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2012年10月19日 (金)

『殿下』の死

『カンボジアの首都は、と訊ねられて

即答できる人は少ないだろうがプノンペン、

というのだ。』


 

これは伊丹十三のエッセイの一節である。

 

 

 

 

 

 

この挑戦的な書き出しの文章は、

彼が1960年代前半に

映画の撮影のためにカンボジアに滞在した時の

記録


 

 

 

 

そりゃ50年前なら知らないよな、と

思うのだが

その文章の続きには『この国では外国人向けの

ホテルの朝飯が四人で8000円もする』

『その王宮はまるでディズニーランドのごとく

である。』と、あの伊丹十三の筆致でたたき

つけるように書かれている。

 

彼のことだから『『ディズニーランド』と

いうのは『悪趣味な建築の象徴』である。

燦然たる王宮の姿が描かれ、彼はこれを

罵倒している。 














この時、1960年代のプノンペンの街に

屹立していた王宮の主人であったのは

ノロドム・スラマリットというひと



 

先日北京でなくなり17日に帰国した

「シアヌーク殿下」ことノロドム・シアヌーク

のお父さんである。


 

で、今日はこの「シアヌーク」なる人物を

取り上げます。 

カンボジアでは国父としていまも尊敬を受けて

いるのだがどうにも不思議な人物なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カンボジア、と訊いてどんな単語を

思い浮かべるだろう。

『アンコールワット』か

『地雷』か

『猫ひろし』か?

 

しかし、われわれの世代ではこの丸顔の

『殿下』か『ポル・ポト』が真っ先に出てくる


 

  

 Norodom_sihanouk_2   

シアヌーク殿下

 

Polpot
1978年に撮影されたポル・ポト

権力から追われる直前の写真 

そして 、この二人が不思議に結びついている

ところが後世のこの人の評価を暗くしている。






 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、どうぞ。

今日も長いぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カンボジアというのはここだ。

 

Location_cambodia_asean_svg















東南アジア、インドネシア半島の真ん中

あたり。東にベトナムがあり、北にラオスが

ある。

この三国はフランスの植民地だった。

フランスがこの地域に手を伸ばしたのは

比較的早くて19世紀後半である。

 

 

250pxfrench_indochina_expansion



20世紀初め、

日露戦争の頃の

インドシナ半島












この地図の中で、最も薄い青色ホーチミン市

(どうしてもサイゴンっていいたくなる)を

中心とした『コーチシナ』がフランス直轄領

ほかは保護国だった。




 

 

 

で、

 

こんな知識、東南アジアの歴史を専攻する

学生でなければ、必要がないと思うのだが

『シアヌーク殿下』の歴史を語る上で、

どうしても必要なのだ。


 

正直めんどくさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『殿下』ことノドロムさんは18歳の時に

カンボジアの国王に即位する。

1941年のことだ。


 

この年号が大事なのだ。


 

だから、長々としゃべった。






 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この前年、1940年にカンボジアの宗主国

フランスは第二次大戦で、ものすごくあっさり

とドイツに負けた。



 

海軍力が皆無なドイツは

広大なフランス植民地の管理をさせるために

ヴィシーという田舎町に臨時のフランス政府を

作って、それをやらせることにした。

 

 

 

 

 

これに目を付けたのが

南方進出の機会を狙っていた日本帝国である。


 

日本は『同盟国ドイツ』の威を借りて

ヴィシー政府から『ベトナム進駐』の許可を

得る。


 

だから、Wikipediaでも

高校の教科書でもこの事件のことを

『仏印進駐』つまり『フランス領をちょっと

借りちゃったあ』という言葉で表現するのだが

さすがにヨーロッパで戦争が起きている時期に

それは通じない、ということで米英の逆鱗に

触れて太平洋戦争になる。







 

 

 

 

 

 

 

ふう。

まだ、シアヌーク出てこないな。


 

太平洋戦争でのインドシナ三国は

戦場にはならなかった。

緖線で日本軍が、フィリピン、シンガポール、

ビルマと遠いとこまで押さえたために

前線からは遠かったのである。



 

日本軍も忙しかったから、

ベトナム以外はヴィシー・フランスの総督に

任せた。


 

従って、シアヌークは

『フランス保護国の国王』であり続けた。











これが、ドイツが負けると様子が変わる。

1944年にパリが解放されてヴィシー政府が

なくなってしまうと

『背後を突かれてはまずい』と

日本はインドシナ全土を占領する。 


 

さらに1945年3月には

日本以外どこも承認しなかったが外交的に

独立もした。



 

シアヌークはこの時点で、国際的に

「正式に」王様になったわけだ。










もちろん日本は負ける。

1945年8月のことだ。

負けた後にフランスがやってきた。

ところがこいつらは、ずーっと負け続けていた

くせに戦争中のことを無視して、

戦前の統治機構を復活させようとした。

 

シアヌークの地位だけは1945年の

『日本からの独立』を継承した。従って

彼は独立カンボジアの『王様』である。






 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、カンボジアはともかく

ベトナムで怒っている人がいた。

ホーチミンである。


 

『ベトナム統一・独立』のために

非暴力で戦ってきた彼も

フランスが、コーチシナ(南ベトナム)を

分離独立させるという決定を聞いた時に

切れた。






 

インドシナ紛争が始まる。


 

ちなみにこの時点では、ホーチミンの支援を

していたのはソ連と、まだこの時はソ連と仲が

良かった中国です。 

この時カンボジアでも大きな動きが

起きていた。 

なんと、ちゃんと独立したのだ。 

 

 

 

 

 

ホーチミンが意外に強いことに驚いたフランス

は旧保護国の締め付けを図るのだが

シアヌークのカンボジアは、これを断固拒否。


 

1953年に宗主国でもあるフランスにも独立を

認めさせて『完全独立』を果たす。

 

『正式に』とか『ちゃんと』とか言い分けても

あまり意味はないと思うのだが

彼自身の意識としては『1945年の独立』の

ほうが意味があったらしい。

理由は、後で出てきます。






インドシナ紛争でフランスは負ける。

8年にわたるこの戦いは、フランス軍の要衝

ディエン・ビェン・フーの決戦でフランス軍

守備隊が全滅したことで終了する。

フランスは、東南アジアでの植民地維持の

手段と意志を失った。









 

驚いたのがアメリカである。 

フランスが負けるのはいいとしても

南ベトナムはもとより、カンボジアもラオスも

独力で独立が維持できるはずがない。


 

東南アジアにそんな巨大な『力の空白』を

作るのか?

東欧の共産化・中国の国共内戦・朝鮮戦争。

『ユーラシアが赤く染まること』

アメリカは恐れていた。



 

フランスの敗北は人ごとではなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

ふう、 

ごめんね、まだシアヌークさんはカンボジアに

います。

 

 

 

 

 

アメリカはこの紛争の最初から行われていた

『ジュネーブ会談』をまとめさせる。

要旨は

『北緯17度から北はホーおじさんに任せる』

『そのかわり南側は別の政府を作るぜ。』

『なーに、3年後に統一選挙をやるから。』

というもの。


 

すでにベトミンによって全土を制圧しつつ

あったホーチミンには著しく不利な内容

だったのだが、アメリカとの全面対立を恐れた

ソ連の説得で不承不承引き受けさせられた。








あ、シアヌークさんはディエンビエンフーの

戦いの直前の1955年3月に『王様』をやめて

お父さんに王位を譲って『殿下』という地位に

なっています。


 

親父がいるなら、はじめからそっちに王様を

やらせたら良かったんじゃねえのか?















もちろんジュネーブ協定』の枠組みなんか

すぐに破綻した。

約束の『統一選挙』が行われなかったので

ある。南でも『ホーおじさん』のほうに

人気があったのだ。



 

南北ベトナムは戦争に入る。

 

なんでカンボジアの話なのに

長々とベトナムの話をしておるのか?というと

この国の戦後史、というかシアヌークさんの

個人史もベトナム戦争抜きでは

さっぱりわからないからである。

 

 

 

ベトナム戦争の参加勢力というのは

南北ベトナム軍。

これは当然なのだが、ベトコンという存在も

いた。Wikipediaの記述は相当に

偏っているので割引いて読んで欲しいが

要するに北ベトナムが組織したゲリラである 


 

直接参加兵力としてはアメリカ軍もいた。

正面からの戦いではこれが最も強力だった。












ベトナムという国は南北に細長い。

1600km以上ある。

ところが東西には細くて北緯17度線のあたり

では50kmくらいしかない。



 

この国が、この形のまま太平洋に浮かんでいた

としたら、ベトナム戦争の結末は、

われわれが知っているとおりには

ならなかっただろうと思う。


 

前線の正面が狭ければ正攻法で来る限り

圧倒的に守備側が有利だからだ。











ところがそうはならなかった。

ゲリラであるベトコンは背後のカンボジアを

迂回して進入したのだ。

 

ベトコンには南の人民も参加していたから

アメリカ人には見分けが付かない。

ソンミ村を焼き払ったりする。



 

 

 

 

 

 

 

ベトナム戦争の地上戦の大半の舞台は、

実は南ベトナムだ。



大地からわき上がるように群がり出てくる

ベトコンと北ベトナム兵に

アメリカは50万人の地上軍と

太平洋戦争で日本にぶち込んだ量の数倍の

カロリーの爆薬をたたき込む。



 

それでも沸いて出てくるもんだから

腹を立てたアメリカは

『ジャングルがわるいんじゃねえか?』

ということで枯れ葉剤をぶちまける。


 

これが原因とされる二重体児

『ベトちゃん・ドクちゃん』

かつての南ベトナムのエリアで生まれた。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふう、

 

あ、シアヌークさんは1960年にお父さんが

亡くなって、それでも王位は継がないで

相変わらず『殿下』と呼ばれています。



1960年代のカンボジアには、

ポル・ポトやロン・ノルなど

後に彼の人生に深く関わり、

カンボジア現代史においても重要な、

そして世界史的には『誰だ?それは』

というビッグネームが議会で活動しており

シアヌークさんは、右派のロンノルも、

左派のポルポトとも仲が悪かった。

 

カンボジア国内には、ベトコンが入り込み、

それ以上にベトナムからの難民が入り込んで

いたのだが、それを黙殺した。



 

外交的にも、中庸を図る一方

ベトナム戦争の当事国である、北ベトナムや

アメリカとは距離を取った。

 

よく言えば中立。

悪くいえば中途半端で、

アメリカからはゲリラの通過を許すなといわれ

南の難民をかくまう、ということで北ベトナム

からも批判された。

なにより、ベトナム人が入り込むのを

なんとかせいということで、

国内の左右政治勢力から強い批判があった。






 

 

 

 

 

 

で、

この時期この人は『プノンペン国際映画祭』

なんていうのを行っている。

映画が好きだったらしい。


 

自分でも複数の映画を撮っている。

比較的有名なのが『ボゴールのバラ』

という映画。

この映画では、なんと彼が『主演』である。

そしてヒロインは彼の奥さんである。


 

『王族が映画に出演する』というくらいなら

よその国にもありそうな話だが、

彼が演じるのは日本陸軍大佐なのである。


 

『カンボジア独立』を支援するハセガワ大佐と

現地人女性とのロマンスを描いているのだ。

この映画の制作は1969年である。




 

すでに帝国陸軍は存在していない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




で、翌年
ロン・ノルがクーデターを起こす。

シアヌークさんは国を追われた。





映画作りが嫌われたわけではないだろうが

このクーデターに、アメリカの教唆があった

ことは確からしい。

『ベトコンをなんとかせえよ。』と。


  

実際、クーデターの後、カンボジア経由で

侵入するベトコンを排除するために

アメリカと南ベトナム軍はカンボジアを

空爆したり地上軍で侵攻したりしている。




カンボジアとベトナムというのは

『隣国同士は仲が悪い』という世界的鉄則に

よってアンコールワットの時代から仲が悪い

のだが、ベトナム戦争末期のこの騒動は

後の混乱の原因となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、そうそうシアヌークさんである。

彼が亡命先に選んだのは北京だった。

 

まあ、『選んだ』のか『許された』のかは

決して明かされない外交上の謎

なのだろうが重要なのは1970年の時点では、

中国とソ連は決定的に仲が悪かったということ


 

インドシナ紛争では中ソ両国から支援を受けて

いたホーチミンはこの時点では

ソ連の支援だけで戦っていた。

中国はインドシナに表面上は関わっていない。


 

それなのに、何故シアヌークは北京に飛んだ?

当時はガキだったからあまり深くは

考えなかったがいま考えると不思議である。




 

そして、その後の行動はさらに驚く。

なんとポル・ポトと手を結ぶのだ。

1960年代のシアヌークとポルポトは

王様と原始共産主義者なんだから

仲がいいはずはないのだが、

お互いロン・ノルに追われたことで

『敵の敵は味方』ということになった

らしい。


 

ポルポトにしても、

『アメリカの走狗』ロン・ノルを叩くには

『王様』と手を結んでも良かった。

アメリカと南ベトナムが、カンボジアに侵攻

したおかげで、彼が率いるクメール・ルージュ

の人気も高まっていた。彼は中国から

武器の供与を受けて勢力を拡大する。






 

 

 

 

 

 

 

 

 

1973年にベトナム戦争が終わると

もはやロン・ノルは政権を維持できなかった。

1975年にポルポトは全土を支配する。


 

この人は原始共産主義者で

『貨幣なんかいらない、みんなで農業をやれば

いいんだぜ。』という考え。

 

そういう素朴な考え方をする人はいまでも

いるのだが

それよりも特徴的なのは自身が反体制者だった

ことから、自分に反発する可能性がある人物を

恐れ、これを排除しようとしたこと。

 

かれは

腐ったリンゴは箱ごと捨てなくてはならない、

金八先生に怒られそうな事を言って

インテリを殺して回った。




 

曰く

『文字が読めたらインテリだ。』

『街に住んでいたらインテリだ。』

『眼鏡をかけていたらインテリだ。』として

都市から農村に市民を追い出してプノンペンを

ゴーストタウンにし、原始共産制を徹底する

ために貨幣と私有財産を否定した。

そして『逆らう危険がある』と

勝手に『インテリ』と認定した100万人とも

300万人ともいわれる国民を殺した。

 

 

 

 

 

 

で、この間シアヌークさんはどうしていたか?

というとプノンペンにいた。 

政権を取ったポルポトはシアヌークを

呼び寄せる。しかし、要職は与えない。

 

もっとも、国民を虐殺しておいて政権が

維持できるはずはなく、ポル・ポトは

国内の不満をそらすために

ポルポトは国内のベトナム人を迫害した。

それで民心を保とうとした。

カンボジア人の『ベトナム憎し』は

そこまで強力だった。


 

もちろんベトナムも黙っていなくて1978年に

カンボジアに軍事侵攻する。

これでポル・ポトをジャングルに追い払って、

ヘン・サムリン政権を作る。


 

翌年、面子をつぶされた中国が

『ベトナムを懲らしめる』という訳のわからん

理由で中越国境を侵攻。ちょうど一ヶ月で

『今回はこのくらいにしといたるわ』

捨て台詞を残して撤収。


 

何がしたかったんだ、お前は。

 

あ、一応リンクするけど、

もうこの辺の人名や事件名は読み飛ばして

ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベトナムの侵攻を受けて

ポルポトはこの時初めてシアヌークに

『役割』を与える。 

『対外的な顔』として利用したのだ。

 

 

 

この人は、これからしばらくポルポト率いる

『民主カンプチア』のスポークスマンとなる。

反ソ、反ベトナムの西側諸国は、日本も含めて

しばらくポルポト率いる民主カンプチアの

ほうを承認していた。


 

北京を拠点に外遊し、外国首脳と会うたびに

にこにこしながら合掌してお辞儀していた姿が

個人的にはこの人のイメージの原風景だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかしすでにジャングルに逃げ込んだ

ポルポトに力はなかった。


 

1988年にベトナムが撤退すると

1991年から明石さんが議長を務めた

UNTACが暫定統治をはじめ、

1993年に総選挙を行った。

シアヌークの息子が党首のフンシンペック党が

第一党となり

シアヌークさんは王様に返り咲いた。


 

 

 

 

 

 

Relay11












左が明石さん。真ん中はUNTACの

サンダーソン少将

右端が『シアヌーク殿下』。


 

もうちょっと、写真を選んであげたら、とも

思うのだがこの写真は、実は

日本国内閣府のHPのものである。







 

なんだか、哀れを請うて王様になったようでは

ないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふう。

 

 

 

 

 

いそがしい人だなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あ、そうそうポルポト一派だ。

ポルポトが死んで、この騒動が終わるのは

1998年だ。


 

老衰で滅んだ『武装勢力』なんて

聞いたことがない。


 

ルビーを掘ったり、ラワンの樹を斬り倒したり

して、それを売って生き延びていたらしく

20年以上生き残ったので国中に地雷を

埋めやがって国内の主要部はともかく、

まだ処理は終わっていない。












シアヌークさんは2004年まで王様を務めるが

後は息子に譲って10月15日になくなった。

 

享年89。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不思議な人でしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どう理解したらいいんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

18歳で「王様」になり

太平洋戦争やインドシナ紛争など

「自分では始められなかった戦争」によって

独立を与えられたわけである。

 

 

その後は、伊丹十三が罵倒した王宮に住み

自分と奥さんを主演にした映画を撮る。



これが韜晦ではなかったら悲惨だ。

 

 

 

『無能を知らずに

スクリーンの中央に写っていたら阿呆』

であろう。  

ただの目立ちたがり屋、だ。

 

 

彼がいなくとも、ポルポトは政権を取ったかも

しれない。ポルポト派が20年地雷を埋め続け

られたことも『殿下』と関係なくあり得たかも

知れないが

あの人の良さそうな笑顔が

ポルポトを、外交的に生き残らせる力のひとつ

にはなった。とは、言えると思う。



 

最終的には見限るのだが、いくら何でも

20年は長い。

 

 

 

彼の人生を

悪意に解釈するとこうなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、彼の複雑な行動を

『カンボジア独立』の維持のためとして

考えるとわからんこともない。

むしろそのことに徹したリアリストだと

 

 

 

 

 

すでに20年以上前に滅んだ帝国陸軍の装束を

着てスクリーンの中央に納まったのも、

『独立』を感謝したから。


 

その後の

ベトナム戦争への徹底的な『非関与』も

『ベトナム戦争との接触を避けたから』と

考えると理解できないことはない。 

この人は国内外の勢力から批判を浴びながらも

ベトナム戦争から距離を置こうとしている。

帝国陸軍の軍服を着て撮った映画の

翌年に共産党の中国に逃げ

もっと共産主義のポルポトと手を結んだのも

思想的には一貫していないのだが

『立場を捨ててカンボジア独立を

アピールする』

という意味で考えると一貫している。

 

 

 

実際、『ロン・ノル以降の40年間』

ベトナムと関わったがために

この国は無茶苦茶なことになるのである

 

 

 

 

 

 

 


『主演映画を撮り続けていたら

平和だったのか?』

というと、おそらくそんなのんきなことには

ならなかったと思うのだがそれも彼なりの

『国家防衛』だったのかも知れない。









少なくとも近世のカンボジアは、

フランス、日本、アメリカ、ソ連、中国、

そしてなによりベトナム、と

自分の体力が及ばない国によって

いいようにされてきた歴史がある。








自国の無力を
自覚していたのなら

あの微笑みには凄みがある。

常に合掌するあの人は偉人だった。

ということなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目立ちたがり屋か、偉人か

一体、どっちだ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の葬式』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最終的にはこの人は

カンボジアに戻って、

死に際して国民の真摯な弔意を受けている。

 

幸せな人だ。  

 

 

冒頭にあげた伊丹十三の

『ヨーロッパ退屈日記』の末尾には

こんな文章が書いてある。 




『それにしても、この国の人たちほど、

純真で礼儀正しく、かつはにかみやである

人たちを、わたくしはかつて知らない。

そうして、彼らを、土人扱いにして

顎でこき使っている四流五流の白人たち、

わたくしは彼らを、人間の屑、と呼びたい。』

 

 

 

いい国だ。





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(今日の感想) ほら、長い。

 

 

 

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コメント

そうでしたか。あれから50年がたったのですね。私はその時、小学生(10歳)でしたので、当時のことはよく覚えていません。

ただ、その後に大きな事件であったことを知った次第でした。国の指導者の資質が問われる事件でもあったと思います。

今の我が国において、本当に指導者として頼りになる人がいるのかという不安にさいなまれます。

投稿: クレーマー&クレーマー | 2012年11月 4日 (日) 16時09分

先ほどのコメントですが、コメントする記事を間違えました。削除をお願いします。

投稿: クレーマー&クレーマー | 2012年11月 4日 (日) 16時17分

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