« どうする、ジョンウン? | トップページ | 集団的自衛権と徴兵制度 »

2014年7月13日 (日)

神戸市街地の東遷-2-

さて、7月4日の続き。

7月4日?








神戸の都心は三宮だと思ってるだろう

とんでもない、というお話である。

あれは作られた『新都心』だ。


もともと神戸、という街はなく、いまのJR兵庫駅の海側に

江戸時代から続く大きな兵庫という街があったんだ。

幕府が『兵庫を開港してやるよ』と言って、

実際はずっと東の砂浜の生田浜を居留地にした。


中間部分、の湊川神社の門前は

本来なら無視されてもよかった。


正直言って昭和期にはいって『忠君・正成』

というイメージが出来上がるまでは

そんなに盛り上がっていなかったらしい。







湊川神社とはどこか、

というのはひょっとしたら神戸市民にも怪しいかもしれない。


(クリックで大きくしてください)

2014y07m06d_093538023




     





      









    


     

JR神戸駅の目の前。


小保方さんが必死のパッチで再現実験に挑んでいる

魔女の館、もとい理化学研究所からもごく近い。


ただし、神戸駅がこの場所に立地したのは、 

この神社とは関係ない。


そもそもこの神社の創建は歴史的にみれば最近で、

明治5年(1872年)なのである。

(神戸駅は明治7年。)





しかし、このお互いが目の前に立地したことは、神戸の街を

発展させる。


正直言って、湊川神社に行ったことは、1,2回あるかどうか

というぐあいで少ない。


三宮の生田神社には数えきれきれないくらい、いったけどな。

ハンズに行ったついでに

生田神社に行っちゃいけないっていうの?





空襲で再建された建築物に興味はないし、

なにより、この神社、というか正成自身が

『忠臣の鑑』、ということで戦前の一時期 

徹底的に持ち上げられたからだ。

正直、反発があった。


いまでも、初詣や、七五三の時には賑やかだが

観光で神戸に来て、この神社を目的に選ぶ人は少ないだろう。









ところが、戦前はにぎわった。

もともとオフィス街ではある。

『世界一の総合商社』だった鈴木商店の本社ビルがあったり

神戸の裁判所、市役所なんかがあった。


そこに湊川神社の門前に人々が列をなすようになる。

当然、門前は大いににぎわった。

いまでも、老舗の和菓子屋なんかがある。


ここから西に向かって歩いて20分くらい、 

市電だったら5分くらいのところに、

新開地という街があって、西日本一の繁華街だった。


さらに20分くらい歩くと兵庫、という街がある。         

      
阪神大震災直前

兵庫駅南にあるに大仏が再建された。


      
      

640pxnoufukujihyogodaibutu
大仏殿、というものがなく

周辺に門前町の雰囲気もなく

野ざらしなので、

予備知識がないと

かなりびっくりする。





     

       
この兵庫大仏も観光地。(能福寺 HP)

戦前にも大仏があって、奈良、鎌倉と並んで

『日本三大大仏』と呼ばれ大いに参詣客でにぎわったそうだ。

 

000000000000000000000000000000000_3
もっと頭でっかち






『兵庫や神戸は明治以降の開港場だ。』と思ってるだろう。

ところが『日米修好通商条約』で、定められた開港場のうち

『兵庫』とあるのは和田岬に抱かれた良港で 

江戸時代以前からの港の歴史を持っている。


ところが、幕府は、中世以来の港町の兵庫に

外人が入ることを嫌った。


従って、末期幕府が作った『居留地』は

およそ港には向かない、砂浜の生田浜を選び

申し訳のように、当時の船でも荷役ができない

『童貞チンチン』のようなメリケン波止場を作った。



だから、戦前までの神戸の街、というのは 

こんな二重構造なんです。

00000000000000000000000000000000000

















上の地図でいうと『旧生田川』というのが 

現在のフラワーロードで市役所がある通り。 

『旧湊川』というのが現在の新開地。


兵庫地区に関していうと、兵庫駅東の蛭子神社から

海岸の柳原地区、そして和田岬まで続いている。


和田岬は、いまは三菱重工の工場のなかにあって

国家機密がてんこ盛りなので、観光はできません。

(重要な史跡である和田岬砲台だけは、

事前に申し込めば見学できます。三菱重工 HPへのリンク)


しかし、この地図で見るように 

『明治初年』の神戸の市街地は、このように、兵庫地区と

旧居留地地区だけで作られていた。

 

湊川神社があって、神戸駅がないから、 

明治5・6年の地図だと思うが

まるっきり西に偏している。













いま、元町駅を降りて海に少し降りると、

線路に平行するかのように、『元町通商店街』という

アーケード商店街がある。


西から1丁目なんだけど末端のはずの元町駅前のほうが、 

大丸があり、南京町があって、すごくにぎやかだ。


これをどんどん西に歩いて行くとさみしくなる。

『海文堂書店』が閉店するって聞いたときは、

正直、なんの冗談かと思ったよ。



いま、神戸の人でさえ、神戸の繁華街の中心は 

三宮駅だと思っているだろう。

さっきの地図でいえば、いまの三宮駅は、

旧生田川を遡って、わかりにくいけど生田神社の下になる。



なんにもない。






いまの南京町、というか外国人居留地の西側に

『雑居地』ということで日本人に混ざって

中国の人がたくさん住んだ。


ただ、南京町一帯は、1960年代後半から15年くらいの間

『外人バー』の街になった歴史があった。


外人が外人にお酌すこともあったが、

日本人や、それこそ中国人がお酌することもあった。

コンテナ船の普及以前には、荷役のために船員が

一週間くらい神戸に滞在する、ということがあったんですね。


南京町は荒れ果て、老舗の中には郊外に転出したところも多い。

だから、いま南京町で客を集めているのは2流店ばかりだ、

なんて乱暴なことをいう人もいるが、並んだ時間に対価する味か、

というと疑問な店がいくつもあることは確かだ。







第二次大戦で神戸、特に兵庫地区は徹底的な爆撃を浴びた。

三菱重工や川崎造船の大工場があるんだから当たり前である。

湊川神社だって焼け野原になった。


いま、ここの、神戸駅の北口前に立つと、裏寂れたパチンコ屋とか、

裏寂れた駅前旅館とか、裏寂れたUCCの倉庫、倉庫?

いやあ、外装を見るともとは、喫茶店だったらしいのだが、

「エキチカ」でも敵わなかったか。


なにより湊川神社に行くのをはばかるような世間の風潮があった。


1960代以降、ロータリーとなってきれいになった。 

そこに立つと、『ここが、大都市の中心駅かよ。』という

不思議な、場末感というか亜空間が広がった。


いまもある。



まあ、神戸駅周辺は時間が間延びしたようなビジネス街で 

裁判所なんかもあり、神戸地裁の法廷では 

本気で判事が居眠りしている。

(目撃者なんだから本当。)



しかも、戦後、西側の兵庫地区は米軍に接収された。

大仏も、戦争中の金属供出で解体され、って

安いな大仏、おい。



従って、繁華街としての兵庫は壊滅した。

いくつかの史跡はあるが、

もう歴史散歩の年寄りしか行かない。


江戸時代の兵庫の街の痕跡を残すのが

兵庫駅から東に100mくらい離れた蛭子神社から海のほう。

ここは街割の方角が違っていたりするから

『違う街』という認識を持ってもらえるだろうが

建っているのは、町工場や、賃貸マンションや駐車場ばかりで

なんとしても歴史的な街並み、ではない。


兵庫駅南側は、米軍キャンプとして接収されてしまったので

戦後、人の流れと、歴史の流れが閉じてしまったのである。











本人にも予想外な長編執筆。

続きます。




























にほんブログ村 その他日記ブログへ 

(クリックしてくださいな)  

 

 

 

|

« どうする、ジョンウン? | トップページ | 集団的自衛権と徴兵制度 »

こんな難しいテーマもうやらない。」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/453502/56732414

この記事へのトラックバック一覧です: 神戸市街地の東遷-2-:

« どうする、ジョンウン? | トップページ | 集団的自衛権と徴兵制度 »