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2013年3月24日 (日)

天正遣欧少年使節の日

3月23日は天正遣欧少年使節が

ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見した日。













では、ここで曲をどうぞ。

『天正遣欧使節』で、『GO!天正遣欧使節』。

 

 

 

あー、くだらねえ。


『学校はセミナリヨ。』

『連れてって、ヴァリニャーノ』

『中浦はなんたって、ジュリアンさ。』





あたまわりー、目にツーンとくるね。






今日の日記で書きたいことはこれだけ。

もういいや。












一応解説もしようか。



これは、テレビ神奈川など、4局の共同制作による

『戦国鍋TV』という番組の企画バンド。



知ってる人には有名なんだろうけど、

おっちゃん知らんかったわあ。








『知りたいよ、隣人ラブ。』ってなんだろう。

『汝の隣人を愛せよ。』ってことかしら。

























では引き続き、『ラップ・墾田永年私財法』  














で、まあ。ふざけてないで遣欧使節の話もしようか。



使節は4人で、歌詞にもあるように

伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノ



いずれも九州の大名や、有力武士の子弟だった。

4人は、イエズス会の司祭、ヴァリヤーノの発案で

ヨーロッパに旅立つ。



リスボン、マドリード、ローマなどに行き

2年近くヨーロッパに滞在して各地で歓待を受けた。



そして、ローマ教皇への謁見という名誉を与えられたのが

1585年の今日。 


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拝謁する

伊東マンショ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、


マンショ君、服こそ洋装だが月代を剃り髷を載せている。

この時は15か16だったらしいので

髷を結っていてもおかしくないが日本を出発したときは

12か13だ。どこか寄港地で元服したのだろうか。







ところが、謁見の翌年ドイツで発行された本には

こんな図版が載っている。 

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上段のふたりが正使。 右がマンショ、左がミゲル。

下段のふたりが副使。右がジュリアン、左がマルチノ。

(クリックで大きくなります)







ジュリアンっ。

その額の傷はどうしたっ。


じゃなくて、

4人とも髷を落としている。














まあ、いいけどね。

ただ、この4人は帰国後大いに波乱の運命に見舞われる。




この使節の派遣を促したのが

イエズス会のヴァリニャーノだ、ということはすでに述べた。



彼は、イエズス会の『アジア担当』であったが、

日本での布教が進んでいないことに悩み、

『日本人をローマに連れて行くことで、カソリック教会の

アジア布教の熱意を引き出そう。』と考える。



さらに使節に少年を選び、帰国後聖職者として、

布教の尖兵とすることも考える。



この使節団が帰国時に持ち帰ったのが

『印刷機』であった、ということが、

鋭く、そのあたりの事情を切り出している。









で、


不思議なのは、

『このプロジェクトに金を出したのは誰だ?』

ということだ。




大友、大村、有馬といった

九州のキリシタン大名だろう、と

なんとなく信じられてきたが、

戦後の研究で、あくまでも主導者は

ヴァリニャーノだったらしい。



キリシタン大名は、

ほとんど計画に関与していなかった、とも。



まあ、親書まで持っていってるんだから、

全く知らないわけでもなかっただろう、と思ったら

伊東マンショが持っていった大友宗麟の親書は

偽書だった、とWikipediaには書いてある。

 

へー。









大村氏、有馬氏はこの計画自体は知っていたらしいが

金だけ出さされたんだろうか?



使節は4人だが、ほかに随行のイエズス会士や

日本人なんかがいる。もちろん船員もいる。



この使節団の30年後に出発した支倉常長の

慶長遣欧使節は総勢180人も連れて行っている。

相当な金がかかっている。

そして、イエズス会が金を出したわけでも

なさそうなのである。










日本側の狙いは、ひとつは貿易だ。



キリシタン大名もそうだが、当時の権力者

秀吉も帰国した一行を聚楽第で歓迎している。












キリシタンの九州の大名の中には

イエズス会から借金していたりしている奴がいる。


大村氏などは借金のカタに、長崎の一部を

『寄進』したりしている。



長崎がマカオになってしまった可能性は

実は否定できないのである。











さらに、キリシタン大名は仏教徒を迫害した。



そうやって迫害した日本人の一部は

南蛮商人に奴隷として売られた。



男は奴隷や傭兵に、

女は売春婦として

世界各地に売られていった。


奴隷売買に大名やイエズス会が組織的に

関与していたかどうかは謎だが、

『遣欧使節』の4人も寄港地のゴアやジンバブエで

こうした日本人奴隷を見ている。



南蛮人にとって、日本人など人間ではなく、

キリシタン大名にとって

異教徒粛清は正義でもあっただろう。




熱心なキリスト教者が権力を握った時、

必ずしも善人ではいられない、ということを

我々は、南ベトナムのゴ・ディン・ジェムで知っている。















秀吉も、天下統一の過程で九州に親征して

その実態を知った。



せめてイエズス会の影響を排除しよう。

と思ったらしい。



ポルトガルでは1578年に王様が無茶なモロッコ侵略をやって

戦死しており、スペイン王がポルトガル王を兼ねていた。

世界最大の帝国になっていたのである。







秀吉がそういった世界情勢をどこまで知っていたか疑問だが、

九州征伐の際に、イエズス会の日本管区長ガスパール・コエリョ

という野心家が、海軍将官の礼服を着て

イスパニアの軍艦に秀吉を招き、

『お求めならこの船をお貸ししましょう。

なに、本国にはもっと大きな船がいくらでもあります。』

といったから、秀吉の逆鱗に触れた。



実際、秀吉が『反キリスト教』の姿勢を鮮明にすると

九州のキリシタン大名に、

『おい、あの猿倒そうぜ。』と

物騒なことをもちかけている。










だから既に使節団の帰国前の1587年に、

『バテレン追放令』を出した。



秀吉は、海外進出を狙っていたから

貿易まで禁止するつもりはなかった。



宣教師の国外退去と仏教徒への迫害を禁じているだけだ。  









しかし、何にも知らずに帰国した4人の『少年使節』が

南蛮土産の楽器をポロンポロンと弾き

秀吉が、彼一流の『人たらし』として

『どうじゃ、わしのもとに仕えぬか?』と聞いたとき

代表して、伊東マンショが

『いえ、私はさらにキリスト教を究め

司祭になりたいと思います。』

とか、言い出しやがったもんだから

周りにいた秀吉の近習はひやひやしただろうな。





















で、4人のその後だった。


伊東マンショは、司祭になるためにマカオに渡り

司祭になった後、日本に戻って布教を行うが

江戸幕府の時代になると迫害され、

長崎の神学校で教えていたが1612年に病死した。






原マルティノは、伊東マンショや中浦ジュリアンとともに

マカオにわたってともに司祭になり

日本で布教するところまでは同じ。  

1614年幕府によって出された禁教令は本気だったので

危険を感じてマカオに渡り、日本語の本などを作った。



千々石ミゲルは、マンショ、マルティノ、ジュリアンとは

行動を共にせず、マカオには渡らないで棄教している。









最も壮絶な最期を遂げたのが中浦ジュリアン。


マンショ、マルティノと共にマカオにわたってそこで学び

司祭になったところまでは同じだが

幕府の追放令の後、地下に潜んで布教活動を行う。

1932年に捕らえられ、信仰を捨てるように迫られる。

つまりひどい拷問を受けるのだが

盲目になりながらも棄教しなかったという。 



この時、千々石ミゲルの家を訪れ

気を使ってミゲルが席を外した時、

彼の子供が寝ている横にあった

たらいの水で洗礼を与えた、という話がある。

ありえないことだとは思うが、

信じてあげたほうがいいのかもしれない。 




最後は穴の中に吊るされ、耳や目から血を流しながら

3日耐えて、死んだ。







むう。























では、『今日の三枚。』














『遣欧使節』というと、この天正少年使節の他に、

仙台の伊達政宗が送った『慶長遣欧使節』というのもある。





正使として政宗の『親書』を持っていったのがこの人。

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支倉常長

(仙台市のウェブサイト)

 

 

 

 

 

  

本人がヨーロッパで描かせた肖像画。





もみあげを切れっ



と思ってしまうな。

しかし、天正少年使節の伊東マンショがローマ教皇に

拝謁している時には月代を剃って

大きな髷を載せていたのと比べると、

さすがに『伊達者』である。

(お団子のように小さな髷は乗っている。)







この人はたくさんの文物を持ち帰っており

帰国したときに、既に幕府の禁教令は

厳然たるものになっていて、厳重に秘蔵されたため

保存状態が良く、ほとんどが国宝である。



秀吉に献上されたために行方がわからなくなってしまった

天正少年使節のお土産とは、えらい違いである。









政宗がヨーロッパに使節を送ったのは、これも貿易のため。

Wikipediaには『太平洋を横断してメキシコと貿易する』

そのためのスペイン王の許可をもらいに行ったのだ。

と書いてあるのだが、どうだろう。



あの当時の航海技術で、年に一度でも相互を往復し、

安定的に貿易することなど出来ただろうか。



スペインの植民地、という意味では

既にフィリピンがそうなっていたから、

そこで良かったような気がする。 



ただ、メキシコはともかく

南米は火薬の原料でもある硝石の巨大産地で

チリとボリビアが『太平洋戦争』をやっちゃったりする。

政宗は幕府成立後も武器の調達に熱心だったから

それが狙いだったら、恐ろしい男である。








そして、この航海は
『太平洋貿易』を信じさせるくらい壮大で

石巻を出港すると一路太平洋を横断し

メキシコに着くと、それを馬か歩いてか知らないが

これも横断して、カリブ海に出る。

キューバを経由して大西洋を横断して

スペインに渡った。これだけで1年。




今日の地理感覚でも気が遠くなる距離で

船や操船技術者はスペイン人に頼ったため、

『日本人の航海による太平洋横断』という名誉は

240年後の咸臨丸に譲ることになるのだが

太平洋、大西洋の両方を横断した人というのは

日本人ではこの人が最初じゃなかろうか。



結果としては、交渉はうまくいかなかったが

その意気や壮、としようか。








この人が太平洋横断に使った、サン・ファン・バウティスタ号

というのは1993年に復元されて、

石巻のサン・ファン館(現在は休止中。ウェブサイトへのリンク)

というところに係留されている。

Sanjuanbautista

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 









         

あの津波で大丈夫だったのか?というと、

軽い木造船だったせいか

何度も来た津波を乗り越えて船は無事、なのだそうです。



なんか『天正少年使節』の4人といい、この船といい

いくらでも『教訓』めいたことを引き出せそうな気だするが、

なんかもう、いいや。




ただ、運のいい船ではある。






サン・ファン館と聞いて

危うくこの写真を載せようかと思ったけど

なんとなく違う、と思ってやめていました。

000000000000000_reference    

 

 

でも載せる

絶対意識してるよね 

 

 

 

 

  

『ワンピ」や『カーデ』くらいならわかるけど、

『エレ女医』はひどい。

『エレベーター女医』か? 







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ほら長い。

 

 

 

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