第五福竜丸の日(再掲)
3月1日は『第五福竜丸被曝の日』
1954年のこの日、南太平洋のビキニ環礁で
アメリカが水爆実験を行った。
この時、付近で操業していた日本の漁船、
第五福竜丸が『死の灰』を浴びた。
2004年までに乗組員23名のうち12名が死亡。
日本にとっては『ヒロシマ』『ナガサキ』に続く
第3の『核兵器による被曝体験』となった。
そのときの水爆実験の写真がこれ。
アメリカは、1945年に原爆を開発して
すぐさま日本に落とし
『核の独占』を実現する。
ところがソ連の核開発は急で、
原爆はアメリカの4年後、
水爆は1年後に追いつかれる。
焦った上に水爆実用化の技術で
ソ連に先行されていると思い込んだアメリカが
行ったのが、この実験。
15メガトンという破壊力は広島原爆の100倍。
アメリカが行った核実験では、
公開されている限りこれが最大である。
(地球最大の核実験はソ連のツァーリボンバー
で、50メガトン)
『とりあえず』行った水爆の実験だから、
見積もりと異なる威力になった。
計画前は4-8メガトンとおもってたのが
爆発させてみたら
15メガトンだった。というのが
しかし、
4メガトンの見積もりが
15メガトンになるかあ?
故意か過失かはよくわからないが、
この過剰な規模の核実験のおかげで
100マイル(1600km)避難させていたはずの
住民にも、死の灰が襲いかかった。
住民が避難した島も直撃
住民ばかりか、付近で操業していた漁船にも
被害が襲った。
そのうちの一隻が、第五福竜丸。
第五福竜丸は140tのマグロ漁船。
乗員は23人。3月1日時点で450tのマグロを
収穫していた。
彼らだけではなく前述した様に避難した島民や
付近を操業していた漁船の乗組員と
併せて数万人が被曝したとされる。
しかし、第五福竜丸は、
何故か救援をもとめることなく
自力で航海して、
3月14日に静岡の焼津に帰港する。
第五福竜丸帰港を、直後に報じた記事を
読売新聞が公開しているので読んでみてください。
さすがは新聞社の公式サイトで、拡大すると
記事がちゃんと読める解像度なのがすごい。
『乗組員には海軍出身者が多く、
核実験を目撃した自分達は米
軍に撃沈されるだろう、と
無線も打たずに帰国した。』
とうWikipediaの記事と、
だいぶ温度差があるのがわかると思う。
そして、おそらく
『「大したことはない。」と言って
警察にも届けず、記者らにも
「なにを騒ぐのか。」といっていた…』
という読売の記述のほうが
正しいような気がするのだ。
もっとも(二人は入院したが残りの21人が)
『”死の灰”つけ遊び回る。』
という見出しは悪趣味だが…
この時『遊び回っていた21人』に入っていたはずの
久保山愛吉さんが被曝後半年で死亡する。
彼の遺言、『原水爆による犠牲者は、
私で最後にして欲しい。』
という言葉は、日本の反核運動に火をつけた。
アメリカも、
外国の民間人に被害が出たことに慌てた。
マーシャル諸島の土人くらいだったら、
金を握らせて黙らせるつもりだったかも知れない。
被曝の影響を長期に渡って調べるチャンス、
だと思ったかも知れない。
実際、住民の健康状態のチェックは
今日まで行われている。
しかし日本人はやかましいから、困ったなあ、と
この国の恐ろしいところは行動が素早い事で、
事故の直後に
『核問題でジャップに生意気なことを
言わせない為のアクション・プログラム。』
というのを作る。
それに従って、日本政府に金を握らせて
『責任を問わない』という密約を行った。
そしてジラード事件の1000倍以上に当たる
200万ドルを
『アメリカ政府の好意』として、つまり、
『責任は認めないけどほら俺って優しいら…』
という、ふざけた理由で、
気前よく払って補償問題を片付けた。
そして、
『久保山さんの死因は原爆症じゃない』
『第五福竜丸は立ち入り禁止範囲の中で
違法操業していた』
とまで言い出して
『僕のせいじゃないもーん』という姿勢を貫く
いまでも公式には謝っていない。
さらに、リンクしたように、
この事件をスクープし『死の灰』という
言葉を広めた読売新聞の
正力松太郎を丸め込んで
『原発推進キャンペーン』を始めさせた
大人って汚い…
しかし『遊び回っていた』かどうかはともかく
第五福竜丸の船員が、少なくとも被曝直後には
事態をそれほど重大に考えていなかったのは
確からしい。
その証拠に、
彼らは現場海域からは離れたが
マグロはきっちり持ち帰った。
そして、船速5ノット(9km/h)という、
マラソン選手の半分以下のスピードで、
2週間かけて帰って来る。
阪神大震災の日に、
スーツに着替えて出勤しようとした
私には、何となくわかる。
彼らも『日常の囚人』だったのだろう。
腫れ上がるケロイドも怖いが
収穫を捨てることは、もっと怖かったのだ。
第五福竜丸も、数奇な運命をたどる。
死の灰をたっぷりかぶったのはこいつも同じで
測ってみたら放射能が観測された。
いまなら たちどころに撃沈されるだろうが、
5ヶ月間隔離されたあと文部省が買い上げた。
アメリカは廃棄を要求したが
日本側が研究のために引き取った、と
Wikipediaには書いてあんだけど、
第五福竜丸展示館自身のコメントでは
その辺のことは、さらっと逃げている。
『東京都は、遠洋漁業に出ていた木造漁船を
実物によって知っていただくとともに、
原水爆による惨事がふたたび起こらないように
という願いをこめて、この展示館を建設しました。』
アメリカとしては、
接収して自分で調べたかったのだが
2年前に日本を独立させちゃったから、
そんなこともできない。
『調査』という名目で日本国に管理させ、
『補修』の時にはがした被曝材のデータを
手に入れるつもりだったんじゃないか?
大人って汚い…
その後は2年かけて除染・改装された。
そして名前を変えられて、
10年以上東京水産大の練習船として使われている。
由来については知られていたはずなので
『残留放射線が…』とかいいだして、
いまならご父兄も反核運動家も黙っちゃいない
だろうが『海の男の卵』たちは、結構おおらか
だったらしい。
そして、老朽化すると夢の島に捨てられた。
この船の歴史的な価値を知らななかった訳は
ないと思うのだが
この辺も、大人の事情なんだろうか?
1967年に都の職員によって『再発見』され、
いまは、夢の島の第五福竜丸展示館で
公開されている。
ところが、築45年のこの展示館も
老朽化してどうしよう、
ということになっているのだそうだ。
日本にとって、『第三の被曝事件』である
ことは間違いはない。、
しかし、それだけではないんだと思う。
今回の原発事故の騒動の要素がすべて入っている。
今日の状況と重ねると、
いろいろと考えさせられる事件なんじゃ
ないでしょうか…
では、『今日の一枚。』
第五福竜丸が持ち帰ったマグロを埋めた跡に
建てられた『マグロ塚』の碑。
彼らが持ち帰ったマグロから、
微量の放射能が検出された。
マグロは市場に出ることなく、
埋設処分されることになった。
これは、埋め立てた場所に建てられた碑。
ケロイドに苦しみながら
船とともに持ち帰ったマグロは、
結局、売ることはできなかったわけだ。
むしろ、『太平洋の魚は危ない。』という
風評が立って、魚介類の消費が激減した。
どこに捨てられたかというと、築地市場で
2006年、地下鉄工事に際して、
現場が掘り返されることになったために、
この碑は現在、
夢の島の展示館の前に移設されている。
この地下鉄工事の時、
『現場から放射能マグロが出るんじゃないか?』
ということで『掘削反対』を叫ぶ連中との間で
一騒動あった。
結局、放射能は出なかったそうである。
どうも、いろんなものが重なって見えてくる…
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