« 中国国境紛争史 | トップページ | 王様選挙 »

2012年9月23日 (日)

ある王国の滅亡。

9月19日は『ハイデラバード藩王国滅亡の日。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

どこだよそれは?というと、インドにあった。

(クリックで大きくなります。ピンクがイギリス直轄領、黄色は藩王国)

 

  

インドの三角形の真ん中あたりにある大きなところが

ハイデラバード藩王国。

 

Gazetteer_frontcover    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この地図ではビルマも書いてあるので、

やたらとイギリス直轄領が広いが

以前も書いたが、イギリスというのは植民地で

直轄領を持ちたがらない。  

 

 

 

 

 

 

下手に『女王陛下の土地』にしてしまうと

福祉、衛生、医療、教育、治安、司法といった

社会サービスを与えないといけない。 

本国人を派遣するとコストがかかる。

 

  

 

支配しといて勝手な話だが、

イギリスやフランスといった、『植民帝国先進国』では

現地人を教育して下級官吏にするというのが

一般化していた。しかし、

 

下手に現地人に教育を与えると

ガンジーや、ホーチミンになってしまう。

 

 

 

痛し痒しだったのだが、

植民地の現地人に教育と権限を与えなかった

ベルギー領コンゴや、ポルトガル領アンゴラでは

戦後、猛烈な内戦が起こった。

 

 

 

 

 

 

 

  

イギリスも地図でいうピンクの土地を直轄領にした。

  

イギリスが最初に勢力を扶植したベンガル地方と

デリー首都圏を中心として

インド亜大陸の沿岸部と主要都市への交通路を

押さえている。

  

そしてそれ以外は、『藩王国』という存在に任せている。

藩王国というのは、ムガール帝国からある存在で

地方を任されたらなんとなく独立しちゃった、という連中。

イギリス支配下のインド帝国でも550以上あった。

  

もちろん、それだけの数があるんだから、ピンキリで

下の方は、『領民数十人』という『藩王国』があった。

 

こうなるともう、王様じゃなくて『村長』じゃないのか

という気がするが、とにかく下の方はそんな具合。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

そんな規模なら『保護国』とどう違うのか?というと

答えに詰まるとことがある。

 

インドでも、以前書いたシッキムのように

『総督はいるけど、現地人の王様もいる。』という

『保護国』という存在があった。

 

『保護国』は原則として、辺境で

イギリスにとって利用価値がないけど、

よそに獲られるのもしゃく、という、人を馬鹿にした地域であった。

 

 

 

 

 

『藩王国』はそれとは違って、

『イギリスのインド支配にとってそれなりに役割がある地域』

だったのである。

 

  

 

もちろん、イギリスに忠実な国家ばかりだったわけではない。

インド最南部の『マイソール藩王国』

イギリスに最後まで抵抗している。

  

ただし、マイソールは

巨大な勢力を持っていたために

お取りつぶしにはならなかった。

 

 

 

 

 

 

そこに行くと、『ハイデラバード藩王国』はイギリス寄りで

イギリスが、フランスとインド支配を争った

プラッシーの戦いの直後に同盟を結び、

1857年のセポイの乱ではイギリス(東インド会社)側に

立っている。

 

 

 

  

その後、

東インド会社からイギリスが直接支配に乗り出した時

『藩王国』の選別、が行われた。

具体的にいうと、イギリスに忠実な藩王国は生き残る。

反抗的な国、マイソール藩王国のように巨大な勢力を

持っている国は、生き残ることは許されたが

領土を半分くらいに削られた。

 

 

 

  

そこにいくと、『ハイデラバード』は別格だ。

人口、面積とも藩王国の中では最大。

  

実際ハイデラバードはムガール帝国時代から、並みいる『藩王国』

の中でも別格の存在だった。

 

今まで、意図的に『藩王』と書いてきたが、

並の藩王だと、呼び名は『マハラジャ』。

  

マハラジャというのはディスコの名前ではないのである。

 

 

 

 

 

ハイデラバードの王様は別格で

『ニザーム』という特別の称号を

持っていた。

  

それを許されたのはこの国だけだったから、

『ハイデラバード藩王国』のことを『ニザーム王国』ともいう。

 

 

 

 

 

  

めんどくせえ。

 

 

 

 

  

 

イギリスに忠実なことも文句がない。

   

ハイデラバードは、第一次世界大戦では自国軍をエジプトに派遣し、

第二次大戦では巨額の援助をした。

 

従って、イギリスはハイデラバードを最高の待遇で扱った。 

 

 

 

   

この話で、よく引き合いに出されるのが、

ニザームがデリーに出かけて式典に出席する際、

21発の礼砲が打たれたという話。

21発の礼砲というのは、イギリスでは最高の待遇で、

国賓クラスにしかうたれない。

  

21発の大砲をドッカンドッカンと撃つのかというと、

一門の大砲でそんなことをやったら、

前装式の大砲の時代ならうつのに30分くらいかかってしまう。

 

従って、7門くらいの大砲を並べて5.6秒おきに撃つ。

7門並べるのなら、同時に撃って3回やれば21発じゃねえか

と思うし、国によってはそういう祝砲、弔砲の撃ち方もあるのだが

律儀に21発撃ったらしい。

 

6秒おきでも2分だ。

それを、イギリス総督は敬礼しながら見守り、

ニザームは馬上ゆたかに、ではなく

彼は、公式の式典には

象の上に輿を乗せて出席したらしいから

象上ゆたかに、礼を受けたのである。

 

 

2534221_f260       

 

 

ぱおおーん

 

 

 

 

 

 

外交ってくだらない虚礼で出来ている。

 

 

  

と、まあこんなどうでもいいことを書いているが

実をいうと、イギリスというのは植民地支配をするに当たって、

現地の既存勢力に対して、

意図的にこんなくだらないヒエラルキーを与えた。

  

各勢力間で見栄をはらせて、お互いを離間させるためである。

なんたる卑怯者か。

 

しかし、ハイデラバードの王様も、そういう『格付け』を

喜んでいた風がある。

 

 

 

  

 

そして、こういう格付けにこだわった事が

ハイデラバードを発展させもしたし、

王国としてのこの国を滅ぼす事にもなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ごめんね、前置きが長くて。

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、まだ本題には入らない。

  

Wikipediaには、

ハイデラバードは広軌の鉄道を押しつけられたことが

財政上の大きな負担になった、と書いてある。

 

嘘だ、とまでは言わないが事実とニュアンスが違う。

 

 

 

 

解説がいるな。

イギリスが、広軌の鉄道をインドに敷設しようとしたのは事実。

広軌、というのはインドの場合5フィート半で、1676mm。

日本のJRの在来線が3フィート半で1067mmだからだいぶ広い。

                      

広軌だと、輸送力を大きくできる。

貨車も客車も大きくできる。

 

蒸気機関車の時代、軌間が広ければ缶室を大きくできるので

出力が大きくなる。

軌間が1.6倍だとすると、体積はその3乗だから4倍になる。

                          

実際、狭軌で建設された日本の鉄道は決定的に遅く

輸送力がなかった。

昭和30年には、東海道線は線路容量の限界を迎えており

そのために新幹線が建設された。 

                            

高速・旅客輸送に徹底した新幹線の商業的成功は

世界各地に模倣を生み、物流の歴史を変えた。

 

 

 

 

 

  

しかし、もしも日本の鉄道が広軌で建設されていたら、

新幹線は登場しなかったかも知れない。

そして、その可能性は高かった。

 

 

 

少なくとも5年は遅れただろう。

5年ならまだ実現できたかも知れないが

10年遅れていたら石油ショックだ。

計画は凍結されただろう。

 

 

『日本にも広軌を』というのは

全くリアリティのない話ではなかった。

日本の都市計画と鉄道には必ず顔を出す

後藤新平が、鉄道院総裁だった時代、

日本の鉄道を広くせよ、全部が無理なら東海道線だけでもやれ。

という『改軌案』が粘り強く提案され続けた。 

 

それさえ無理なら、軌間の違う広軌の別線を通せという案が

出され、それは『弾丸列車計画』として、

用地買収や試験列車の建造など一部では着手された。

もちろん、戦争によって完成はしなかったが…

 

 

 

 

 

だから、『新幹線』が実現できたのは

日本の鉄道が狭軌であり続けたからだ。とも言える。

 

 

そして、あの時期、

1964年に日本が新幹線を作らなければ

TGVもICEも中国や韓国や台湾の高速鉄道も

世界中の高速鉄道は存在しなかっただろう。

 

鉄道自体、切れ切れに分断されて

広域交通機関として、維持されていなかったかも知れない。

 

 

 

 

歴史というのは、ずいぶんと小さい

偶然のつみ重ねで出来ている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まだある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

狭軌で、1mちょとの軌間だと列車の最大幅員は3mになる。

軌道敷というのもこの幅で建設される。

 

 

 

この幅員だと、ほかに転用できない。

 

廃線になることを見越して鉄道を敷くやつはいないだろうが

じつは、この『狭軌鉄道の中途半端さ』が

日本中の鉄道を苦しめている。

 

 

 

 

廃線にしても、道路にならないんですね。 

 

 

 

 

街と街を結んで帯状の専用敷地があり、

しかも必ず『駅』を通る。

 

廃線しても道路にすれば、バスも走らせられるし、

一般に開放したら便利だ。

沿道の鉄道用地を『分譲』したら大儲けじゃないか?

なにしろ、駅前なんだから。

と思うでしょう。

 

 

 

 

 

しかし、これが出来ない。

 

 

 

 

 

今の自動車は乗用車でも幅1.8mくらいあるから

物理的にすれ違いが出来ない。

道路法では幅員4mないと『道路』と見なしてくれないから

沿道を分譲しても、建物が建てられない。

『接道』していないから建築基準法違反なのである。

 

 

 

日本中に赤字の鉄道があり、

バスに転換したいと思っている人たちがいるのだが

これが出来ない。

 

 

東北の被災地の鉄道なんか赤字だからバスでいいじゃん、

とJRが冷たいことをいっても

それさえ出来ないのは軌道敷が中途半端に狭いからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふう。 

 

 

 

そろそろインドの話に戻ろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もちろん、広軌だと建設費が高い。

軌道敷もそうだがトンネル、橋梁、切り通し

あらゆるものをでかくしないといけない。

 

しかも貨車も大きいし、編成も長いから重い。

丈夫に作らないといけない。

当然維持費も高い。

 

 

 

 

 

中小のマハラジャの中には、広軌の建設費に耐えかねて

勝手に軌間1000mmの、メーターゲージと呼ばれる

路線を引いた国もある。

山間部には762mmや610mmという『超狭軌』の鉄道も

敷かれたから、あの国の鉄道は4つのゲージがある。

 

路線の延長距離でいえばメーターゲージが一番長い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あ、やっとインドの話に戻ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イギリスが広軌を勧めたのは事実だが

ハイデラバードがそれを受け入れたのは

『大国』としての面子もあったからだ。

 

 

 

 

事実、ハイデラバードの歴代のニザームは

国家の近代化に熱心で教育や医療では、

イギリス直轄領をしのぐ投資を行った。

 

 

 

これを見栄だといってしまっては可哀想だろうが

ハイデラバードが破格のニザーム王国だったから

行われた、という側面は、ある。

 

 

豊かな国でもあった。 

インド最大の炭鉱があり、ダイヤも取れる。

近代化の投資に耐える財力があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歴代のニザームは『世界一の金持ち』といわれた。

第9世のミール・アリ・ハーンは着道楽で

『同じ服を2度と着なかった。』という。

 

 

そのせいか、第10世にして、最後のニザーム

オスマン・アリ・ハーンは、とんでもないケチだったという。

 

 

彼は父が作った広大な宮殿を好まず、ぼろ小屋に住んだ。

家具といえばわら布団と、粗末なテーブルと椅子だけで

そのほか、部屋にはいくつものトランクがあり

その中にはぎっしりと札束が詰まっており

入りきれない分は部屋の隅に積んであった。

 

彼は父の反動か、着るものや身の回りのことに一切無頓着で

年に一度しか風呂に入らず、何年も同じ服を着ていた。

 

従って部屋にはたくさんのネズミがおり

ネズミたちは、無造作に積まれた札束をかじり散らした。

『ニザームの家のネズミは、

ニザームより何倍も高いものを食ってる』

といわれたそうな。

 

 

と、まあ。これはオスマンに関する『伝説』のうち

もっとも悪意のあるものである。

 

 

 

 

 

 

この人は戦後まで生きているので

写真が何枚も残っているのだが

それほどケチで不潔なようには見えない。 

 

0000_ahlhi_kahan    

 

 

 

ぼく、お風呂入ってるもん。

 

 

 

 

 

 

で、

 

この人は、ハイデラバードのニザームとして

1911年から1948年まで在位している。

国内の近代化に関する投資には

金をけちってはいない。

 

 

 

 

この人の時代の建築として有名なのが

ハイデラバード高等裁判所。

 

0000_high_coat     

 

 

まあ、裁判所だから

観光は出来ないらしいですが。

とても贅沢で美しい建物、

だそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、戦後インドが独立する時にハイデラバードは、道を誤った。

表題に述べた『国家滅亡』の話にやっと来た。

 

 

 

 

 

 

インドは1947年にイギリスから独立する。

独立運動を主導したのはガンジーだった。

 

この人はマハトマな心で

国内のヒンズー・イスラム両宗教の融和を訴えるのだが

弟子であるネルーとイスラム勢力の指導者、ジンナー

回印連邦制についてさんざんに協議するのだが結局は対立し、

ついにイギリスは『もうイスラムとヒンズーは国を分けよう』

という趣旨のインド独立法、という法律を作って

とっととインドから撤収する。

 

 

 

 

国境線を引いたのはラドクリフという若い弁護士で

たった一ヶ月で現在のインドとパキスタン・バングラデシュの

それぞれの境界線を描く。

 

 

しかも、この時点ではパキスタンとバングラデシュは同じ国だった。

首都は今の西のパキスタンにあるのだが人口や経済規模は

東のバングラデシュのほうが大きい。

 

 

『飛び地』がある国家は世界中に珍しくないが

本土と飛び地が1600kmも離れていて、

飛び地のほうが人口が多い。

こんな豪快な飛び地はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それ以外の国境線も宗教だけで分けており、

言語や民族を考慮していない。

更に、イスラムとヒンズーがきっぱり別れて住んでいるはずもない。

 

いくら何でもこんな人為的な国境線は無茶で

ヒンズー、イスラム双方から大量の難民を出した。

しかも、ラドクリフ先生、藩王国については『勝手に決めてね』

ということで逃げてしまったので、これが大問題になる。

 

 

 

0000_1947      

1947年、独立時のインド

紫がインド、緑がパキスタン

黄色がハイデラバード 

 

 

 

 

パキスタン西南部、バルチスタンにあった4つの藩王国は『独立』

するのだがパキスタン軍に圧迫されて降伏。

 

パキスタン北部、カシミール藩王国は

王様がイスラム教徒だったので

パキスタンに参加しようとするが

住民の大半がヒンズー教徒だったので

大量の難民が出るのは明らか。

 

インド政府が撤回を迫り、

パキスタンが軍事進攻する姿勢を見せると

カシミールの王様は前言を撤回、インドに保護を要請。

印パ両軍がカシミールに侵攻して

未だに、解決していない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さてやっと、ハイデラバードだ。

 

ハイデラバードのニザームもイスラム教徒だった。

だからパキスタンに入りたい。 

しかし住民の大半がヒンズーなのはカシミールと同じだった。

 

インド政府は頭を抱えた。

これでは、東西パキスタンのほかに

『南パキスタン』が出来てしまうではないか。

 

 

 

 

浦和駅じゃねえんだぞ、と。

 

 

 

 

かといってパキスタンとハイデラバードの両方を相手に

戦争をするわけにも行かないので

現状維持、つまり藩王国として存続させることで協定。

1947年11月に、ハイデラバードは独立宣言する。

 

しかし、この『独立』はイギリスをはじめ諸外国に

認められなかった。

あれほど恩を売ったのに…

 

 

 

 

で、そのハイデラバードの地図。

 

        250pxhyderabad_state_1909

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かといってインドもいきなり戦争はしたくないので、

国境を封鎖した。 

地図のようにあいにくとハイデラバードは内陸国だった。

 

 

 

ハイデラバードは『インドの無法』を国連に訴えるのだが

頼みの綱のイギリスのアトリー政権はこれを見捨てた。

これでインドは意を強くする。

 

 

第一次印パ戦争が片付くと、

インド政府はハイデラバードの処理に取りかかる。

9月12日にインド軍が進駐すると5日後にハイデラバードは降伏。

翌年、インドへの併合を認めて国家としても消滅する。

 

200年近く続いた『近代国家』は

兵糧攻めと、109時間の『戦闘』で消滅した。

 

 

 

 

 

 

国家って一体何だろう、と思うのです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の一枚。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後のニザーム、オスマン・アリ・ハーンの伝説には

信じられないものが多いのだが、

ひとつのエピソードだけは共通していて、それが、

『グレート・ムガールという巨大なダイヤを文鎮にしていた。』

というもの。

 

 

0000great_mugar_2               

 

280カラットあるんですって奥さん。

だから、56グラムよ。うひゃあ。

 

 

 

 

 

もちろん、これは後世の模造品の写真である。

というか、そもそもそんなダイヤ

誰も見たことがないらしいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

ただ、このオスマンという人がとんでもない金持ちだったことは

確からしく、彼は1948年に『ニザーム』ではなくなっても

金持ちのまま1964年まで生きて、インドで死んだ。

 

巨額な遺産をめぐって大変な騒動があったそうだが

この辺の話は、彼自身のケチ伝説よりも

信じられない話ばかりである。

 

しかし、このダイヤもその騒動の時に

どこかに紛れてしまったのは確からしい。

 

 

 

 

 

 

 

彼が何故、このダイヤを文鎮にしていたのかについては、

これも、まゆつば物のエピソードがある。

 

 

 

 

 

とある、ユダヤ人の商人が、このグレートムガールをもって

ニザームのぼろ小屋にやってきた。

彼は赤いビロードに包まれた巨大なダイヤを

恭しくニザームの前に差し出した。

 

ニザームは、それを取り上げると手の甲に乗せ、

そして小さくかぶりを振った。

『指輪にならん。』と。

 

商人は、あわててニザームの礼服を指さし

『それならカフスボタンに仕立てましょう。』といった。

 

ニザームは礼服を振り向きもせずに、やはりかぶりを振った。

『ひとつしかないではないか。』と。

 

商人は焦った。

名にし負う大金持ちなのだ。現に後ろには

ネズミに食われながらも巨額の札束があるではないか。       

 

 

すると、ニザームの従者がそのダイヤを取り上げ

ニザームが書いていた手紙の端に、そっと置いた。

 

ニザームは初めて顔を上げ、にっこりと笑った。

『ペーパーウェイトにちょうどいい。』

 

 

 

 

かくして、世界最大のダイヤは文鎮として、

ニザームのぼろ机の引き出しに

無造作に仕舞われたそうです。

 

 

 

 

 

 

 

なんだか、この国そのものみたいな逸話ですな。

 

むう。

 

 

 

 

 

 

にほんブログ村 その他日記ブログへ 

(クリックしてくださいな。) 

 

 

 

今日の反省。:長え。

 

|

« 中国国境紛争史 | トップページ | 王様選挙 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

最後までたどり着きました! 
最近、頭と根気が弱ってきたらしく
長文が読めなくて……ごめんなさい。

物には用の美というものがありまして。
使い道がないものの価値を認めないという
ニザームの感覚は好きです。

意義も意味もなく存在するのは、
わたしだけでたくさん。

あ、最初のほうもちゃんと読みましたって――笑。

投稿: takae h(fullpot) | 2012年9月25日 (火) 00時50分

fullpotさん ありがとうございます。 
すいません遅くなって…
 
ニザームさんは
われわれ庶民とは全く違う座標軸で
生きていたんだろうな、と思います。
 
いい加減大人になると、
『あ、この人、育ちが違うわ。』
という人は珍しくないのですが
それでも、われわれ庶民の想像力が
届く範囲ではあります。
 
たぶん、この人はそういうのとは全く違う
『非ユークリッド空間』な
金持ちだったんだと思います。
 
そう思うとうらやましくないか…
でも、お金欲しい…

投稿: natsu | 2012年9月28日 (金) 01時32分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/453502/47166671

この記事へのトラックバック一覧です: ある王国の滅亡。:

« 中国国境紛争史 | トップページ | 王様選挙 »