公衆電話の日
9月11日は、日本初の公衆電話が置かれた日。
1900年のこの日、上野駅と新橋駅に設置された。
ガキの頃では「公衆電話」というといわゆる赤電話だった。
たばこ屋の店先とかにあった。
電話ボックスにあったのも赤電話ではなかったろうか?
1950年代の電話ボックス
窓が小さいのでこの中に
女の人を引きずり込んで
犯罪に及ぶ馬鹿がいたりした。
そのおかげで今の電話ボックスは
シースルーになりました。
テレフォンカードが普及すると黄色電話や緑電話が増えた。
公衆電話は公共性という要素が強く要請されており
災害時に一般の電気が停電しても電話は通じるのだ、
ということを、われわれは、ガキの頃教わっていた。
実際、そうした機能はあったのだ。
1995年、阪神大震災が起こった。
電気は、震災直後の30分以内に全て停止し、
電話の一般回線も、ほどなく停止した。
ところが、公衆電話だけは生き残っており、
私個人の体験で言えば、震災発生から2時間以上経った、
午前8時過ぎにちゃんと電話が通じた。
神戸の緑の公衆電話から千葉の実家に架けた。
実家では、まだ何もニュースが流れていなかったらしく。
『ふーん、どうしたの、こんな朝早く。へー、地震?』
という具合であって、NHKは、
NHKしか見ないという年寄りが
日本中にいるんだ、
ということを考えて欲しい。
もっとも、あのときは首相であったマユゲルゲ村山でさえ、
NHKのニュースを見ながら、『へー』と言っていた頃合いだ。
あのヤギじじいが
『なにぶん早朝のことでもございましたし、
初めてのことでもありましたから。』といった時には
ちょっと政府転覆を考えた。
今の社民党は気の毒になるくらい乞食の生活をしているので
可哀想だと思って玄関前にうんこ投げる程度にしてやる。
永田町の社民党本部の借地代、早く払えよ?
君らのやっていることは不法占拠だ。
(事情をよくわからない人のために解説。
社民党の前身『日本社会党』はかつて政権を取るほどの
巨大政党であり、国有地のど真ん中に
格安で借地する権利を得ていたわけだが
もはやすでに、衆参ともに12人。
次の選挙では維新の会以下になることは確実。
利子を付けてとっとと地代払え。)
山動かすぞ?このブス。
瑞穂さん
阪神大震災の時には
携帯電話はほとんど普及していなかった。
PHSを持っている人は多少いたが、
あれは災害現場では使いにくい。
いずれにしても基地局は壊滅だった。
そうなると公衆電話しかない。
緑電話が、震災2時間後でも通じたのは
私が体験した事実なのだが、それも半日経つと駄目になった。
意外な粘りを見せたのが「ピンク電話」。
10円玉しか使えなかった。
電話にはいろんな色があって、なんとなく緑と黄色は
テレフィンカードを使うもの。赤は硬貨で架けるもの。
ピンクは喫茶店やスナックに
置いてあるものだと思っていた。
大きく言うと間違いではないらしいのだが
阪神大震災の時に最期までというか生き続けたのが
ピンク電話である。
回線や電力の供給の形式などよくわからないのだが
とにかくみんなピンク電話を探した。
なにしろ、みんな電話に飢えている。
電力の途絶により、PHSもつながらなくなっていた。
当時私は兵庫区に住んでいたのだが
最も近いピンク電話は車で20分ほどかかる
板宿というところにあった。
そんな連中が来るのだから近所の人には有名で
いつ行っても長蛇の列であった。
ピンク電話は構造上10円玉を入れないとつながらない。
こうなると『料金』というより一種のスイッチなのだが
そうなると10円玉が足りない。
家中の10円玉をかき集めて、どうせ車だから
何人か乗り合っていくのだが、たちまち足りないので
みんなで融通し合う。そのうち列に並んでいる
知らないひととも融通する。
最初は、『両替』という意識をもっていたのだが
『あーすいません、もう50円も100円もないです。』と
いわれたら50円玉と10円玉20枚が交換されたりする。
レートなんかありゃしねえ。
オーナーさんも一日中家の前に列が出来て
いい迷惑だったろうが
すぐに10円玉がたまってしまうので
それをクッキーの缶のふたに載せて
列に並んでいる人に配っていた。
もう、お金じゃないわけです。電話を動かすスイッチだと。
その店の並びに『しんぶん・赤旗』の販売所があり
販売員が大変熱心に勧誘していて
ぶち殺してやろうかと思った。
共産党は穏亡のふりをして強盗をする。
俺は目撃者だ。
苦情があれば受け付けるが事実の告発を曲げるつもりはない。
昨年、東日本大震災が起きた。
携帯が質量ともに飛躍的な発達を遂げていた。
基地局などのインフラも阪神大震災の時より、
はるかに強化されていたのだが、
利用者の意識も変わった。
安易に携帯に殺到することはなく、
災害伝言ダイヤル171を使う一方
地震や津波の情報が簡単に携帯で得られるようになった。
かつてとは全く異なるルールが出来てきた訳である。
さらに、地震のおかげで、固定の被害通報拠点として
公衆電話の存在価値が見直された。
NTTでは、これまで『小銭の盗難の危険がある』として
公開していなかった公衆電話の位置を
明らかにするようになった。
意外に密度が濃いな、と思う。
近所の地図を見ると、全然意識していなかったけど
『ああ、あそこにあったっけ。』と、思い出すことが出来る。
密度が濃いことには理由があって、
『500m以内に1箇所』という自主規定があるのだという。
半径500mで包含できる、というと
1kmおきか?と思ったあなたは
文系で、正解は約830m。
そうはいっても公衆電話は減った。
街を歩いていても、もうみんな
公衆電話の場所なんか意識しないでしょう。
実態以上に減った気がするのは
みんな学生時代に下宿してないからだろう。
でもでもでも、下宿なんかしたら
当時は電電公社しかないので
今よりもはるかに高飛車だった電電公社と契約したら、
保証料が8万円とか取られるから、
『はちまんえん?』ということで、
雪の中を公衆電話に通ったからさ。
昭和58年は大阪でも豪雪だった。
くすん。
『きゃー、助けてー』
クラーク・ケントは走った。
そして焦っていた。
電話BOXがないのだ。
あったとしてもシースルー型ではないか。
以前あそこで着替えていたら、
『変態がいる』ということで、おばはんに通報されてしまったのだ。
くそっ、あのばばあ腹立つ。
俺のゴールデンボンバーを見られただけでも
ありがたいと思え。
畜生、この街には公共の場所で
プライベ-トになれる空間はないのか?
どんどんどん
『入ってるで。』
『頼むっ。時間がないんだっ。』
『あかんがな。わし、切れ痔やねん。
めっちゃ時間かかるで…』
くそっ
『さーしゃいませー』
『試着室はどこだ?』
『あちらです。お客様お試しになる服はお持ちですか?
あらあ、そんな青のオール・イン・ワン。
いまどき流行りませんねえ…』
『いいからっ。あそこだなっ?』
……
『…お客様?着替えはお済みですか?』
びゅうん
『あっ、飛んでいった。』
『あれはなんだ?』
『鳥だ。』
『飛行機だ。』
『泥棒よぉーっ』
では、『今日の一枚。』
SUPER GIRLS
かわいー
(クリックしてくださいな。)
| 固定リンク
「そんな時代もあったよね」カテゴリの記事
- 白熱電球とレコード針(2015.12.20)
- 優先座席の日(2015.09.17)
- ピアノ騒音殺人事件の日(2015.08.29)
- 湊山温泉の明日はどっちだ(2015.05.16)
- ひなまつり・ラプソディ 2012(2015.03.03)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント