回のお話。

    

  

    

   

 

話を始めるまでに、

いちいち喧嘩を売らなくてもいいんじゃないかと、

われながら思わなくもないのだが、

そこはほら、ホルモンのバランスが…

   

    

    

   

  

  

  

  

   

   

   

   

   

徳川幕府創設当時、つまり17世紀初頭の

日本の人口の重心は

いまよりも圧倒的に西日本にあった。

   

これも紛れもない事実で、家康の京・大坂に対する態度は

単に権威に対する追従ではない。

       

しかし、徳川政権というのは、関ヶ原で実権を握り

この大坂の陣で政権を握ると豊臣譜代、

あるいは親豊臣の大名をがんがん取り潰していく。

  

しかも、その理由たるや

『小姓を脅かした。』とか『裸踊りを見に行った。』という

ほとんど言いがかりのようなものだった。

   

徳川が「豊臣的なもの」に対して与えたのは

『寛容』ではなかった。

むしろ、恐怖を持って接した。

   

  

  

  

  

  

  

  

   

    

しかし、江戸時代の大阪に対しては破格に厚遇だ。

大坂城下30万の人口に対して、

大阪町奉行所の侍が300人を

超えたことはない。

   

『町奉行所』と言いながら、この組織は

今日の市役所と府庁と裁判所を合わせたくらいの

機能を持っていた。

それが300人。

その所帯なら、橋下さんも平松さんも

あんなに喧嘩しなくても良かったのに。

  

とにかく武士をそれしか配置していなかったということは

ほかの天領も似たようなもんだが

武力抑圧、ということをはじめから考えていなかった。

そこらへん、橋本五郎の馬鹿がわかっていないところだが

そんなぬるいことを言っているから、

由比正雪の乱が起きたりもするんだけど。      

    

   

    

   

   

しかし、江戸幕府が大坂に対する姿勢は

ほかの天領一般に対してよりも終始一貫、寛容であった。

    

  

  

  

  

  

   

  

  

  

なぜか?

  

  

  

 

  

  

    

    

    

   

    

17世紀当時、陸運というのはまるっきり役に立たなかった。

運送を担なったのは船であった。

そして、海運という意味では

江戸は恵まれない街だったのだ。

   

   

今でも、あちこちに『旧街道』の痕跡というのがある。

中山道の妻籠、馬籠というと大変な観光地だが

すぐ近所に『旧中山道跡』というのがあって

こんなもん登れるか。

といくらいの坂道。

  

     

  

   

    

    

    

   

海もひどい。

何しろいきなり太平洋だ。

 

江戸湾を出て房総半島を回ると黒潮で荒波。

江戸から東北への太平洋航路が開かれたのは、

家康から100年経った、河村瑞賢の時代だった。

   

 

 

三浦半島を回って相模灘の方に出ると

そこは「灘」というくらいだからこっちも航海の難所。

   

しかも三浦半島の先端や伊豆半島の先端は

岩礁のかたまり。

明治日本が、開国して真っ先に建設したのが

伊豆半島の沖にある、神子元島の灯台だった。

   

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神子元島灯台

明治3年点灯 

   

        

    

       

       

江戸というのは、

海に恵まれない街だったのだ。

 

瀬戸内海を通じて四国・九州。

北前船を通じて北陸・東北・北海道と

つながっていた大坂にはかなうべくもなかった。 

 

   

   

   

   

   

   

織豊政権が、岐阜ー安土ー京都ー大坂と、だんだんに

海に近づいていったのには理由がある。

 

物流、できれば海運を押さえようとした。

それに成功したから、

この政権はとんでもなく金持ちになった。

 

16世紀の日本は世界最大の産金国でもあったから

まさに『黄金の国ジパング』。

       

  

 

大阪における富の蓄積は圧倒的で、

江戸政権もそれを認めるしかなかった。

   

 

 

だから、江戸時代を通じて大阪は経済の中心でい続けられた。

歴史と地理的な条件によるもので、

『これがなにわのど根性やあ。』とかいうものではない。

むしろ大阪人はその遺産を食いつぶして今日に至っている。

   

  

  

   

 

大阪の繁栄は

関東大震災で東京が衰えた昭和初期まで続くのだが、

それ以降はあっさりと抜かれて、もはや見る影もない。

   

大阪市の人口280万に対して東京23区は800万。

大阪府、886万人に対して東京都は1319万人である。

   

   

   

   

   

   

   

   

別にもう、抜き返したりしなくてもいいけど、

やっぱり何か、モノとか人の流れの節目にならなきゃね。

それが空港なのか、港なのか鉄道なのか情報なのか。

   

   

   

うーん。

   

   

 

おもしろいなあ。

どう変わるかなあ…

   

    

    

    

   

   

     

      

      

     

      

     

      

       

では、『今日の二枚。』

    

  

   

   

   

   

   

   

秀頼と淀君が自害した場所に建っている碑。

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『秀頼、淀君ら自刃の地』って書いてあるから

そうなんだろうけど

今ひとつありがたみにかける碑文。  

     

  

  

  

   

   

どこにあるか、というと、ここ。

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この地図で見ると本丸のすぐそばみたいだけど、

けっこう迷うよ。

  

そもそも大阪城には、

豊臣時代の遺構は、ない。

  

   

   

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