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2013年5月13日 (月)

デパート火災の日

5月12日は『田畑百貨店火災』の日。

(Wikipedia 田端百貨店火災)

 

 

 

どこだそれは?といわれると、

おそらくみんな知らないと思う。

 

 

千葉市にあったデパートなのだが、

いまの千葉市民も知るまい。

 

 

 

いまは千葉パルコになっているからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Wikipediaによると、田畑百貨店は

田畑国利なる人物が一代で築いた、という。

 

 

大陸帰りの田畑氏は千葉駅(旧)の前に

古着屋を作った

そして、現在パルコになっている場所に

移転するのが1950年(昭和25年)。

 

 

 

千葉の街のことなんか

みんな知らないだろうから地図を載せます。

 

 

 

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中央公園の南に『千葉パルコ』とあるのがわかるだろうか?

ここだ。

 

 

 

 

 

 

 

そしてここは、千葉の街の中心部だった。

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昭和4年の地図 

 

 

 

 

黄色の線が国鉄。

千葉駅はいまの市民会館の付近にあり

そこから県庁まで伸びている通りが、

現在の『栄町通』

 

 

ここは明治以来、千葉で最も繁華な通り

だった。

 

 

 

 

紫の線が京成電車。

この千葉駅が、現在の中央公園。

この駅のすぐ向かい側に

田畑氏の店はあったわけだ。 

 

まさにホットスポットである。

 

 

 

 

 

 

 

その後周辺の敷地を買い足して

地上8階地下1階の建物に改築。

百貨店となったのが1964年(昭和39年)

 

 

 

ところが、昭和38年に国鉄千葉駅は

現在の位置、つまり西に1kmほどの

総武線と内房線の結節点に移動した。

総武線-内房線の旅客・貨物のほうが増えた

からで動機自体は国鉄の事情である。

 

 

京成の駅もこれに合わせて移転

(現在の千葉中央駅

国鉄のほうは、運行上の理由が大きかったが

千葉市は、これを契機に大規模な

都市計画を企画する。

 

 

 

国鉄駅の東に100m幅の大通りを設け、

両側に高さ百尺のビルを建てる。

国鉄駅の西側や北側の開発も計画する。

市役所を海岸の埋め立て地に移転し、

そこに至る地区を区画整理、etc… 

 

千葉駅東側は一応完了し

長らく空地として放置されていた西口にも

めでたく千葉そごうが建ったが、

その北側はまだ緒に就いたばかり。

北口も区画整理が終わったばかりだ。

 

 

計画時点から60年以上経った

いまでも終わっていない。 

 

 

 

なんぼ『都市計画は100年の計』といっても

時間がかかり過ぎじゃないか?

 

築40年以上の市役所など、

もう老朽化してしまった。

 

 

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千葉市役所

新築当時は、この青いガラスが

かっこいいと思ったんだよなー。 

 

 

 

 

 

 

京成千葉駅は、

国鉄の高架化と中央公園の設置に伴って

これも移転することになる。

新しい国鉄千葉駅に隣接する新千葉駅からは

急勾配と急カーブがあるために、

駅のホームを設置することが難しく、さらに

京成が千葉駅以南への延伸計画

(現在の千原線)を持っていたために

京成千葉駅は、従来国鉄本千葉駅があった場所

まで移転してしまった。

(本千葉駅は押し出されて都川のむこう側まで

移転して県庁職員の専用駅になった。)

 

国鉄千葉駅と600mくらい離れてしまった訳で

さすがに不便だ、ということで国鉄駅の隣に

『国鉄千葉駅前駅』という、

プライドのかけらもない名前の駅を作る。

 

 

 

いま『押上』を『スカイツリー前駅』

って呼んでいるのと同じだっ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

えーと、田畑デパート、どこ行った?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まあ、こうした都市構造の大規模な転換は

1960年代当時、人口40万の県庁所在地と

しては空前で、かつて繁華を誇った

栄町通とその周囲は 

ものすごくあっさりと廃れていく。

 

 

そのすたれっぷりは、1970年代を通じて私が

実際に見てきたから文句は言わせない。

 

 

 

 

 

田畑デパートも、そうした人の流れの変化、

だけが原因ではないだろうが、

デパートとしては流行らなかった。


伊勢丹と提携し、更に土地を買い足して

地上8階地下3階に増築したのが1969年

(昭和44年)

 

 

その直後に起こったのが、

全館を焼き尽くした

1971年のこの日に起こった

大火災である。

 

 

 

 

 

原因は放火か失火か不明らしい。

デパート南側の入口(現在はない)付近から

出火。

 

通行人が発見し通報。消火に当たるが

既に深夜であり、火災が起こった旧館部分は

スプリンクラーが設置されておらず

(当時でも違法)なにぶん、衣料品が主力の

店だったからよく燃えた。

(火災の実況 消防防災博物館 火災事例集)

 

しかも、1970年当時の服なんて

燃えれば有毒ガスが大量に出る。

 

煙に巻かれて死んだのが、

あろうことか田畑社長。

この火災での唯一の死亡者である。

 

 

 

この人、デパートの中に自分用の部屋を作り

そこで寝泊まりしていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

30過ぎで大陸から帰り、

焼け野原の千葉駅前に

おそらくはバッタ屋同然の店を建てて

一代でデパートを築き上げたこの人は

なによりも自分の店を愛していたらしい。 

 

そういう浪花節くさい暑っ苦しさは

個人的には嫌いだが

従業員からは慕われていたらしい。

 

火災後の、このデパートの状況を見ると、

そう思う。

 

 

 

 

 

なにより寝込んだところに火事が起き

肌着で飛び起きたこの社長は

火元が階下だと見るや屋上を目指す。 

 

 

猛烈な煙に巻かれながら

最上階の塔屋まで逃げ、屋上の扉まで、

あと10m  というところで力尽きた

というのが、さらに涙を誘う。

 

 

 

 

 

 

社長を喪った田畑百貨店は

長男を社長に据えて、

店舗の再建を図る。 

 

南側にあった百貨店の本店ビルをつぶして

さらに増築して、火災3年後に再オープン。

 

 

ここまでを見ると、従業員や金融機関、

さらに行政などの周辺から

相当の支持があったことが推察される。

 

 

浪花節な社長の死は無駄ではなかったのかも

知れない。

 

 

 

 

 

 

しかし、市民は冷淡だった。

客は来なかった。 

少なくとも火災の被害と増築の費用は

まかなえなかった。

結局は『デパート』としての田畑は

つぶれてしまう。
 

 

田畑デパートは1976年に閉鎖。

千葉パルコとなって、現在まで続いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1970年代前半というのは、

デパートの大火災というのが

頻発した時代である。 

 

1973年には熊本の大洋デパート

火災が起きる。

田畑デパートと違って営業時間中の火災だった

ために、数千人の客と従業員がおり、

103人の死者を出した。

 

 

 

1972年には大阪の難波にある千日デパートで

火災が起きる。

死者118人という

日本のビル火災で最悪の犠牲を出した。

(Wikipedia 千日デパート火災)

 

 

これも夜間の出火だったのだが

7階のアルサロは営業しており、

ここにいた客と従業員が犠牲者の大半を

占めた。

 

アルサロ、ってWikipediaには

書いてあるんだがいまの人しらねえぞ。

おれも知らん。

(アルバイトサロンのことらしいです。

今で言う素人っぽいキャバクラみたいなもんか?)

 

しかし、消防署の報告書では『キャバレー』と

なっているので

そういう店だったらしい。

(火災の実況 消防防災博物館 火災事例集)

 

00000000000000000000000000000000_11

 

救助される

ホステスの皆さん 

 

 

 

 

したがって犠牲者118人のうち

男性が48人なのに対して70人が女性である。

 

 

当時、このビルは改装工事中で、

工事関係者が火災を確認

保安係がすぐに消防に通報している。

難波駅のそばで、繁華街だったから

近所からの通報もあったろう。 

 

大阪市消防局は総力を挙げて救助に向かうが

なにぶん繁華街で大阪のことだから

夜中の11時だってえのに

不法駐車と野次馬で現場はごった返し

ようやく接近できたはしご車で救助できたのは

50人だった。

 

届かないはしご車にしびれを切らし、

はしご車のかご、あるいは地上をめがけて

飛び降りた人が24人にも及び、

そのほとんど、22人が死亡している。

 

3階で出火した火災は5階で鎮圧されるが

猛煙は7階を覆い、

96人がこのフロアで死んでいる。

その時の状況がこれである。

(クリックで大きくなるけど自己責任でどうぞ)2013y05m12d_170032917

 

 

 

 

 

 

さて、

 

この田畑百貨店火災と、千日デパート火災には

いくつか共通の点がある。 

 

 

まず、死因が焼死ではなく煙に巻かれてのもの

だった、ということ。

千日デパートの場合、飛び降りというのも

相当にあるがこれも充満した煙から

逃れるため、と推測される。

遺体の中にはよほど苦しかったのだろう

窓から半身を乗り出していたものもあった

という。

 

 

 

 

 

もうひとつは、建物が当時の建築基準法や

消防法の規定に合致していなかったこと。

 

エスカレーターや、階段、ダクトなどの

竪穴区画が不完全、あるいは機能しなかった

ため一気に上階に延焼、煙が到達した。

さらに、いずれの建物も

窓が内側からふさがれて

排煙の機能を果たさず、

田畑デパートに至っては、増築部分も含めて

一続きのフロアで延焼防止のための

面積区画がなかった。

 

 

また避難階段があっても、

それが有効に機能していない。

千日デパートは避難階段の入り口にカーテンや

衝立が置かれ、特別避難階段も含めて

誘導標識や従業員による誘導などはなかった。

田畑デパートは社長が逃げた避難階段自体の

シャッターが降りず

社長を追い越すようにして煙が駆け上がって

いった。

 

 

大洋デパートに至ってはもっと悪質で

避難階段が倉庫になっていた。

これじゃ炎の通り道だ。

なにより人が逃げられない。

 

 

 

 

消防設備が当時の基準を満たしていなかった

のも共通で

田畑デパートは増築時に

自火報やスプリンクラーに関して

旧館部分にあるものも全て

当時の基準に適合させるべきだったのに、

ちそれをしなかった。

 

千日デパートは、元々劇場として作られ、

その当時は基準法も消防法もなかったので

『既存不適格』。

違法ではないが、基準を満たさないことは

同じだった。

 

 

 

 

 

 

しかし、これらの要素は、

火災を拡大させた原因ではあっただろうが

もっと根本的な理由があったはずである。

 

 

それが、『建物が複雑すぎた』

ということだと思う。

 

 

何を言いたいのかわかりにくいと思うので

火災当時の田畑デパートの図面を

ご覧いただこう。

 

2013y05m12d_165754976

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

指さしている場所が出火点。

商品の搬入口だったらしい。

防火シャッターがあるがなぜか、

内部への炎の侵入を許している。

 

 

外壁ががたがたになっているのは隣地の

銀行なり、店舗の敷地が買えなかったからで

あろう。 

 

いまのパルコを知っている人だったら、

『妙に細長い建物だな、』と思うだろうが

この建物は2度に渡って大規模な増築工事を

行っている。

 

000000000000000000000000000000000_5

 

火災当時の配置図

南側に道路があったが

いまはない。  

 

 

 

 

現況と、増築の過程 

 

000000000000000000000000000000000_3

 

 

(クリックで大きくなります)

 

 

 

増築によって、街区の1ブロックを占める

ほどの大きさになるのだが

北東、北西、南西の三つの交差点に面した

角の部分が取れていない。

 

 

下手くそな地上げの典型のような敷地で

『アタック25』だったら

絶対に勝てない。

 

 

 

 

 

しかし、逆にいえば、それぞれの増築の時点で

地上げの完了を待てないほど切羽詰まっていた

ともいえる。

 

営業しないと日銭が入らないから当然だが

『増築に関する執念』、のようなものも

感じる。

 

 

 

 

複雑であった故に消防隊の進入と救助が遅れ

無窓の売り場や、旧館部分の不完全な消防設備

もあって全館焼失、という

最悪の結果を招いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

千日デパートの場合、平面的な大規模増築、

というのはなかった。

 

『デパート』という通称だったが

デパートではなく

各階ごとに異なったテナントが入っていた。

だから断面構成は無茶苦茶である。

 

 

000000000000000000000000000000000_6

 

 

 

 

(クリックでおおきくなりますとも。)

 

 

 

最大の被害を出した7階のキャバレーは、

以前は大食堂だった。

いかにも大阪らしいな、と思う。

歌舞伎座として建てられた名残で

6・7階に劇場があるが、これが事故当時

ボーリング場に改装中だった、というのは

1970年代という時代を感じる。

 

 

しかし、建物の所有者がフロアごとに

子会社や別会社に貸し出し、それぞれがまた

大量のテナントを入れていた。

管理体勢はばらばらで、

営業時間でさえまちまちだった。

 

だから、7階が営業中なのに

3階のスーパーでは改装工事を行っており、

ここの職人のたばこの不始末が

火災の原因となる。

 

ビル所有者が設置している保安室は

消防署には連絡するが

営業中のキャバレーには連絡しなかった。

そのために被害を大きくした。

 

 

さらに、この建物に関わる、

大量の『権利者』の存在が、

このビルの火災後をややこしくする。

 

 

 

 

 

 

 

 

このビルは火災後2年ほどはそのままの状態で

放置されていたが

『これはもう使われへんな。』ということで

解体・除却。

 

 

その後テナントが進出できずに

10年近く更地のままだった。

というのは、呪いがあるから、と

書いてあるサイトがごろごろ出てきて

びっくりした。

 

 

実際は入居していたテナント、

特に小売の専門店街の商店主が

再入居を訴えて、この間亡くなった

中坊公平氏を弁護士に立てて訴訟を起こし、

これも最近なくなった新歌舞伎座の前で

ピケを張ったりしたからだ。

 

 

 

建物が滅失すると賃借権は消滅する。

これが民法の原則なのだが、

そうはいっても貸し主は権利者に相応の金銭を

払うのが普通であった。

このビルは、そこでもめたらしい。

 

 

 

 

 

 

 

更地にしておいても、なにぶん繁華街なので、

高い税金がかかるから、

早く何とかしたかっただろう。

 

 

1981年にダイエーが手を挙げるのだが、

こんどは近隣から反対が起こる。

 

 

この千日前エリアを知っている人はわかると

思うが、この界隈は

おっさん向けの飲み屋とか

ぶったくりキャッチバーとか

パチンコ屋とか風俗店とか、

そんな個人商店ばかりである。

 

 

 

全然同情しない、のだが。

この跡地の処分は

予想以上に時間がかかった。

 

 

 

 

そこでダイエーは直営を止め、

客層を20代に絞って

周辺のおっさん店と競合しないようにし、

プランタンなんばとして

火災から12年近く経った1984年に

オープンする。

店舗の一部には、かつて千日デパートに入って

いた専門店も入れた。

 

 

その後もあれこれあって現在はビッグカメラだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

権利者が多いってめんどくさいですね。

街中に廃墟ビルが出来るのも、

廃屋が出来るのも

シャッター商店街が出来るのも、

原因は同じ。

 

 

直接にはたばこの火の不始末だったかも

知れないが決着するのには12年かかった。

 

 

 

犠牲者の数にも驚くが、

そっちにも驚く。

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の二本。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

千日デパート火災のニュース映像。

 

うーん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大洋デパートのニュース映像。 

 

うーむんんん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ふざけんなよ、こらあ」カテゴリの記事

コメント

無駄に空白改行が多い。見づらい。

投稿: ひろゆき | 2019年11月26日 (火) 02時32分

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