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2012年11月29日 (木)

鹿鳴館の日

11月27日は明治16年(1883年)に鹿鳴館がオープンした日。

 

 

関税自主権の喪失、治外法権などの

不平等条約に悩んでいた日本は欧化政策を採り、

少なくとも、外交、法制で

西欧に劣らないことを示そうとした。

その現れのひとつが鹿鳴館である。

 

 

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10年前まで姫様として御殿

奥深くにいた貴族の奥さんと

大名にダンスさせた。

踊れる訳ねーじゃん

   

 

ダンスひとつで条約が変わるかよ、

という批判は国内からも強く

外国の外交官も冷笑していた。

 

これを主導した人は井上馨という人で長州藩の出身。

下級武士ばかりの明治政府の中では比較的家格も良く

例外的に理財の才に長けていた。

渋澤栄一を見いだしたことが最大の業績である。

 

 

 

 

ただ、私利と公益の区分については犯罪的にいい加減で

尾去沢鉱山事件をはじめとして、

職権を利用して私腹を肥やすこと甚だしく、

さらに三井財閥の援助を受けて私腹を肥やし

後世の評判はすこぶる悪い。

 

とにかくこの男は、不平等条約改正という理想を掲げた。

これは評価してやってもいいのだが

やり方がひどかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鹿鳴館のことだけ言われるが、

この男は『東京改造』を考えてもいた。

 

べつにこれは こいつの独創ではなく、19世紀後半

西欧列強では、街をぶち通して大通りを造り、そこに

記念碑的な建物や広場、モニュメントを作る、という

豪快な都市計画が流行っていた。

 

井上はこれを帝都でもやりたかった。

 

外交的な配慮から、井上が建築顧問として迎えたのは

ドイツ人のエンデ先生とベックマン先生。

鹿鳴館の設計は

イギリス人のコンドル先生に任せたのだが

井上と折り合いが悪いせいもあって

それ以降は切り替えてしまった。

 

 

 

 

 

エンデ・ベックマン両先生の計画は壮大で、

いまの日比谷公園から丸ノ内、霞ヶ関、永田町にいたるのだが

実現できたのは日比谷公園だけだった。

 

日比谷公園の半分のきさで、用意されたのが

鹿鳴館と帝国ホテルである。

帝国ホテルは、外国の賓客を迎えるために作られた。

昭和に入っても・外人がタクシーに乗って

「To the Hotel」といえば、

それは帝国ホテルのことだったそうである。

 

 

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赤いとこが鹿鳴館の敷地 

帝国ホテルだって

広いよなあ。

時価何千億とか言ってる

東電本社なんかより

はるかに広いんだぜ。 

 

  

 

  

ただし、井上は帝都改造を前に失脚する。

明治20年9月のことで、鹿鳴館外交の時代は

結果として4年にも満たなかった。

 

 

 

鹿鳴館の建物そのものは

コンドル先生の設計だけあって、凡庸なできではない。

 

0000rokumeikan5

  

まあ、立派か、

といわれても

困るんですけどね。 

 

  

 

  

 

で、今日話をしたいのは、この建物の

『その後』のことだったのだ。

 

ごめんね、前置きが長くて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

外交の場としては、お役ご免になった鹿鳴館は

宮内省に払い下げられ、明治20年に地震にあって修理され

その後華族会館(旧貴族の親睦組織)に払い下げられて

どこまで使われていたのか…

そんな状態で関東大震災にあって、倒壊こそ逃れたが

ぼろぼろになった。

昭和2年に日本徴兵保険会社(現在の

プルデンシャル ジブラルタ ファイナンシャル生命保険

に売却された。生命保険会社がなんに使うのか?

 

 

 

もう、この時期には積極的に補修しようという人も

いなかったらしい。

まあ、はっきり言って社会的な使命は終わっている。

 

従って太平洋戦争直前の昭和15年(1940年)に

突然、取り壊し論が起きる。

 

曰く

『日本徴兵保険会社では

最近のビル飢饉時代に建物に比較して

広大な敷地を遊ばしておくのは

土一升、金一升の場所から惜しいところでもあり、

不経済であるとの理由で

建物の取毀しを決定したともいはれ

、取毀した敷地後にはバラツク仮建築を建築して

商工省分室として貸室することに内定、

数日前から工事に着手した』

 

 

 

 

 

 

かつて西欧に、追いつくべく手など握ったこともないような

公家さんやお姫様が馴れないドレスを着飾った

贅を尽くした建物が、バラック仮建築である。

 

これを聞いた建築家の谷口吉郎

『明治に生れた人達が、自分の所持品を持ちよつて、

それを小博物館にすることは出来なかつたらうか。

それこそいい明治の記念物となったらうに。

明治時代の人から、次の時代に贈る

ほんとにいい贈物になつたことと思ふ」

「新体制が活発な革新意識に燃えるものであるなら、

それと反対に古い文化財に対しては

極度に保守的であつて欲しいと思ふ」

  

 

 

昭和15年の文章だから、

当局に睨まれないぎりぎりのところで

ひどく抑制が利いているが

それ故に、悔しさやいかばかり、と思わせる。

 

 

確かに、経済性、『土一升、金一升』の論理で

取り壊された建物はいくらでもある。

『土一升、金一升』の本来の意味は

敷地を惜しむことではなく、

低湿地で土地をかさ上げするのが大変だ

ということなのだが、だから

ジブラルタ、とか外人は物をしらねえ。

 

 

 

壊されたものは仕方がないが、理由がそんなんじゃ

あんまりだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では『今日の一枚。』

 

 

 

 

ただし、谷口の意見が通って、あそこに

鹿鳴館が残されたとしても

5年後の東京大空襲で

焼かれていたことは間違いない。

 

日本を焼き払った、悪魔カーチス・ルメイ

一晩で10万人を殺した江東地区の3月10日の空襲から

順を追って東京を4回に分けて焼き払った。

 

帝国ホテルも3月10日と4月13日の空襲で

直撃弾を相当数受けており

鉄筋コンクリートだから焼失こそしなかったが

木造の鹿鳴館は耐えられなかっただろう。

 

むしろ空襲前に解体されたために

鹿鳴館にあったシャンデリアが1基、何故か江戸川区の

灯明寺というお寺に保存されている。

 

 

00000rokumeikan_2

 

 

 

格天井には

似合わないけど

 

 

 

 

 

 

あと、階段や手摺の一部が東大に保管されているらしいが

非公開だそうである。

 

仕方ないのかなあ。

くやしいなあ。 

 

 

 

 

 

 

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