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2013年12月17日 (火)

赤穂藩は『戦う組織』ではなかったんじゃないか?

12月14日は『赤穂浪士討ち入りの日』

(読売の記事へのリンク)










元禄15年(1702年)のこの日、というか15日の未明

播州赤穂浅野藩5万石の浪士47名が

主君である浅野内匠頭の遺敵、

吉良上野介の邸宅を襲って見事討ち果たし、

泉岳寺に首を持って行ったという事件である。







今日のテーマは、 

『赤穂藩は戦う藩じゃなかった』、ということ。




……




うわあ、大丈夫かなあ。

やめようか。



忠臣蔵ファンの中には信じられないアナーキストがいるので 

平穏な言論、を心がけているこの日記は 

とても怖いのです。







うそつけ。







なにを言いたいのかさっぱりわからないだろうと思うので

まずは、Wikipediaに載っている

この事件当時の中心人物をご紹介します。




●国許の皆さん。

 

   筆頭家老…大石内蔵助(1500石)

   末席家老…大野九郎兵衛(650石)

  •    番頭…岡林杢之助(1000石)、外村源左衛門(400石)、
  •    伊藤五右衛門(430石)、
  •        奥野将監定良(1000石)、
  •        玉虫七郎右衛門(400石)

           足軽頭…川村伝兵衛(400石)、
  •        八島宗右衛門(300石)、
  •        進藤源四郎俊式(400石)、
  •        小山源五左衛門良師(300石)、
  •        佐藤伊右衛門(300石)、
  •        原惣右衛門元辰(300石)、
  •        吉田忠左衛門兼亮(200石)

           持筒頭…藤井彦四郎(250石)、
  •        多川九左衛門(400石)

           郡奉行兼絵図奉行…潮田又之丞高教(200石)
  •        槍奉行…稲川十郎左衛門(220石余)、
  •        萩原兵助(150石)、小林治郎右衛門(150石)

          用人…田中清兵衛(300石)、植村与五左衛門(300石)、
  •       大目付…間瀬久大夫正明(200石役料10石)、
          田中権右衛門正形 (150石役料10石)
          中小姓頭…多儀太郎左衛門清具(200石)、
          大木弥市右衛門(500石)、
  •       歩行小姓頭…中沢弥右衛門(300石)、
          月岡治右衛門(300石)



    ここまでの23人で、単純に足し算して10750石である。

    もちろんこれだけではない。



    江戸藩邸に詰めていた方々もいる。



    ●江戸藩邸の皆さん。   

       
  •  
  •    藩主世子…浅野大学長広(3000石)
  •       江戸家老…安井彦右衛門(650石江戸扶持9人半)
  •       藩主供奉家老…藤井又左衛門宗茂(800石)
  •       足軽頭…原惣右衛門元辰(300石)(ただしすぐに赤穂へ立つ)
  •       用人…奥村忠右衛門(300石)、糟谷勘左衛門秀信(250石)
  •       大目付…早川宗助(200石役料10石)
  •       江戸留守居…建部喜六(250石)・近藤政右衛門(250石)
  •       側用人…片岡源五右衛門高房(350石)、
  •                    礒貝十郎左衛門正久(150石)、
              田中貞四郎(150石)



    ここまでの12人で、6660石。






    国許と江戸藩邸の35人で1万7千石以上。
  • 5万石の身代の1/3っておかしいだろう。


    おそるべきトップヘビーである。










    そんなら赤穂藩全体の武士の数はどれほどいたのか

    というと大体500人くらいだそうである。



    2013y12m16d_090703293


    忠臣蔵新聞さんから

    クリックで大きく






    一番左の5万3千石の欄は、浅野氏時代のもの。

    真ん中の2万石の欄は、浅野氏の次の次に入部してきた

    森氏の時代のもの。






    この表によると

    100石から300石の平士格がさっきあげた以外に90人おり

    100石以下の下士級が100人いる。

    これだけで控えめに計算しても2万石。



    250人の足軽だって食わなきゃいけないから、

    5千石以上はかかるだろう。








    どう考えても人件費だけで

  • 4万石以上かかる。











    そもそも、大名家の表高というのは、


    当たり前だが人件費ではない。





    土木開発、商業経済、福利衛生、治安消防、

    そういった行政経費一切込みの金額なのだ。


    武備武装だけは、家臣の自弁だったらしいので

    4万石には防衛費も含まれていたのだろうが


    それにしたって偏っている。






    大石内蔵助の1500石など、筆頭家老とはいえ多すぎないか?

    石高の8割が人件費で、その4割近くが重役30人の給料だった

    というのは、普通なんだろうか。





    少なくとも俺は、そんなブラック企業に勤めたくはない。















    『いやいや、赤穂は製塩で儲けていたから豊かだったのだ。』

    と、半可通な事を言う奴がいる。



    赤穂の製塩は確かに先進的で

    昭和時代まで引き継がれる『入浜式』という方法を開発した。

    赤穂の塩は東日本を中心に全国に売られる。

    商人の利益は増えたが、しかし
  • このことは、逆に赤穂藩を貧しくした。




    江戸時代初期、全国の大名で『新田開発』がブームが起こる。

    海を干拓したり、川の流れを変えたり、

    今も全国に残る、『○○新田』といった地名は、

    例外なくこの時代にうまれたものだ。


    さっきから述べているように、大名の石高、

    武士の給料、すべて、その単位は米である。



    従って、新田を開発して

  • 米がたくさん穫れれば、それは、

    大地から金が沸いて出るようなものだ。




    これに赤穂藩は乗り遅れた。

    海岸が塩田なのだ。干拓できない。




    それに、内匠頭の刃傷事件の頃には急な新田開発が

    毛沢東の大躍進政策以上に国土を荒らし

    これ以降、全国で停滞していく。



    その一方、激的に収量が増えた米は 
  • それが『貨幣』なんだから猛烈なインフレを招き、
  • 石高で給料が払われる武士は、貧しくなっていった。



    従って石高の大半が
    『人件費』だった

    赤穂藩も
    相対的にどんどん貧しくなった。



    そして結局、浅野赤穂藩は、その体質を転換できなかった。

    赤穂藩は塩の販売を専売制にして

    利益を確保しようとするのだが、追いつかなかった。




    だから、この藩は『戦う組織』

    ではなかったのである。



    討ち入りした四十七士の1/3が100石以下の軽輩であり

    500石以上の『家老級』は

    責任上参加した、ともいえる大石内蔵助しかいない。



    『高級将校』が参加しなかった理由は

    それぞれにあるだろうが、

    やっぱり『戦う藩』ではなかった、ということなのだろう。














  • さらに注目すべきは浅野氏が、

    足軽まで動員して500人だったのに

    のあとに入部した森氏も半分以下の身代ながら

    同程度の動員力を持っていたことだ。



    戦前の陸軍参謀本部の戦史叢書に

    『戦国時代の大名の動員力は、

    1万石あたり250人くらいだった。』という記述があり

    大体どの本も(リンクしたページも)これに準拠している。



    それでいうと、赤穂藩5万石は

    1250人の戦闘員を用意せねばならないんだが

    半分もいない。













    そして、赤穂城の引き渡しを求められた時に籠城、抗戦を

    主張する一派がいたらしいのだが、


    そもそも、赤穂城というのは

    『戦う城』ではない。





    現在、赤穂城趾は本丸と、二の丸の一部が

    復元されて、公園になっている。

     

    2013y12m16d_081227209              

     

     

    現況

     

     

         
          

     

     

     

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    浅野氏時代

     

     






    Wikipediaには『西洋式の星形要塞』で、小銃戦にもばっちり 

    みたいなことが書いてある。


    星形要塞というのは、日本だと函館の五稜郭みたいなもので

    とげとげに突き出した稜堡から、どかどか大砲や鉄砲を撃って

    十字砲火で叩きのめしてやる、というもの。


    赤穂城の周囲は、真っ平らな地形だから

    こんないびつな形にしたのは、

    なにか意図があってのことだと思うのだが、こんなもん

    稜堡式城塞なんかであるもんか。






    当時の火縄銃の有効射程が

    せいぜい100m~200m程度だったことを思うと

    この程度のとげとげで

    有効な火網が構成できたはずはない。


    そして、現況の地図にスケールが入れてあるが(親切なつやすみ)

    この城、でかいのである。


    本丸、二の丸、三の丸に回された堀と櫓の延長は

    ざっと見た限り、5km近くになるだろう。


    足軽250人の藩が、

    どうやって鉄砲隊を配置するのだろう。










    さらに、この城、真っ平らなのである。

    城というのは楠木正成がうんこ投げて幕府軍を撃退した

    千早赤阪城のような、防戦一方の『山城』から

    次第に地平に降り、

    丘の上に城を築いて麓に城下町をつくる、『平山城』、

    そして、まったく平地に城を造り城下町の中心に置く

    『平城』になった、という話を聞いたことがあるでしょう。



    しかし『平城』といっても、高々と石垣を築いてそのうえに 

    三の丸、二の丸、本丸をあげていくのが普通なのだが 

    赤穂城に至っては城の外から本丸まで真っ平らである。



    お前戦う気あるのか?

    という城なのだ。



    日本の城下町や城は、関ヶ原の乱の前後30年くらいの期間に

    集中して造られた。

    世界史の奇観であり、だから城郭ファンというのも多いのだろうが

    赤穂城の建設時期はそうしたピークよりも4,50年遅れている。




    だから、戦う城である必要はなかった、とも言える。 

    本来は、非常戦闘区域であるはずの本丸広場に 

    殿様の御殿をつくちゃったあたりも 

    この城が普通と違う所である。








    そして、この藩の浪士47人が

    吉良邸を襲った。



    元が500人、上士で200人以上だったこと思うと

    ずいぶん脱落したなあ、とも思えるし、

    1年半も団結を維持したのはすごい、とも言える。


    しかし、元来が戦国時代的な戦闘組織ではなかった 

    この藩が、一種のテロに訴えたのは 

    善し悪しはともかく戦術的にはそれしかなかった 

    ということなのだろう。



    なにしろ籠城すれば必敗である。



    開城後、赤穂にとどまっても、これだけ身分のバランスの悪い

    組織であれば自滅自壊していただろう。

    結果的に世間には受けたし、今日でも忠臣蔵

    ということでファンがいるが、結局はこの『討ち入り』は

    『組織防衛のための暴発』だった、

    とも言える。




    以前も書いたが、赤穂浅野家は広島に本家があり

    そこは豊臣系の外様大名であったから

    累が及ぶことは十分に予想できたはずなのだ。










    吉良上野介の死は、彼自身の理非と関わりなく、

    浪士側の論理によって、ある意味必然だったのだろう。


    そう思うと、かわいそうだな、という気もする。































    では、『今日の47ローニン。』




















    予告編だけだとストーリーがよくわかりませんが

    あんまり忠臣蔵とは関係ないみたいです。


    アメリカ人が喜ぶ『ジャパン』っていうのは、

    まだこのレベルなのかねえ。



    菊地凛子ってのは、なんかすごい賞を貰った女優だっていって

    ニュースで見たけど、こんなグレート東郷みたいな

    役をやる人なのか。







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