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2014年7月16日 (水)

三法師の日

7月16日は清州会議の日。 

1582年のこと。 

(Wikipedia 清州会議)








信長が京都で討たれた。

岡山から巻き返してきて光秀を討ったのが秀吉。



    

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本能寺の跡地にある飲み屋

だから、誰だ?お前








この状況で開かれたのが、

『織田家の後継ぎはどーすんだよ会議。』



本能寺の変では信長と、嫡子の信忠も死んだ。

 


既に織田政権は日本の中枢部を抑えていたのだ。

『嫁が同居をしたがってるんです。家と土地を狙ってるんですよね』

だから後継ぎ問題といったって、こんな発言小町に載せるような

小さな話題じゃねえよなあ。







候補になったのが、老臣、柴田勝家が推す

信長の三男、織田信孝と

『逆臣・光秀』を討った、秀吉が推す

信長の嫡子、信忠の子、三法師。


強面の勝家が、一同を舐めまわし 

ほとんど、信孝に決まりかけていたところに、 

からりと大広間のふすまを開けて、当時三歳の三法師を 

抱いて出てきたのが、秀吉。



    

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織田家の後継には 

信長公の正嫡こそ 

ふさわしくありましょう。





うわあ、こいつ傀儡政権作る気だ、とは 

同席していた、重臣の皆さんも

いくらなんでも気がついた。




しかし、逆賊光秀を真っ先に討った功績と 

なにより、こいつ、織田家最大の軍団を握っていたのだ。


対立した勝家を、5万人の軍勢で賤ヶ岳において破り、

織田政権の後継者になる。





しかし秀吉は、あくまで『織田政権の後見人』である。

結果として関白になって、国家統治の正当性を得るのだが

『織田政権の簒奪者』という批判は、

当時もあったし、いまもある。


それなら、『織田家の人たち』はどうなったのか。

というのが、今日のお話。






信長は子福者である。

諸説あるがWikipediaによると

子女は、男女、正庶合わせて12人ずつ。合計24人。って

人間50年の割には打率高いな。




いいなー。




と思ってしまうのだが、この人たち、 

そんなに幸福な晩年を過ごしていない。








まず、秀吉にも勝家にも担がれなかった織田家二男、信雄。

さすがに秀吉も気の毒に思ったのか、『この人は大事にしとくべ。』

という意識があったらしく

三法師の後見人として尾張、伊勢で100万石。


だけど、『やっぱり俺が天下人でいいよなあ。』、と

変な欲を起こし、地理的に近いこともあって、家康に接近する。

そして、小牧長久手の戦いで、秀吉に反旗を翻す。



これは、当り前だけど秀吉を激怒させた。

家康に相談もなく、びびって単独講和に応じたために

家康の心証も悪くした。


ただ、長久手の戦いの後ではこいつの取り扱いはまだ丁重で

秀吉によって、内大臣にまで上げてもらっている。


小田原征伐戦の後、さすがに利用価値がないのと

尾張からの国替えに抵抗したため、

再び秀吉の怒りを買ってわずか1万8千石。

その後、大坂、江戸対立の中で

『織田家の貴種』として、淀君などから、

破格の待遇を受けるのだが、実際は大坂の情報を

江戸へ、だーだー垂れ流しており、

大坂冬の陣の直前に転出。


その功が賞されて、上野の国で5万石。

明治まで続くが、とんでもない貧乏藩で

Wikipediaもここまでひどく書かなくてもいいのに。








では、『織田家の正統』とされた三法師こと、
織田秀信

末路はどうだろう、というともっと哀れだ。

一応は大事にされて、13歳の時には従三位、中納言、

という極官にまであげてもらう。

封土も岐阜16万石。


ところがこいつ、20歳の時、関ヶ原の合戦では西軍につく。 

関ヶ原というのは岐阜県であるからして、 

ここの地理的な重要性は、わかりそうなもんだが。


当然家康の激怒をかい、高野山に流され、

その後の消息も諸説あってよくわからない。


享年は26、とされている。


3歳で天下人になって、20で敗戦。26で流刑先で配死。 

爺さんの信長よりもあわただしい。










では、柴田勝家に担がれた織田信孝はどうか

というと、さらに相当に哀れである。

この人は本能寺の変で危うく難を逃れ、

中国から大返ししてきた、秀吉軍に参加し、

名目上、『総大将』ということになって、凱旋する。


しかし、清州会議で秀吉が推したのは甥の三法師。

『なんだよ、あんなの操り人形じゃん』という指摘は

正しいのだが、秀吉の政敵、柴田勝家に近づいたため

秀吉の激怒をかい、城を攻められて切腹。


享年35。


辞世は、 

『昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前』 

だそうである。


まあ、気持ちはわかるけどね。











もっとも、これは、世間一般の気分でもあり 

秀吉は織田政権の簒奪者、家康は豊臣政権の簒奪者、 

と考える雰囲気があった。


当事者である秀吉もわかっていたから、

いちおう彼らを、それなりに待遇した。


信長の姪である淀君にめろめろになったのは、

単に『貴種』が好きだったのかもしれないが。


従って、『豊臣政権』の簒奪者である、家康のやり方は容赦ない。

あらゆる言いがかりをつけて大坂城を攻め、

『ちくしょう、簡単には陥ちねえか。』、となると

一度講和して堀を埋め、半年後に攻め直して、

秀頼、淀君以下、織田 豊臣の血脈を

徹底的に消し去った。










ひでえ


























では、『今日の一枚。』












家康の言いがかり、として有名な方広寺の梵鐘。

『国 君臣豊楽』という一文が

『家康を切り裂き、豊臣をつなげている。』と。


チョークで白くマークしてあるんだけど

普通わかんねえよ。

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秀吉が巨費をかけて建設したけど、慶長大地震で

大仏が崩壊し、息子の秀頼が再建する。

けど、今度は火災が起きて、大仏も大仏殿も焼けた。


なんて運のない親子だろうと思うが、

秀頼はさらなる巨費をかけて大仏と、大仏殿を再築、

それが落成するっていうんで、わくわくしていたら、

大仏の脇にあった梵鐘の銘文に文句をつけられた。






もう、なんだかなあ。



















おまけ、

リアル信長。

             
       

     

Oda_nobunagaportrait_by_giovanni_ni


信長の死後に

宣教師が描いた絵が

もとなんだけど原本は

もうなくなってて、これは

その絵を撮影した写真





なんだ?それ。

まあ、確かにこんなのが上司にいたら嫌だよな。







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