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2014年7月の投稿

2014年7月29日 (火)

おじいちゃん子、118人。

タイトルの「おじいちゃん子」というのは

「おじいちゃん大好き」というかわいい孫のことではなく、

本当にじいさんの精子から産まれた子、らしい。

 

旦那に子種がないので、爺さんから種をもらった、

という子供が既に118人いる、というニュース。 

(朝日新聞の記事へのリンク)







男性不妊、というものがある。

つまり射精はできるんだけど、精子の数が少なかったり

運動性が低かったり。











SAFE SEX












うん、ごめん。

こういうこと書くから嫌われるんだよな。






で、

男性不妊の治療法は、『なんでてめえのザーメンかき分けて

比較的元気な精子探すのかなあ。』という風に苦労して

体外受精する、という方法がある。

(日本産婦人科学会 倫理に関する見解)



ところが、『お前の精子、駄目か。』という場合には 

顕微授精という方法が行われていて、ガイドラインがこちら。 

(日本産婦人科学会 顕微授精に関する見解)



この文章、いらいらするくらいわかりにくいんですが

『第三者による精子提供』を認めてるんです。


具体的にはこちら。 

(東京歯科大 HP なんで歯医者がま○こに口出すんだろう)




つまり、精子提供者は

『遺伝性疾患のない第三者』

『ABO式血液型で、ばれないような奴』であり

『徹底的に匿名』である。


つまり、種のない親父の実子として戸籍に載るから

生まれた子供が戸籍謄本を見て怪しむことはない。


精子提供者の男性が、『あの子は顔つきといい、

仕草といい、全部おれのものじゃないか。』といって

面会を求めても『瞼の父』なのである。



ここが今回の問題なんですよね。

日本での精子提供は比較的歴史が古いらしいんだけど 

定着、したかどうかはともかく受け入れられたのは 

『匿名性の徹底』ということにある。


元気いっぱいの精子提供者が作った男の子には

共通に体にあざがある、9人集めてアストロ球団。

ということはできないのだ。

精子提供者が『子供』を特定することはできない。



そしてまた、子供は実の父親を知りうることもない。

それは両親もおなじで、

『今日のザーメンは元気でっせ』と言われて、

顕微鏡に入れらるだけだ。





前置きが、長々するのはいつものことだい。

でもちょっと、疲れた。











で、

今回問題になっているのは『匿名性』が崩された、

ということですね。

もう地元では、『あの赤ちゃんはお爺さんの』という噂が

マッハで飛び交っていることだろう。


まあ、親子関係はどうなるのか?というと、

ここは学会のガイドライン通り、

『名義上の父親が、戸籍上の父親。』になるんだろうけど。



でも『じいちゃんの子』であることは、周知の事実であり、

1996年からこの『施術』を行っていたらしいので

最初の子は、すでに18歳だ。


彼氏もできるかもしれない。

『お父さんに紹介してくれよ。』といわれて、

じいちゃんのほうに案内されたら、

君には望みがない。




あと、めんどくさいのは遺産だろうな。

じいさんとしては、DNAを引き継ぐ生物学上の息子、娘に

法定相続分以上の遺産を遺言で残してやりたいだろう。


義姉が義妹が親戚中の女どもが、

『あたしにもじいちゃんのザーメンを』

と股をひらくかもしれない。
















子供に恵まれなかった、という意味では

あたしもおなじなんだけどさ。


生まれた子供は 、そういった出生であれば 

周囲の好奇の視線に常に晒されることになるんだ。


じいちゃんが精子提供者であれば

本人も周囲も、なにより医者が、沈黙を守れねえんだろうなあ。


受精の段階で、

子供に選択肢はないんだから、 

そこは、医者が両親が、

配慮してやるしかないんですよ。
                               



係属のルールを崩すのはおかしい。

最優先に、子供のことを考えてやろうよ






じじい勃起させてるんじゃねえ。































では、『今日の一枚』




















『福島第1原発事故 震災扱う漫画、作者ら「自由な批判を」』 
 

という重いテーマでパネリストとして並ぶ重厚な漫画家の皆さん。

 

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『美味しんぼ』の、鼻血漫画をベースにしてのシンポジウム。

右から、しりあがり寿先生、とり・みき先生、山本おさむって

こんなおっかない顔してるのか。










とり・みき先生の作品

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クリックで大きくなるけど

大きくしても

意味わかんないですよ。

                                 











                                            

しりあがり寿先生の作品

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・・・







別に揶揄するつもりはなくて、ファンなんですよ。

『くるくるくりん』とか単行本で持ってたもん。


こういう人たちは、壇上で名札ぶら下げられて

腕組んで、『先生』になってほしくなかったな。







                           

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2014年7月26日 (土)

使えよ!

JR西日本が、2005年4月の福知山線脱線事故遺族に対し

事故現場であり、JRが買い取ったマンションを

9階建てから4階、3階、2階に減築し、そこに屋根をかけて

モニュメントにするという案を提示した、というニュース。

(神戸新聞の記事へのリンク)






             

減築して屋根をかけます。

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中は使わない。大屋根は減築するとほら、雨とか心配だし

このマンションを巨大なモニュメントとして

被害者やご遺族の方のお見舞いと慰霊の念にお応えしたい。

でも、中は使わない。





使えよ。





というのが、今日のお話。













福知山線脱線事故とは、このマンションの手前のカーブで 

速度超過で進入した、満員の福知山線快速列車が脱線して 

マンションに激突したもの。

(国交省 西日本旅客鉄道【株】福知山線における列車脱線事故について)

死者107名、負傷者550名以上という大事故となった。






で、

事故当時、当り前だけどこのマンションには人が住んでいた。

47戸の住民の皆さんは8月までに一時避難する。



JRは、入居者に対して、市場価格(つまり中古価格)ではなく

新築時購入価格での土地・建物の区分所有権の買い取りと、

精神的な被害に対する慰謝料を提示。

1年以上もめたが、2006年に土地、建物がJRのものになった。



さあ、どうしよう、と言って、もう事故から9年。

JRが買い取ってからでも8年。










JRは頭が痛いだろうな

事故は、うん、まあ起きちゃったから、あれだけど、

土地建物を買い取っても、どうすればいいのか決めてくれない。


まさか、『宅地』や『住宅』という地目・名義で登記はしてないだろうが

それでも毎年の税金だけでばかにならないはずだ。


建物を撤去して慰霊公園にするのでもいい。

それなら上物が消える。

税金も掛からないし、

老朽化するマンションの

外壁そのほかが崩壊して、 

2次災害が起きることも防げる。…そして、


おそらく、JRはそれを恐れている。



2003年築の建物を2006年に手に入れて以降、すでに8年。 

再分譲する気はないわけだから、まるっきり補修をしていない。


築10年前後の建物が、

そんなに簡単に崩壊するはずはないのだが

この建物、よほど安普請だったのか、

すでに外壁の剥離、ひび割れが起きているらしい。


JRとしては、被災者の気持ちなんか知ったことではないのだが 

生意気にも9階建てのこのマンションの上部から 

ひらひらとタイルでも落ちてきて 

復旧相なった電車の運転席のフロントガラスにぶち当たったら、 

また脱線必至。




でも建物を撤去するというと、みなさん 

『記憶を風化させるからそれはやめろ』という。



『じゃあ、建物は遺すけど、

安全のために覆屋でおおいましょう。』というと、

『外から見えないんだったら意味はない。』





うん、そりゃそうなんだけどさぁ。

じゃあ、どうすんだよ。

というのが今回の計画、なんだろうな。






事故車両が当たった建物側面は、

申し訳のように4階に減築して

福知山線の電車の運転室から見えるようにする。

 

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庇の下に、マンションが見えます



残りはもっと申し訳のように、3階2階と

『一応建物は残す。』





で、

建物全体に屋根をかけます、と。


「雨などを防ぐ屋根を設置」とか、 

神戸新聞が眠たいこと言うなよ。

屋根なんかいらねえよ。 

このモニュメントに恰好よさはいらん。


狙いは、『線路側に壁を設ける』という部分だろう。

壁作ったら乗客から見えないじゃん。

線路への落下物防止のためだろうが。






そして、JRの本音としてはやっぱり 

建物なんか残したくはないはずなのだ。 

どうせ部屋を残しても無人だろう。


いまは、心霊マニア、私視えるんです、とかいう馬鹿や、

ホームレスの侵入を防ぐために、

がちがちにガードされているはずである。


それでも、提案しちゃった以上、 

減築でも部屋を残して、『慰霊公園』とかにしたら、 

そこにまた心霊マニアや、私視えるんですとかいうやつが 

夜中にやってきて踊り始めるかもしれない。





いまのまま、使えよ。






住宅として使えないのは、わかった。

しかし、尼崎駅から徒歩5分だ。

それこそJRがやりたくて仕方がない、『エキチカ保育所』

すぐにできるではないか。

『たっくん?誰とお話してるの?そこは壁よ? 

いやあああああ、笑わないでええええ。』

ということが起こるかもしれないが。




これから高齢は社会。

老人ホームや集会所など作ってもいいだろう。

隣接して保育所があれば、子供の世話もばっちりだ。

『ああ、たっくん。そこは踏んじゃいかん。わかるじゃろ?』





JR西日本の研修施設を作ってもいい。

重大事故現場の真上での研修ともなれば気合も入るだろう。

もとが住宅なんだから、宿泊施設に改修するのも簡単だ。

『おいっ、どうした高見っ。

なぜ白目を剥いてうなされているっ。』




そして、最上階は、普段はフリースペースとして、

日中は一般の皆さんに開放し、

万が一地震、となったら、津波の被害から守るために 

1000人の市民を受け入れたらいい。








『いや、現状のままじゃ使えなくて。』と言うなら補修しろよ。 

ひび割れ部分には樹脂を注入し、 

剥離しそうなタイルは張り替えてアンカーで留め 

屋上の防水と断熱をやり変えて使え。



そんときゃ、お役にたちますぜ。



JRにとっては『恥の塔』だし、

それで、傷つくご遺族の方もいるんだろう。
              

しかし、そこを乗り越えよう。

そして、50年後には 

『活きている』原爆ドームになろうぜ。


























では、『今日の進歩』


















猿。1987年。











猿。2014年。

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全然、本題と関係のない画を選んじゃった。

面白かったんだもん。






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2014年7月23日 (水)

街の優劣

 
政府が、『過疎地域の集落機能を維持するため、 

複数の集落を一つのまとまりにして活性化する 

「集落ネットワーク」のモデル事業に取り組む方針を固めた。』 

というニュース。読売新聞の記事へのリンク)











なんのこっちゃ、というと。

『中心となる「基幹集落」に商店など地域のサービス拠点を集約し、

周辺集落の住民の交通手段を確保する。』

『事業では、過疎地域内の複数の「周辺集落」のうち、

中心になる集落を「基幹集落」と位置づけ、商店やガソリンスタンド、

高齢者福祉や健康づくりのサービス拠点など

日常生活に不可欠な機能を集約化させる。』




ガソリンスタンドが、『サービス拠点』かよ、という気はする。




しかし、この『方針』、とやらの気持もわからんではない。


これから少子化の時代、崩壊していく地域社会に 

金なんかかけらんねえぞ。 

公共投資を集中しよう、集落にヒエラルキーをつけよう 

ってのは理屈としては、わかる。




ということを前提として、 

このへそ曲がり日記のつぶやきを聞いてやってください。




というのも、




『街区にヒエラルキーをつけよう。』ということで 

大失敗した巨大住宅地があるから。




千里ニュータウンだ。








千里ニュータウンというのは、 

大阪府の北部に作られた計画人口15万人の巨大人工都市。

(この人口が満たされることはなかったが。)


成長する大阪の、郊外住宅地として、 

多摩とともに、日本初の『ニュータウン』として 作られた。

町開きは1962年(昭和37年)。


これからいちいち日本の年号を併記するけど、

昭和37年、というのは日本にはまだ高速道路もない。


千里ニュータウンっていうのは、 

『車社会』を前提にした、近隣住区理論をベースにしている。




近隣住区論というのは、 

半径400mくらいの住宅地を『近隣住区』として、 

その中でコミュニティが完結できるように、 

住区の中心にコミュニティセンターや小学校、公園、

そして、商店街を配置しよう、というもの。


そんときゃ、車は邪魔だ。

近隣住区の中には『通過交通』を許さねえ、ってんで

道を曲げて、ボンエルフって、

行き止まりにして、クルドサックって、

車は入れないようにしようぜ、というもの。



アメリカのC・I・ペリーというおっさんが 

1924年(大正13年)に唱えた。


へ―…


大正13年って、あんた

日本にまだ国産乗用車がないんですぞ?


日本初の乗用車、トヨAA型の生産開始が

1936年(昭和11年)だ。(トヨ自動車へのリンク)



やだなあ、アメリカ人。

そんな時代に『歩車分離』とか、『歩行圏内でのコミュニティ』とか

言ってんじゃねえよ。









1960年代に開発された、千里ニュータウンは 

この近隣住区論を、忠実に取り入れた。


15万都市を、12の『近隣住区』に分け、それぞれの中心に

『近隣センター』と、2つの『地区センター』を設ける。

そして、『千里中央』は、文字通り『ニュータウンの中央』、として

ここには、役所の分署などが置かれた。

もっとも吹田市と豊中市にまたがっているため、

『市役所が二つある。』。


この街の成立の経緯を話そうと思ったら、

ああ、そこ障子閉めな、話が長くなるから。

なんで黒い地区があるんだ、周辺だって…

という話は、離れすぎだ。


とりあえず、ぐだぐだな境界線の、

このニュータウンの絵図だけ掲げておこうか。

                                                                   

400pxsenri_new_town_map

                                                                           
                                       












                                     
                                          






                                            



それでも千里中央はペデストリアンデッキに

つながった商店街、とか1960年代の未来を実現した。


ここには、日本の建築界の本気が集中し

ペデストリアンデッキの北端には

槙文彦先生の千里センタービルがあり

そこに並んで、村野藤吾先生の南地区センタービルなんて

傑作があった。



どちらもいまはない。

                                     
                     

          

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千里センタービル(槙文彦)

               

                                                                                                                                                                                              
                                            

          
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南地区センタービル(村野藤吾)

 











千里中央のことはひとまず置いておいて 

近隣センターについて話します。


さっきも書いたっけ、半径400mくらい、小学校区に相当する

『近隣住区』のなかに、もちろん小学校、公園を作る。

商店街、肉屋魚屋八百屋、床屋本屋、各科の個人医院まである。

日本らしいのは銭湯があったことで10ヶ所の近隣センターには

銭湯があった。

千里ニュータウンの初期の物件には風呂がなかったんですね。


最後まで残っていた銭湯は藤白台だったか、津雲台だったか、 

千里ニュータウンの建物、っていうのは、 

楽しんで建てたんだろうなあ、というのが伝わってくる。


もちろん、スラブの厚み、とかクォリティとしては最低に近いが

脱衣場から浴場まで中庭があり、そこに入ると

ぱあっと天井が高くて、よかった。



ところが、これがユニットバスが登場すると、お父さんが

バルコニーにユニットバスを乗せるといった暴挙に及び

ついには、公団も、『一部屋+UB』という増築を認める。                           

そもそもそんなことがなくても、マイカーの時代になれば

みんなで大きな銭湯に行けるのであった。

 

いい銭湯だったけどなあ。

あのへん、銭湯ないのよ。

いくらなんでも、製図室のベビーベッドで4連泊もしたら

風呂にも入りたいじゃないか。















しまった、だから商店街だ。

商店街、と言ってもごく小規模だ。


個人商店が十数店に、ミニスーパーがあったりしたが、

これが、あっさりと滅んだ。


なんでだよ、ペリー先生の教えによれば

近隣のみんなは、ここで買い物して、

子供もここで遊んでみんなハッピー。

と言うはずではなかったのか?






日本人なめちゃいけない。







まず、個人商店だが、

これが、『近隣センターごとに1業種・1店舗』なのである。

地権者の肉屋の隣に、激安で仕入れが一括の『肉の○○』が

出店してはいけないのである。

半径400mの商圏が独占なのだ。

当然、競争がないから値段が高くなる。


千里の近隣センターは、『千里価格』ということで

週刊誌にもからかわれた。

さらに、ここの近隣センターに入っていたのは、 

ニュータウン開発で、

土地と商店を等価交換で入居していた 百姓だった。

商売なんかしたことがなかったんですね。


こいつらが横柄に『千里値段』で、

悪い肉を売る野菜を売る魚を売る、しかも高い、品ぞろえが悪い。

『いいんだよ?気に入らなかったら買わなくてもいいんだよ?』



買わなくなった。



にわか百姓店主は、隣の近隣センターまで片道 800m。

どうせ、俺のところに戻ってくるんだろ?と

舐めきってかかっていたら、千里ニュータウンに入居したのは 

当時のインテリの皆さんだったのである。




なんだ?てめえ、この百姓






ということで、近隣センターは、こうなった。

                        
              

                

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見事な廃墟。

高価な近隣センターを嫌った住民は

1960年代にはバスで、70年代に入ると自家用車で 

ニュータウン近縁部にある、スーパーに出かけた。



『近隣センターの敗北』を、

店主の個性のせいにしているように見えるだろうが、それは違う。

もちろん圧倒的多数はいい人だったと思う。


しかし地域独占であったことが、センターの商品の価格を高くし

『近隣センターの個人商店、という規模の中途半端さが

品ぞろえを悪くした。これは事実だ。


住民は自前の車が持てると郊外のスーパーに行った。

『日本におけるモータリセーションが

千里の近隣センターを滅ぼした』みたいなことがいわれる。

                                                                                    

だけどこれはおかしな話で、ペリー先生の近隣住区論は

大正13年の時点で、

来るべきモータリゼーションを予測していたはずだ。




千里は、『日本人はそこまで車を持つまい』

という読みにおいてで甘かったんだろうな。








しかし近隣センターだ。

当然商売がたちいかなくなって、滅んだ。


しかし、千里の『近隣センター』の店舗に関しては

前にも言ったように 地権者との権利交換で

『分譲』だったんですね。

だから、権利の整理がややこしい。

最後まで百姓ともめた。



いまでは10の近隣センターは建て替えられて、

新しいテナントや、今日話題の保育所も入っているが、

決定的に時期が遅れた。









千里ニュータウン、というのは批判も多いが
 

よく考えられたプランだと思う。

そしてプランナーが楽しかったんだろうなあ、 

ということもよくわかる。


失敗ももちろんあって、お風呂の件もそうだけど

駐車場の確保率を2割くらいしか見込んでいなかったので

マイカーが増えると、

緑地を引っぺがして駐車場を作らないといけなかった。








しかし、入居者のほうもいけなかった。 

千里ニュータウンの住宅は、みんな2DKだと思っているだろう。

実際には、1DKから5DKまでバリエーションがあった。


なんでそんなことをするか、というと

バリエーションのある家族構成、2人暮らしの初老の夫婦もいれば

新婚で小さい子がいる、あら、奥さん2人目?

そんな家庭もあれば、大学生から中学生くらいの子がいて、

『なあ、母さん定年になったらフルムーンパスで旅行でも。』

なんて風に、人数も世代もバリエーションをつけたかったんですよ。

                                       

ところが狙い通りにはならなくて、 

すべての家に新婚が雪崩れ込んできた。





モノクラスの団地を作るのは危険だ。

一斉にガキを孕む、保育所に行く、小学校に行く、中学校に行く。

ここら辺の施設を作るのは『ニュータウンの責任』なのだ。

そして嵐がすぎたら、しょんぼりして過疎校になる。

それで高校を卒業したら、就職したり、進学したりして

やつらは親元を離れてしまう。

結婚すれば戻ってくるか?というと、来ないでしょう。




千里は一気に高齢化し、人口が減少した。




いまでは、近隣センターはみんな建て替えられているけど

いくらなんでも時期が遅れた。

いまはどうしているんだろう、というと、こうなっている。

(ニュータウンの変容と都市再生への課題)














で、

あまりに背景の違う、千里の事例は過疎地域と 

関係はないだろう、と言うかもしれない。


でも、過疎地域の『主要産業』は、林業でも農業でもなく、

金額的には、基幹地区から周辺地区への道路工事などの

公共工事であり、

周辺地区の民宿の最大の顧客は工事の作業員なのだよ。


ここら辺の事実は、直視しようぜ。

既にいま、周辺集落は公共工事という

カンフル剤がないと生きられない。


田舎に行けば最大の産業が『公共工事』というところは

いくらでもあり、『選択と集中』をやられると

人口の減少よりもあっさりと滅ぶ集落がいくらでもある。


それは、もちろん健康じゃあない。

じゃぶじゃぶと公共投資を垂れ流してきたからこんなことになった。

しかし、撤退も名誉だ。

でもなあ…よそもんがいうことじゃないしなあ…





今日の話に結論なんかありません。





でも、人為的に街にヒエラルキーを作る、ってのは

無理があるんじゃないかな、と思った次第であります。









『平成のケ号作戦』は、

どこにいくのかと思うのです。





























では、『今日の一枚。』













千里センタービルのエントランスと階段室ロビー。

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かっこいいなあ。





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2014年7月20日 (日)

2000円札の日。

西暦2000年を記念して、2000円札をだそう、と 

当時の小渕首相が言い出して、 

沖縄サミット2日前の2000年7月20に発行されたのが、このお札。 

もちろん、通常のお金で記念硬貨とかの扱いではない。 

(日本銀行 那覇支店のHPへのリンク)


                                                            

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もう知らん人も

おるんちゃうか?

                  



あなたの財布に、2000円札ありますか?

僕の財布には、

そもそも2000円がないようううう。










まあ、『2』という額面は、戦争を知らない全国民を驚かせた。 

しかし戦前には2銭、20銭の硬貨、2円、200円の紙幣があった。



もっとも明治初期の2円紙幣や、昭和恐慌の時に

裏も刷らないで発行された、200円札は当時の最高額面だった。


            

000000000000000000000000000000000_2裏が印刷されていない200円札。

まあ偽造しても、

もう通貨としては使えないんですが

古銭商に持ち込んで騙せたら

数百万だそうです。





                      

しかし発行当時、最高額面の2円200円、とは違って

西暦2000年の2000円、 という額面は、

絶妙に中途半端だった。


釣り銭で2000円札を渡されると、

『おっ、お久しぶり。』と思うとともに、

なんかばば抜きで、ばばを引かされた気もする。


万札を崩して、お釣りが全部2000円札だったら

その店員は、あなたに喧嘩を売ってるか、

あなたに気があるか、のどちらかだ。


どうにも中途半端で、敢えて使う必然性がない。






その上、縦横比が、ほかのお札と違うので、

自販機に入らない、券売機で使えない、ATMで突き返される。


と、まあ、

どうにも人気がないお札で、もちろん今現在流通しているお札は

当り前に使えるのだが、すでに新札は発行されていない。















とはいえ、

世界には、よくわからない額面の硬貨紙幣がある。




『月と6ペンス』という小説があって、

なにが6だよ、と思ったらこの当時のペニー硬貨というのは、

12ペンスで1シリング。『半人前』という意味なのか?

ええ加減にせえよ?イギリス人。


ヤードだフィートだインチだ、と12進法が好きだな。

さらにこの時代には20シリングで1ポンドだったわけで、

1ポンド金貨がひと財産だった時代だとはいえ、

この時代のイギリスに行っても、1本10円の

うまい棒を買える自信がない。(売ってない)

(今は、100ペンス=1ポンドなので計算は楽です。なんでユーロにしないんだ?)











別に世界の硬貨紙幣の額面を調べるのは、あきらめました。

あまりに膨大なんですもの…



割とたくさんあるのが、クォーター=1/4という額面。

アメリカドルでいうと、25セント硬貨

 

2014_atb_quarter_obv_2


『25円硬貨』だと思うと立派だよな。





 

えーと、いまのレートが、1ドル100円ちょっとだから

キオスクに入って、カウンターにクォーター硬貨を叩きつけて

『ツー・ウマイボー』って言ったら、

『NO』っていわれて、

アメリカ怖いよう。











『東京オリンピックを記念して、2020円札を発行しますっ。』

とか言い出さないかな?

札は無理でも、記念硬貨はありそうだな。






『おいおばちゃん、これでうまい棒202本くれやっ。』


『そんなに在庫ないがな…』






























では、『最近見ないもの』




                      

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8000万で熊手、買いました










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かばんにお金が入りませんっ








                          

もうすぐ記憶から消えそうな人もたくさんいるよなあ。



                                     

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あたしのSTAP、どこ行っちゃたんでしょう






                             

                         000000000000000000000000000000000_4

ぼくわぁ、切手が好きなんですっ。





渡辺、猪瀬、野々村の三氏が『新党』を作り、

小保方さんが、SMAPのコンサートで

オレンジジュース振りかけてたら…

別に、面白くはないか…

 

 

 

           


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2014年7月17日 (木)

21世紀のチャップリンケース

DNA鑑定で親子関係が否定された親子。

妻が、親子関係の解消を求め、夫がそれを拒んでいる。



え?そっち?



とは誰しもが思うだろう。

もちろんDNA鑑定が万全じゃないことは足利事件以来

よく知られている。


だけど、この事件では、嫁は不倫して他人の子を孕んだ。

その事実は争ってないんですね。

もとの旦那に、『お前の子じゃない。』と親子関係の解消を 訴えた。

さらに不倫相手と既に同居状態にある。


それに対して、戸籍上の夫が

婚姻中の夫婦に出生したガキは旦那の子と『推認してやるよ』

という、 民法の規定に基づき、親子関係の確認を求めた。

なんだか脳みそがかゆくなるような話だ…


それに対して、地裁、高裁は  

『DNAでだめだったら、戸籍上の親子関係、だめじゃね?』  

という、まことに常識的な判断下すのだが、

最高裁がこれを覆した。 というニュース。

(読売新聞の記事へのリンク)























チャップリンケース、という事件を知っているだろうか。










喜劇王チャップリンが、30歳以上年下のジョーン・バリーという女性に

『主演映画を撮ってやる。』といい寄ってSEXした。


まあ、ここまではチャップリンも争っていないので事実。

もちろん、若いバリーさんは浮気していた。


子供が生まれたバリーがチャップリンに対して

慰謝料と養育費を求めて裁判を起こす。


ところが、彼女が産んだ子供の血液鑑定をしたらB型だった。

チャップリンはO型で、バリーはA型だったから、

B型の子供が生まれるはずはない。


いくら1944年でも、そんな事は地球の常識だったのだが 

メリケンは陪審制なので、評決したらチャップリンは敗けた。












科学が無視された裁判、として有名な事件。

















今回の最高裁判決も

そういうことになるんじゃないかなあ。



戸籍夫側は、現実にその子を手元に置いていないらしい。

親子の触れ合いもないのに、なんの狙いがあるんだろう。

そりゃ、嫁は『ヤリマン』という罵声を浴びせられるだろうさ。


2件とも、もはや嫁や戸籍上の旦那や、

浮気して家を乗っ取った旦那や

ひょっとしたら子供たちに関しても、

そのビッグデータは 

地元の、くそ田舎に轟いているはずだ。



まあ、嫁さんの実家がすごい資産家で

相続者に俺の名跡が入っていれば、えっへっへ、

とかいうことなのか…


しかし、養育費が取れるわけでもないだろうに、 

やっぱり、遺産? 

なんだかよくわからん。
















まあ、子供のことも考えてやれよ。 

最高裁まで争うくらいだから、 

5歳とかそれなりに物心のつく年齢になっているはずだ。


それが、周囲の容赦ない好奇の眼に晒され、

家にいるお父さんはお父さんじゃなくて、

戸籍謄本を取ったら、知らないおっさんの名前が載っている。


いやあああああ


ってなもんであろう。






これで子供が自殺でもしたら、なにが

『現在、血縁上の両親と一緒に生活しているという

事情を考慮しても、

「子どもの身分関係の法的安定を保つ必要性はなくならない』  

ということになるのか?





お前ら、次の国民審査に怯えろ。
































では、『今日のバリーさんと赤ちゃん。』

 

 

 

 

 

 

 

赤ちゃんが出来たの…

                          
    

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産後で肥立ちゃった

バリーさんと、赤ちゃんの

キャロル・アンちゃん

 

 

 

 

 

 

 

チャップリンとの裁判に勝ったことは、

バリーさんに幸福をもたらしたわけではなかったらしい。

 

むしろ、「悪女」のイメージで語られ、

奇行癖とあわせて、はっきりと『キ○ガイ』と書いている文章さえある。

 

少なくとも彼女は、『女優』としてよりも

『チャップリンをだました女』としてしか知られていない。

 

40の時に失踪して、いまだに行方不明。

 

 

チャップリンも女を見る眼ないな、とは思う。 





もっともチャップリンは、この一件で、アメリカが大嫌いになって
 

スイスに移住。

二度とアメリカ国籍を取らなかった。














そして、肝心の赤ちゃん。

キャロル、と名付けられたこの子は芸能界みたいな

おっかないところには入らずに暮らしているそうな。


それでも、『あの人は、いま。』みたいな 

カストリ雑誌が取材に来て 

まだ存命ではあるそうです。




がんばれ






   

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2014年7月16日 (水)

三法師の日

7月16日は清州会議の日。 

1582年のこと。 

(Wikipedia 清州会議)








信長が京都で討たれた。

岡山から巻き返してきて光秀を討ったのが秀吉。



    

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本能寺の跡地にある飲み屋

だから、誰だ?お前








この状況で開かれたのが、

『織田家の後継ぎはどーすんだよ会議。』



本能寺の変では信長と、嫡子の信忠も死んだ。

 


既に織田政権は日本の中枢部を抑えていたのだ。

『嫁が同居をしたがってるんです。家と土地を狙ってるんですよね』

だから後継ぎ問題といったって、こんな発言小町に載せるような

小さな話題じゃねえよなあ。







候補になったのが、老臣、柴田勝家が推す

信長の三男、織田信孝と

『逆臣・光秀』を討った、秀吉が推す

信長の嫡子、信忠の子、三法師。


強面の勝家が、一同を舐めまわし 

ほとんど、信孝に決まりかけていたところに、 

からりと大広間のふすまを開けて、当時三歳の三法師を 

抱いて出てきたのが、秀吉。



    

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織田家の後継には 

信長公の正嫡こそ 

ふさわしくありましょう。





うわあ、こいつ傀儡政権作る気だ、とは 

同席していた、重臣の皆さんも

いくらなんでも気がついた。




しかし、逆賊光秀を真っ先に討った功績と 

なにより、こいつ、織田家最大の軍団を握っていたのだ。


対立した勝家を、5万人の軍勢で賤ヶ岳において破り、

織田政権の後継者になる。





しかし秀吉は、あくまで『織田政権の後見人』である。

結果として関白になって、国家統治の正当性を得るのだが

『織田政権の簒奪者』という批判は、

当時もあったし、いまもある。


それなら、『織田家の人たち』はどうなったのか。

というのが、今日のお話。






信長は子福者である。

諸説あるがWikipediaによると

子女は、男女、正庶合わせて12人ずつ。合計24人。って

人間50年の割には打率高いな。




いいなー。




と思ってしまうのだが、この人たち、 

そんなに幸福な晩年を過ごしていない。








まず、秀吉にも勝家にも担がれなかった織田家二男、信雄。

さすがに秀吉も気の毒に思ったのか、『この人は大事にしとくべ。』

という意識があったらしく

三法師の後見人として尾張、伊勢で100万石。


だけど、『やっぱり俺が天下人でいいよなあ。』、と

変な欲を起こし、地理的に近いこともあって、家康に接近する。

そして、小牧長久手の戦いで、秀吉に反旗を翻す。




これは、当り前だけど秀吉を激怒させた。

家康に相談もなく、びびって単独講和に応じたために

家康の心証も悪くした。


ただ、長久手の戦いの後ではこいつの取り扱いはまだ丁重で

秀吉によって、内大臣にまで上げてもらっている。


小田原征伐戦の後、さすがに利用価値がないのと

尾張からの国替えに抵抗したため、

再び秀吉の怒りを買ってわずか1万8千石。

その後、大坂、江戸対立の中で

『織田家の貴種』として、淀君などから、

破格の待遇を受けるのだが、実際は大坂の情報を

江戸へ、だーだー垂れ流しており、

大坂冬の陣の直前に転出。


その功が賞されて、上野の国で5万石。

明治まで続くが、とんでもない貧乏藩で

Wikipediaもここまでひどく書かなくてもいいのに。








では、『織田家の正統』とされた三法師こと、
織田秀信

末路はどうだろう、というともっと哀れだ。

一応は大事にされて、13歳の時には従三位、中納言、

という極官にまであげてもらう。

封土も岐阜16万石。


ところがこいつ、20歳の時、関ヶ原の合戦では西軍につく。 

関ヶ原というのは岐阜県であるからして、 

ここの地理的な重要性は、わかりそうなもんだが。


当然家康の激怒をかい、高野山に流され、

その後の消息も諸説あってよくわからない。


享年は26、とされている。


3歳で天下人になって、20で敗戦。26で流刑先で配死。 

爺さんの信長よりもあわただしい。










では、柴田勝家に担がれた織田信孝はどうか

というと、さらに相当に哀れである。

この人は本能寺の変で危うく難を逃れ、

中国から大返ししてきた、秀吉軍に参加し、

名目上、『総大将』ということになって、凱旋する。


しかし、清州会議で秀吉が推したのは甥の三法師。

『なんだよ、あんなの操り人形じゃん』という指摘は

正しいのだが、秀吉の政敵、柴田勝家に近づいたため

秀吉の激怒をかい、城を攻められて切腹。


享年35。


辞世は、 

『昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前』 

だそうである。


まあ、気持ちはわかるけどね。











もっとも、これは、世間一般の気分でもあり 

秀吉は織田政権の簒奪者、家康は豊臣政権の簒奪者、 

と考える雰囲気があった。


当事者である秀吉もわかっていたから、

いちおう彼らを、それなりに待遇した。


信長の姪である淀君にめろめろになったのは、

単に『貴種』が好きだったのかもしれないが。


従って、『豊臣政権』の簒奪者である、家康のやり方は容赦ない。

あらゆる言いがかりをつけて大坂城を攻め、

『ちくしょう、簡単には陥ちねえか。』、となると

一度講和して堀を埋め、半年後に攻め直して、

秀頼、淀君以下、織田 豊臣の血脈を

徹底的に消し去った。










ひでえ


























では、『今日の一枚。』












家康の言いがかり、として有名な方広寺の梵鐘。

『国 君臣豊楽』という一文が

『家康を切り裂き、豊臣をつなげている。』と。


チョークで白くマークしてあるんだけど

普通わかんねえよ。

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秀吉が巨費をかけて建設したけど、慶長大地震で

大仏が崩壊し、息子の秀頼が再建する。

けど、今度は火災が起きて、大仏も大仏殿も焼けた。


なんて運のない親子だろうと思うが、

秀頼はさらなる巨費をかけて大仏と、大仏殿を再築、

それが落成するっていうんで、わくわくしていたら、

大仏の脇にあった梵鐘の銘文に文句をつけられた。






もう、なんだかなあ。



















おまけ、

リアル信長。

             
       

     

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信長の死後に

宣教師が描いた絵が

もとなんだけど原本は

もうなくなってて、これは

その絵を撮影した写真





なんだ?それ。

まあ、確かにこんなのが上司にいたら嫌だよな。







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2014年7月14日 (月)

集団的自衛権と徴兵制度

安倍内閣が閣議決定した集団的自衛権とはなんだろう。 

(朝日新聞の記事へのリンク) 

『閣議決定』しただけではなく、こうやって同盟諸国とも 

連携を取っている。

国会での集中審議も始まった。










『総理におたずねします。まず、集団的自衛権の前提となる

自衛隊の武力行使については、憲法改正ではなく、

「解釈の変更」で済ませるわけですか。

総理の解釈する「自衛隊」というのは、いかようなものですか?』


『内閣総理大臣、アベシンゾー君。』


『傷付けられたら、牙をむけ。自分をなくさぬように、という

国家の誇りを守るための存在であります』



『それなら、集団自衛権、とはいかようにお考えかっ?』



『いーまからーいっしょにー、

これから ーっ、一緒にー 

なーぐりーにー行こうかー、

という Yah Yah Yahな権利であります。』

























では、『今日のYah Yah Yah!と徴兵制度。』




















『これ、レインコートいらんわなあ。』


『…ねえ。』


『……』


『あっ、』


『なんです?』


『ということは、一緒に殴りに行く
味方が

薬でらりっていてもいい、ということですねっ?』



『大丈夫、

敵はもっと、らりってますっ。』



















えーと、明日生きてるかなあ。










で、まあ

この集団自衛権の行使、つまり日本に対する侵略ではなくとも

一緒に殴りに行こうぜ、ということで

これが徴兵制の復活になるのではないか?  

と心配している人たちがいる。









すごくいらっとする動画なので、うんとサイズを小さくしました。

障子の前でしゃべってるだけなので、

動画である必要はないです。




で、 

この人もしゃべっているのだが、 

多くの人が勘違いしているのは 

『徴兵制』=『全員兵役』と思っていること。


まあ、いまでも韓国や北朝鮮のように『戦時下』の国は

男と生まれたら、完全徴兵である。

いまではどうだか知らないが、俺が学生のころは

学歴による免除もなかったらしい。


大学のゼミの博士課程に留学していた韓国の人が、

『おー、学位とったら、兵隊行きます。2年間。』といっていた。

博士号を持つような人を一兵卒として前線で殺したら

国家の損失ではないのか?とおもうが、

そこら辺、あの国は徹底している。




もちろん、日本も昭和20年の終戦まで徴兵制を敷いていた。

『徴兵』には、朝鮮半島のように『数をそろえる』という意味もある。

日本でも太平洋戦争の末期には、『根こそぎ動員』といって

無茶苦茶な数集めを行うが、

徴兵制導入時の動機は違った。







日本人は20歳になったら、

本籍地のある連隊に行って検査を受ける。

これは男なら日本人全員受ける。


ここで甲、乙、丙、丁、戊の評価が下され、 

丙種以下はめでたく不合格となる。

(乙種合格は現役で兵隊にとられることはなかったんだけど

120日の教育召集というのを食らうことがあった。さらに、

補充兵役というのが課せられていて、戦況が煮詰まってくると赤紙に怯えた。)


よく、『徴兵検査の前に醤油を一気飲みしたら 

丙種になるらしいぜ。』なんていう都市伝説を聞くだろう。


あれは、この段階でのもの。


甲種合格の筋骨隆々たる壮丁も、その日は 

みんなと一緒にインキンの検査を受けて返される。









兵隊にとられるかどうかはくじによる。

まあ、もちろん、体格なんかも考慮されたろう。


『戸主や長子は兵隊にとらない。』

ということで養子縁組が増えた。 

くじなら神頼みだ、と神社にお参りし、 

神社のほうも、堂々と『徴兵除け』と謳ってたんだから、 

平和といえば平和だ。


実際、戦争がない時代の日本帝国の

検査合格者に対する徴兵率というのは意外に低い。

日露戦争前で3割弱くらい、

山梨軍縮宇垣軍縮前後の大正時代にはもっと減った。

(終戦間際の根こそぎ動員の時には、8割とかになったらしいが。)

そんなんだったら、志願兵,あるいは固定身分でいいじゃん。

と思うだろう。江戸時代、人口の一割も侍を飼っていたんだ。

それで充分じゃん、と。








しかし世界の趨勢は違っていた。

ナポレオン軍が一時的とはいえヨーロッパを征服できたのも

あいつらが、『俺たちは革命を広める正義軍だぜ。』

と身分を超えて団結したからだ。


だから、明治の陸軍を作った大村益次郎

そのあとを継いだ山縣有朋も、『国民皆兵』というのを主張した。


これは、『百姓を兵隊にするのか?』ということで

身分制度の崩壊を恐れた士族の反発を招き

大村益次郎は暗殺され、薩摩では西南の役が起きる。



しかし、これは無事鎮圧され、徴兵例が敷かれる。

ただし『鎮台さん』の名前で呼ばれた当時の陸軍は

文字通り、内乱鎮圧用の軍隊であった。

徴兵検査で20歳の壮丁のふぐりの裏まで見るような検査をやっても

実数としてはそんなに必要はなかった。


だから、甲種合格の現役招集3割弱、といった状況が生じるわけで

『それなら、徴兵除けに神頼みしよう。』、ということになる。


この段階に来たら醤油を飲んでも死ぬだけなので

神社やお寺でお守りを買って、石段の手すりに

『徴兵されませんように』と書いた紙を結び付けている。


とにかくこれが、全国の神社、特に『あそこがいい』と

噂になったところでは階段の手すりの支柱ごとに

このお札の華が咲いたそうだから、

神主大儲け。








軍の思惑はどうだったか。

当然、徴兵制が社会に嫌われることは知っていた。

侍が刀を捨てたくはないことも、西南の役で思い知っていた。

だから、徴兵制の真の狙いは

そこを越えたところにあった。

社会のあらゆる階層から、兵隊を取りたかったのだ。

『志願兵制度』を一番嫌ったのは陸軍だったんですね。

(海軍は志願兵が多かった、そもそも兵隊も少ないし)


明治時代の徴兵令や、大正時代以降の兵役法にも

いろいろと抜け道があって、

『徴兵抜道指南』なんて本が市販された。


よく怒られなかったな、と思うが、徴兵制を敷いても 

学歴や婚姻、戸籍に金をかければ、召集に掛からない。 

徴兵でこうなら、

志願兵制にしたら、貧乏人しか来ない。



戦前の日本、というのは、社会的なヒエラルキーが

今よりもずっとはっきりしていて、きつかった。

三食、コメの飯を食わせてくれる軍隊は、

娑婆よりもずっとありがたい、と思う人がたくさんいたのだ。


軍は兵隊の社会的階層が限られることを恐れた。

いまでも、『軍隊を懐かしむ人』の中には

『学士様でも社長さんでも兵隊になればおんなじだった。』

というひとがいる。

陸軍は、志願兵制による

『軍隊の傭兵化』を恐れたのですね。


実際、徴兵=失職であった。


兵隊として優秀な成績を残したものには

現役期間の短縮、という恩典があった。

ところが昭和恐慌のころ、これを忌避する兵隊がいた。 

いま除隊しても昔の工場には帰れない。 

家族への恩給もなくなる。

軍隊は嫌だけど残らせてください、と。


こういう人が出てくると、軍としては困ってしまうのである。










1980年前後、自衛隊に人気がなくて右向け左』の時代があった。

この時代、陸上自衛隊の定数18万は

常に満たされず15万人前後で、

逆に『実情』に合わせるために『定数』のほうが減らされた。



いまの自衛隊は2011年の東日本大震災での活躍もあって

募集以上の応募があって、結構競争率は厳しいそうな。


従って、志願兵で、質の高い隊員が補充されているんだから

戦線での損耗を考え、補充兵員の確保を前提とした

徴兵制度の復活なんていうのはあり得ない。






そもそも、日露戦争の、奉天会戦で敵味方60万人。
 

第1次大戦のベルダン会戦で、敵味方200万人という 

人間を塹壕に放り込むような戦いは、もう、ない。


もちろん、『敵兵を塹壕から引きずり出すのは小銃』なので

人間の歩兵がいなくなることはないが。





だから、

『集団的自衛権?それならアメリカと中国の戦争に

あああ、あたしの息子が徴兵にっ。』

ということは、まずない。






そもそも、徴兵制の復活、ということになったら、

法改正を含めて、今回の集団的自衛権以上の

内政、外交上の大問題になる。


だから徴兵制は、まずない。








まあ、ある意味高校時代、、ふと背後に回って

ガタイのいいやつに、

『君、自衛隊入らない?』と

勧誘していた、おそらく佐官級の偉い人だったんだろうど

なんかそんな光景が懐かしいですね。








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さあ、今日もいっぱい敵を作ったぞ、っと。

ふえええ、怒らないで、怒らないで。




  

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2014年7月13日 (日)

神戸市街地の東遷-2-

さて、7月4日の続き。

7月4日?








神戸の都心は三宮だと思ってるだろう

とんでもない、というお話である。

あれは作られた『新都心』だ。


もともと神戸、という街はなく、いまのJR兵庫駅の海側に

江戸時代から続く大きな兵庫という街があったんだ。

幕府が『兵庫を開港してやるよ』と言って、

実際はずっと東の砂浜の生田浜を居留地にした。


中間部分、の湊川神社の門前は

本来なら無視されてもよかった。


正直言って昭和期にはいって『忠君・正成』

というイメージが出来上がるまでは

そんなに盛り上がっていなかったらしい。







湊川神社とはどこか、

というのはひょっとしたら神戸市民にも怪しいかもしれない。


(クリックで大きくしてください)

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JR神戸駅の目の前。


小保方さんが必死のパッチで再現実験に挑んでいる

魔女の館、もとい理化学研究所からもごく近い。


ただし、神戸駅がこの場所に立地したのは、 

この神社とは関係ない。


そもそもこの神社の創建は歴史的にみれば最近で、

明治5年(1872年)なのである。

(神戸駅は明治7年。)





しかし、このお互いが目の前に立地したことは、神戸の街を

発展させる。


正直言って、湊川神社に行ったことは、1,2回あるかどうか

というぐあいで少ない。


三宮の生田神社には数えきれきれないくらい、いったけどな。

ハンズに行ったついでに

生田神社に行っちゃいけないっていうの?





空襲で再建された建築物に興味はないし、

なにより、この神社、というか正成自身が

『忠臣の鑑』、ということで戦前の一時期 

徹底的に持ち上げられたからだ。

正直、反発があった。


いまでも、初詣や、七五三の時には賑やかだが

観光で神戸に来て、この神社を目的に選ぶ人は少ないだろう。









ところが、戦前はにぎわった。

もともとオフィス街ではある。

『世界一の総合商社』だった鈴木商店の本社ビルがあったり

神戸の裁判所、市役所なんかがあった。


そこに湊川神社の門前に人々が列をなすようになる。

当然、門前は大いににぎわった。

いまでも、老舗の和菓子屋なんかがある。


ここから西に向かって歩いて20分くらい、 

市電だったら5分くらいのところに、

新開地という街があって、西日本一の繁華街だった。


さらに20分くらい歩くと兵庫、という街がある。         

      
阪神大震災直前

兵庫駅南にあるに大仏が再建された。


      
      

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大仏殿、というものがなく

周辺に門前町の雰囲気もなく

野ざらしなので、

予備知識がないと

かなりびっくりする。





     

       
この兵庫大仏も観光地。(能福寺 HP)

戦前にも大仏があって、奈良、鎌倉と並んで

『日本三大大仏』と呼ばれ大いに参詣客でにぎわったそうだ。

 

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もっと頭でっかち






『兵庫や神戸は明治以降の開港場だ。』と思ってるだろう。

ところが『日米修好通商条約』で、定められた開港場のうち

『兵庫』とあるのは和田岬に抱かれた良港で 

江戸時代以前からの港の歴史を持っている。


ところが、幕府は、中世以来の港町の兵庫に

外人が入ることを嫌った。


従って、末期幕府が作った『居留地』は

およそ港には向かない、砂浜の生田浜を選び

申し訳のように、当時の船でも荷役ができない

『童貞チンチン』のようなメリケン波止場を作った。



だから、戦前までの神戸の街、というのは 

こんな二重構造なんです。

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上の地図でいうと『旧生田川』というのが 

現在のフラワーロードで市役所がある通り。 

『旧湊川』というのが現在の新開地。


兵庫地区に関していうと、兵庫駅東の蛭子神社から

海岸の柳原地区、そして和田岬まで続いている。


和田岬は、いまは三菱重工の工場のなかにあって

国家機密がてんこ盛りなので、観光はできません。

(重要な史跡である和田岬砲台だけは、

事前に申し込めば見学できます。三菱重工 HPへのリンク)


しかし、この地図で見るように 

『明治初年』の神戸の市街地は、このように、兵庫地区と

旧居留地地区だけで作られていた。

 

湊川神社があって、神戸駅がないから、 

明治5・6年の地図だと思うが

まるっきり西に偏している。













いま、元町駅を降りて海に少し降りると、

線路に平行するかのように、『元町通商店街』という

アーケード商店街がある。


西から1丁目なんだけど末端のはずの元町駅前のほうが、 

大丸があり、南京町があって、すごくにぎやかだ。


これをどんどん西に歩いて行くとさみしくなる。

『海文堂書店』が閉店するって聞いたときは、

正直、なんの冗談かと思ったよ。



いま、神戸の人でさえ、神戸の繁華街の中心は 

三宮駅だと思っているだろう。

さっきの地図でいえば、いまの三宮駅は、

旧生田川を遡って、わかりにくいけど生田神社の下になる。



なんにもない。






いまの南京町、というか外国人居留地の西側に

『雑居地』ということで日本人に混ざって

中国の人がたくさん住んだ。


ただ、南京町一帯は、1960年代後半から15年くらいの間

『外人バー』の街になった歴史があった。


外人が外人にお酌すこともあったが、

日本人や、それこそ中国人がお酌することもあった。

コンテナ船の普及以前には、荷役のために船員が

一週間くらい神戸に滞在する、ということがあったんですね。


南京町は荒れ果て、老舗の中には郊外に転出したところも多い。

だから、いま南京町で客を集めているのは2流店ばかりだ、

なんて乱暴なことをいう人もいるが、並んだ時間に対価する味か、

というと疑問な店がいくつもあることは確かだ。







第二次大戦で神戸、特に兵庫地区は徹底的な爆撃を浴びた。

三菱重工や川崎造船の大工場があるんだから当たり前である。

湊川神社だって焼け野原になった。


いま、ここの、神戸駅の北口前に立つと、裏寂れたパチンコ屋とか、

裏寂れた駅前旅館とか、裏寂れたUCCの倉庫、倉庫?

いやあ、外装を見るともとは、喫茶店だったらしいのだが、

「エキチカ」でも敵わなかったか。


なにより湊川神社に行くのをはばかるような世間の風潮があった。


1960代以降、ロータリーとなってきれいになった。 

そこに立つと、『ここが、大都市の中心駅かよ。』という

不思議な、場末感というか亜空間が広がった。


いまもある。



まあ、神戸駅周辺は時間が間延びしたようなビジネス街で 

裁判所なんかもあり、神戸地裁の法廷では 

本気で判事が居眠りしている。

(目撃者なんだから本当。)



しかも、戦後、西側の兵庫地区は米軍に接収された。

大仏も、戦争中の金属供出で解体され、って

安いな大仏、おい。



従って、繁華街としての兵庫は壊滅した。

いくつかの史跡はあるが、

もう歴史散歩の年寄りしか行かない。


江戸時代の兵庫の街の痕跡を残すのが

兵庫駅から東に100mくらい離れた蛭子神社から海のほう。

ここは街割の方角が違っていたりするから

『違う街』という認識を持ってもらえるだろうが

建っているのは、町工場や、賃貸マンションや駐車場ばかりで

なんとしても歴史的な街並み、ではない。


兵庫駅南側は、米軍キャンプとして接収されてしまったので

戦後、人の流れと、歴史の流れが閉じてしまったのである。











本人にも予想外な長編執筆。

続きます。




























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2014年7月 9日 (水)

どうする、ジョンウン?

北朝鮮のキム・ジョウン朝鮮労働党第一書記、

朝鮮民主主義人民共和国防委員会第一委員長、

朝鮮労働党中央軍事委員会委員長、

朝鮮労働党中央委員会政治局常務委員、

朝鮮人民軍最高司令官そのほか

肩書きがうるせ―なー、もー。








『一番偉い人』でいいじゃん。








現実の問題としても、最近のこの人の映像には

変な凄味があって、怖い。



ところが、この人が父親である、キム・ジョンイルさんの

『没後20周年式典』で、足を引きずっていたと。

(東京新聞の記事へのリンク)







怪我か?と。




         

        






         

痛風でしょ?








俺も痛風経験者だからわかる。


しかし、痛風には
 

痛みを取るためだけの特効薬というのが存在する。


父の記念式典、ということであれば

国家事業だったはずだが、

それすら間に合わないくらい、痛かったのか?



映像が国外に配信されることを考えたら 

2時間程度で効くコルヒチン5000錠を飲んででも、

痛みを止めるべきだったろう。


いま、平壌で医者がザクザク粛清されているはずだ。








そしてなにより、痛風の原因 

ビールだ、カニだうにだいくらだ、と、

贅沢な食べ物を食べることによって起きる。


これらの食品にに含まれる

プリン体とよばれる物質をたくさんためて、 

尿酸が結晶を作って、神経をちくちくするからである。





痛風が、別名『贅沢病』と言われる所以だ。

















結局、一人でいいもん食ってんだな。





















でぶ。





























では、『今日の一枚。』











痛風はね、足に来るんですよ。

腫れてね、痛くて。



   

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靴履くのも痛いんですよね。







『贅沢病』なんていいますが、

あたしが罹った理由は、ビール一筋。


体液を300周するくらいのビールの集中爆撃を

ひと夏に、浴びたせいですね。







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2014年7月 8日 (火)

湊川合戦の日。神戸市街地の東遷-1-

7月4日は湊川の合戦の日。

1336年のこと。

(Wikipedia 湊川の戦い)







元寇で功績をあげたのに、恩賞をくれない。 

と反鎌倉幕府の不満が高まった時に、

よっしゃー、と立ち上がったのが 後醍醐帝

帝が楠正成に『俺を助けろ』と言ったという。


正成の出生は諸説あるらしいのだが、

事実上、無名の人物が天皇からお言葉と領地をもらったら

そりゃあ、感激するよなあ。


感激した正成は、 

千早赤阪城でうんこ投げたりしながら、幕府軍を撃破。


後醍醐帝は、京都に戻って、自ら政治を仕切る、という

『親政』をはじめる。

これが、『建武の新政』(「しん」の字が違うのに注意。)




ただ、これは、いろいろあって失敗し、 

九州に追い払ったはずの足利尊氏が、 

陸海の大軍を率いて巻き返してきた。


楠正成は、言葉を尽くして、帝の動座、というか

避難を求めるんだが、殿上眉に、お歯黒の薄汚い公家が

『汝、神戸で食い止めよ。』と、無茶な命令をするもんだから、

官位では圧倒的に低い正成は

陛下への忠誠だけを誓って、

絶望的に勝ち目のない戦いに身を投じ、 

湊川で死んだとさ。(Wikipedia 湊川の戦い)




で、この人が戦死した場所、とされるところに建っているのが

湊川神社。(湊川神社 HP)

     

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(クリックで大きく。

右上になっちゃんが

映ってるけど

気にしないでね)



     

長々と何を話しているかというかというと、

ここまでが導入部です。



え゛?














では次回、『お前ら、三宮が神戸だと思ったら大間違いだぞ』

に続きます。


いや、ほんとに続くんで、Don't miss it.


























では、『今日の一枚。』










この、頭でっかちな仏像はなんだ?

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Coming Soon !






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だいたいね?7月4日の事を書くっていうことは、

それ以前から準備してる訳ですよ。 

建武の新政にしたって、後醍醐帝や正成だけじゃなく、 

新田義貞も足利尊氏も、登場人物や

事件の経緯はみんな調べてる訳ですよ。 


この日記は、思い付きの軽薄な悪口ではなく 

無駄で無駄な知識に基づいた、重厚な悪口なわけですよっ。





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2014年7月 4日 (金)

ビートルの日

7月3日は、フォルクスワーゲンビートル・タイプ1が発表された日。

つい最近まで生産されていた

この車の生産開始は1938年のこと。1938年?

(Wikipedia フォルクスワーゲン・タイプ1)



   

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かぶとむし










西ドイツ本国で1978年まで生産され、

その後も2003年まで中南米で

子会社やライセンスでの生産が続いた。


累計生産台数、2150万台。


ビートルは、マイナーチェンジを繰り返していて、

マニアは、リアの窓やランプが小さいと、あの時代だよねー。

フロントウィンドが平らなガラスは超古いよねー。

(もうそんな車走れません)

ということを言うのだが、


基本的なシルエットは65年間一緒。 

『カローラ』とか『スカイライン』とか、 

同一ブランドで長期間生産された車は、 

世界中にいくらでもあるのだが、これほど同じシルエットで


2150万台って、すごいな。


世界最大の自動車メーカーのトヨタの国内生産台数が

年間で300万台だから、その恐るべきを推して知るべしであろう。

(トヨタ自動車 HP) 

まあ、海外生産合わせると900万台なんですけどね.







この車が、『ヒトラーがポルシェ博士に作らせた。』という 

なんだ?その安物のSFの

悪魔の邂逅のようなシチュエーションは、

と思うだろうが事実である。






政権を握ったヒトラーは、
 

いきなり独裁者だったわけではなかった。


彼は、国内にあふれる失業者をなんとかしないといけなかった。

そうしないと政権が転覆させられる危険性は十分にあった。


そこで、国中にアウトバーンの建設を命じて、

過剰な労働力を吸収する。


それはそれで成功するんだけど、

『道だけ作ってもしようがねえよなあ。』という

当り前の理性が、まだ貴様にも

このころにはあったのか。








そこで、スポーツカーの設計者として既に有名だった、 

ポルシェ博士を呼んで、『国民車』の開発を命じる。


『寒いドイツではラジエーター液が凍っちゃうから空冷エンジンで』

『当然大容量な。大人4人乗れるように。』

『アウトバーン作ったんだから、連続100㎞/h以上で走れよ』

『あ、だから、当然流線型な。』

『それと、国民車なんだから安くしろよ。』


とまあ、むちゃな要求をだされるのだが、ポルシェ先生は達成。

従ってこの車はそのまんま『国民車』という名前なのだ。

Volkswagenという単語は直訳すると、そういう意味です。)


   

 

さらに、これはポルシェ先生の好みで、

リアエンジン・リアドアイブという 

最近の車では、あまり見ないスタイルを採った。

(従って、ポルシェ博士が作った、スポーツカーのほうのポルシェも、RRである)


つまり後ろにエンジンが載ってるわけで

フロントのボンネットの部分にはスペアタイヤが入っている。

学生の頃、友人のO君がこの車を借りてきて

かっこよくボンネットを開けたら『うぉっ、エンジン落とした』って、

そんなわけあるか。




   

Bundesarchiv_bild_18320051017525__2


ハンドル越しの

この肖像写真が一番有名なんだけど

すけえマッドサイエンティストくせえ。

                                  
   




   

で、

この車が、いかに偉大であるか、なんて話を

私ごときがしたって仕方ないよな。

え?そこ、あきらめるの?

と思うだろうが、そうだとも。

でも、まあ世界中の車に影響を与えた。



1938年生産開始、と言ったところで

翌年にドイツ本国が戦争になだれ込み

1945年の終戦までは、とても『量産』ということにはならなかった。


しかし、先進的な設計と、頑丈さと高速性能は 

戦後、よろよろと現れてきた『戦勝国』の車よりも進んでおり。 

しばらくは、優位を保った。



しかし、この車の生産時期が伸ばされたのは 

『ファンがいる』ということもあったけど、 

後継車種を生みだせなかったからだ。


1960年代後半になると、小型車に関しては

『水冷、FF』というのが当たり前になってきて

そして、いくらなんでも狭い。

さらに、排ガス規制の問題も起きる。


しかもワーゲン社は、

またポルシェ先生に依頼しちゃうもんだから

後部座席の下にエンジンを置くって、

おまえ、どんだけRRが好きなんだ?という車を開発するが

さすがにこれは没になりFF横置き4気筒という、

いまなら当たり前のレイアウトに収束していく。


ワーゲン社が、FFの後継車、ゴルフを生みだすのが1974年。

しかし、ビートルも人気があったので

西ドイツでも1978年まで生産。

メキシコやブラジルでの生産が終るのが2003年。

 

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ゴルフ1
 

これはこれで懐かしい












     


さらに、べらぼうな生産台数の中で、 

この車をカスタマイズする連中が現れ、 

世界中のおもちゃになった。



御結婚前の秋篠宮殿下が、

こんなひょっとこなビートルにのっていたことは有名。


     

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ドライブを楽しむ

天皇皇后両陛下と

礼宮殿下

そして、野次馬がすげえ




                            

まあ、いまでも珍しくない車だとは思うんですが

確かに、走ってるのは見かけなくなったかなあ。

コレクターズアイテムとして秘蔵されちゃうのかしら。



この車も、

日本人にとっては『昭和の風景』の

重要なパーツなんだと思います。




























では、今日の、『エンドレスナイト。』












1980年代後半、ブラジルでの生産が終了される時、 

『正規ブランドのビートルが手に入る最後のチャンスだ。』と 

世界中が色めきたった。


日本でもそうで、当時、大阪でやっていた深夜テレビ

『エンドレスナイト』という、えーと

こんな番組。

   

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こんな番組が

大阪にもあった。





で、

この番組で、『ビートル、ブラジルでの生産終了。』ということで

手を尽くして、これの『新車』をスタジオに搬入し、

豪快にも、『視聴者プレゼント』にしていた。


司会のばんばひろふみが、

ものすごいテンションだったのを覚えている。


当時大学生だった、あたしは

『へー』と思って酒飲みながら見てたわよ。



へー





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2014年7月 1日 (火)

このまま、ただで使わせてくれ。

6月30日、横浜市内にある米軍施設が返還される。

(横浜市HP 深谷通信所)



この深谷通信所は、すべて国有地。


もとは日本海軍の通信施設で、海軍の通信というのは、

水平線の彼方まですっ飛ばさないといけないので長波であり、

従って、通信塔近辺に何かあったら邪魔だ、と

半径500mほどの、真ん丸の敷地になっている。


ところが、ここは戦後、米軍が接収した後

地元住民が『米軍の許可』を得て 

野球グラウンドや、農地として

無料で使用してきた、という履歴がある。


返還後半年の来年3月までは使えるけど、そのあとは返してもらう。

それまでには更地にしといてくれよな。というお上のお達しに、

『そんなの無理じゃん。 

このまま無料で使わせてくれじゃん。 

あぜるばいじゃん。』と

大たこどもが大合唱、というニュース。

(朝日新聞の記事へのリンク)








出てけよ。







      

ジャップの世論を気にする米軍は、

気前のいいナイスガイを気取って

『おー、ただでいいですねー。』といったかもしれないが 

それなら君たちは『借地権者』ですらない。


『30年も使って来たんだからもういいじゃん。』といっても

あくまでも所有者は『日本国』なので

米軍占有中の土地に対する『二重の占有』などは許されない。

『取得時効』などは認められない。


君らはかつて道頓堀をにぎわせた、大たこ以下の

無権利者である。






出てけ。








大体、返還にしたって、跡地利用にしたって、

昨日今日出てきた話じゃない。


それが、さも地上げ屋に叩き起こされたかのような被害者面で、 

『来年3月までなんて無理じゃん。』というのは通らない。


現に横浜市は、リンクした朝日新聞の基地以外も含めた、

『返還予定施設』に関して

跡地利用指針を示している。

米軍施設返還跡地利用指針


この『指針』が出たのは平成16年。16年?







地域住民にやさしい朝日新聞が、

『野球クラブの監督(61)は「今まで自由に利用してきたのに、

行き場所がない」と嘆き。』

『(71歳の菜園耕作者)からは

「来年3月までに更地にするなんて無理」』

といっても、それこそ無理。




さらに訳がわかんないのは

『相模ウド』なる名産品がなくなるのでは?という論点。

『地元では「相模ウド」と呼ばれるウドが栽培されている。

真っ白なのが特長のこのウドが、存続の危機だ。』

『ウド室は国有地にあるため、返還後は使えなくなってしまう。』



     

よそに作れ、ウド室くらい。







もっとわかんないのが、

『野球場の使用と引き換えに、雑草をとり、

目的外利用や不法投棄の監視などの管理も担ってきた。』

という、『でも、だって理論。』






『引き換え』じゃねえよ。










どうしてこう、全地球的に敵を作っていくのか、 

というと、僕にだってわかってるもん。 

だから、ともだちいないんだい。



くすん。











いっぺん更地にして、再整備すればいいでしょう。

多目的グラウンドが欲しければ要望を出せばいいし、

農園だって作ればいい。



そこを反対しているわけじゃないんだ。









しかし、少なくともこんな乱雑な状況じゃだめだろう。

Fukayamap
中央を縦断するのが県道。

濃い緑が農園ゾーン

丸いのがグラウンドらしい

(横浜市 HP)

          
     

一度返せよ。


そのうえで、『整備計画』に関して意見を言い。 

改めてできたグラウンドや菜園を使ったらいいじぇねえか。







ただし、有料で。








このままただで使わせてくれてもいいじゃん、っていうのは 

いくらなんでも通らない。







なんでそんな当たり前のことが、

61だの71だのという連中に通じないんだろう。





























では、『今日の船橋通信所』
















こういうまん丸な通信施設、というのは、ほかにもあって 

有名なのが『ニイタカヤマノボレ』を打電したとされる 

千葉県船橋市の海軍通信所。

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ここも戦後、米軍に接収されたが1966年に接収解除。

その後はいろいろあって、ご覧の通り

公園、団地、学校ということになっている。



武蔵野線や、県道9号線が敷地を突破しているのは

接収解除後に開通したから。





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