風船爆弾-ステルス爆弾の日-
5月5日は日本の風船爆弾がアメリカの民間人
6人を殺した日。
1945年のこの日、不発で落下していた
この爆弾に触れたピクニック中のアメリカ人
女性1人と子供5人が爆弾に触れて爆死。
風船爆弾
文字通り風船で、
直径10mの和紙製の風船に水素を詰め
気圧計に連動したバラスト(砂袋)投下装置で
高度を維持して7500kmを以上飛んで
太平洋を渡る。
これに15kg爆弾一つと、5kg焼夷弾二つが
取りつけられた。
1944年12月から1945年3月までの、
たった3ヶ月余りの間に9300個以上が放球され
米軍が発見したものだけで361個が確認されている。
時期的に1944年7月のサイパン、テニアンの
失陥に続く11月からの本土空襲に接しており
なんとなく『仕返し』というイメージがある。
しかし、構想自体は1930年代からあり、
ジェット気流が有効に働くのが冬だけだったから
こんな時期になった。
もちろん軍や政府には『仕返し』という
意識はあっただろう。
ただ、戦略効果、という意味では
日本軍自体も疑問を持っていたらしい。
なにしろ目標を狙えないのだ。
B-29の直接爆撃も
ハンセルの10000mの高々度精密爆撃では
たいした効果を上げなかった。
『悪魔』カーチス・ルメイが低空無差別爆撃で
街ごと焼き払ったことで効果を挙げた。
風船爆弾にいたっては、狙いはおろか
届くかどうかもわからないのである。
だから、この風船に焼夷弾がつけられていた
のには狙いがある。
いまでもそうだが、アメリカの山火事という
のは、燃え広がると手が付けられない。
2012年、コロラド州の山火事
この風船に付けられていたのは特殊な焼夷弾で
瞬間的だが、2000℃の火球が出来る。
アメリカ西部の広大な山林に落として
これで火を点けちまえ。
ということだったのだが、
あいにくと、冬のロッキー山脈には
雪が降るのである。
火はつかなかった。
実際の『戦果』は、冒頭の女子供6人の死亡。
あと、原爆製造工場の電線に引っかかって
長崎原爆の完成を3日遅らせた、という。
予定通りなら、
広島・長崎同時攻撃だった訳か?
ただ。心理的な効果は上げた。
太平洋戦争の初め、
1941年12月の真珠湾攻撃、フィリピン攻撃で
太平洋のアメリカ海軍は一時的に無力化された。
日本軍は潜水艦をアメリカ本土西海岸に展開し
市民の目前でタンカーを沈めるは、
工場を砲撃するは、小型偵察機で爆撃するは、
さらには空母を進出させて
アラスカの海軍基地、ダッチハーバーを
空襲したりしている。
うろたえたルーズベルトは陸軍に
『ジャップが上陸してきたらどうやって
守るんだ?』と訊く。
『ロッキー山脈で防いで、それで駄目なら
シカゴで戦います』って、情けない。
とにかく、見捨てられた
カリフォルニアの市民は恐慌に陥った。
1941年2月末には、ロサンゼルス上空で
陸軍の観測気球を『日本軍の空襲』と
勘違いして、スクランブルを架けるわ、
対空砲をどかどかと打ち上げるわ
大騒ぎをしたあげく、
銃砲弾の破片で市民3人が死んでいる。
アメリカ軍上層部には、
この時の経験が苦く残っていた。
6月のダッチハーバー空襲と同時に
ミッドウェー海戦は終わっており、
それ以降、『日本軍による米本土上陸』は
万に一つもあり得なかったのだが
1941年から42年にかけての軍や市民の混乱を
知っていたから、
政府や軍の上層部は情報の公開に慎重だった。
それが、この6人の犠牲を生む。
この『被害』以降、アメリカ軍は
この爆弾の存在を市民に公開する。
どこまで情報を隠すかってのは難しいねえ。
戦争なんだから、情報公開が制限されるのは
やむを得ない部分がある。
そして報道によって、日本軍に『戦果』を
知られるのは癪だというのもあっただろう。
この辺の感覚は、大本営がB29の空襲を
『我が方の被害僅少。敵機多数撃墜。』
と報じたのと似たような所はある。
しかしひとつ不思議なことがある。
アメリカは、発見した早い時期から
この爆弾の正体と放球基地の場所をつかんでいた。
ジェット気流については知らなかったらしいが
1944年冬の時点で日本が艦船から放球出来る
とも思ってはいなかった。
しかし、結果として有効な反撃は
出来なかったのである。
この風船は、いま日本には完全な形のものは
ないがアメリカにはたくさんある。
爆弾は時限装置によって自動的に投下されるが
風船そのものはガスが尽きるまで飛ぶから
簡単に捕獲されてしまうのだ。
アメリカはそこについているバラストの砂から
それが千葉の九十九里浜と茨城の大洗海岸の
ものだ、と突き止めていた。
だから放球基地も本州の最東の海岸だろう、と
推定していた。
すごいな。
ただ、放球されてしまうとどこから来るのか
わからない。
アメリカはレ-ダーを駆使して
接近する風船を捕捉しようとするんだが
図体はでかいが、なにしろ和紙だ。
レーダーに反応しない。
究極の『ステルス爆弾』だったのである
狙えないけど。
しかし放球基地の推定は正解で、
千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の
3カ所。
ただし1945年1月までは、場所の特定は
出来なかったらしい。
基地といっても、気球を係留するためのロープ
を固定する金具が設置された、
円形のベトンの輪っかがあるだけだ。
あと、ボンベ庫と、鉄道の引き込み線くらい。
予備知識がないとなんだかわからないだろう。
巧妙に秘匿されてもいた。
現在は、石碑だけが残されている。
上総一ノ宮の海岸にある石碑
2月、硫黄島の戦いが始まって空母艦載機が
本州を攻撃できるようになると発見され
破壊される。
いずれにしても、
春以降は気流が悪くなるらしくて
攻撃できないので、
後世有名な割に風船爆弾の攻撃期間というのは
ほんの3ヶ月あまりである。
では、『今日の六枚。』
そして、もうひとつ不思議なことがある。
この『気球作戦』は『風船』の「ふ」をとって
『ふ号作戦』と呼ばれた。
『ふ号作戦』のために特設部隊が編成される。
この部隊の母体は陸軍の気球連隊であり
千葉にあった。
しかし、気球連隊の施設のいくつかは現存して
いるのだ。
現在
いまは
倉庫会社が使ってます
気球連隊時代
ほら、同じだ
千葉市は軍、特に陸軍の街だった。
下は気球連隊移転前、昭和初めの地図。
『陸軍歩兵学校』と書いてあるあたりが
気球連隊になる。
左横にある大きな施設は鉄道連隊。
右下に陸軍病院がある。
この地図以外の場所には戦車学校、飛行機学校
軍用機工場などがあった
千葉市も1945年の6月と7月に空襲を受ける。
気球連隊は7月の空襲で被害を受けた。
もっともこの時は既に、風船爆弾の作戦は
終了していたから
『風船爆弾攻撃』に関しては、
日米ともになんの影響もなかった。
アメリカが、風船爆弾のことを深刻に考えて
いたなら、もっと早い時期に徹底的な攻撃を
加えていただろう。
2度にわたる千葉空襲では
市民に対しては、人口の半分が死傷する
大被害を出したが
軍施設への攻撃はどこか中途半端だ。
『風船爆弾』の正体が気球で
それを日本で運用できるのは、
千葉の気球連隊だけだった、ということは
アメリカにもわかっていたはずだから
不思議といえば不思議である。
正直、終戦の1・2ヶ月前に
爆撃しなくてもいいのに、と思う。
せっかくだから、上の地図とほぼ同じ範囲の
現在の地図も載せておこう。
気球聯隊は、現在は住宅地と倉庫と工場。
ピンがついているのが気球連隊倉庫であった
川光倉庫。
鉄道連隊は千葉経大と付属高校と市営住宅。
演習場は千葉公園になっている。
千葉経大の構内には鉄道連隊時代の
資材保管場の建物も、現在まで残っている。
立派な建物なんだけど、
あんまり大事にされていない。
この建物は昭和60年まで、
国鉄のレールセンターとして使われており、
千葉駅から朝の10時頃と夕方の3時くらいに
のろのろと貨物列車がここまで走っていた。
鉄道連隊の演習場だった千葉公園には
遺構がいくつか残っている。
超短いトンネル
上になんにもないし
いまと場所が変わらないのは
千葉高と千葉刑務所くらいだろうか。
千葉市出身者ならこれだけで2時間は楽しめる
親が同郷だったら、一晩飲み明かせる。
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