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2012年10月の投稿

2012年10月28日 (日)

キューバ危機の日

10月28日は、キューバ危機が終わった日。

(Wikipediaキューバ危機)

 

 

 

 

 

 

 

アメリカの偵察機が

キューバに、ソ連の中距離核ミサイルが存在していることを

確認したのが1962年の10月14日。

                 

当時アメリカの大統領だったケネディが

キューバにあるソ連の核ミサイルの存在を

テレビ放送を通じて、国民に明らかにしたのが24日。

  

フルシチョフがミサイルの撤去を発表し

事件が収束したのが10月28日。

  

世界が『核戦争の危機』に恐怖した

2週間である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キューバというのはここだ。

 

 

Cuba_orthographic_projection_svg     

          

 

カリブ海の島国。フロリダの

ディズニーランドのすぐ南だよ

 

 

 

  

かつてここはスペイン領だった。

米西戦争によってここがアメリカ領となるのは1898年。

                    

この時、キューバは世界最大の砂糖生産地であった。

スペイン人は現地人や奴隷を使って

プランテーションを作った。あと葉巻も。

  

米西戦争、というのは日本人には

訳のわかりかねる戦争なのだが

司馬遼太郎の『坂の上の雲』にちょっとだけ出てくる。

             

『スペインがキューバでひどいことをしている』と

三流新聞紙(イエローペーパー)が騒ぎ立てたからだ、と。

           

もちろんそんなことだけで戦争は起こらないが、

そういうことが建前のひとつであった以上、

アメリカはキューバを『解放』しなければならなかった。

 

 

 

 

 

  

独立したのは戦後すぐの1902年。

 

 

 

  

ただしこの時、アメリカはキューバ島内の

グアンタナモ湾、というところを借り上げた。

『海軍基地』なのだが

この地名はそれよりも『政治犯収容所』として有名だろう。

  

アメリカは『国内』では出来ない、

いけないことやいけないことを

このグアンタナモ収容所でいろいろと行っている。

 

 

いまも『借りて』いる。

 

  

もちろん現在の『革命』キューバ政府は、

『国土の不法占拠』を認めないので

『借地料』を受け取っていない。

            

アメリカ政府は裁判所にそれを供託しているのだが

年間の借地料は年間48,000ドル

(いまのレートで350,000円くらい)。

 

 

  

超安い

 

 

 

 

キューバ独立は1902年と比較的早かったのだが

それは、プランテーションと砂糖工場の主人が

アメリカ人に変わることでしかなかった。 

            

当然キューバ人から不満が起き、

キューバの政情は不安定になる。

  

1933年にバチスタ、という顔の濃いおっさんが

軍曹のくせにクーデターで権力を掌握。

選挙に負け続けて、要するに民心は得られなかったのだが

独裁によって一時的に安定を得る。

1952年には憲法を停止してめちゃくちゃをやる。

 

  

 

220pxfulgencio_batista      

 

     

演説するバチスタ

すげえ濃い顔

 

 

 

  

 

アメリカ資本と結託して私腹を肥やした

ということで、いまでもこの人の評価は非常に低いのだが

2度の世界大戦に勝って、飛躍的に経済力を付けたアメリカの

富の一部が、この時代この国に還流したことも確かである。

              

1950年代までのアメリカ車が

現役で最も走っているのはキューバだ。

 

  

 

 

これ、5年前の映像だそうです。 

            

少なくともこんな街が、

阪急電車で30分で行けるところにあったら毎週行く。

しかし残念ながら、ここはハバナで太平洋を越えて

さらに彼方のカリブ海にある。

 

 

 

          

いまでもこんな古いアメ車に乗っているのは

後に述べる理由でアメリカがキューバに経済制裁を

食らわせたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バチスタ政権が倒れたのは1956年のキューバ革命。

  

カストロやチェ・ゲバラを含むゲリラ戦士82人が

亡命先のメキシコから上陸したのが1956年11月。

ただし、8人乗りのボートに82人も乗ったもんだから

上陸した途端弱り果てて、あっという間に12人まで減る。

  

 

苦労してバチスタを追い出すのは1959年。ただし

この時点ではカストロは、アメリカと対立したくはなかった。

 

  

彼が最初の『外遊先』に選んだのは

実はアメリカである。

 

 

 

 

カストロは、1959年に関しては

『グアンタナモ基地の借地料』を受け取っている。

 

 

 

 

 

            

カストロは、頭上に覆い被さる超大国アメリカと

喧嘩したくはなかった。

  

しかし、『バチスタ独裁』を倒した以上

バチスタと結託していたアメリカ資本を

そのままにするわけにも行かない。

            

アメリカとの間には距離が出来、

1959年4月にカストロによる『土地国有化』と

アメリカによる経済制裁によって決裂。

  

カストロはソ連に接近する。

                  

だから1959年以降、アメリカの車は入ってこなくなる。

代わりにソ連の車が入ってきたはずだが

キューバ人は『ソ連の新車』より

『アメリカの中古車』を選んだ。

 

  

 

消費者の選択というのはまことに厳正である。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          

アメリカ側の事情を見よう。

アメリカが砂糖プランテーションを経営し続けたのは事実。

               

キューバの砂糖は60年間にわたって

アメリカ人を太らせ続けた。

  

そのままほっといた方が

地球の平和のために良かったんじゃないのか?

とも思うが、お父さん太っちゃダメ。

 

 

 

 

  

国家としてのアメリカは

冷戦時代にたくさんの国に影響力を持った。

  

もっと露骨にいうと、

気に入ればジャブジャブと経済援助をするが

気に入らないとクーデター起こして国家を転覆させてしまう。

             

気に入るかどうかの基準は、

『アメリカに忠実であるかどうか』

『統治能力があるかどうか』

  

だから、独裁政権でも何でも良かった。

嫁さんが宝石で着飾っていようと、

3000足のLサイズの靴を持っていようと構わなかった。

 

 

 

             

しかし、バチスタ政権は腐敗した。

国民の不満が高まって、もう統治能力がない。

だから見捨てた。

 

カストロが、たった12人で政権を奪取できたのは

応援はなかったかも知れないが

少なくともアメリカの黙認があった。

           

カストロも、

最初はあからさまに共産主義を押し出さなかった。

清廉で国民の支持があるならカストロでもいいや、と

アメリカが一瞬とはいえ思ったのは事実である。

  

その後、アメリカと対立するようになると

あらゆる手段でカストロをつぶそうとする。

 

 

 

 

           

キューバ危機を体験することになるケネディも

CIAをキューバに送り込んで大失敗している。

(ピッグス湾事件)

             

しかもこの事件にアメリカが関与したことは

キューバをさらにソ連に近づけてしまうことになった。

 

 

                 

10月14日、ソ連の核ミサイル4基が

すでに配備されていることを米軍の偵察機が発見。

アメリカ政府・軍部首脳は驚愕した。

   

ソ連に対し、配備の事実の確認と

ミサイルの即時撤去を求める一方、

キューバを海上封鎖。

 

 

              

東京大空襲で日本人を一晩で10万人殺した

人類の悪魔カーチス・ルメイをはじめとする

米空軍は空爆してミサイルそのものを破壊することを

強く主張するのだが

ケネディは許可を与えなかった。

   

 

Lemay_cuban_missile_crisis         

大統領、やっちまいましょうぜ

と迫る、『悪魔ルメイ』

(右から2人目)

 

 

               

ケネディはルメイを怒鳴り飛ばしたかっただろう。

まだ配備前なら空爆でも何でもありなのだ。

           

ケネディというおっさんは平和主義者のようなイメージがあるが

先のピッグス湾事件の失敗以降もキューバに

政権転覆のための秘密工作隊を出し続けている。

 

 

  

しかし、すでに実戦配備されていたら

空爆しても先に発射されたらどうなる。

1基でも討ちもらしたら核戦争だ。

  

お前ら毎週偵察機を飛ばしていて

何故この段階まで気がつかない。

  

『俺はジャップを空襲で滅ぼしましたぜ』というルメイを

殴り飛ばしたかっただろう。

            

実際これは杞憂ではなくて、ソ連が配備していたのは

発見された4基だけではなく40基以上あった。

ルメイのいうがままに空爆していたら核戦争になった

可能性は大いに高かった。

 

 

Cubacrisis_17_oct_1962     

       

アメリカが『発見していた』

MRBMの発射基地 

 

 

 

           

ケネディは躊躇し、テレビを通して国民と世界に

この事実を公表した。 

アメリカ国民はパニックに陥る。

 

 

 

 

 

 

 

  

ソ連の側の事情も見ておこう。

フルシチョフは焦っていた。

  

まず、直近の恐怖としては

アメリカがトルコに中距離核ミサイル

ジュピターを配備したことである。

  

このことは、共産党西宮支部の杉山は理解できないらしいが

キプロス紛争の原因となった。

          

なによりソ連が恐怖した。

そんな近い場所にミサイルを置かれたらたまらん、と。

 

 

 

 

 

 

  

モスクワの地下鉄建設で褒められて頭角を顕した

このハゲはスターリンの弱点もよく知っていた。

          

スターリンはマンハッタン計画に大量のスパイを送り込んで

原爆で4年、水爆で1年という時差で

アメリカの核技術に迫った。

  

ただし量の展開は無理だった。

核兵器が実戦に使われたのは『ヒロシマ』『ナガサキ』だけなのだが

その運搬手段は戦略爆撃機だった。

              

ソ連は空軍においてアメリカにまるでかなわない。

 

 

 

 

  

なにしろこうだ。

   

0000b5_tu95           

アメリカのB52と

ソ連のTu95

どちらもそれぞれの

最大の爆撃機 

 

            

従ってソ連はミサイル開発に金を掛けた。

現在、国際宇宙ステーションに行く方法は

ロシアのロケットで打ち上げてもらうしかないのだが

このロケットの原型機R-7ロケットが開発されたのは

キューバ危機の5年前の1957年。

いまでも使ってるわけです。

 

  

ソ連は、宇宙開発における自国の優位を

意図的にアピールした。

              

もちろん、最高の軍事機密である核ミサイル

そのものを公表は出来ないので

『宇宙開発』の名目で

スプートニクを打ち上げ、

ガガーリンを打ち上げた。

 

  

アメリカ国民は恐怖した。

 

 

            

空からソ連のミサイルが降ってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

しかしながら、戦略核ミサイルでも

数ではアメリカにかなわなかった。

  

しかも、この時代の核ミサイルというのは精度がひどく

1万kmも飛ばしたらどこに落ちるかなあ、という代物。

            

そんなら、1発の破壊力を大きくして

少々外れても目標が壊せればいいんじゃね?

  

と、

        

核兵器の巨大化が始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

ソ連としては自分からふっかけた競争だとはいえ

核兵器の数と規模、そして宇宙開発に

つきあわなければならなかった。

  

為替レートにもよるが、

経済規模でアメリカの1/20しかなかったソ連が

そんな競争につきあえるはずがなかった。

            

後のレーガンの時代にSDI計画というのがあり

『核ミサイルを撃ち落とすとか、そんなもんできねえよ』

と米ソ両国の技術者は見切っていたのだが

どちらかが手を引かないと終わらない。

  

この無駄な投資が結局『ソ連』を滅ぼす。

 

 

 

 

 

  

もっとも、ソ連にも恐怖があった。

日本人が見慣れているメルカトル図法の世界地図はこんなである。

             

 

2012y10m24d_075818885           

頭上に覆い被さる

巨大な露助  

超うっとうしい

 

 

  

しかしロシア人が考える世界観はこんなである。 

  

 

Union_of_soviet_socialist_republics       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヨーロッパと近くてアラスカも近い

その一方で中国とも仲が悪くなっちゃった。

アメリカ本国は大西洋と太平洋の向こうだからいいよな。

          

俺たちは敵国に囲まれている。

そこにトルコにミサイルですと?

 

 

 

 

だから、急速な『軍拡の時代』

フルシチョフが選んだ選択肢はふたつである。

ひとつは戦力を実態以上に見せるためのプロパガンダ。

              

もうひとつは『緊張緩和』。

なんとかアメリカと仲良くしようぜ、と。

そういう雰囲気を演出しようとした。

そのうえで軍拡のスピードを緩めようとしたのだ。

とてもかなわないから。

 

 

 

 

  

アメリカも、それに乗った。

            

1959年9月にフルシチョフはアメリカを訪問する。

この人はハゲで、

ハゲはいいとしても、とびきりの笑顔を持っていた。

  

アメリカに2週間も滞在するのだがその時案内したのが

当時、アイゼンハワー政権の副大統領だった

愛想の悪いニクソン。

  

この人はテレビと相性が悪いことにかけては

天下一であり、この時もフルシチョフへのお追従として

『われわれの国は確かにロケットの技術では

ロシアに劣っているでしょう。

でも、このカラーテレビとビデオを見てください』

  

といって、後に

『テレビよりロケットが大事だろ?』

と、どこかの国で聞いたような批判を浴びる。

               

さらにこの人は翌年の大統領選挙に出るのだが

やっぱりテレビ映りが悪くて

ケネディに負けた。

 

 

フルシチョフもニクソンと握手したことは中国との仲を

決定的に悪化させるのだが

ソ連としては中国なんかよりもアメリカとの

緊張緩和が大切だった。

 

 

 

 

 

 

  

ただ、フルシチョフも、

基礎工業力における圧倒的な格差には

衝撃を受けたらしい。

  

そしてこの人には、個人的にも

業績を上げないといけない事情があった。

           

これが、彼がキューバ危機を演出した、また別の理由。

 

 

 

 

 

  

農業政策で大失敗をしていたのだ。

ソ連の南、いまのウクライナのあたりは黒土地帯といって

世界屈指の穀倉地帯である。

        

フルシチョフは、

ここや隣国のカザフスタンやトルクメニスタンの

農業生産量を増やそうとした。

 

        

中央アジアに巨大な湖がある。

ひとつがカスピ海、もうひとつがアラル海。

岩塩があるのでどちらも塩湖なのだが

アラル海のほうは塩が薄くて農業に使える。

            

フルシチョフはここから運河を引いてカラクーム砂漠を灌漑し

綿花を育てようとした。

            

さらに周辺の地域でも小麦栽培のために

大いに農地面積を増やした。

  

 

2012y10m27d_182221461       

      

アラル海はここです

 

 

 

 

 

 

 

大失敗した。

  

小麦や綿というのは連作に耐えない。

土地を荒らすのだ。

荒れた土地の表面をさらにトラクターで荒らせば砂漠になる。

  

だからよほど注意深くやらないといけないのだが

フルシチョフはルイセンコという若干オカルトめいた

農学者をブレーンに抱えたために傷を深くした。

 

 

           

もっとも、同じような失敗はアメリカもやっていて、

1930年代のアメリカではルイジアナが砂漠になって

『怒りの葡萄』になった。

  

毛沢東はもっと大規模に失敗していて

表土はおろか山の木々も全部切ってしまったために

土地も山も川も荒れて『大躍進』どころか

数千万人の餓死者を出した。

 

 

  

とにかくフルシチョフも、

最初の数年こそは耕地面積が増えるんだから

『実績』をあげたが

一度数字が上がってしまうとそれが『ノルマ』になってしまって

縛られるのがソ連である。

  

無茶な形で土地を荒らしてたちまち不作になった。

             

ソ連はアメリカから小麦を輸入する。

 

 

 

 

恥さらしなばかりではなく『安全保障』としても大問題だ。

このことは大いに批判された。

フルシチョフには

『即時で確実な実績』が必要だった。

 

 

 

 

 

 

  

ただ、いくらトルコにミサイルが置かれて

腹が立ったとはいえ

トルコとキューバでは条件がまるで違う。

  

事実上ヨーロッパと陸続きで

地中海の制海権を完全に握っている米欧と

大西洋を押し渡らねばキューバに行けないソ連とは違う。

           

というか、ソ連には海軍がないのだ。

 

 

 

  

もっとも、帝政ロシアの時代には世界的な海軍国だった。

           

アメリカをしのぎ、日本の倍以上、という

戦力を誇ったのだが日露戦争で全滅した。

  

これは文字通りの全滅で

旅順をめぐる陸海の戦いで半分が消滅。

腹を立てて残りの本国艦隊を総ざらえして

バルチック艦隊として送ったら日本海海戦で全滅。

 

  

ロシアは全海軍を失った。

  

直後にロシア革命が起こり第一次大戦が続き

共産革命が起こり、スターリンが軍部を大粛正して

ヒトラーが戦車を前面になだれ込んできたから

ソ連は冷戦が始まった時点で

水上戦力をまるっきり持っていなかった。

  

その後の状況もそんなようなもんで

ロシア艦隊はボスポラス海峡を出て地中海に行くことは出来ず

当然インド洋にも太平洋にも極東アジアにも

まともな海軍を派遣できなかった。

             

大西洋を横断してキューバを支援することなど出来ないのだ。

  

だから、キューバに核ミサイルを置いても『置き捨て』だ。

どうせ核ミサイルなんか『ダモクレスの剣』

使うことなど出来ないのだとはいえ

脅しなんだとしてもキューバは

国土そのものがミサイル発射台でしかない、といえる。

 

  

ひどい話だ。

       

 

 

 

 

 

 

 

 

最後にキューバの事情を見ておこう。

          

心ならずもアメリカと敵対してしまったカストロは

ソ連の支援を望んだ。

  

具体的には実戦部隊の配備と武器の供与である。

          

ソ連は、『顧問団』という部隊の派遣には応じたが

アメリカを刺激しないために

露骨な武器供与は控えた。

  

そこでカストロは

核ミサイルを要求する。

 

 

  

この飛躍がよくわからない。 

やっぱり『ダモクレスの剣』なら強力なものが良かったのか?

  

前記の諸事情があってフルシチョフは核ミサイルの供与に応じる。

もちろん、賭というよりもばくちだ。

実際フルシチョフはこの事件の直後

『アメリカへの対応が弱腰だった』ということで失脚している。

              

ソ連の最高権力者で、生前に権力を失ったのはこの人と

最初にして最後の大統領、ゴルバチョフだけである。

 

 

 

   

そして『使えない』以上、

カストロはミサイルの第一陣が来た時点で

『世界に公表して、アメリカの妥協を引き出せ』

とフルシチョフに要求する。

            

フルシチョフは

『1発や2発では破壊されたら終わりだ。

あとは、核ミサイルを配備した、という

外交上の負い目だけが残る。』として

数がそろうまで待て、という。

 

 

 

 

          

この間のやりとりを見ると、

『カストロは腰を据えてアメリカと戦うつもりはなかった』

とおもうのだ。

核戦争を招来するこんな事態は望んでいなかっただろう。

               

「ミサイルがあるよっ」ということで

猫だましのように一発パチンと脅かせれば良かった。

アメリカとの関係改善、というか均衡を望んだ。

せめて経済封鎖の解除を引き出せたら良かった。

 

  

そうであれば、

『空爆に耐えてミサイルを残す。』

というフルシチョフの戦略と

『俺たち核ミサイルがあるんだぜー。』

という自分達の戦略は当然違う。

               

こうした立場の違いはこの事件において

一番の当事者であるはずのキューバを

蚊帳の外に追い出していく。

 

 

  

そして、ソ連には『核ミサイル配備の事実は俺が公表する』

『アメリカの挑発には絶対に乗るな。』と言い渡されてしまう。

 

  

すげえ、腹立つ。

 

  

10月26日、キューバ軍は上空に飛来したアメリカの偵察機

U-2に向けて、地対空ミサイルを発射。

隣にはソ連軍部隊もいて、ノリで一緒に発砲したら

ソ連軍のミサイルのほうが命中した。

 

 

 

 

 

 

 

 

フルシチョフもケネディも頭を抱えた。

 

 

 

そりゃそうだ。

             

フルシチョフはキューバ軍にさえ、

『応戦禁止』を厳命していたのだ。

それが、身内のソ連軍がアメリカ軍機を撃墜したのだ。

  

もう戦争しかないではないか。

 

 

 

  

ケネディは決して非戦論者ではなかったが

ルメイに空爆を許したら、間違いなく核戦争が起きる。

そうじゃなくても、アメリカはベトナム戦争でいそがしいのだ。

  

新しい戦争を始めるのか?

 

             

しかしこうなったら軍部を止められない。 

             

もう、戦争しかないではないか?

 

 

 

 

  

実は同じ日にフルシチョフの『回答』が

アメリカに伝えられていたのだ。

『キューバの安全保障とトルコのミサイル撤去があれば

ソ連のミサイルは撤去していい。』

  

交渉は大詰めに来ていた。

 

          

それがこれだ。

 

 

 

 

 

 

心が千々に乱れた両首脳は

結局は妥協した。

  

10月28日(日本時間は27日)フルシチョフは

キューバに向かっていたソ連の輸送船の回頭を命じ

キューバにおけるソ連のミサイルの撤去を発表した。

 

アメリカもキューバへの不侵攻を宣言。

同時に秘密議定書で

トルコに配備したジュピターミサイルの撤去を決める。

これはアメリカにとって大きな譲歩だったのだが、

大きく報じられることはなかった。

 

両方譲歩したが,全体には『ソ連の負け』

というイメージで決着する。

 

 

 

  

アメリカとソ連は、この時の反省から

『直接話せるのがいちばん。』とホットラインが作られた。

  

この盗聴全盛の世の中

だれか中継してくれたら面白いと思うのだが

そんなことをいうと抹殺されてしまうのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キューバ危機は『核戦争の恐怖』を実感させた。

もちろんリアルタイムでは知らんけど。

その後量産された1960年代以降のSF小説は

どこかにこの『危機』のかげを引きずっている。

 

        

そしてその教訓は、なんだったんだろう。

 

  

『核兵器なんて結局は使えない』

という事じゃないのか?

  

 

しかしもし、ケネディがルメイのいうことを容れて

空爆に走っていたら、

フルシチョフが血迷って発射命令を下していたら

なにより現地軍が勝手な行動を起こしていたら…

              

そんな恐怖も存在するのだ、という事も

世界は思い知ったわけです。

 

 

  

ふう…

 

 

 

 

北朝鮮の核兵器なんか怖くはないよ。

  

使えないんだから。

 

 

 

  

 

中国が『核保有国』として偉そうにしたって

怖がることはないんだ。

  

使えないんだから。

 

 

 

 

  

 

アメリカだって怖くはないぞ。

  

使えないんだから。

 

 

756pxupshotknothole_grable           

アメリカが『実用核兵器』

として開発したW9核砲弾。 

射程30km

被害半径15km 

 

   

何がしたいんだ?お前は

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の2枚。』

 

 

 

 

 

 

           

 

アラル海の変貌。

706pxaral_sea_19892008    

 

 

 

 

        

 

1980年代末

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

600pxaral_sea_continues_to_shrink_a     

 

 

 

2009年 

 

 

 

 

          

この湖がこれだけ衰えたのは

ご覧のようにここ20年くらいがひどくて

フルシチョフの所為だ、とは言いきれないのだが

旧ソ連諸国の

めちゃくちゃな自然破壊の一例ではある。

 

 

 

 

 

 

 

おまけ 

 

 

 

 

 

 

 

0000furushityohu_2      

 

          

第一書記を追われた

フルシチョフは

7年間軟禁されて死ぬ

歴代権力者とは違って

一般の墓地に葬られた

これはその墓石

 

 

 

 

 

          

白黒の大理石を組み合わせたデザインは

当時でも様々な憶測を呼んだ。

少なくとも日本人には

生首をさらされているように見える。

 

 

 

 

 

 

 

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(今日の後悔) どんどん長くなる

 

 

 

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2012年10月26日 (金)

被差別日記

あ、どうもnatsu1号です。

 

 

  

 

 

更新が滞っていて申し訳ありません。

 

近々長編『キューバ危機の真実』を発表予定。

誰にも頼まれていないのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

それはともかく

 

最近腹が立つのが

『住宅の警戒照明』である。

 

  

 

 

 

 

 

夜間、といっても灯灯し頃に、住宅街を通ると

センサーが働いて照明が光る。

 

防犯カメラと連動している場合もあるが

実は大抵がそんな機能はない。

ただの目くらましなのだが、目くらましなだけに

視界を奪うがごとき莫大な光量で

わたくしの顔をぴかりと照らす。

 

 

『灯灯し頃』という、まことに湿度のある日本語が

ATOKでは正しく変換されないあたり

日本という国は狂っているんだな、と思うが

僕は慎太郎が大嫌いです。

 

 

もちろん左翼も大嫌いなので

来るべき総選挙で福岡の人が

『俺は客だ。』の松本某を当選させたら許さない。

福岡第一区の皆さんは暴言を吐いた、

松本龍衆議院議員を当選させてはいけない。

 

 

選挙が公示されたらこういうことは選挙妨害で違法、

ということになるんだろうがまだ大丈夫だ。

だらしない野田さんがうろうろしているうちに書く

 

  

 

 

 

  

 

 

(この部分選挙が公示されたから一応自粛)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おい、松本。

復興相として宮城の知事を怒鳴りあげた

お前が日本人は大嫌いだ。

日本共産党西宮支部

杉山たかのりと同じくらい大嫌いだ。 

 

 

 

こいつを通すのか?

福岡の人は○○(とてつもない差別用語なので自粛)ばかりか?

こいつの政治生命にとどめを刺せ。

 

 

それが出来ないなら、

永遠に被○○○○(当然自粛)だぞ。

 

 

  

00000_bakamoto_2

うるせえな。

俺は客で、弱小ゼネコン

松本組の御曹司だぞ

    

 

 

 

九州で仕事はないからこんなことを書くんですけどね。

でも、こいつが通るかどうかは、

慎太郎やハッシーの新党より興味がある。

 

 

しんじゃえ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほら、本題がない。

 

なんだっけ。 

そうそう、警戒ランプに腹が立つ、という話でした。

 

 

 

 

腹を立ててばかりだなあ。

 

『手と手のしわを合わせたら

すごくしわが増えちゃったねえ。』

 

って、そういうことじゃなくって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここ十年くらいの間に防犯意識が高まって

『住宅のセキュリティ』ということが一般の関心になってきた。

 

そのこと自体はいいのだ。

玄関ドアのダブルロックも

オリンピックメダリストが守ってくれるALSOKも

大いに結構なのだ。 

 

 

 

 

 

しかし、細い路地みたいな住宅街を歩いていても

突然、ぴかっと照らされるのは気分が悪いよ?

 

もちろん、歴然たる紳士として

他人の敷地に侵入するようなことはない。

 

防犯ランプのセンサーが半径5mくらいあって

てめえんちの前の路地の幅が3mくらいしかないから

ごく普通の歩行者を、

まるで犯罪者のごとく

照らしあげるのである。

 

 

すげえ、腹立つ。

 

 

 

 

この野郎。

車にうんこなすりつけてやろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と、まあ。かように

私のボーイズハート(少年の心=ガキ)

ぼーぼー燃やしあげる防犯ライトなのだが

これが1軒や2軒なら怒りはしない。

 

最近妙に増えて、通りによっては

エレクトリカルパレードのように照らしあげてくれるのである。

 

100mもない通りを歩くのに

5回も6回もスポットを浴びせられたらもう、

幸子のように衣装を考えちゃうよ?

 

 

 

 

 

こういう家に限って、ハロウィンの時にはランタンを

クリスマスの時には電飾を飾りあげるくせに

『原発反対』だったりする。

 

 

 

 

 

 

『原発』はともかく

電気の無駄はやめろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はあ、 

 

次回は、モアベターで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では『今日の一枚。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

兄さんの嘘つき

0000_yujiro

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パチンコ CR石原裕次郎

もちろん、いまでも現役の機種である。

 

  

 

 

 

 

 

『あ、良純か?こんど政党を作ろうと思うんだけど。』

 

『父さん、

そんなときはタウンページだよ。』

 

『……』

 

『……』

  

『おれ、老眼だからこんな細かい字、

見えないなあ…』

 

 

 

 

 

 

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2012年10月19日 (金)

『殿下』の死

『カンボジアの首都は、と訊ねられて

即答できる人は少ないだろうがプノンペン、というのだ。』


 

これは伊丹十三のエッセイの一節である。






 

 

 

 

 

 

この挑戦的な書き出しの文章は、彼が1960年代前半に

映画の撮影のためにカンボジアに滞在した時の記録


 

 

 

 

そりゃ50年前なら知らないよな、と思うのだが

その文章の続きには

『この国では、外国人向けのホテルの朝飯が8000円もする。』

『その王宮はまるでディズニーランドのごとくである。』と

あの伊丹十三の筆致でたたきつけるように書かれている。


 

彼のことだから『『ディズニーランド』というのは

『悪趣味な建築の象徴』である。

燦然たる王宮の姿が描かれ、彼はこれを罵倒している。 














この時、1960年代のプノンペンの街に

屹立していた王宮の主人であったのは

ノロドム・スラマリットというひと



 

先日北京でなくなり17日に帰国した

「シアヌーク殿下」こと、ノロドム・シアヌークのお父さんである。


 

で、今日はこの「シアヌーク」なる人物を取り上げます。 

カンボジアでは国父としていまも尊敬を受けているのだが

どうにも不思議な人物なのだ。











 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カンボジア、と訊いてどんな単語を思い浮かべるだろう。

『アンコールワット』か

『地雷』か

『猫ひろし』か?



 

しかし、われわれの世代ではこの丸顔の『殿下』か

『ポル・ポト』が真っ先に出てくる。

 

  

 Norodom_sihanouk_2   

シアヌーク殿下








 

Polpot


1978年に撮影されたポル・ポト

権力から追われる直前の写真 







そして 、この二人が不思議に結びついているところが

後世のこの人の評価を暗くしている。





 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、どうぞ。

今日も長いぞ。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カンボジアというのはここだ。

 

Location_cambodia_asean_svg















東南アジア、インドネシア半島の真ん中あたり。  

東にベトナムがあり、北にラオスがある。

この三国はフランスの植民地だった。

フランスがこの地域に手を伸ばしたのは比較的早くて

19世紀後半である。

 

 

250pxfrench_indochina_expansion







日露戦争の頃の

インドシナ半島












この地図の中で、最も薄い青色

ホーチミン市(どうしてもサイゴンっていいたくなる)を

中心とした『コーチシナ』がフランス直轄領

ほかは保護国だった。




 

 

 

で、

 

こんな知識、東南アジアの歴史を専攻する学生でなければ

必要がないと思うのだが

『シアヌーク殿下』の歴史を語る上で、どうしても必要なのだ。


 

正直めんどくさい。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

『殿下』ことノドロムさんは18歳の時に

カンボジアの国王に即位する。

1941年のことだ。


 

この年号が大事なのだ。


 

だから、長々としゃべった。






 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この前年、1940年にカンボジアの宗主国フランスは

第二次大戦で、ものすごくあっさりとドイツに負けた。


 

海軍力が皆無なドイツは

広大なフランス植民地の管理をさせるために

ヴィシーという田舎町に臨時のフランス政府を作って

それをやらせることにした。

 

 

 

 

 

これに目を付けたのが

南方進出の機会を狙っていた日本帝国である。


 

日本は『同盟国ドイツ』の威を借りて

ヴィシー政府から『ベトナム進駐』の許可を得る。


 

だから、Wikipediaでも高校の教科書でも

この事件のことを『仏印進駐』

つまり、『フランス領をちょっと借りちゃったあ。』

という言葉で表現するのだが、

さすがにヨーロッパで戦争が起きている時期に

それは通じない、ということで米英の逆鱗に触れて

太平洋戦争になる。






 

 

 

 

 

 

 

ふう。

まだ、シアヌーク出てこないな。










 

太平洋戦争でのインドシナ三国は戦場にはならなかった。

緖線で日本軍が、フィリピン、シンガポール、ビルマと

遠いとこまで押さえたために前線からは遠かったのである。


 

日本軍も忙しかったから、

ベトナム以外はヴィシー・フランスの総督に任せた。


 

従って、シアヌークは『フランス保護国の国王』で

あり続けた。










これが、ドイツが負けると様子が変わる。

1944年にパリが解放されてヴィシー政府がなくなってしまうと

『背後を突かれてはまずい』と

日本はインドシナ全土を占領する。 


 

さらに1945年3月には

日本以外どこも承認しなかったが外交的に独立もした。



 

シアヌークは、この時点で

「正式に」王様になったわけだ。










もちろん日本は負ける。

1945年8月のことだ。

負けた後にフランスがやってきた。

ところがこいつらは、ずーっと負け続けていたくせに

戦前の統治機構を復活させようとした。


 

従ってまだシアヌークは『王様』である。





 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、カンボジアはともかくベトナムで怒っている人がいた。

ホーチミンである。


 

『ベトナム統一・独立』のために非暴力で戦ってきた彼も

フランスが、コーチシナ(南ベトナム)を分離独立させる

という決定を聞いた時に切れた。





 

インドシナ紛争が始まる。


 

ちなみにこの時点では、ホーチミンの支援をしていたのは

ソ連と、まだこの時はソ連と仲が良かった中国です。 








この時、カンボジアでも大きな動きが起きていた。 

なんと、ちゃんと独立したのだ。 

 

 

 

 

 

ホーチミンが意外に強いことに驚いたフランスは

旧保護国の締め付けを図るのだが

シアヌークのカンボジアは、これを断固拒否。


 

1953年に『完全独立』を果たす。

つまりフランス本国に独立を認めさせるわけです。


 

『正式に』とか『ちゃんと』とか言い分けても

あまり意味はないと思うのだが

彼自身の意識としては『1945年の独立』のほうが

意味があったらしい。

理由は、後で出てきます。






インドシナ紛争でフランスは負ける。

8年にわたるこの戦いは、フランス軍の要衝

ディエン・ビェン・フーの決戦でフランス軍守備隊が全滅。

フランスは、東南アジアでの植民地維持の意志を失った。









 

驚いたのがアメリカである。 


フランスが負けるのはいいとしても

南ベトナムはもとより、カンボジアもラオスも

独力で独立が維持できるはずがない。


 

東南アジアにそんな巨大な『力の空白』を作るのか?

東欧の共産化・中国の国共内戦・朝鮮戦争。

『ユーラシアが赤く染まること』

アメリカは恐れていた。



 

フランスの敗北は人ごとではなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

ふう、 

ごめんね、まだシアヌークさんはカンボジアにいます。





 

 

 

 

 

アメリカはこの紛争の最初から行われていた

『ジュネーブ会談』をまとめさせる。

要旨は

『北緯17度から北は、ホーおじさんに任せるから。』

『そのかわり南側は別の政府を作るぜ。』

『なーに、3年後に統一選挙をやるから。』

というもの。


 

すでにベトミンによって全土を制圧しつつあった

ホーチミンには著しく不利な内容だったが

アメリカとの全面対立を恐れたソ連の説得で

不承不承引き受けた。









あ、シアヌークさんはディエンビエンフーの戦いの直前の

1955年3月に『王様』をやめて

お父さんに王位を譲って『殿下』という地位になっています。


 

親父がいるなら、はじめからそっちに王様を

やらせたら良かったんじゃねえのか?















もちろんジュネーブ協定』の枠組みなんかすぐに破綻した。

約束の『統一選挙』が行われなかったのである。

南でも『ホーおじさん』のほうに人気があったのだ。


 

南北ベトナムは戦争に入る。





 

なんでカンボジアの話なのに

長々とベトナムの話をしておるのか?というと

この国の戦後史、というか

シアヌークさんの個人史もベトナム戦争抜きでは

さっぱりわからないからである。

 

 

 

ベトナム戦争の参加勢力というのは南北ベトナム軍。

これは当然なのだが、ベトコンという存在もいた。

Wikipediaの記述は相当に偏っているので

割引いて読んで欲しいが

要するに北ベトナムが組織したゲリラである。 


 

直接参加兵力としてはアメリカ軍もいた。

これが最も強力だったかも知れない。












ベトナムという国は南北に細長い。1600km以上ある。

ところが東西には細くて北緯17度線のあたりでは

50kmもない。


 

この国が、この形のまま太平洋に浮かんでいたら

ベトナム戦争の結末は、われわれが知っているとおりには

ならなかっただろうと思う。


 

前線の正面が狭ければ正攻法で来る限り

圧倒的に守備側が有利だからだ。











ところがそうはならなかった。



ゲリラであるベトコンは背後のカンボジアを迂回して

進入したのだ。


 

ベトコンには南の人民も志願したりしていたから

アメリカ人には見分けが付かない。

ソンミ村を焼き払ったりする。



 

 

 

 

 

 

 

ベトナム戦争の地上戦の大半は実は南ベトナムだ。



大地からわき上がるように群がり出てくるベトコンと

北ベトナム兵にアメリカは50万人の地上軍と

太平洋戦争で日本にぶち込んだ数倍のカロリーの

爆薬をたたき込む。


 

それでも沸いて出てくるもんだから腹を立てたアメリカは

『ジャングルがわるいんじゃねえか?』

ということで枯れ葉剤をぶちまける。


 

これが原因とされる二重体児『ベトちゃん・ドクちゃん』

かつての南ベトナムのエリアで生まれた。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふう、

 

あ、シアヌークさんは1960年にお父さんが亡くなって

それでも王位は継がないで

相変わらず『殿下』と呼ばれています。



1960年代のカンボジアには、ポル・ポトやロン・ノルなど

後に彼の人生に深く関わり、

カンボジア現代史においても重要な、

そして世界史的には『誰だ?それは』という

ビッグネームが議会で活動しており

シアヌークさんは、右派のロンノルも、左派のポルポトとも

仲が悪かった。


 

カンボジア国内には、ベトコンが入り込み、

それ以上にベトナムからの難民が入り込んでいたのだが

それを黙殺した。


 

外交的にも、中庸を図る一方

ベトナム戦争の当事国である、北ベトナムやアメリカとは

距離を取った。


 

よく言えば中立。

悪くいえば中途半端で、

アメリカからはゲリラの通過を許すなといわれ、

南の難民をかくまう、ということで北ベトナムから批判された。

なにより、ベトナム人が入り込むのをなんとかせい

ということで、国内の左右政治勢力から批判があった。








 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、この時期、この人は『プノンペン国際映画祭』

なんていうのを行っている。

映画が好きだったらしい。


 

自分でも複数の映画を撮っている。

比較的有名なのが『ボゴールのバラ』という映画。

この映画では、なんと彼が『主演』である。

そしてヒロインは彼の奥さんである。


 

『王族が映画に出演する』というくらいなら

よその国にもありそうな話だが、

彼が演じるのは日本陸軍大佐なのである。


 

『カンボジア独立』を支援するハセガワ大佐と

現地人女性とのロマンスを描いているのだ。

この映画の制作は1969年である。




 

すでに帝国陸軍は存在していない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




で、翌年、
ロン・ノルがクーデターを起こして

シアヌークさんは国を追われた。





べつに映画作りが嫌われたわけではないだろうが

このクーデターに、アメリカの教唆があったことは確からしい。

『ベトコンをなんとかせえよ。』と。


  

実際、クーデターの後、

カンボジア経由で侵入するベトコンを排除するために

アメリカと南ベトナム軍はカンボジアを空爆したり

侵攻したりしている。



カンボジアとベトナムというのは

『隣国同士は仲が悪い』という世界的鉄則によって

アンコールワットの時代から仲が悪いのだが

ベトナム戦争末期のこの騒動は後の混乱の原因となる。







 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、そうそうシアヌークさんである。

彼が亡命先に選んだのは北京だった。

 

まあ、『選んだ』のか『許された』のかは

決して明かされない外交上の謎

なのだろうが重要なのは1970年の時点では、

中国とソ連は決定的に仲が悪かったということ。


 

インドシナ紛争では中ソ両国から支援を受けていたホーチミンは

この時点はソ連の支援だけで戦っていた。

中国はインドシナに表面上は関わっていない。


 

それなのに、何故シアヌークは北京に飛んだ?

当時はガキだったからあまり深くは考えなかったが

いま考えると不思議である。






 

そして、その後の行動はさらに驚く。

ポル・ポトと手を結ぶのだ。







1960年代のシアヌークとポルポトは

王様と原始共産主義者なんだから

仲がいいはずはないのだが、

お互いロン・ノルに追われたことで

『敵の敵は味方』ということになったらしい。


 

ポルポトにしても、『アメリカの走狗』ロン・ノルを叩くには

『王様』と手を結んでも良かった。

アメリカと南ベトナムが、カンボジアに侵攻したおかげで

彼が率いるクメール・ルージュの人気も高まっていた。

彼は中国から武器の供与を受けて勢力を拡大する。





 

 

 

 

 

 

 

 

 

1973年にベトナム戦争が終わると

もはや、ロン・ノルは政権を維持できなかった。

1975年にポルポトは全土を支配する。


 

この人は原始共産主義者で

『貨幣なんかいらない、みんなで農業をやればいいんだぜ。』

という考え。


 

そういう素朴な考え方をする人はいまでもいるのだが

それよりも特徴的なのは自身が反体制者だったことから

自分に反発する可能性がある人物を排除しようとしたこと。


 

かれは

腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない』と

金八先生に怒られそうな事を言って

インテリを殺して回った。




 

曰く

『文字が読めたらインテリだ。』

『街に住んでいたらインテリだ。』

『眼鏡をかけていたらインテリだ。』と

100万人とも300万人ともいわれる国民を殺した。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、この間シアヌークさんはどうしていたか?というと

プノンペンにいた。 

政権を取ったポルポトはシアヌークを呼び寄せた。

しかし、要職は与えない。


 

もっとも国民を虐殺しておいて政権が維持できるはずはなく、

ポルポトは国内のベトナム人を迫害した。

それで民心を保とうとした。

カンボジア人の『ベトナム憎し』はそこまで強力だった。


 

もちろんベトナムも黙っていなくて1978年に軍事侵攻。

ポルポトをジャングルに追い払って、

ヘン・サムリン政権を作る。


 

翌年、面子をつぶされた中国が

『ベトナムを懲らしめる。』という訳のわかんない理由で

中越国境を侵攻。ちょうど一ヶ月で

『今回はこのくらいにしといたるわ。』

捨て台詞を残して撤収。


 

何がしたかったんだ、お前は。

 



あ、一応リンクするけど、

もうこの辺の人名や事件名は読み飛ばしてください。





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベトナムの侵攻を受けて

ポルポトはこの時初めてシアヌークに『役割』を与える。 

『対外的な顔』として利用した。

 

 

 



この人は、これからしばらくポルポト率いる『民主カンプチア』の

スポークスマンとなる。

反ソ、反ベトナムの西側諸国は、日本も含めて

しばらくポルポト率いる民主カンプチアのほうを承認していた。


 

北京を拠点に外遊し、外国首脳と会うたびに

にこにこしながら合掌してお辞儀していた姿が

個人的にはこの人のイメージの原風景だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかしすでにジャングルに逃げ込んだ

ポルポトに力はなかった。


 

1988年にベトナムが撤退すると

1991年から明石さんが議長を務めた

UNTACが暫定統治をはじめ、1993年に総選挙を行った。

シアヌークの息子が党首のフンシンペック党が第一党となり

シアヌークさんは王様に返り咲いた。


 

 

 

 

 

 

Relay11












左が明石さん。真ん中はUNTACのサンダーソン少将

右端が『シアヌーク殿下』。


 

もうちょっと、写真を選んであげたら、とも思うのだが

この写真は、実は日本国内閣府のHPのものである。






 

なんだか、哀れを請うて王様になったようではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふう。

 

 

 

 

 

いそがしい人だなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あ、そうそうポルポト一派だ。

ポルポトが死んで、この騒動が終わるのは1998年だ。


 

老衰で滅んだ『武装勢力』なんて聞いたことがない。


 

ルビーを掘ったり、ラワンの樹を斬り倒したりして

それを売って生き延びていたらしく

20年以上生き残ったので国中に地雷を埋めやがって

主要部はともかく、まだ処理は終わっていない。











シアヌークさんは2004年まで王様を務めるが、後は

息子に譲って、先日10月15日になくなった。

 

享年89。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不思議な人でしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どう理解したらいいんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

18歳で「王様」になり太平洋戦争やインドシナ紛争など

「自分では始められなかった戦争」によって

独立を与えられたわけである。

 

 

その後は、伊丹十三が罵倒した王宮に住み

自分と奥さんを主演にした映画を撮る。



これが韜晦ではなかったら悲惨だ。

 

 

 

『無能を知らずに

スクリーンの中央に写っていたら阿呆』

であろう。  

ただの目立ちたがり屋、だ。

 

 

彼がいなくとも、ポルポトは政権を取ったかもしれない。

ポルポト派が20年地雷を埋め続けられたことも

『殿下』と関係なくあり得たかも知れないが

あの人の良さそうな笑顔が

ポルポトを、外交的に生き残らせる力のひとつにはなった。

とは、言えると思う。


 

最終的には見限るのだが、いくら何でも20年は長い。

 

 

 

彼の人生を

悪意に解釈するとこうなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



しかし、彼の複雑な行動を

『カンボジア独立』の維持のためとして考えると

わからんこともない。

むしろそのことに徹したリアリストだ、と。

 

 

 

 

 

すでに20年以上前に滅んだ帝国陸軍の装束を着て

スクリーンの中央に納まったのも、

『独立』を感謝したから。


 

その後のベトナム戦争への

徹底的な『非関与』も

『ベトナムとの接触を避けたから。』と考えると

理解できないことはない。 









この人は国内外の勢力から批判を浴びながらも

ベトナム戦争から距離を置こうとしている。

帝国陸軍の軍服を着て撮った映画の

翌年に共産党の中国に逃げ

もっと共産主義のポルポトと手を結んだのも

思想的には一貫していないのだが

『立場を捨ててカンボジア独立をアピールする』

という意味で考えると一貫している。

 

 

 

実際、『ロン・ノル以降の40年間』

ベトナムと関わったがために

この国は無茶苦茶なことになるのである。

 

 

 

 

 

 

 


『主演映画を撮り続けていたら平和だったのか?』

というと、

おそらくそんなのんきなことにはならなかったと思うのだが

それも彼なりの『国家防衛』だったのかも知れない。








少なくとも近世のカンボジアは、

フランス、日本、アメリカ、ソ連、中国、

そしてなによりベトナム、と

自分の体力が及ばない国によって

いいようにされてきた歴史がある。








自国の無力を
自覚していたのなら

あの微笑みには凄みがある。

常に合掌するあの人は偉人だった。

ということなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目立ちたがり屋か、偉人か

一体、どっちだ?





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の葬式』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最終的にはこの人は

カンボジアに戻って、

死に際して国民の真摯な弔意を受けている。

 

幸せな人だ。  

 

 

冒頭にあげた伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』の

末尾にはこんな文章が書いてある。 




『それにしても、この国の人たちほど、純真で礼儀正しく、

かつはにかみやである人たちを、わたくしはかつて知らない。

そうして、彼らを、土人扱いにして顎でこき使っている

四流五流の白人たち、

わたくしは彼らを、人間の屑、と呼びたい。』

 

 

 

いい国だ。





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(今日の感想) ほら、長い。

 

 

 

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2012年10月11日 (木)

iPS細胞技術の新事業提案

京都大学の山中教授がiPS細胞の研究でノーベル賞を獲った。


 

で、連日ニュースがこの研究の解説をしてくれるので

私のような門外漢もなんとなくわかったような気になれた。


 

いちおう、Wikipediaの記事のリンクも貼っておくが

そんなアバウトな理解力の土建屋が書いたものだと思って

優しい目で見てやってください。












 

 

 

 

 

 

 

iPS細胞とはなんジャラほい、というと

『全能性』のある細胞なのだという。



 

つまり人間の体細胞を、『受精卵』のように

どんな臓器にでもなれる細胞に戻したものだ、そうだ。


 

人間に限らず動物はSEXして出来た、

たった一個の受精卵からできあがる。


 

生命20億年の進化を十月十日でたどり返すような過程で

受精卵は分化して人間の体を作る。

 

だから、元は同じ受精卵が

脳みそにも目玉にも金玉にもなるのである。













「お前は金玉になるんだ」ということでDNAが動き始めてしまった

細胞の心中やいかに、と思うのだが

さらに残酷なことに、細胞というのは一度分化してしまったら

ほかの臓器にはなれない。



 

細胞核の中にある染色体には

生命の全てのデータが入っているのだが

体細胞として分化してしまうとこれが読み込めなくなる。

 

金玉細胞が青雲の志をもって

「俺は目玉になりたい」と思ったとしても

それは叶わぬ夢なのだ。

 

 

インキンの治療のため3ヶ月包帯をして

それを取ってみたらそこに目玉があった。

ということにはならないのである。

 

 

 

 

 

















べつに金玉を事例にすることはないか。


 

とにかく、金玉細胞は生まれてから死ぬまでずっと金玉で

死んだら隣に新しい金玉細胞が生まれるのである。

 

こういった新陳代謝は、ちゃんと私にもある。

嫁さんがいないんだから、無駄に元気なだけだ。

 

定冠詞を付けて「THE・無駄」と言ってもいいくらいだ。

















えーとなんだっけ。

 

そうそう、山中教授か確立したiPS細胞の理論と技術によって

この体細胞の「全能化」が可能になった。

 

再生医療の鍵になる、というわけです。

病気や怪我によって

体の器官の一部あるいは全部が失われている人がいる。

進行性の病気によって機能の縮退が止められない人がいる。

 

そういう人に、自分の体の細胞を使って

初期化したiPS細胞を作り必要な器官が再生できたら

いうことはない。

 

自分の細胞なんだから拒絶反応はないし

危険な移植手術もいらない。

 

胎盤を使わざるを得ないES細胞と違って倫理的な問題も少ない。












まだ、研究は実用段階の手前らしいのだが

山中教授は、まだ50歳である。

同い年じゃねえかと思うとちょっと泣けてくるが

ぜひとも医療現場で実用出来るようにしていただきたい。

 

しかしながら、

「細胞を変異させて好きな臓器が作れる」ということを聞くと

どうしても、こういうことを考えてしまう。

















生レバー作ってくんねえかな。

 


















以前、冗談でこんな話を書いた。

しかし今回は、若干まじめな話をします。




近い将来、地球では猛烈な『食材獲得競争』が起きる。
その時

『可食部位だけの培養技術』というのがあれば

これはおそらく、ビッグ・ビジネスになるだろう、というお話し。























去年世界の人口が70億を超えた。

私がガキの頃には40億とか45億とか言っていたわけだから

そのペースのすさまじさが知れるだろう。

 

587pxworldpopulation18002100


























国連による世界人口の推計値。

悲観値と楽観値がこれだけ違っていたら

推計の意味はないと思うのだが、最低の値でも

10年後には世界人口は80億を超える。

 

 

 

 

 

まず『量』の確保が問題になる。

手っ取り早い方法は

世界中がベジタリアンになってしまうことだ。

 

牛を飼う羊を飼う豚を飼う。という時には土地が必要だ、

畜舎、放牧地、さらに飼育用飼料としてトウモロコシなんかを

育てないといけない。

 

これらを全てやめて人間用の作物を作ったら

世界から飢餓はなくなる、という。

 

食物連鎖で上のランクの奴のほうがおいしいんだけど

そんなものばっかり食べていたら、まあそうなるよな。

 

もちろん、カロリーについての算数的な足し算の話で

こんなもんにリアリティはない。

しかしまず『量』の話は、ある。
















その一方で、

『質』を求める連中が増えたのも事実だ。

たとえば、今回の尖閣暴動で

中国にある『日式レストラン』がいくつも襲われた。

 

それはそれで許せないのだが、逆に言えば中国でも

寿司や刺身をもりもりと食うようになったのである。















中国に限ったことではないが

流通が未熟で冷蔵の技術がなかった時代

海の魚を食えるのは、本当に沿岸部の人間だけだった。

 

日本でも、海から30kmしか離れていない京都の連中は

この季節になると、醤油で煮染めたニシンを

そばの上にのっけてありがたそうに食う。

 

その距離でも生魚は食えなかったのだ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中国の内陸部の連中は『草魚』という魚を食った。

鯉の一種らしいのだがべらぼうに大きくなる魚で

2mくらいになる。

 

川魚だし草を食うという不思議な魚なので

独特の匂いがあるらしく日本の中華料理屋では

よほど高級なところでは知らないが

あまり見かけない。












中国人も、本心ではうまいと思っていなかったらしく

『日式料理』が入って寿司や刺身、

海鮮魚のうまさに気がつくと、猛然とこれを食いだした。





 

2010年『クロマグロの数が減っているからワシントン条約の

レッドデータに入れて禁漁にしちゃえ。』という乱暴な提案が

ヨーロッパから出され、あわや日本敗北?

という場面があったのだが、意外にもこれを救ったのが中国。

中国もこの禁漁案に反対し、

さらに札束で頬をひっぱたいてきたアフリカ諸国をまとめて

多数決でこの提案を却下させた。



 

中国としてもマグロが食いたいんでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 










鯨を食うな、マグロを捕るな、といわれて

日本人としては不愉快な限りだ。

 

丑の日の前に『今年はウナギが捕れなくて大変。』

というのがニュースになったが

しかし、マグロやウナギに限らず

海産資源が激減しているのも事実なのだ。


0000masaba


マサバの資源量と

漁獲高の推移 









遠くない将来、

『クロマグロの漁獲割当てをめぐって

日中が対立』というのは

容易に予想される事柄なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 









海産資源ばかりではない。

中国では、単に『肉』と書くとそれはキン肉マンか豚肉。

 

牛肉は『ニューロー』といって区別された、

匂いが嫌われたらしい。

 

しかし、吉野家が中国に進出した時は大人気になった。

『ラフな昼飯』ではなく『デートコース』として選ばれたそうだから

奴らも牛肉のうまさに気づいてしまったか?

 

いずれ戦後の日本のように

『朝飯は中華がゆではなくバターとハムとチーズとトースト。』

という時代があの国にも来るのだろう。






















中国ばかりではない。

インドやブラジルなど『人口超大国』が

急成長している。

 

彼等も、トロを霜降り牛を求める時代がやってくる。

インド人の半分はベジタリアンらしいが

半分は肉を食うのだ。

ヒンズー教徒は牛は食わないが羊や豚や鶏は食う。

魚に禁制はないだろう。

 

あのあたりは宗教信条によって『食の禁制』が人によって違い、

食事の注文の際には

『ユー、ベジタリアン?』から始まって、

『チキン、オア、ポーク、オア、マトン?』と味と関係ないところで

非常にめんどくさいらしい。

 

しかし、そのうち彼等も

『おー、チキンプリーズ。ヒナイヂドーリね。』

というように味にこだわるようになるかも知れない。

なにしろあの国は『半分』といっても6億人もいるのだ。








 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

量と質の両方を求める時代は

そこまで来ている。

 

たとえば牛一頭の養殖というとこれは大変だが

可食部位、たとえばレバーとか筋肉とかだけを

1kg単位くらいで電子レンジ程度の大きさの機器で培養できれば

そのまま出荷できるし、なにしろ生牛を飼うのに必要な

肥育、運動、衛生、といった一切の手間がいらない。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まだある。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

動物の可食部位って

そんなには多くないような気がするのだ。

 

もちろん肉食用に品種改良されたものであれば

牛でも豚でも可食部位は多い。

 

牛の場合、内臓まで『ホルモン』といって食ってしまう。

こんなことをするのは日本人と韓国人くらいだろうと思っていたら

イタリア人も牛の胃袋の煮込みなんてのを作る。

トリッパという日本でいうところのハチノスという部位なのだが

あれをトマトソースで煮込んだ奴はうまかった。

 

かし、そういう部位を入れても

骨格や獣皮、脂肪などを取り除くと

食べられる部分というのは重量の半分、

とまでは言わないが7割は超えないんじゃないだろうか。

 

当然食べられない部分は

『生ゴミ』として廃棄される。

その処理コストを減らすだけでも

社会的な意味はある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 









もちろん、今回のiPS細胞がすぐに

人間以外に応用できるわけでもないだろう。

 

仮に『可食部位の再生』が可能になったとしても

それが、味、食感、といった品質の上で

市場の評価に耐えられるようになるには時間がかかるはずだ。

















さらに、敢えてここまで黙って書いてきたのだが

私自身、『食べられる部分だけ培養。』というのは

どうも気持ち悪いというか拒否感がある。

 

『肉を食う』というのは

『命をいただく』ということ。

『いただきます。』という食前の挨拶には

食材への感謝の意味がある。

 

だから、『一個の生命としての養殖』ではなく

『パーツとしての可食部位の培養。』というのは

倫理的に嫌悪感を持つ人がいるだろうな、

ということを承知の上で、ここまで長々と書いてきました。

















しかし、もし可能ならビッグビジネスになる

ということもおそらく確かだろう。 




私はもう生きていないだろうが30年後くらいに

世界は食材の量と質を求めて

えげつない争奪戦に入っていくのは

確実だからだ。 

 

 

 

 

 






まあ、実現するにしても

おそらく巨額な投資が必要だろうから私には関係ないが

『再生可能細胞?』と聞いて

『生レバー作ってよ。』と単純に思ってしまったわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 














では、『今日の一枚。』





 

 

 

 

 

 

 

 

 

受精卵の状態に初期化された細胞が作れる、

というのなら、クローン人間は作り放題じゃないか?

と思ったのだがどうなんだろう。

 

いってみればそういった全能なるiPS細胞を

健康な女性の子宮に着床させたら

生まれてくる子供は、DNAが細胞提供者そっくりになる。

 

この場合SEXじゃないんだから

細胞の提供者の性別は関係ない。

 

悪用しようと思ったら

いくらでも悪用できる技術なのかも知れない。

 

うーん、素直にノーベル賞を祝ってやれよ…


 

 

 

 

 

 

 

 

1996年に生まれたクローン羊『ドリー』

773pxdollyscotland_crop



こいつって

こんな顔してたっけ







で、当時もあまり興味がなかったのだが

画像を引用するに当たってWikipediaをみたら

彼女の名前の由来が書いてあっておかしかった。


 

 

 

 

 

彼女は、乳腺細胞の核を取り出して作られたのだが

その時の飼育員が当時でももう50歳になっていた

アメリカの歌手で女優のドリー・パートンという人のファンで

彼女の巨乳に敬意を表して名付けた、

という。

 

250pxdolly_parton_in_nashville_apri












それほどの巨乳か? 















しかし、こういう冗談は嫌いじゃない。

 

 

 

 

 

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2012年10月 4日 (木)

その街に住みたいか?

大手不動産会社7社が

恒例の『住んでみたい街』BEST5を発表した。

(読売新聞の記事へのリンク)

(メジャー7 マンショントレンド調査)

 

 

今年からは、『住んでみて良かった街』

というのも選ばれている。 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

観ていただこう。

 

0000_sumitai

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

納得できるラインナップなのだろうか? 

吉祥寺や自由が丘というと学生街のイメージがあるし

恵比寿といえばビール工場。 

川崎は、公害とソープの街で印象は良くない。

 

というのが60年代関東生まれの印象。そして 

横浜ってアバウトだな。

 

 

しかし、それは『世代の違い』なのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もっとも関西圏に関して言えば

記号的にわかりやすい地名ばかりで

『住んでみたい街』は全て阪神間にある。

 

阪急における我が家の最寄り駅は『岡本駅』であって

まあ、うちってば

『住んでみたい街』だったのね。

  

 

 

 

 

 

 

  

 

もっとも岡本駅まで徒歩20分くらいでいけるが

JR摂津本山駅や、阪神青木駅には15分でいける。

 

もちろんどちらも『住みたい駅』にも出てこない。

くすん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、この調査の主体は『メジャー7』という

自称大手マンションデベロッパーの情報提供サイト。

だそうである。

(『ポータルサイト』って言っても今の60代には通じないよ?)

 

 

 

 

 

で、

 

自分で『メジャー』って言いきってしまう図々しい

7社は、こいつらである。

 

『住友不動産株式会社、株式会社大京、東急不動産株式会社、

東京建物株式会社、野村不動産株式会社、

三井不動産レジデンシャル株式会社、三菱地所レジデンス』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アンケートの対象者はこんなことになってるらしい。

(メジャー7 マンション・トレンド調査17)

対象者は『MAJOR7の新築マンション情報のインターネット会員

約52万人および、MAJOR7サイト上でのアンケート回答者のうち、

現在の住所地が首都圏・関西圏のお客様。

【集計数】

首都圏5,050人(男性3,313人、女性1,737人)

関西圏950人(男性624人、女性326人) 』

なのだそうだから、標本数としては結構本気だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでも、いくつか不思議なところがある。 

 

その話をする前に一応このアンケートの

ソースに当たっておこう。

 

この日記が並の罵倒ブログと違うのは

きちんと、批判対象の言い分を聞く姿勢である。

2ちゃんねるあたりとはここがちがう。

元インドネシア大統領の第三妾あたりとも違う。

 

罵倒される側からしたら

同じくらい うっとうしいと思うけど。

  

何を言いたいのかわからないだろう、と思うので

新聞発表よりももう少し詳しい

『メジャー7』自身によるデータをどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『住んでみたい街』関西ベスト20。

2011&2012

(クリックで大きくなります)

  

0000_major7

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに、今年から導入された、

『住んでみて良かった街』関西ベスト20

(だからクリックで大きくなります。)

 

0000_major72

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読売の記事では『夙川』と『西宮』、『岡本』と『神戸』が

同列に扱われておかしいな、とは思ったのだ。

 

夙川は西宮市だし、岡本はうちの近所なんだから神戸市だ。

 

しかし、『ベスト20』まで見ると、

『神戸市内』、『大阪市内』という選択肢が出てくるので

神戸だ、大阪だ、というのは『駅名』であることがわかる。

 

それでもいい加減で、『西宮駅』はJRと阪神と阪急にあり

それぞれ500m以上離れていて、

ここには書けない事情によって、各駅の駅前の印象は

大変に違う。

 

神戸駅の西側は、新開地まで小規模なマンションが

建ち並んでいる。

東側は、ハーバーランドで、その南には

戦災にも震災にも生き残った幸運な一角がある。

街としてはラッキーなスポットだが

住みたいかどうかはどうだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、こんな『奥歯のすきまでリンボーダンス』みたいな

言いにくいことを言っているのは

この種のアンケートの常として、

何か『印象操作』があるのではないか?

と思うからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

集計結果を操作しているとは思わない。

そんなことをしたら、JAROや消費者庁に怒られてしまう。

メジャー7の名だたる顔ぶれから見てそんなことはするまい。

 

しかし、『設問を操作する』ということはあり得る。

岡本や夙川が出てくる以上、私鉄の駅まで対象だ。

駅名を全部出すのなら、関西圏で1000を越えるだろう。

 

そんな電話帳みたいなアンケート、

誰も答えない。

 

 

 

 

 

 

 

首都圏でのアンケートは

『51の街の中から』と書いてある。

 

選択肢を選ぶ段階で恣意が入る。

名前は出せやしないが

あの駅やあの駅は載せないだろう。

 

 

   

 

 

 

 

 

 

関西圏は書いていないが

それでも数十あるとしたら、

選ぶ方は最初のほうしか見やしない。

 

そうであれば、配列も重要だ。

『住んでみたい街』に関してはすでに17回目だそうだから

去年の順位通りに並んでいたら、

『あら、この街、いいじゃない。』ということで

最初のほうの10個くらいしか見ないだろう。

 

 

 

『5年連続、芦屋がトップ。』というのは

『モンドセレクション銀賞』とか

『ハイパーメディアクリエーター』くらいの肩書きでしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そもそも、選択肢の中に『大阪市内』とかいう

アバウトな地域名があることがおかしいだろう。

 

 

 

大阪市内にも『高級マンション』はいくらでもある。

ガーデンテラスで遅いブランチを摂りながら

『子供たちはココアね。

ママとパパはちょっとワインでも飲もうか。』

という日曜日を迎えるご一家もある。

 

 

その一方、

公園の地べたの上で

『おー源やん、起きたか。目覚めに一杯いこか。』と

ワンカップを楽しむ、

『毎日が日曜日』の皆さんがいる地区も

あるのである。

 

どちらかといえばそっちのほうが広い。

 

 

 

 

 

 

 

 

だから、このアンケート結果には何か『作為』を感じてしまう。

 

 

 

たとえば

『今は阪神間が人気だから

強気の価格設定でもいいよな。』

とも取れる。

 

 

 

  

 

 

 

『これからは大阪だよな、』というのは

あの街に開発余地があるからだ。

 

大阪駅周辺だけでも、梅田貨物駅が完全に売却されたら

周辺の倉庫会社、運送会社の土地が大量に供給される。

 

当然、マンションになる。

 

しかし、梅田貨物駅先行開発工事で建設されている

『グランフロント大阪オーナーズタワー』

『玄関開けたら五分で大阪駅』

という絶好の立地なのに

竣工間際の現在でも2割も売れ残っている。

 

 

 

 

 

 

 

『やっぱり阪神間に住みたいよね』というのも

『いやあ、住んでみたら大阪ええわ』

というのも、

どちらも、不自然だと思う。

 

 

 

 

 

そして、こんなことを言う奴に限って

土地も家も買わないんだ、

という指摘は、とても正しいのだが

こっちだって、まだローンが十数年も残ってるのに

仕事がないのである。

 

 

ふえええん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の一枚。』

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

10月4日は、

世界初の人工衛星、『スプートニク』を

ソ連が打ち上げた日、でもある。

250pxsputnikstampussr_2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地球初の人工衛星、のくせに

何故こんな偏った軌道を通ったんだろう。

 

  

 

 

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(今日の反省)

ほら、毎日は無理じゃん。

 

 

 

 

 

 

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2012年10月 2日 (火)

110番が始まった日

10月1日は、日本で警察への緊急通報として『110番』が

使われるようになった日。

(Wikipedia 110番)






これだけだと、『へー』としか思わないが

このシステムが始まったのが1948年だ、というのが引っかかった。

           

戦後なのだ。

意外に最近だな、と思いませんか?

  

しかも、運用されたのは

東京(区部)、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸

川崎、福岡という大都市だけである。












それ以前はどうしていたのか?というと、

110番通報というもの自体がなかった。








電話が直通ではなかったんですね。 

どういうことか?というと

交換手という人に電話をつないでもらう。

  

さすがに、私でもリアルタイムではそんな時代は知らない。

 

 

 

しかし、『となりのトトロ』を観たことがある人なら

サツキがお父さんの勤める大学に電話するシーンを

思い出してもらったらいい。

 

  

 

あれだ。







つまり、受話器を取り上げると交換局につながり

『○○番の○○さんをお願いします。』といって一度切る。

そうすると、交換手がつないでくれて

電話を架け直してきてくれる。

『○○さんつながりました、どうぞ。』と

  

日本でも大都市の市内通話に関しては戦前から

自動交換機が導入されたが、

クロスバー交換機という効率的な機械が導入されて

市外でもダイヤル直通サービスが始まるのは1955年から。

(NTT東日本 意外と知らない電話・通信の仕組み)

 

 

となりのトトロの時代設定は1950年代前半だそうだ。

ディテールが妙に正確なのが

ジブリアニメの憎いところである。










しかしまあ、

電話ひとつかけるのにそんなめんどくさいことを

しなければいけない時代があったのだ。

          

電話の加入数が、いまとは比較にならないほど

少ない時代でもあった。

金持ちしか加入できない時代でもあった。 

電電公社独占の時代、

電話というのは加入するだけで大金が必要だったのだ。

それに比して、労働力が安い時代でもあった。












あんなまどろっこしい方式では、

『お、お姉さん。パンツ何色?』

なんていう電話を架けたい人は困ってしまう。




いやまあ、そんな時代であれば110番なんかなくとも交換手に

『泥棒に入られた。警察につないでくれ』

とでも言えば用が済んだらしい。




そうか、変態電話というのも戦後の産物だったのか。















世界的に見ても、この緊急通報システムというのが

導入されたのは、そんなに古いことではなく

1937年のロンドンからなのだという。

(Wikipedia 緊急通報用電話番号) 

           

もちろん、その時代のイギリスでも

ダイヤル直通サービスはなく、『999』という

日本の110番に相当するダイヤルをかけると

赤ランプが付いてブザーが鳴って

交換手がびっくりする。

という程度の仕組みだったらしい。









イギリスの緊急番号は『999』だと書いた。

日本でも『110』であり『119』だ。

プッシュホンで育った世代にはわからないだろうが

0だ9だという番号はダイヤルしにくい。

 

0000_kurodenn_2     

 

 

 

だってこうだもん

 

 

 

 

             

ダイヤルするのに時間がかかるんですね。

出典は忘れたが、

日本の場合0とか9を末尾に入れるのは、通報する人に、

『ちょっと落ち着け。』という意味があるらしい。








しかし、イギリスは999だ。

めっちゃ、時間がかかる。

  

英国紳士たるもの、

緊急時にも落ち着いていないといけないのか?

スコットランドヤードはよほど

緊急通報を受け付けたくないのか?










そういう意味で世界の緊急電話番号を眺めてみると面白い。

たいていは2桁、あるいは3桁なのだが4桁の国もある。

南アフリカなんか5桁もある。

だから治安がわるいんじゃないのか?





イギリスと、かつての植民地は大体999なのだが

オーストラリアは000だ。

さらに時間がかかる。

ところがニュージーランドは111だ。

せっかちな人が多いんだろうか?











音声認識の電話ではどうなんだろう。

 

調べてみました。

(KDDI au オンラインマニュアル)






『110』は、『イチイチマル』『イチイチレイ』『イチイチゼロ』

『ヒャクトーバン』『ケーサツ』でも

通じるのだという。






余計めんどくさくねえか?





『事故だーっ。』とかでは反応してくれないのか。

そもそも音声認識モードにするまでに

いくつか操作があるので、そんなだったら

指で入力した方が早いような気がする。








『けーさつっ』って叫んで、

『こ、ここは、ケーサツじゃないよー。』

とか言われたら、泣いちゃうだろうな。









なんていうことを書くのは

おいらが黒電話で育った世代だからだい。




ふん



























では、『今日のスネークマンショー。』













 

 

 

 

            

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ちなみに『110番の日』というのは、

べつにちゃんとあって1月10日です。

 

 

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2012年10月 1日 (月)

東京駅裏物語

10月1日、建築当初の姿に復元された東京駅が

一般オープンする。

 

たぶんこの日は、テレビも新聞も

『津波で生き残った奇跡の天然スレート』の話とか

『豪華なステーションホテル』とか

そんな話ばかりになるだろう。 

 

 

 

へそ曲がりなこの日記は

当然そんな話はしない。

 

 

 











さて、

 

 

東京駅と並んで日本を代表する駅が大阪駅。

このふたつの駅には大きな違いがあるのだが

わかるだろうか?

 

 

250pxjrw_osakastation_201104    

 

 

大屋根がかかった

大阪駅 







 

大阪駅といえば、今年大規模にリニューアルしたから

きれいだよな、っていうのもそうなんだけど、

大阪駅と東京駅には、決定的な違いがある。



新幹線の駅、っていうのも正解だし、

八重洲地下街には銭湯があるぞっていうのもそうなんだけど、

あんまり引っ張ることでもないな。






貨物駅だ。




大阪駅は1874年(明治7年)の開業時から貨物駅があった。



むしろ昔の大きな駅では隣に、あるいは近傍に

貨物駅があるのが当たり前で、

前にも書いたが神戸駅もそうだった。



むかしは、貨物列車が旅客線を走っていたから当然である。



しかし、東京駅は1914年の開業時から

そういった機能を持った歴史がない。




このことが東京駅の性格を表している。 

『国家の玄関』にしたかったんですね。






今日はそんな話です。
















梅田貨物駅は現在も機能している。 

敷地の一部は売却されて

ナレッジキャピタルタウンとかいうものが出来つつある。

(絵に描いたようなコンセプトシート) 



移転先の吹田と百済
(どちらも貨物駅)が完成すると、

残りの敷地も売却される。


さて何を作ろう、ということで橋下さんなんかは

『公園はどうだ?』とか言っているらしいが

しわい大阪人が許してくれるかしら。



公園にしたいんだったら屋根が平らでもいいような建物

たとえば、遠くて古くて不評なインテックス大阪の代わりに

国際展示場でも作って屋根を緑化して公園にして

人間が入れるようにしたらどうだ?

  

国際展示場としては敷地が狭いか?













しかし、大阪という街は北方貨物線という

大阪市内を迂回する貨物専用線が出来ても

巨大な梅田貨物駅を残した。


    

1     

 

1985年の大阪駅

旅客駅に刺さるように

接しているのが

梅田貨物駅 





大都市には、その街から発送する、あるいは入ってくる

大量の貨物がある。



梅田貨物駅には運河が連絡しており

水の都・大阪の貨物を運んだ。

大阪中央郵便局の裏側、いまのホテル・モントレのあたりは、

かつて貨物船の舟溜まりだった(Old map room 大阪駅)

      

0000_oosaka    

大阪駅を西南から見たもの。黒い部分が掘割。

駅の北側にも連絡してますね。












東京の場合はどうだったか?


新橋-横浜間に鉄道が開通したのは大阪駅に先立つ1872年、

翌年、隣接して汐留貨物駅が作られた。



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いまはシオサイト

なっています。












でまあ、東海道線としては

『これでいいんじゃねえか?』

と思っていた節がある。


東北本線も、ほぼ同時期に建設が始まっていた。

官設の東海道線と違って、こちらは

半官半民の日本鉄道による建設。







出資者の一人に岩倉具視がいた。



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彼は、東北本線開通の報を聞いて

『これで、東北で 飢饉が起きても死者は出るまい。』

といったという。 


という話を、何かで読んだ記憶があるのだが

この人は上野-大宮間が開通するよりも前に

死んでしまっているのだ。





ゆ、ゆうれい…?









しかし東北本線には貨物輸送の機能が

強く求められたいたことは確かである。


東北本線における汐留貨物駅のような存在は

当然、終点の上野駅に求められた。



開業時の上野駅には貨物駅もあったのだが、

すぐに手狭になった。

あの駅は上野公園に接している。

上野公園は『恩賜』というくらいだから、陛下に戴いた土地で

そこを削って貨物駅など作れない。



上野駅の貨物ターミナル駅機能は

隣接する秋葉原に貨物駅を作って移された。




『オタクの聖地』秋葉原は

貨物駅だったわけですな。









実際、この路線の計画時には上野-新橋を

皇居東側、つまり現在の東京駅経由で通す

構想はあったらしい。



しかし、この計画は早々に放棄された。



理由はふたつ。

ひとつは、丸の内のあたりは原っぱだったが

それ以外の地区はすでに都市化していたこと。

いまとは比べものにならないが

それでも買収に手間がかかる。





それよりも大きな理由は

皇居から東はむかしは海で

とてつもなく地盤が軟弱だったから。


実際いまの東京駅が建設された時には

1万本以上の松の木の杭が打ち込まれた。

総武線地下ホームと成田新幹線の東京駅(今の京葉線東京駅)が

作られた時、大半が撤去されたはずだが

今回の修復工事でも『出土』しているんだそうです。















上野で行き詰まってしまった東北本線と

東海道線を連絡したい。

人間はともかく貨物列車は何とかしたい。



そこで作られたのが山手線である。

というのは、鉄っちゃんの基礎知識だが

『いまの山手線廻りで、上野-品川を結ぶんだったら

遠回りだよなー。』と思うだろう。


それでは『初段』はやれん。











建設当時の山手線はいまのルートではない。



赤羽駅で東北本線から分岐し、

いまの赤羽線(営業名称は埼京線)を通って

池袋でいまと同じ山手線に入り、

大崎-品川-大森という三角線を経由して

横浜、品川、両方面に連絡していた。

(大崎-大森間は貨物専用線)





つまりこう。 

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距離で見ても、皇居東回りのルートよりも近いことがわかる。



ただし、ブラタモリに教えてもらわなくても

山手線は切り通しとか急勾配があって工事が手間取った。 












さらに、明治政府は戊辰戦争で叩きのめした東北を

復興させるために、宮城県の野蒜というところに

国際港と貿易都市を造ろうとした。



野蒜築港計画という奴で、1878年(明治11年)に

巨大な築堤と近代的な街路で仕切った街区を造った。 

野蒜は東北本線からは離れているが

これができたら横浜まで生糸を運ばなくてもいい。




しかし、江戸に近い横浜、大阪に近い神戸と違って

野蒜はあまりに田舎だ。

外国人の商館は出店せず

さらに港湾自体が

1887年(明治20年)の台風で壊れてしまう。 



もう、踏んだり蹴ったり藤原鎌足である。








東北本線の側からいえば

赤羽-品川間が開通したのが1985年(明治18年)だから、

危ないところだったわけです。




東北の物産は鉄道で横浜まで運ばれ、

東北開発のための物資は鉄道で移動できるようになった。

















で、


さっきの1904年(明治37年)の

東京の鉄道路線図を見てもらうとわかるが、

この時点で東京には『中心駅』がない。 











ヨーロッパの街なんかだと、

ターミナル駅というのは方面別にいくつもある。

パリにいてリヨンに行きたいと思う人はリヨン駅に行けばいいし、

モスクワにモスクワ駅はない代わりに

サンクトペテルスブルグ駅はある。

そっち行きの列車が出ている訳です。








明治時代の東京の鉄道も、そんな感覚だったらしい。

東北線のように経営母体が違うせいでもあった。

ちなみに、中央線は甲武鉄道、房総方面は総武鉄道と

不思議とみんな建設・経営主体が違ったのだ。



私がガキの頃、つまり『総武線地下ホーム』が完成するまで

房総方面の優等列車は『両国始発』という時代があった。

『変なところで降ろされるんだなあ。』と思ったもんである。




東北本線もそう。

上野駅の東北本線と常磐線のホームは『頭端式』といって

きっぱりと行き止まりになっている。


阪急梅田駅なんかもそうです。

九州だったら門司港駅なんかもそう。

『ここから先にはいかねえぞ。』



東北本線を作った日本鉄道は

旅客に関しては上野をターミナルにして

先に行くつもりはなかったらしい。











ところが、鉄道会社とは別の次元で

『東京の中央停車場を作ろう。』という構想が起きていた。



明治17年(1884年)東京市は市区改正計画というのを始める。

いまで言う都市計画だが、この中に

『新橋-上野間の連絡線と、中央停車場の設置』

という項目があった。



さらに、政府のレベルでも、

鉄道局の顧問だったフランツ・バルツァーという先生が、

独自に連絡鉄道の計画を作っている。

1920年代のことだ。



バルツァー先生は、ここで今日につながる重大な

項目を提案している。

『南北連絡線の中央停車場の位置は丸の内側とする。』

『中央停車場は皇居を向き、中央に天皇専用出口を設ける』

『連絡線は高架鉄道とする。』



『高架鉄道』というのは、技術者バルツァー先生の慧眼で、

これが実現できたことはこの鉄道の性格を決定づけた。



中央停車場周辺の地盤の弱さや、将来の都市交通を

見越しての提案で、彼はれんが+鉄骨トラスという

新しい技術で、今日にも残る高架鉄道を造った。



しかし、『駅舎を丸の内側にする』、『天皇専用口を作る』

といったあたりは、彼の独創というよりは

おそらく明治日本の意志だった。



江戸城郭内の屋敷地であった丸の内に

既成市街地はなく、連絡線である以上

南北に貫通するその線路の

どちらかに駅舎を作らないといけない。










時間の関係が前後するが

わかりにくいと思うので

東京駅建設前後の周辺の地図を見てください。








着工前、明治24年の東京駅付近。

図面右側の整然とした区画は江戸時代からの町、

しかも、銀座、京橋、日本橋、と超一流であった。

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1921年、東京駅丸の内駅舎竣工7年後の東京駅と周辺。

結局、東京駅は丸の内側に立地する。

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行幸道路は出来ているけど

丸の内はすかすかですな。

しかも、この時点では、八重洲側に改札口はない。

連絡通路はあったが、現在外濠通りと呼ばれているように

昭和に入るまで八重洲側にはお濠があった。



八重洲橋が架けられて、

中央コンコースの先に八重洲口が作られるのは

東京駅開業から15年後の昭和4年である。



地図で見ても明らかなように

歴然と繁華であった海側の地区を見捨て

野原であった、丸の内地区を三菱に下げ渡して

『1丁ロンドン』を作らせて、

なにより、幅100m長さ400mという

若干寸詰まりな行幸道路を開いたのは

明治政府の意志であった。



明治20年代、日比谷、霞ヶ関、永田町、といった

『江戸の内殻』に洋式建築の官庁、議事堂街を造ろう。

世界の一等国だもん。そのくらい当然さ。

という気運があった。




その要となる中央停車場は

だから、町民どもの街の方ではなく

皇居を向かって建たなければならない。

そして、然るべく立派なものでなくてはならない。










ちなみにバルツァー先生、中央停車場の図面まで描いている。

 

 

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外人が理解した

ジャパン







図面そのものは、こういう『和洋折衷』が大嫌いだった

実際の設計者の辰野金吾から、

あっさりと無視されて洋風になるのだが、

『丸の内側に駅舎』という基本構想は引き継がれる。



うはうはに賠償金が取れた日清戦争の2年後18969年に、

『中央停車場計画』は国の予算が付いて国家事業となる。

辰野金吾が設計者として相談されるのは日露開戦の半年前。

ただ、臥薪嘗胆の時代、予算を絞られて

辰野先生は苦労したらしい。



さらに日露戦争終戦の1905年に正式に設計が開始される。

その3年後に着工するのだが

こんどは賠償金が取れなくて貧乏だったくせに

『これで世界の一等国。』

どかんと予算を増額して計画は拡大された。



今回修復された東京駅は空襲で焼けてしまった

3階部分が再現されているが

竣工当時、3階はほとんど空き部屋だったそうである。

立派に見せたいために必要のない3階を作った、と。








丸の内側の出口を降りると、幅100mの行幸道路が

皇居に続いている、という東京駅は

『国家としての明治東京の玄関』

だった。そして、

『明治日本の背伸びの象徴』

でもあったわけです。









この辺の機微を理解していない、外人のバルツァー先生は

『裏口』に当たる八重洲側に

貨物駅を計画していたらしいのだが

もちろん、そんなもの却下された。





『駅裏がない』というのは、

この駅の性格を鋭く表しているように思えるのです。































では、『今日の四枚。』













最初から高架駅として建設された東京駅と違って

その40年前に開業した大阪駅は、

地上にプラットフォームがあった。

 

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一見立派な

初代大阪駅













ところがその構内はこんな感じに、のどかだった。

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大阪駅が高架になるのは、なんと東京駅の20年後の

1934年(昭和9年)である。



高架にするのは、踏切とかで市内交通を邪魔いないため

というのが普通の理屈。



しかし大阪駅近傍に関していえば

東海道線の場合、下りは隣駅の塚本で土手になり

神崎川を越えて尼崎で地上に降りてしまう。 

上りはもっとだらしなくて、淀川を越えて

隣の東淀川駅で地べたに降りてしまう。







そもそも昭和9年には、国鉄の上を阪急電車が

高々と高架でまたいでいた。



線路が交差する場合『後輩が先輩をまたぐ』というのは

鉄道敷設のルールなのだが、国鉄を越えた阪急は

国鉄駅のすぐ横に駅を作り、隣に

日本初のターミナルデパートを作っていた。



国鉄が高架になるなら阪急は地上に降りないといけない。

無茶な話で、小林一三は激怒したらしい。



さらに、国費で高架にされた東京駅と違って

大阪駅の場合は大阪市の予算も入った。



市会の中には『そこまでしなくても。』という意見も

あったのだが、大勢は

『東京が高架鉄道なのに大阪が地べたなのは恥ずかしい。』

『昭和9年には天皇陛下の行幸がある。』

といった理由で国鉄駅の高架化を決めた。






1934年(昭和9年)6月1日に

下だった国鉄が上に、上だった阪急が下にという

奇跡の工事がたった一夜で行われる。 

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高架-地平切り替え工事中の写真。


















阪急電車はこの後国鉄駅をくぐって阪急デパートの後ろに

ターミナルを作る。 

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切り替え直後の梅田駅 










しかしさすがに阪急デパートと

国鉄高架線に挟まれた駅は狭く、

1966年(昭和41年)に現在の位置、

国鉄駅の北側に移転された。



従って遠くなった阪急梅田駅は

距離感の解消のために、阪急駅-国鉄駅の間に

日本初の『動く歩道』を作った。



これだけでも驚くのだが

イラチな大阪人は、『動く歩道』の上を速足で歩く。



まねをしないと怒られそうなので、一生懸命歩くと

降りる時につんのめる。






阪急の意地である。











で、


阪急の話や、大阪駅北地区の話をすると

いくらでも話せるのだが、

さすがに訳がわかんなくなるので、やめておきます。











しかし、国鉄大阪駅が高架になったのも

結局は『大阪人の見栄』だったわけだ。

旅客線が高架になったことで貨物駅が

在来線と切り離されたのは、神戸駅と一緒。



不思議な形で切り離された、

梅田貨物駅の周辺は、いまでこそ

ヨドバシカメラがあり、ノースゲートタワーがあり

雰囲気が変わったが、ほんの30年前には男でさえ、

夜に一人で歩くのは躊躇するような雰囲気があった。

(危険はなかったけどね。)




あれこそが『駅裏』という奴だっただろう。




どんな駅にも、表側こそ賑やかだが

うさんくさい『裏側』がある。




それが東京駅にはない。



せいぜいが新橋のガード下くらいで

あんなもの健康すぎてインタビューが来てしまう。



そういう違いの感覚はどこまで通じるかなあ。








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(追記)

もっとも、東京駅は間違いなく『名建築』です。

10月1日が『万歳一色』になるだろうから

ちょっとへそを曲げてみました。

 

何十万もするステーションホテルのスイートには泊まらなくてもいいけど

むしろ列車が見える部屋に泊まりたい。

 

かつての8角形の屋根の撤去とともに

内部にあった、パンテオンのような金属ドームも

取り払われたらしいが、

あれは零戦の材料のジュラルミンだ。
 

かけらでも売っていたらぜひ買いたい。

 

 

(追記の2)

時間の関係で重大な間違いがあったので修正加筆しました。

 

 

(追記の3)

だから、長え。

 

 

 

 

 

 

 

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