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2014年8月 6日 (水)

なぜ8月15日になったのか?(再掲)

8月15は終戦記念日。 

昭和天皇が、日本がポツダム宣言を受け入れて、

無条件降伏をするという事を国民に伝えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

で、

 

ここに至るまでの経緯を簡単に書いておきましょう。 

日付は全て日本時間です。

 

 

 

昭和16年12月8日   真珠湾攻撃

昭和18年 1月     カサブランカ会談。

                (枢軸国に対する無条件降伏要求の方針が決定)

       9月 6日  イタリア降伏

       11月     カイロ会談

                (この会議で尖閣諸島は俺のものになったとか言う

                 奴がいるが毛沢東なんかよばれてねえだろ?)

昭和19年 7月22日   東条内閣総辞職。小磯内閣成立

昭和20年 2月     ヤルタ会談

                (ソ連の対日参戦が決定。この会議で決まったから

                北方領土は俺のものとか言うが、うるせえよ。)

      4月 5日  ソ連、日ソ中立条約の更新をしない旨を通告

                (条約はこの日から1年は有効)

      4月 7日    鈴木貫太郎内閣成立。 

      5月 7日    ドイツ降伏

      6月22日   ソ連を介しての和平工作が御前会議で決定      

      7月17日  アメリカ、原爆実験に成功。

      7月26日   ポツダム宣言が米・英・中によって発表。

      7月27日  政府がポツダム宣言の存在を国内に公表。

      7月28日  新聞各紙がポツダム宣言を『笑止』と報道

              鈴木首相がこの宣言を『黙殺』すると会見

              同盟通信(現在の共同通信)がこれを

             『ignore it entirely(完全に無視)』と報道。

             外電各社は『reject(拒絶)』 と報道。

      8月 6日   広島への原爆投下

      8月 9日   長崎への原爆投下

                中立条約を無視してソ連が参戦。

      8月11日   『国体護持』を条件にポツダム宣言受諾を回答

              アメリカは、これを拒否。

      8月14日  御前会議。ポツダム宣言受諾を決定。               

              中立国を通じて無条件降伏を回答。

              最後の本土空襲。

                (大阪、秋田伊勢崎熊谷小田原岩国に空襲)

              宮城事件

                (軍の一部によるクーデター未遂事件。15日未明まで)

      8月15日   玉音放送

      8月16日  大本営が戦闘行為の停止を命令。

      8月29日  ソ連、択捉島侵攻

      8月30日  マッカーサー厚木上陸

      9月  2日  日本降伏

            (東京湾上の戦艦ミズーリで日本全権、外相重光葵と

                連合国総司令官マッカーサー並びに連合国代表団が

                降伏文書に署名。  これにはソ連も署名している。)

      9月  5日 露助、北方領土占領。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日の話は、なんでこんなに『降伏』が手間取ったのか?

ということ。

 

どこでやめていたらいいか、を後世の人間が賢しらに

言うのは、歴史に対して失礼だろう。

 

しかし、勝っているうちにやめておけば、

せめてサイパンの時点で戦争をやめておけば

本土空襲も、フィリピン戦も、沖縄戦も防げたんじゃないのか?

 

ポツダム宣言を受諾するのに3週間も掛けなければ

原爆も、シベリア抑留も、北方領土問題も防げただろう。

 

 

とは、どうしても思ってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

はあ…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本が勢いが良かったのは開戦半年のミッドウェーくらいまで。 

ソロモン海の海戦ではかろうじて五分の戦いをしたが 

もう、後はだめ。 

 

負け戦になると

東条は首相、陸相を兼務した上に参謀総長まで兼ねる。

 

五・一五事件や二・二六事件で総理をぶち殺しても守りたかった

『行政からの統帥権の独立』という事を自ら平然と覆す。

(もっとも東条は二・二六事件の一派を嫌ってはいた。)

これで勝つならともかく負け続けた。 

これだけで万死に値するだろう。   

 

 

 

 

 

 

ガダルカナルで負け、マリアナで負け、サイパンで負けて、

東条英機は引きずり下ろされた。   

 

しかし、その後もこいつは「総理経験者」として 

重臣会議に残り、後継首班に口を出す。

 

しかし、こいつが推した小磯内閣でも負け続け

フィリピン、硫黄島を失って沖縄に上陸されると

『講和派』で海軍出身の鈴木貫太郎が首相になる。

 

日本海海戦の時に中佐で駆逐艦隊を率いていたこの人は

海軍大将まで昇ったあと現役を退き、

昭和天皇の侍従長を務めている時に

二・二六事件で襲撃を受けて重傷を負った。

 

 

 

高齢を理由に首相就任を固辞するのだが

『非陸軍』が必要だ、という事で担ぎ出される。

陸軍のクーデターを恐れた近衛文麿などが強力に推進して、

二・二六事件で銃弾を浴びた、この老軍人を首班にした。

 

華族なんて人間の屑である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鈴木貫太郎は千葉県の偉人であり

二・二六で銃弾を浴びても

自らの身命を惜しむ人では決してなかったが

『陸軍のクーデター』は恐れた。

 

 

議会は機能せず、憲法も麻痺しているが

東条を引きずり下ろす程度には、まだ日本は健康だ。

 

 

 

しかし、クーデターが起こったら

そうはいかない。

 

 

 

彼は、自分が『終戦担当』であることを自覚していたが

陸軍との関係で余程慎重にやらなければ行けない事も

知っていた。

 

ただ、既に連合軍、というよりアメリカのルーズベルトが

『無条件降伏主義』というのを打ち出していた。

昭和18年のカサブランカ会談から 

このおっさんはこれを強硬に主張した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真っ先に適用されたのはイタリア。

 

第二次大戦のイタリアというのは、ジブリがどういおうと

死ぬほど情けなかった。

独ソ戦でへろへろになったスターリンが

『西ヨーロッパに第2戦線を作ってくれよ。』と米英に頼み込む。

具体的に、それはフランス上陸、という事だったのだが

なるべく露助とナチスで殺し合いをさせた方がいい、という

残酷な判断によって、米英軍はドイツ軍よりも遙かに弱い

イタリアのシチリア島に上陸した。

 

イタリアはあっさりと動揺し、

1943年の7月にムッソリーニは解任される。

 

代わりに国王から首相の印綬を貰ったのが陸軍のバドリオ。

 

この詐欺師は、ヒトラーに対しては

『いやあ、もうムソリーニなんてあきまへんわ。

わてがあんじょうやるさかい、一緒にルー公やチャ-チルを

キャン言わしましょうぜ。』とペラペラしゃべる一方、

中立国、スペインの大使館を通じて

連合国と降伏条件を探った。

連合軍も一応攻撃の手を止める。

 

最初は、『戦前のイタリア植民地、

つまりリビアとかエチオピアとかソマリアの権利を認めてくれよ。』

と眠たい事を言い出して、あっさり拒否されると

条件闘争に移り、最後は

『おれと国王を保護するためにローマの北に空挺部隊を

投入してくれ。』という保身だけの条件まで落とす。

もちろんルーズベルトは許さない。

『とりあえず休戦、という事なら許す。但し無条件に、だ。』と

 

連合国も、『こんな詐欺師につきあってられねえぞ。』という 

当たり前の事に気がつくとイタリア半島南部から上陸を始める。

 

結局この馬鹿の2ヶ月に及ぶ条件闘争は

ヒトラーにイタリア占領の準備をさせただけにすぎず、

アイゼンハワーが『バドリオなんかナチスに殺されても構わん』

と、約束のローマへの空挺部隊投入をやらず

粛々と上陸してくると

泡を食ったこのバド公はローマを捨てて

王様と一緒に連合軍に保護を求め、 

ドイツに宣戦する。

 

首相と王様に見捨てられたイタリア軍は大混乱に陥り

南下するドイツ軍に、たちまち武装解除された。

 

準備を整えたドイツ空軍は逃走するイタリア海軍の主力を追い、

世界初の誘導ミサイル、フリッツXで戦艦ローマを沈めた。

 

しかし、これだけあわあわしたイタリア首脳部は 

戦後、連合国からは何のおとがめも受けていない。

 

 

 

 

 

ドイツに対するニュルンベルグ裁判、 

日本に対する東京裁判に相当する 

『ローマ裁判』なんていうのは行われていない。

 

 

戦後の話になるが、バドリオと、国王エマヌエレ3世は

『ローマを捨てた』という事が批判されて

バドリオは政界から、

エマヌエレは王様から追われているのだが

それはイタリア国民の判断。

 

どちらも天寿を全うしている。    

エマヌエレ3世は亡命先のエジプトで。

 

エジプト?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の指導部が最期まで条件闘争をしたのも

理由のない事ではないのかもしれない。







さらに、軍部は

『負けは負けでいいけどさ、せめて一撃食らわせてからにしようぜ。』

と、ばくちから脚抜きできないサンピンのような

『一撃講和論』を抜かしたてる。


実際の日本軍は、サイパンでも硫黄島でもフィリピンでも沖縄でも

十分に奮戦して、米軍に、

彼らが予想した以上の損害を与えたのだが、

それは米軍の屋台骨をきしませるほどのことはなくて、

逆にその被害の大きさは、

『日本上陸の際の被害がいかに大きいか。』という話になって

日本への原爆投下を、今日でも正当化する理由になっている。

        

いずれもそれは、 

戦死者や空襲の犠牲者、被爆者に対する 

免責にはならないが。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、1945年というのは 

列国の戦争指導者が死亡、 

あるいは引きずり下ろされた年でもある。

 

4月16日に、アメリカ大統領F・ルーズベルトが死去。

 

ラジオ放送でヒトラーは罵倒の限りを尽くしたが

鈴木は、アメリカ国民に『哀悼の意』を表した。

 

これは世界の称賛を受けるが

後任はソ連に対して、より強硬なトルーマンだった。

こいつが、ソ連への牽制として

日本に原爆を落とすことになる。

 

 

 

その2週間後の4月29日には

ナチスに『救出』されて傀儡政権を担わされていた

ムッソリーニがパルチザンに捕まって公開処刑。

 

00000000000000000000000000000000000    

 

愛人クララとともに吊される

ムッソリーニ

ジ・悪趣味。

 

 

 

このことをラジオで知ったヒトラーは、

翌日の4月30日に自殺。

 

7月末にはイギリスのチャーチルが選挙に負けて

首相を降板している。

普通戦勝国の指導者なら人気があるだろうに…

 

ヨーロッパの凋落と、米ソ対立の構図は

容易に予想できた。

こうした事も、日本の判断を誤らせたのかも知れない。

 

 

 

そして結局、第二次大戦の主要参戦国の開戦時の指導者で

1950年までその地位にあったのはスターリンだけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『終戦担当総理』であることを理解していた鈴木貫太郎は

就任後の早い時期から元首相の広田弘毅を 

駐日ソ連大使、マリクに接触させて、仲介の可能性を探る。

 

しかしどうもらちがあかない。

 

そこで6月の御前会議で直接モスクワと交渉する事を決定し、

スイスの日本大使館に訓電を送る。

 

もちろん、日本の外交暗号なんか、だだ漏れだったので 

たちどころに解読されて、トルーマンに伝えられる。

 

こいつは、この時点で

日本に継戦の意思がないことを

知っていたわけだ。

 

 

 

 

 

しかも、7月にポツダムで会ったスターリンが

『いやあ、ジャップの野郎俺に泣きついて来やがってよう。』

と、ぺらぺらしゃべってくれた。

 

スターリンは、ヤルタ会談でルーズベルトが約束した 

対日参戦と、見返りとしての 

北千島、南樺太などの領有の確認を求める。

 

しかし、この会談の最中に 

原爆実験の成功を知ったトルーマンは 

『もう、ソ連なんかいらないや』、と思っていたのだが、 

もちろんスターリンは

原爆開発の事なんか知っていた。

 

マンハッタン計画に

大量に送り込んだスパイによって。

 

 

ついでにチャーチルも知っていた。

 

 

220pxtrinity_shot_colorトリニティ実験

長崎に落とされたプルトニウム原爆 

広島のウラン原爆は

実験もしないで落としやがった。

『ガンバレル型』は簡単だからではなく、

ウラン235の分離はめんどくさくて

一発分しか持ってなかったから

 

 

 

 

この会談の後、対日降伏勧告、

いわゆるポツダム宣言が発表される。

(国会図書館 ポツダム宣言)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三項、『吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ

       日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スヘク

       又同様必然的ニ日本国本土ノ

       完全ナル破壊ヲ意味スヘシ』 

 

 

脅しを掛けて、最終項で 

『日本国軍隊の(日本国の、ではない)無条件降伏』を 

勧告している。

 

これが『原爆投下の予告だ』とか言う奴がいるが

全文を見渡しても、そんな表現はない。

       

長崎のプルトニウム爆弾の実験は1回だけ

広島のウラン爆弾は実験もしていないので

威力がわからないばかりか

不発の可能性さえあった。

 

トルーマンは、原爆、という表現を巧妙に避けたのだ。

 

 

 

 

 

受け取った日本も、

アメリカが原爆開発をやっている事は知っていた。

なにしろ日本だってやっているのだ。

 

しかし『二号研究』では

一年以上分離筒を稼働させてもウラン235の濃縮は出来ず、

戦況を考えても 

アメリカが原爆を作り、

かつここで使ってくるとは思わなかったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、『日本国軍隊の無条件降伏』である。

 

『生きて虜囚の辱めを受けず。』とか

えらそうに言ってるんだから

陸軍なんか将校以上は全員死んでくれたらいいけど、

それは即ち

『国民を巻き添えに』ということに決まっている。

 

鈴木貫太郎は悩んだ。

このまま受け入れたらクーデターになる。

 

 

 

かといって公表しないわけにもいかない。 

彼は7月27日にコメント抜きで連合国から 

こんな宣言が出ているよ、と報道各社に伝えた。

 

 

 

 

 

で、

翌日の朝刊。

 

 

読売新聞。『笑止、対日降伏条件』

00000000000000000000000000000000000 

 

 

 

 

 

 

『老獪な謀略』

『戦争完遂に邁進』

『帝国政府問題とせず』

 

 

 

 

 

ちなみに、トップ記事ですらなく、中段の少し下にある。     

000000000000000000000000000000000_3        

 

 

 

紙面の全体

(クリックで大きくなります)
     

 

 

 

 

 

読売しか手に入らなかったがWikipediaによると

ほかの新聞も似たようなものだったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

で、

 

読売がこの責任を感じているのか、というと

まったく感じていないらしい。

2006年8月15日の読売新聞に

戦争責任についての社説があるので引用する。

      

ここまで見事に著作権を無視するとむしろすがすがしいと

思ってくれたらうれしいなあ、怒らないでね。と思うのだが

真面目な話だ馬鹿野郎。

 

太字にした部分に注目して読んでください。

 

 

 

 

 

 

(以下引用)

 

「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」

昭和天皇が1987年、「終戦の日」を迎えて詠まれたお歌である。

今年も「この日」が巡ってきた。

東京・九段の日本武道館で全国戦没者追悼式がとり行われる。

式典には、天皇、皇后両陛下とともに

国家三権の長である衆参両院議長、首相、最高裁長官が参列する。

日本国としての最も厳粛な行事である。

追悼の対象として、

いわゆるA級戦犯も排除されているわけではない。

 

他方では、なお、靖国神社へのいわゆるA級戦犯合

祀(ごうし)問題が国論を二分するような状況が続いている。

なぜなのか。

要因の一つは、「A級戦犯」が、軍事裁判(東京裁判)を行う

戦勝国によって類型化されたものであって、

戦争責任の所在が日本自身の手で

検証されなかったことにあるのではないか。

敗戦直後には、日本政府部内にも、

戦争責任を糾明しようという動きは、いくつかあった。

東久邇内閣の戦犯裁判構想や幣原内閣の戦争調査会などだ。

連合国軍総司令部(GHQ)の意向などによって、頓挫した。

読売新聞は、昨年の夏以来、東京裁判の「戦犯」概念とは

距離を置く形で、政治・軍事指導者たちの

責任の解明作業を続けてきた。

戦争への道を推し進めた責任、戦争を阻止できなかった責任、

戦争を早期に収拾できなかった責任である。

検証の対象期間は、日中戦争に先行して

1931年に始まる満州事変から、

対米英蘭(らん)戦争の終結までである。

この間の一連の戦争については、

いまだに呼称さえ定まっていない。

大東亜戦争、太平洋戦争、アジア・太平洋戦争、15年戦争……。

いずれも地理的、あるいは歴史経緯的に、

なんらかの難点が伴うためだ。

読売新聞は、これを地理的概念や歴史観とは関係のない

「戦争の期間」で括(くく)り「昭和戦争」と呼ぶこととした。

作業の内容は、これまで随時、紙面で報告してきた。

今日の紙面は、8月13日付紙面と併せ、

そうした作業の集大成である。

検証の結果、いわゆるA級戦犯の多くが

「昭和戦争」の責任者と重なった。

だが、重ならない例も多々あった。

たとえば、「A級戦犯」として絞首刑になった木村兵太郎大将は、

戦前・戦中の重要な局面で、

特段の責任を問われるほどの役割を演じた形跡はなかった。

また、同じく「A級戦犯」で、終身刑の判決を受けた

賀屋興宣蔵相には、日米開戦時の閣僚だったという以外の

戦争責任は見当たらない。しかも、開戦には反対していた。

 逆に、戦争を終結に導いた“功績”が

しばしば語られてきた鈴木貫太郎首相にも、

「終戦」の時期を先送りして

原爆投下とソ連の参戦を招いたという意味での

戦争責任があった。

重大な戦争責任がありながら、死去したがゆえに、

「A級戦犯」となることを免れた最高指導者たちもいる。

代表的な例が、自決した近衛文麿首相である。

決定的諸局面での優柔不断、判断ミスの連続で、

ずるずると軍部の主張に押し流された責任は、極めて重い。

松岡洋右外相も、日独伊三国同盟の推進・締結という

国際情勢についての誤断により日米開戦への道を開いた。

「A級戦犯」として起訴されたものの、判決前に病死し、

判決は下されなかった。

その他にも、いわゆるA級戦犯以上に

実質的な戦争責任があったのに、

訴追もされなかった軍事官僚たちがいた。

陸軍参謀本部、海軍軍令部の参謀である。

これら参謀の多くは、

軍事紛争拡大・開戦・戦争継続に向けて上層部を突き上げ続け、

時には越権行為まで犯しながら

300万人以上の兵士、国民の死に対して何ら責任を負うこともなく、

戦後、安穏に畳の上で死んでいる。

もちろん、「昭和戦争」の犠牲者は、日本国民だけではないが……。

戦争に至った経緯、その後の展開は、当時の国際情勢や、

それぞれに世界戦略を描く列強の思惑、駆け引きなどとも

複雑に絡み合っていた。

たとえば日中戦争で、米国は日米開戦以前から、

蒋介石・国民党政府に対し、

「援蒋ルート」を通じて軍事物資を提供し、背後から支援していた。

1939年に始まるソ連のフィンランド侵略に対し、

英仏はいったん対ソ遠征軍の派遣を決めている。

しかし、フィンランドがソ連に屈服したため、

英仏とソ連は衝突に至らなかった。

ソ連の対日参戦は、日ソ中立条約違反だが、

背景には、参戦を要請した米英とのヤルタ密約があった。

だからといって、そうした国際情勢への対応を過ち、

無謀な戦争を始めて日本国民と近隣国に惨禍をもたらした

政治・軍事指導者たちの責任を

曖昧(あいまい)にしていいわけはない。

その責任を日本自身の手で解明・総括しておかなくては、

戦勝国側の戦争責任や戦争犯罪を批判するのも難しい。

歴史認識問題の解決への展望は、そこからしか開けない。

 

 

 

 

 

 

笑止!

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜ自らの『責任』に触れない。

 

 

 

で、

 

鈴木総理も『さすがにこのままじゃまずいぜ?』と

軍部そのほかから突き上げをくらって

その日の午後、急遽会見をひらく。

しかし、その会見では『共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、 

政府としては重大な価値あるものとは認めず 

「黙殺」し断固戦争完遂に邁進する。』

 

といっちゃった。

 

 

 

『黙殺』は日本の対外代表通信社である同盟通信社 

(現在の共同通信社)によって、 

『ignore it entirely』と訳されて、 

まだ『ignore(無視)』だけなら逐語訳としてあり得るのだが

(もちろん国家を代表する通信社なんだから

政治的な配慮をするべきである)

そのうえに『entirely(完全に)』とか 

余計な言葉をつけやがったもんだから 

外国の通信社は『reject(拒絶)』と

より過劇な表現をして収拾がつかなくなった。

 

 

 

戦後、鈴木はこの『黙殺発言』について大いに悔やんだそうだが

後の祭りである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、8月6日。

広島。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8月9日、長崎。

 

  

 

この動画の中で、トルーマンがテレビを通して

国民に原爆投下の『正当性』を説明しているシーンがある。

(24分10秒過ぎ)

 

『…In order to saves

thousand and thousand young american people.』

 

このセリフが、

『アメリカは原爆投下によって、本土上陸作戦を行った際に

生じるであろう100万人の犠牲を防いだ』

という俗説の根拠らしい。

       

素直に『ミリオン』って言えよ。

 

 

 

 

 

アメリカが軍事目的で原爆を投下した、というなら

その目標が

 

軍港の呉ではく、

なぜ広島市街だったのか?

 

軍港の佐世保ではなく

長崎市街だったのか?

 

このことに、きちんと答えている文章にあった事はない。

 

 

 

うそつき。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ソ連参戦も8月9日。

ポツダム宣言の受諾が8月14日。

玉音放送が8月15日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日の話に結論はありません。

 

読売みたいにあっさり『責任』が書けちゃう

気楽な脳みそが、うらやましい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の「日本のいちばん長い日」。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クーデターを恐れた鈴木貫太郎の悩みは杞憂ではなく、

『ポツダム宣言受諾』の報が伝わると、

陸軍の中堅将校がクーデターを企画し、

実際に部隊を動かしている。

(Wikipedia 宮城事件)

 

 

 

 

 

それを描いた映画、『日本のいちばん長い日』

 

 

 

 

 

 

 

 

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松江市教育委員会の馬鹿 みなさん

『はだしのゲン』は残酷だけど

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