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2012年9月15日 (土)

生麦事件とナショナリズム

9月14日は生麦事件の日。

(Wikipedia生麦事件)















1862年のこの日、川崎と横浜のほぼ中間にある

生麦村を通過中の薩摩藩主の父、島津久光の軍列400人に

イギリス人男女4人が騎乗のまま進入。




無礼打ちにされた。





男性3人は斬り倒され2人が絶命。

1人は神奈川のアメリカ領事館まで逃げて、

ローマ字で有名なヘボン先生の手術を受ける。

ヘボン先生は医術も達者だったらしく(本業です)、

こいつは一命を取り留めた。

武士の情けで女性は見逃される。








と、まあこれが事件の大要。

       

生麦には、この事件の殉難者リチャードソンなる人物の

絶命の場所に、事件の碑文がある。

      

Img322b53ebzik6zj絶対『生米』と『生卵』が

供えてあると思ったんだけど 

そんな写真はなかった。

つまんねえな、横浜

 

 

 

 

 

 

 

    


事件の実況については

ほぼWikipediaを信じてもいいと思う。

       

Wikipediaは時々とんでもない嘘をつくので

相当に注意して読まないと足許をすくわれる。

でもこれは、出典を見る限り信じていいような気がする。

以下、引用。

 

    



『行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、

正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、

身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、

イギリス人たちは「わきを通れ」と言われただけだと思いこんだ。

 

しかし、行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、

結局4人はどんどん行列の中を逆行して進んだ。

鉄砲隊も突っ切り、ついに

久光の乗る駕籠のすぐ近くまで

馬を乗り入れたところで、

供回りの藩士たちの無礼を咎める声に、

さすがにどうもまずいとは気づいたらしい。

 

しかし、あくまでも下馬する発想はなく、

今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、

馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いた。

その時、数人の藩士が抜刀して斬りかかった…』

 

 

 

 

       

で、『大名行列で道幅一杯』という、

当時の生麦村の写真が残っているのでどうぞ。

      


0000_namamugi     

 

 

 

これが東海道?

というのどかさ

    

 

 

 


のどかはのどかなんだけど、

入母屋造りの農家の作りを見ると

素寒貧に貧乏な寒村でもないようだ。

 

       

ただし、街道の幅はごく狭く、人物と比較すると

ひいき目に見ても幅3間(5.4m)ほどだ。 

 

     

ここを薩摩77万石の国父、島津久光の行列400人が通った。

馬印を先頭に、二列に行進する。

騎乗の武士もいるし、鉄砲隊もいる。

中段には久光が乗る駕篭もある。

        

当然3間幅の道では一杯である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      

いくつか、不幸な偶然もあった。
     

 

 

 

   

たとえば、

 

 

      

もしも、これが参勤交代の大名行列であれば

「無礼打ち」ということにまでは

ならなかったのではないかと思うのだ。

 

 

       

参勤交代の大名行列というのは、

格式に合わせて行装や人数がきまっている。

       

藩によっては数百人に及ぶのだが

国元からそんな人数を連れていったら大変なので

江戸市中に入る前にバイトを雇う。

 

        
東海道だと、品川にそういったバイトを周旋する口入屋があって

装束ごと貸し出した。

だから江戸市中では威風堂々の行進なのだが

品川を出外れると素寒貧になる。

 

    
さらに江戸からの帰りだと、1年あるいは3年の江戸在駐で

奥さんは居ないし、遊ぶところはたくさんあるしで

羽を伸ばしきって骨抜きになった連中を

国元に連れ帰ることになる。

 

       

もう、殿様の駕篭のそばに異人が来ても

刀も抜かないんじゃないか?という

サクラダ・ファミリアな連中ばかりなのである。

 

 

 

 

 

     


ところが、この生麦事件の時は違った。

久光という人は、後に述べるように

政治的に複雑な動きをした人物で、この時も

「将軍は上洛して、天皇(当時の孝明帝は

徹底的な攘夷主義者)に恭順しろ。」

「俺を含めた雄藩の連合会議を幕府の最高機関にしろ。」

「俺たちの好きな一橋公を将軍後見職にしろ。」という

家康もびっくりな要求をするために、

完全武装の正規軍を率いて江戸に下っていた。

 

 

 

 

     

同じ400人でも、バイトで水増ししたふやけた大名行列とは違う。

混じりっけなしの武士、殺気を含んだ薩摩隼人だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

      

そりゃ、殺されるわ。

      

 

 

 

 

 

まだある。

 

 

 

 

 

     

イギリス人に問題があった、とはWikipediaも書いている。

       

被害者であり4人の先頭にいて行列に乗り入れた

リチャードソンなる人物には、人格上の問題があり

中国で、苦力を理由なくぶちのめして刑を受けている。

 

      

教養のある連中ではなかったらしい。

       

 

 

 

 

     

そして、当時のイギリス人にとって、

インドもシンガポールも香港も長崎も神戸も横浜も

国境の意識などなかっただろうと思えるのだ。

      


だから、貴人の行列であっても、苦力と同様に扱う。

 

 

 

       

その証拠に、長崎でも神戸でも横浜でも外人は山の上に住む。

馬鹿と異人は高いところが好きだなあ、と思うが

あれは、インドあたりの植民地仕様だ。

 

      

確かに日本も暑いが、あんなに高く登るのは

グラバーさんたちが南アジアを回ってきた

「渡り商人」だったからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        

久光の側の事情も見ておこう。
     

     

この人は野心家だった。

ペリー来航で開国した幕府は、

朝廷を中心とした攘夷派に大いに非難される。

 

          

国難に国家が分裂しては大変だ、という大義を名分にして、

久光はその動きにのって、『公武合体』を推進する。

これは薩摩藩の『国論』でもあったのだが

攘夷を主張して朝廷に近づいたり、

会津とくっついて長州を追い払ったり、

その後長州と一緒になって幕府を倒したりしている。

       

正直言ってこの辺の薩摩藩の動きは

時系列を追うのもめんどくさいくらい複雑で

久光自身も自分の仕掛けに縛られていくような所があって

後年になると影響力を失っていく。

 

 

 

 

        

さらに、薩摩藩は西洋の技術に無関心だったわけではなく、

集成館事業ということで近代工業の輸入を進めていた。

久光の怨敵、斉彬の事業だったから

彼の時代にはしばらく見返られなかったが

薩英戦争でイギリスの軍事力を見直した久光は

今日も残る、日本最古の近代工場、尚古集成館を開く。

 

         

鹿児島県は西南戦争まで日本一の軍事工業地区であり

西南戦争緖戦ではここで生産される薬莢の争奪戦が起こった。

日本の銃弾の9割以上が鹿児島で生産されていたのだ。

 

 

 

 

 

しかしながら、久光その人は

政治的には不遇な晩年を送る。

明治維新後、大嫌いだった西郷隆盛が偉くなり、

お小姓だった大久保利通に廃藩置県を命じられて

「殿様」じゃなくなると

ふてくされて酒を飲みながら鹿児島湾に一晩中花火を上げた。

               

従一位、侯爵という最高の待遇だったのだが、

あまり幸せな晩年ではなかったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

   

ただ、この生麦事件の頃は、まだ野心満々だった。

       

事件そのものは久光が仕掛けたわけではないが

戦後処理については確信犯である。

 

 

 

 

 

 

イギリスは幕府に対して

即座に犯人の逮捕。引き渡しと賠償金を要求する。

幕府は右往左往したあげく、結論が出せない。

      

業を煮やしたイギリス軍は鹿児島に軍艦7隻を派遣して

市街を砲撃。薩摩側が折れて賠償金6万5千両を

幕府から借りてイギリスに払った。

薩摩藩は、結局この借金を踏み倒している。

      

これが大体の過程なのだが、これのどこが確信犯か?

 

     

実際、幕府は、

『薩摩みたいな田舎者は世界を知らなくて困る。』

くらいに思っていた節がある。

 

 

 

 

 

      
幕府は世界に無知だったわけではない。

たかが、ペリーの4隻の黒船に驚いて開国したわけではなく

アヘン戦争の顛末も知っていたし、

ロシアのレザノフに冷たくしたら

露助の野郎上陸して来やがった(文化露寇事件)というのも

あって東北中の大名に動員を掛けたりしていた。

 

 

   
外交は遊びじゃねえんだよ。

くらいに思っていただろう。

       

『生麦事件』はいい迷惑だったのだ。

賠償金なんていわれても、幕府にはお金もなかった。

 

       
外様のくせに軍勢を率いて江戸市中に入り

幕府に意見をするなんて生意気だ、とも思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

それなら薩摩は無知蒙昧で貧乏だったのか?

というと、そうでもなかった。

      

薩摩は、琉球を属領として従えており

ここを経由して、中国と密貿易をしていた。

中国の情勢など丸わかりである。

         

さらに、生麦事件の25年前に家老に就任した

調所笑左衛門、という人物がこの密貿易を大規模にし

大規模な密貿易ってなんだ?

とにかく、藩の金庫に250万両の資金を積み立てた。

 

 

6万5千両の賠償金など屁でもなかったはずなのだ。

     

 

 

 
だから、イギリスとの交渉を幕府に丸投げして

長引かせたのは、幕府への嫌がらせだったと思う。

 

      

戦争になるとまでは予想してはいなかったと思うが

結局薩摩は占領されなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に、イギリスの事情も見ておこう。
    

 

   
アヘン戦争の初動で、

イギリスは4000人の陸軍を上陸させている。

最終的に動員したのは20000人だ。

     
大半がインドからの植民地兵だったらしいが

それでも19世紀半ばにそれだけの人間を

輸送し、補給する能力を持っていた。

 

     
イギリスが薩摩に対して

その能力を発揮しなかった理由はよくわからない。

実際、横浜のイギリス領事は、本国に対して

2000人の陸兵の派遣を要請している。

 

    
久光がそこまで読み切っていたとも思えない。

上陸軍が数百人だったら防げたかも知れないが

20000人では勝ち目がない。

結果的には、『めんどくさいや』

と、思われていたんだろう。

 

 

 

    
イギリスの植民地のヒエラルキーというのは

脳みそが痒くなるくらい複雑なのだが

意外に直轄領を持ちたがらない。

 

     
たとえば、シンガポールは東インド会社の会社領だった。

1896年に直轄領になるが、

周辺のマレーシアの大部分は保護国だった。

香港島と九龍半島は直轄領だったが周辺の新界地区は

99年の租借地だった。

 

 

 

       
あー、めんどくせえ。
     

 

 

      
鹿児島を占領しても、直轄領にする気はなく、

イギリス人の官僚を派遣したら夜が怖くてたまらない

と思ったのだろう。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       
さて、この事件からどんな教訓を引き出したらいいだろう。

 

 

 

ナショナリズムの本質、

というものにつながっていることは間違いない。

 

 

 

 

       
攻撃で仕返しされるから、

反日デモが起きようが在留邦人が襲われようが

あの島には触らないでおこう、という結論になるのか?

 

 

 

       
イギリス人を斬り殺した薩摩軍は上京の途上

沿道の民衆から熱狂的な歓呼を受け、

京都では、異例の参内を許されて、孝明帝から直々に

嘉褒のお言葉を賜る。

 

     
そのことを教訓にするのか?

 

 

 

 

 

 

          
久光存命中に幕府は滅んだ。 

        

しかしながら、久光その人は

明治政府から、いかにおだてられようとも

西郷や大久保ごときに機嫌を取ろうとはしなかった。

          

本人の心中としては、不遇だったのだ。

        

        
武力を使っても使わなくても、

しあわせになった登場人物はいなかった。

 

       
それを教訓にするか? 
      

 

 

 

 

うーん、こんな終わり方は、この日記らしくないなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

       
行列に入り込んだ4人のイギリス人は、べつに

疾走して乱入したわけではない。

 

         

向こうからすごい行列が来るけどよけなきゃいけないかなあ。

でも、道狭いし。

横は田んぼだし。かといって、

ジャップごときに下馬して道を譲るのもしゃくだなあ…

と思っているうちに紛れてしまっただけだ。

 

 

 

      
当然、抜刀の前に言葉の応酬があったはずだ。 

薩摩側は「下馬せよ。」「道を空けよ。」と。

 

       
しかし、それは日本語だ。

イギリス人には通じない。

当時でも日本語を理解するイギリス人もいたのだが

植民地生活に馴れた4人には通じなかった。

 

     
というか薩摩弁だ。

日本人にも通じたかどうか?
     

 

 

       
事件は生麦村のすぐそばで起きており

目撃した百姓なんかもいたらしいのだが

 

        
『よー、あの外人やばいじゃん?』

『あー、薩摩様の行列に入ってくじゃん。』

『あぜるばいじゃん。』

 

      
という会話の向こうで、

 

         
『きさん、馬ば降りんとね。』

『道ば、開けっとたい。』
       

 

      
という会話が行われていたのだ。

 

 

      

そして外人どもは

『あいはぶ・のー・ほすてぃりてぃ。』

『どんときるみー』

とか言っていたはずなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

     
お互いの言葉が通じないんじゃ

喧嘩になるよな。
     

   
ということを教訓にしておこうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の生麦生米生卵。』

 

 

 

 

 

 

 

      

『生麦』といって思い出すのがこれ。

というあたりで、まずいですか?

 

 

 

でもこれは、ジュリーと世界の三船だぜ?

 

 

 

 

 

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