« これからは仏教 | トップページ | あけましておめでとうございます。 »

2012年12月28日 (金)

仇討ちの日

12月26日は『鍵屋の辻の仇討ちの日』

 

 

2012y12m27d_210015965

 

意外に駅前だったりする仇討ち現場

(クリックで大きくなりますよ) 

 

 

 

 

 

 

 

 

またわけのわからん事件を持ち出してきよったなあ、

と思わずに聞いてください。

 

何しろ『日本三大仇討ち。』のひとつなのだ。

(あと二つは、曽我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入り。)

 

 

 

 

 

まず、『仇討ち』なんだから『復仇』を誓った男がいる。

渡辺数馬という男である。

仇、というからには殺された肉親がいたわけで、

これが渡辺源太夫という。

 

 

 

 

おかまだ。

 

 

  

 

日本では、つい最近まで、昭和に入っても

やんごとなき人たちが入ることで有名なあの学校では

男色というか衆道というか

つまりそういうことが普通にあった、という。

 

遡れば日本書紀にも記されていたという同性愛は、

現在白眼視されるほど異常ではなかったらしい。

 

 

 

 

 

で、この源太夫は殿様の愛人だった。

信長と森蘭丸のように、男色の権力者というのは珍しくない。

ひょっとしたら、今でもどこかの大企業でもあるかもしれない。

  

源太夫のパトロンは、岡山31万石の太守

池田忠雄(ただかつ)。

  

男色家が必ずしも女装していたワケではないらしいが

源太夫は、成年になっても童形のままだったという。

 

 

 

 

 

 

まあ、いいや。

 

 

 

 

 

 

 

で、

 

 

源太夫は、よほどの美男子だったらしく

言いよる男は多かったらしいが

河合又五郎、という人物がコナをかけた。

 

外様とはいえ31万石といえば大藩で

その殿様の愛人、というか愛娼というか

そういう人物に手を出すとは大物だと思うが、

どうも最初は知らなかったという。

 

しかし、講談などで流布している

このあたりの経緯はさすがに不自然で

後世脚色されている気配が強い。

 

ただ、河合又五郎はやりすぎた。

 

 

言い寄ってもなびいてくれないので

源太夫を斬り殺してしまったのである。

 

 

 

 

 

殿様の愛人だ。

いや、愛人なのか?

 

 

 

まあ、ともかく殿様である

池田忠雄は激怒した。

 

当然であろう。

 

 

激怒の挙句、この殿様は疱瘡(天然痘)で死んでしまう。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

河合又五郎は江戸に逐電し旗本に匿われる。

 

従って、外様である池田家は手を出せなかったとか

いい加減なことを言う奴がいるのだが

そんなことはない。

 

池田家は信長譜代という意味では家康と同格で

家康がこの家系に気を使うことは、破格であり

池田忠雄の父、輝政は家康の娘、督姫を

バツ1だが姫路に嫁として迎えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、輝政が、現在修復中の世界遺産

姫路城を築いた。

幕府の支援がなくて、あんな城が建つか。

   

愛妾、ならぬ、愛童を斬り殺された忠雄も

家康の孫だったのだ。

旗本風情が手を出せる存在ではない。

 

 

馬鹿は馬鹿で黙ってろ。

このWikipedia。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし疱瘡で死んでしまった殿様は無念であった。

そりゃそうだろう。

まだ家臣だったら、『上意』ということで

有無を言わせず殺せる。

でも逃げられちゃった。

 

やむを得ず忠雄は遺言で源太夫の兄、渡辺数馬に

仇討ちを命じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

数馬、超迷惑。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主命なのだ。

 

まあ、亡くなったとはいえ

『殿様死んじゃったから仇討ちやーめた。』

とは言えない立場である。

 

岡山藩30万石とは言っても

上士以上の家臣は500人足らずであろう。

世間が狭いことは社宅以下である。

  

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数馬は仕方なく『仇討ちの旅』に出かける。

さらに、彼は剣術に自信がなかったので

助っ人を頼んだ。

それが、姉さんの旦那、荒木又右衛門である。

 

助っ人を頼むのは卑怯じゃないか?

と思うのだが、実はこれはぎりぎり合法であった。

岡山藩士の仇討ちに郡山藩士の荒木又右衛門が

助太刀した理由は、よくわからない。

 

荒木又右衛門、という人は大阪夏の陣で活躍した、

とされる人物だが、年譜を見るとその時は15である。

 

おそらく、実態以上の虚名の始末を付け兼ねていたのだろう。

ただ、実際に剣術の達人だったらしいことは

この仇討ちでも知ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『仇討ち』というのは江戸時代には法制化されていた。

『仇を討ちたいなあ。』という人は

理由一式を書いて届け出る。

届出先は身分、所属によって違うのだが

然るべく許可されると『仇討ち免許状』という

冗談みたいな書類がもらえる。

 

これの効用は、別に仇討ちを手伝ってくれる

とかいうことではなく、本懐を遂げた時に

それを『殺人罪』に問わないというだけのことである。

 

 

 

 

ちなみに『仇討ち免許状』が出ると

所領、というか給料は『お預かり』ということになる。

   

無事本懐を遂げたら返してやる、ということだが

そういう例は皆無だといっていい。

この事件でもそうだった。

 

だから、執念と財力のある人間にしかできなかった。

実際には『家名を重んじる』親類一党が

送り出していたらしい。 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

仇討ち、とか決闘が法制化されていたのは

ヨーロッパでも同じで

『手袋を投げたら決闘』とかいうのは19世紀まであった。

ただし、ヨーロッパの場合手袋を投げれば即座に決闘なので

旅費はかからない。

 

 

一種の自力救済で、法制度が整わない頃には

先進国にも普通にあったわけだ。

いま、この制度を認めたら、つかまろに明日はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、殿様の寵臣の仇討ち、

というのは当時でも珍しかった。

 

『仇討ち』が認められるのは原則として

父を討たれた子とか、兄を討たれた弟というのが普通で

『下が上の仇を討つ』のが原則。

『オカマの弟の仇討ち』というのは

当時でも異例のことだった。

 

 

それだけに有名で、この一行には各所から

情報が寄せられた、という。

主命によって数馬が仇討ちを命じられてから

会敵するまでの期間、

2年間というのは破格に短い。

  

敵は隠れながら逃げているのだ。

お互い生活費はどうしていたのか、という気がするが

この事件の場合、お互いに支援する人がいたらしい。

 

実際、免許状をもらっても、

仇と一生会えなかったという人は珍しくなかった。

『父の仇』『兄の仇』『主君の仇』であれば

仇の方が年上なのが普通だが

それでも、仇も自分も死んでしまい

3代裔の子孫が決闘したことも

あるそうなので、アホかいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とにかく、にっくき河合又五郎一行を追っていた

数馬一行4名は、又五郎が郡山藩内に潜伏していることを知る。

 

これがよくわからない。

数馬の助っ人の荒木又右衛門は元は郡山藩士だったのだ。

この時は脱藩していたとはいえ、情報がもれないとでも

思っていたのだろうか?

 

もちろんバレて、又五郎も危険を察知。

伊賀路を通って江戸に逃げようとする。

 

その情報を探知した数馬、又右衛門とその門弟二人の4人が

伊勢街道の隘路、鍵屋の辻に待ち伏せる。

冒頭の地図の通りでこの場所は、割と駅前なのだが

街道そのものは旧状をとどめているらしくて

幅2間ほどの街道が杉林の急斜面の中を走っている。

ここに数馬一行4人が伏せた。

  

 

卑怯じゃないか、と思うなかれ。

待ち伏せしていた鍵屋の辻に現れたのは

又五郎と、剣術の達人のおじ、槍の名人の娘婿以下

11名の大部隊だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう、なんか脳みそが痒くなる。

 

Wikipediaが伝えるところの仇討ちの実況も情けない。

主客であり雇い主であるはずの河合又五郎は徒歩であり

助っ人のおじと娘婿は騎乗していた。

 

山道を騎馬が並行して通れば如何な達人でも

自由に槍や剣が振るえるはずはなく

荒木又右衛門が、あっさりと斬り殺してしまう。

 

残りの小物は逃げ果ててしまい、残ったのは

オカマの兄と、

オカマに手を出した男である。

 

又右衛門としては立場上、

『ここは、数馬殿が』と言わざるを得ないのだが

このケツメドふたりは、やあやあと、掛け声ばかり勇ましく

3刻(5時間半)たってもやかましいだけ。

 

ようやく数馬が切りかかると、

又右衛門が『それでは留めをごめん。』と

一刀で切り伏せた、

 

というのが講談の解釈なのだが、どうだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実を言うと、数馬は旧主の池田家に再就職しているし、

又右衛門も郡山藩と、池田、鳥取藩とのあいだで

スカウト合戦のようなことがあり、結局、鳥取に引き取られた。

 

ただしこれを、

数馬や又右衛門の計算か?というと

おそらく違うだろう。

 

数馬にとっては、弟の男色などどうでもよく、

もっともこの人は、弟が寵愛されていたために

上士格にしてもらっていたのだが、それでも殿様の遺言で

『仇討ちにいけ』とは

いい迷惑だったはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

又右衛門についてはよくわからない。

嫁さんの弟だとはいえ

他藩の藩士の仇討ちに脱藩してまでついて行くのは

勝間和代なら止めるはずだ。

 

あ、いや。コストパフォーマンスが合わないでしょう。

 

しかも、この人は、めでたく鳥取藩に就職した直後に

謎の死を遂げている。

ついでに数馬も仇討ちから

10年も経たないうちに死んでいる。

 

 

 

 

 

消されたんじゃないかな…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本で仇討ち禁止令が出されたのは明治8年。

 

 

もっとも、それ以前、幕府や籓、という組織が機能しなくなって以来

仇討ち免許状も、所領預かりもなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

  

まあ、私闘がなくなるのは歴史の必然だけどね。

 

むかし、飲み屋の喧嘩で酔っ払ったおっさんが

手袋なんかないのでハンカチを投げ、

投げられた方の、もっと酔っ払ったおっさんが

意味を察しかねて呆然としていると、おかみさんが

『あらあらハンカチ落としてどうしたの?』と

拾って、それでうやむやになった。

 

決闘なんか、そのくらいでいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の一枚。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

00000adauchi  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歌舞伎『奥州白石噺』で知られる宮城野姉妹の仇討ちを記念した

宮城県白石市の『激辛 仇討ちまんじゅう。』

 

 

  

しらねー。

 

そして激辛まんじゅう?

悪いけど、まずそー。

  

 

 

  

にほんブログ村 その他日記ブログへ 

(クリックしてくださいな。) 

 

 

  

おまけ 

 

 

 

映画『荒木又右衛門36人斬り』  

荒木又右衛門 鍵屋の辻 36人切り 投稿者 spyagent0011

    

へー

 

|

« これからは仏教 | トップページ | あけましておめでとうございます。 »

おこられませんように」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/453502/48493338

この記事へのトラックバック一覧です: 仇討ちの日:

« これからは仏教 | トップページ | あけましておめでとうございます。 »