« 生麦事件とナショナリズム | トップページ | ある王国の滅亡。 »

2012年9月18日 (火)

中国国境紛争史

尖閣国有化をめぐって中国がエキサイトしている。

在留邦人に危害を加えたり、領事館を襲ったり

日本企業やデパートを襲ったり

1000隻の漁船が尖閣諸島に押し寄せたりしている。 

 

 

 

 

 

漁船程度なら、台風の神風で半分くらい沈んでしまうと思うので

ざまあみろだが

中国のコーストガードの船が領海を侵犯しても

自衛隊機がスクランブルを掛けないのはどうしてだろう。

 

 

  

李承晩時代の韓国なら間違いなく拿捕しただろうし、

今でも北方領土近海では露助は容赦なく機関銃を撃ってくる。




















しかしながら、日本のマスコミが

『おー中国人、政府に踊らされて馬鹿ですねー。

日本人は冷静に対処しましょうねー。』 みたいな、

心にもないことを書いているのは

どうしてだ?














中国、というのはおそろしい国なのである。

なにしろあの国は、建国以来

『領土問題で譲歩したことがない。』のだ。

  

今日は、その辺の話をします。

はっきり言って怖いよ?













中国(中共)が成立したのは1949年10月1日。

20年に及ぶ蒋介石の国民党政府との戦いに

勝利して毛沢東が天安門広場で建国宣言をした。

  

ただし、この時点では蒋介石もまだ重慶を拠点に粘っていた。

 

 

0000_1949_china         

 

1949年の中国の勢力図

(クリックで大きくなるよ)

 

 

 

 

国民党が東シナ海に追い落とされるのはこの直後だが

1970年代までタイとの国境地帯に一部の部隊が残って

ゲリラ戦をした。

 

イギリス領の香港やポルトガル租借地だったマカオでは

返還まで青天白日旗が翻っていたそうだから

中国が大陸を支配した、といえるのは

つい最近のことなのかも知れない。









国民党時代や、それ以前の清国時代には

日本やイギリス、ロシアフランスドイツアメリカ、と

世界の列強から様々に侵略され、

租借地という名の植民地を獲られていたから、

あの国の連中は、

『今の国境線は

外国から押しつけられたものだ。』

という被害者意識が強い。








中共のほうの中国が独立できたのは

ソ連の援助のおかげだったのだが

援助してくれたスターリンが死んで

フルシチョフなんていうハゲがスターリン同志を批判すると

スターリン以上に独裁を敷いていた毛沢東は警戒した。

  

さらにこのハゲが1959年に

蒋介石の後ろ盾のアメリカを訪問して

当時副大統領だったニクソンと握手したりすると

公然とソ連批判を始める。

  

 

その流れの中で中ソ国境には

双方130万人という軍隊が張り付いて

一触即発の緊張が続いた。

 

そして、即発しちゃったのが

中国東北部と、ソ連沿海州との国境に浮かぶ中州

珍宝島である。

1950年代から小競り合いがあったのだが

1969年に大規模な軍事衝突が起こる。 

 

  

中ソ対立はこれで決定的になる。

1964年に原爆実験を行っていた中国は

これ以降、アメリカや台湾ばかりではなくソ連やインド

要するに全方位にミサイルを向ける、という

むちゃくちゃな時代を迎える。

  

日本人からしたら、『アホかいな。』と思うのだが

この時代の記憶も、中国人にとっては

『抑圧されてかわいそうなあたしたち。』

ということになるらしい。







ちなみに、

ロシア名では、ダマンスキー島というのだが、ここはやっぱり

ちんぽうとう、でしょう。 

 

 

全編ロシア語なので見事にわからないが

なんだか戦車やジェット戦闘機なんかも繰り出した

大規模な戦いだったらしい。(その程度の理解かよ。)

 

 

しかし、この戦いは中共をアメリカに近づけることになり

事件直後の1972年には大統領に成り上がったニクソンが

こんどは北京を訪問して、

毛沢東と握手している。






わけわかんねえ。

  

そして、 

大人って汚い。







珍宝島事件は、ソ連が滅びる直前

ゴルバチョフの時代になって、ほぼ中国の主張通りの国境で合意し、

後継国家となった貧乏なロシアのエリツィンの元で確定した。

 

露助が弱った隙を狙ったとはいえ、

中国人は20年以上粘って自分の主張を通した。

  

おそろしい国である。























中国は、インドとも国境紛争を抱えている。
    

 

  

中国とインドの間にはチベットがある。

 

19世紀までのチベットは、独立国のようなそうではないような

曖昧な状態にあった。

 

チベットの住民は清朝に税金を納めていないから

近代的な意味での『領土』ではない。

チベット政府は『朝貢』もしていないので

『属国』でも『册封国』でもない。

  

清の役人と兵隊はいたが、

政治の一切はダライ・ラマを頂点とするチベット政府が行っていた。

兵隊も300人とか400人とかだったので

防衛はもとより治安維持にも役にたたない。

 

そもそも、そんなことをやるつもりもなかっただろう。

近代的な意味での『支配の実質』はなかった。

 

 

それなら何故か?というと『面子』だ。

中国人は、そういうことを大事にする。










しかし、帝国主義の時代になって

世界中が、砂漠にいたるまでぴっちりと国境線が

引かれる時代になると、そういうアジア的な

曖昧な地域の存在は許されなくなってくる。

  

チベットをめぐっても、南からはイギリス

北からはロシアが勢力を伸ばしてくる。

 

アフガニスタンの東の端に

ワッハン回廊という、不自然な国境線があるのだが

これは、ロシアとイギリスの緩衝地帯として

人為的に作られたものだ。

  

Wakhan_2    

 

戦場カメラマンは

いったことがあるんだろうか?

 

 

 

イギリスにとって死活的に重要だったのはインド

(今のインドと・パキスタン・バングラデシュ)

だったから、ロシアの南下を恐れたイギリスが

こんなことをした。

 

もっとも今は、イギリスもロシアもここに勢力はない。

しかし、地球の果てにまで、

こんな『勢力争い』が起きていたのだ。








20世紀に入って清朝が弱体化するとチベットは独立を目指す。

これはイギリスにとっては面白くなかった。

 

インドだけでも手一杯なのにヒマラヤの彼方の

チベットの面倒まで見られない。

かといって、ロシアがこの地域に

手を伸ばしてきたらやっかいだ。

  

実際、当時のダライラマ13世(先代ね)

ロシアに接近するそぶりを見せたりする。

 

1911年に清朝が滅びるとチベットは独立宣言をするのだが

イギリスはそれを認めず、チベット以外にもモンゴルなどの

『清朝の遺産整理』について『シムラ会議』というのを開く。

「しむらかいぎ」と打ったら、どうしても「志村会議」としか

変換しないので、もうATOKってば。

















で、

 

 

半年に及ぶこの会議で、イギリスはチベットにおける

中国(国民党政権)の宗主権を認め、

その一方でチベット国内の完全な自治権を認めた

 

チベットの顔を立てつつ

南京政府の影響力を排除してチベットに自治をさせる。

さらにロシアの影響力を排除する。ということをした。

この協定はイギリスの狙い通りであった。そのかわり

ロシアには、モンゴルにおける優越権を認めた。

  

それぞれの国民にとっては

いい面の皮である。







ただ、国民党政権はこの条約を批准しなかった。

『高度な自治権』を認める『チベットの中核範囲』について

解釈が一致しなかったのだ。

 

大陸における後継国家となった中共政府も

これを認めず、『建国』直後の1950年にラサに侵攻する。

  

ダライラマ14世(今の人ね。)も、一時は

共産党政権と共存する姿勢を見せるが

1959年にラサで暴動が起こり

中共軍が弾圧の姿勢を見せたことで、インドに亡命する。

(ただしインドはダライ・ラマを政治亡命としては扱わず、

彼が主張する『チベット亡命政府』も承認していない。)

 

 

インド政府がこの亡命を受け入れたことで

中国とインドの仲は決定的に悪化する。

 

  

シムラ協定は結局イギリスとチベットでのみ結ばれた。

この協定にはチベットとインドの国境線が定められている。

 

具体的には、ブータンから東で、

マクマホンラインと呼ばれるその国境は

かなりイギリス(インド)寄りである。

  

300pxchina_india_eastern_border_88

 

 

 

マクマホンライン

朱い部分が

国境係争地帯。

現在は

インドが支配している。

 

 

 

 

しかし、それ以外にも中国はインドとの国境で不満があった。

具体的にはカシミール地区だ。

 

カシミール東部地域はチベット仏教の影響が強いのだが

1846年にイギリスがこの地域を平定した時、

これをカシミール藩王国に併合した。

中国からしたら、チベットの国境が勝手に移動させられた

ということになるらしく、

漢人がこの地域を支配したことは

一度もないので、なに言ってやがる。

  

とにかく、カシミールといえば、その帰属をめぐって

インドとパキスタンがお互い核ミサイルを持っちゃうくらい

喧嘩をする、というめんどくさい紛争地域なのだが、

中国軍は1962年に8万人の規模でもって

インドに電撃侵攻する。そして

自らが主張する『国境線』で停止した。

  

現在もその状態にある。

 

  

2012y09m19d_064333623   

Googleさんによる

カシミールの地図

国境線が

つながらないくらい

ややこしい。 

 

 

 

  

敢えていえば、カシミールの北部がパキスタン、南部がインド

東部のアクサイチン地区を中国が実効支配している。















さて、ここで考えて欲しい。

  

中国は1949年の『建国』以来

領土問題で譲ったことがない。

  

『欲しい』と思った土地を

必ず獲っているのである。








そのことを覚えておこう。 

 

 

『歴史的な経緯はこう。』という話を

一切聞かないのも共通のことだ。









冷静になることは結構だ。

中国人が日本人や日本車や日本企業に

暴動を仕掛けるのを見て

それなら南京町にうんこ撒いてやろうか?

というのは野暮である。

  

『嫌がらせ』という言葉で、すぐに『うんこ撒く』とかいう言葉が

出てくるあたり『少年のこころを持った50歳だなあ。』

思うのだが、そんなことしたら野暮の極みですからね。












しかし、日本のマスコミが『冷静にね。』とかいうのも

のんきにすぎる。

あの国は、建国以来60有余年

国境紛争で負けたことがない。

 

Sino-Indian Border Conflict(中印国境紛争)で

インド軍の10倍の兵力をたたき込み、

全盛期のソ連と核戦争を辞さないくらいに

対立したのだ。











中国を甘く見ちゃいけないよ?

  

『あんなデモなんかしている連中は「中国の2ちゃんねらー」だ

という指摘は半分は正しく、2ちゃんねるに限らずネット住民というのが

人間のくずであることは日中共通なのだが

 

あの国を舐めちゃいけない。

  

正しく恐怖しよう。


















ちなみに余談だが、

 

イギリスは、シムラ会議の直後

『エベレストへの登頂』のための入山を

チベット政府に求めている。

  

チベットに対する機嫌取りだったのだが

当時のダライラマ13世が警戒したのと、

第一次大戦の勃発によって

イギリス隊の入山は実際には1921年になった。

  

戦前、イギリスは3回のアタック隊を出す。

その全てに参加したのが『そこに山があるからさ。』

というセリフで有名な、ジョージ・マロリー

  

ただしマロリーはアタックの75年後、1999年に頂上直下で

転落死しているのが確認された。

  

彼の滑落死が登頂前であったのか

登頂後であったのか、というのは現在も謎である。

 

 

 

イギリスが、ヒラリー卿を登頂させたのは戦後の1953年。

すでにチベットは毛沢東軍によって制圧されていたために

イギリス隊はネパールから入山した。

 

 

 

 

『国境』というものの意味を考えさせられますね。




































では、『今日の一枚。』























インドと中国の間には今でも、ネパールやブータン

という小さな国があるが、

かつてはその間にシッキムという国があった。

  

0000_dajeering_2       

 

上に写っているのはヒマラヤ山脈

下がダージリンの街。

望遠レンズで引っ張って

高低差を強調しているのだが

そのくらいの高地ではあるらしい。  

 

 

  

シッキムというのも独立国だかなんだかよくわからない国だった。

イギリスの総督がいたのだが、ちゃんとシッキムの王様もいて

政府も軍隊もあって議会もあった。

 

 

保護国、という奴だ。

 

  

ところがこの国は高地にある。

そして、なんとお茶が栽培できる。

中国人にアヘンを売りつけてまで茶が欲しかったイギリスは

自分の影響範囲でお茶の耕作適地を捜した。

  

見つかったのがダージリン。

さっそくイギリスは、ここをシッキムから取り上げる。

 

取り上げたのでは寝覚めが悪いので、一応買い上げた。

そのお値段たるや、35000ルピー。

今のレートで換算すると5万円だ。

  

レートも貨幣価値も違うから比べること自体に意味がないのだが、

要するにはした金である。







ダージリンのすぐ東にはアッサムという所があって

ここでもお茶が穫れた。

気候か土壌か水か

とにかくいろんなものが偶然に合致したらしい。

 

ところが、お茶というのは栽培、剪定、収穫、

そして収穫した茶葉の乾燥、発酵という過程において

膨大な人手がいる。

 

そのために、イギリスは、この地域にネパール人を入植させた。

ダージリンやアッサムはもとより、

隣接したシッキムやブータンでも、人口比で

ネパール系の人が多くなってしまった。

  

イギリス人からしたら、

『なんとなく高地に強いインド人じゃない人。』

くらいの認識だったのだが、

これが戦後のシッキムの運命を変えてしまう。

 

 

 

 

戦後、インドが独立すると、シッキムは

インド連邦での保護国になった。

 

ところがインド中央政府はシッキムに対して

『総選挙をせよ』という。

  

選挙はいいけどネパール人、というか

『反王制派』のほうが多いわけだから国内は対立。

1975年、国内で争乱が起こり

中印国境紛争の12年後に

インド軍が進駐してシッキムを併合した。

 

  

インド政府の主張としては、シッキム王室が

民主主義勢力(親インド派)を弾圧した、というもので

実際にデモ隊への発砲などもあったらしいのだが

もっと大きな理由は、

インド側が中国側に国境線を持って行きたかったから。

 

シッキムという国はチベット宗教の一派である人たちが

開いた国で、昔々の歴史をさかのぼれば

チベットの属国だった時代がある。

 

 

 

 

 

中国がそれを口実に

侵攻してこないとは限らないのだ。

  

実際、それと同じ理由で、中国人は

カシミールに侵攻してきた。

  

さすがの中国も、その辺の意図をくみ取ったらしく

『インドによるシッキム併合』ということには

今でも外交上の承認を与えていないが

軍事行動までは起こしていない。

 

 

シッキムの側にも問題があった。

王様が国民の信頼を失っていたのだ。

最後の国王、バルテンは1964年に20以上年下のアメリカの学生

ホープ・クックと結婚した。

さすがにこの結婚はアメリカでさえ評判が悪く、Wikipedia英語版は

ほぼ、おちょくりに徹底している。

本国の評判はいかばかりであったか?

 

バルテンは1975年に王位を追われる。

しかし20下の嫁さんはつれなくて直後にアメリカに亡命した。

1980年に離婚。

彼自身も1987年に客死した。

 

  

もう、なんか。涙が出ちゃう。

おとこのこだもん。


















似たような事情で苦しんでいるのがブータンである。

ブータンもチベット仏教の流れをくむ人が建国し

隣接するアッサム地方での茶葉栽培が盛んになると

人口の1/4がネパール系になった。

 

ブータンというと、昨年若い王様と美人の王妃様が来日し

ほほえみと礼儀正しい仕草で日本中に『ブータンファン』を

つくった。

 

 

 

 

しかし、この時来日したワンチュク国王(第5世)以前は

ブータンという国は鎖国していた。

  

国民に外国のことを教えない。

『ご』という綿入れ半纏のような民族衣装の着用を義務づける。

国語教育は民族語であるゾンカ語だけ、という具合だった。

 

外国のマスコミも入れない。

日本のテレビでは『ブータンの映像』というだけで

『地球最後の秘境』なんて言ってスクープ扱いだった。

  

これもひとつの自己防衛である。

シッキムの失敗を知っているから

余計に閉鎖的になったのだろう。

 

今も、ブータンと中国の間には国交がない。

 

 

 

 

 

 

そして、今の王様が

去年日本にしたように

積極的な『ほほえみ外交』を行い

『幸せの国』として売り出しているのも

やっぱり国家防衛なのだ。

  

有名になれば、

いかに中国が無茶な国でも手は出すまい、と。

 

 

 

 

 

中国と、インドという巨大な国に挟まれた小国、というのは

とても大変なのだろう。

 

あんな若くてきれいな嫁さんをもらって、

いつもにこにこして幸せそうだな。とか思ってしまうが

あの王様も苦労してるのだろう。

  

0000_wanchuk     

 

どうしてもボンバイエという 

コールが聞こえてしまって

ごめんなさい。 

 

 

 

だから、今回の尖閣騒ぎにしても

『中国しょーがねーなー。』という、

半可通にわかったような対応ではなく

きちんと怖がろう。

 

 

国際社会に

中国の無法を訴えてもいい。

  

攻めてきたら叩きのめす。

そうじゃなくても、世界に中国人の無茶を訴える。

  

そのことだけをキチンとしよう。






にほんブログ村 その他日記ブログへ 

(クリックしてくださいな。) 

 

 

 

(追記)

南京町で中国の人をいじめちゃいけませんよ。

神戸でも大阪でも、華人社会というのは

想像以上に広くて深いので

下手なちょっかいを出したら、社会的に抹殺されるしな。

 

 

 

 

 

 

|

« 生麦事件とナショナリズム | トップページ | ある王国の滅亡。 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/453502/47099453

この記事へのトラックバック一覧です: 中国国境紛争史:

« 生麦事件とナショナリズム | トップページ | ある王国の滅亡。 »