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2014年11月の投稿

2014年11月27日 (木)

水素自動車の明日はどっちだ?           (2011年11月 再掲)

トヨタが水素燃料電池自動車を発売、というニュース。

(トヨタ自動車ニュースリリース。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『水素自動車ってなんです?』

 

『こういう話はトヨタ本人に説明して貰おう。』

(トヨタ FCVの説明ページ)

 

『水素を燃やしてそのエネルギーを電池に貯めて、走る?』

 

『燃やす、とは違うらしいんだが…

これもめんどくさいからトヨタに説明して貰おう。』

 

『水素って、そんなにエネルギーがあるんですか?』

 

『福島で景気よく爆発したろ?』

 

『じゃあ、危ないじゃないですか。』

 

『そこなんだよなあ…』

 

 

 

 

 

 

 

 

『さらに別の問題もある。』

 

『別の問題?』 

 

『今度のトヨタの車は、

一回のガスチャージで800km以上走れるらしいんだが、』

 

『神戸からだと、宇都宮くらい?。』 

 

『いま、日本に水素ガススタンドが

いくつあるか知ってるか?』

 

『市販してるんなら、1000ヶ所くらい?』

 

『12ヶ所だ。』

 

『へ?』

 

『東京に8ヶ所、愛知と大阪に2ヶ所ずつ。』

 

『じゃあ、九州の人はガス入れるために大阪まで来るんですか?』

 

『往復でガスがなくなっちゃうよ。』

 

『むう…』

 

『なんとかせい、っちゅうことで、

トヨタをはじめ自動車メーカーや

ガス会社や石油会社が共同声明を出している。』

(水素供給インフラ整備に関する共同声明)

 

『誰に向かって言ってるのか、わかりにくい文章ですねえ。』

 

『しかし例えば、建築基準法や高圧ガス保安法なんかでは

水素ガスは、危険物ちゅうことで、

ガススタンドが建てられる地域の制限がきつい。』

 

『高圧ガス…』

 

『液体で保管したっていいけど、それも危険物だし、

そもそも、零下200度に冷やしてたらコストが合わん。』

 

『じゃあ、風船にして浮かべとく。』

 

『街中にヒンデンブルグ号を浮かべるようなもんだ。

そっちの方が危ない。

超高圧にしてボンベに入れとかないと、街中には建たない。』

 

『アドバルーンにしたら、かわいいのに…』

 

『しかも空気が混ざったら、水になるか爆発するかだから、

完全完璧に密封しないとフクシマだ。』

 

『じゃあ、その場で作ったらいいじゃないですか。

「水素満タンっ。」っていわれたら、水を電気分解して…』

 

『水素ガスの「製造」は、もっと制限がきつくて

工業系の地域じゃないと無理。』

 

『それじゃあ、いまある12ヶ所はどこにあるんですか?』

 

『大体、ガス会社とかの工場の中だね。』

 

 

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東京ガス千住事業所内の

水素ガススタンド

 

 

 

『そんなんじゃ、水素自動車を作ったところで…』

 

『だから、建築基準法に関しては運用を緩めるらしいよ。』

 

『水素切れじゃあ、JAFも助けてくれないですしねえ。』

 

『それよりもな。』

 

『はい?』

 

『水素ガススタンドが出来る、なんて事になったら、近隣から

猛烈な反対運動が起きると思うんだ。』

 

『あ…』

 

『みんなフクシマの恐怖を覚えているからな。』

 

『…うちの隣にはきて欲しくはないかも…』

 

『水素自動車にしても、電気自動車にしても

開発に携わった人たちは可哀想だな、とは思うんだよ。』

 

『SFなんかでは、大昔からありましたもんね。』 

 

『何十年もかけて開発して、さあ発売って時に

「フクシマの悪夢」が起きて、

節電の時代になって、水素怖いって事になって…』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『じゃあ、ここは責任を取って、

東電に水素を作ってもらいましょう。』

 

『それでどうする?』

 

『工場で作ってボンベを運ばせるんです。

こまめに配送すれば貯蔵量を減らせるでしょう。

規模を小さくすれば、建てられる範囲が広がりますよ。』

 

『…なるほど。』

 

 

 

 

『ブランド名は、「フクシマの水素」。』

 

『売れねえよっ。』

 

 

0000nishizawa_2   

 

 私が作りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日のトヨタCM。』

 

 

 

 

 

 

『この水素自動車のプロトタイプ、

何年か前の、東京モーターショーにも出てたな。』

 

『今年から、東京モーターショーは幕張じゃなくなるそうです。』

 

『うそっ?』

 

『幕張なんて田舎だし遠いし、ビッグサイトの方が大きいし。』

 

『幕張新都心を推進した沼田元千葉県知事も死んじゃったし

なんか、時代の終わりを感じるねえ。』

 

『いいですよ、もう。モーターショーなんて。

あんなちんけなイベント、全盛期の1/3も人が来やしないんです。

あんなもん、東京にくれてやりましょう。』

 

『…むう…』

 

『新しいTOYOTAのCMでは、のび太とドラえもんが

どこでもドアで、モーターショーに出かけてます。』

 

 

 

 

『どこでもドアがあるなら、

幕張でもいいんじゃないのか?』

 

『それ以前に、車要らないですよね』

 

 

 

 

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どうしても真面目に終われないのか?といわれたら、

これが私のダディ・サガ。

 

 

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『いい鮒『の日と、『いい風呂の日』と、       チャフを撒け

11月27日はいい鮒の日

(古河鮒甘露煮組合 HP)

 

『鮒の日だと気がついたとしても

「じゃあ、今晩のご飯に鮒の甘露煮や鮒寿司を」

とは思わないですよねえ。』


『まあ、ねえ。』






『もう、あれだけど、11月24日は鰹節の日、だ。』

(鰹節メーカー ヤマキのHPへのリンク)


『なんですか?そりゃあ。』

            

『1124で「いい節」だって。』

 
『何でもありだなあ。』

        

『よく知られているように11月22日は

「いい夫婦」の日だ。』


『11月23日は』


『珍味の日』


『勤労感謝の日でしょ?』


『でも、そういう名前もあんのよ。』


『なんで?』


『いいつまみ、だからって』


『……』


『……』


『当然26日は「いい風呂の日」の訳ですな。』


『もちろん。』



           

『銭湯が安くなる訳じゃないんですけどねえ。』


『でも日本浴用剤工業会がキャンペーンをやっている。』


『ほうっ。』


『なんと、500名様に抽選で

入浴剤20個と石鹸5個をプレゼント。』


『……』


『けちくせー』  


『そんなこというなっ。』

 

 

 

 

 

 

 

 

『11月30日は「いいみりん」の日で味醂の日 

11月29日はみんな大好き「いい肉の日」で

さらに、「いい肉球の日」だっ。』

 

『いい肉球の日、はかわいいですけど。

11月は毎日が記念日、ですねえ。』

 

 

00000000000000000000000000000000000     

 

にくきゅう

かわいい

 

 

 

 

『これが12月に入ると語呂があわないのか

そういう記念日が減るんだよなあ。』

 

『でも、「12月3日」の奇術の日は傑作ですよ。』

           

『なんで12月3日?』


『ワン・ツー・スリー、だって。』


『……』

 
『……』


























『1月12日を「いいねの日」って事で登録すれば。』


『2011年の11月11日に、

そういうイベントがあったらしいんですよね。』


『へえ…』


『その日はみんないいねボタンを押して、と。』


『外人さんは11.11.11を「いいね!」とは理解しないだろう。』


『まあ、こんなイベント、ある意味洒落ですから。』


『それを言っちゃうと実も蓋もないが…』


『業界団体とかが盛大に盛り上げたらいいと思うんですよね。』


『鮒とか珍味とか鰹節を安売りする?』

 

『……』


『……』


『地味ッすね。』




















『じゃあ、いま問題になっている尖閣諸島の

中国の防空識別圏の問題も、

尖閣諸島の日本領への編入を記念した

1月12日の尖閣諸島開拓の日に合わせて

飾り付けをしちまえっ。』

 

『飾り付け?』

 

『以前もいったように尖閣諸侯の上空に

アドバルーンのように見える阻塞気球を山ほど上げる。』

 

『しかしそれは防空に役にたちますか?』

 

『しかもそれぞれは連携していて

一つが爆発したら次々に連動して

PM2.5以下のチャフをまき散らす。』         

 

『チャフ?』

 

『レーダーや通信阻止のためのアルミやジュラルミンの

導電体だ。第2次大戦でも使われていた。』

 

『日本軍も使ってたんですよね。』

 

『原始的な兵器だが、

いまは金属加工技術がすさまじいから

大きさを切り分ければレーダーからあらゆる通信まで

無力化することが出来る。』









『しかしそれは日本領空にしか展開できないでしょう。

小笠原沖の違法漁船に、通信障害を与えるってんならまだしも。』


『お前、さらっと怖い事言うな。』


『細かいことは書けないし、よう知らんのですが

軍艦ならともかく、偽装漁船の通信や、GPSを

無力化する方法なんていくらでも…』

 

『だから、その防空識別圏とやらにも 

そういったチャフを積んだ

無人の高速気球を 

山ほど放球してやれ。』

 

『…どうなります?』

 

『もしも撃墜なんかしたら、その空域はしばらく使えない。』

 

『ああ…』

 

『ましてや撃墜なんかしたら、いくら中国といえども 

外交的に逃げ場はないっ。』

 

 

『あ、中国っていった…』





































では、『今日の一枚。』


















      

1944年6月、ノルマンディー上陸作戦で用いられた阻塞気球。

輸送船団の上陸を守っている。

782pxnormandysupply_edit       

 

 

 

 

 

 

 

 

この作戦で、連合軍は

絶対的な航空優勢を維持したはずだが 

それでもこういうことをするのだ。

 

 

 

 

                

 

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2014年11月26日 (水)

次の総選挙では『1票の格差を容認する』     最高裁判事を罷免しよう(再)

「一票の格差」が最大4.77倍だった

昨年7月の参院選は違憲だとして、

2つの弁護士グループが選挙無効を求めた計16件の訴訟の

上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)は26日、

「違憲状態」と判断した。選挙無効の訴えは退けた。

 

(産経ニュースへのリンク)








以下、2年前の記事の再掲。

数字関係は多少違うと思うが、直すのもめんどくせいや。


『1票に格差があったらだめだろう。』

根性出せ、最高裁。という趣旨です。





では、どうぞ。












衆議院議員選挙が行われる。

この選挙は、過去に地裁高裁最高裁と

あらゆる段階の裁判所で違憲である、

といわれた状態のまま行われる。

 

千葉県民の人間の価値は高知県民の4割以下であり

島根県民の価値は神奈川県民の人間の2倍以上である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふざけんなよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それなら、千葉県民は、神奈川県民は

田舎者の前に行き、うんとぶん殴って良いわけだ。

『てめえら、人間の価値半分以下』と

 

 

 

 

 

 

 

 

『国民の権利』がそんなことなら

日本の有権者は最高裁判事を

罷免する権利がある。

 

 

 

日本国憲法には、そんな機能がある。

投票行動に影響を与える言説はよろしくないのかも知れないが

次の国民審査では

『違憲状態の総選挙』を

許した最高裁判事を

全員罷免しよう。

 

 

なに、簡単なことだ、

小選挙区・比例区の投票の時に

『最高裁裁判官の国民審査』という用紙をくれる。

 

新任の裁判官の名前が書いてあり

下に×を付ける欄がある。

まあ、大体10人以上はいる。

 

 

×が過半数を超えたら罷免だ、ということだが

いままでそんなことなかったそうである。

なんとなく右側が、×を付けやすいよね

ということで比較的多いらしいがそれでも5%くらいである。

 

 

 

 

 

 

 

 

野田さんは首をかけて『0増5減』の改革案を通し解散をした。

 

 

もちろん、

周知期間はなく選挙区の改正 もなく

違法・違憲状態なのだが

とりあえず『0増5減』の法律を通したから

最高裁は、選挙無効、という

判決までは出すまい。

という甘い判断をしているわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 馬鹿かお前は。

 

 

 

 

 

7条解散は首相の専権かも知れないが

あれほど違憲だ、といわれて

総選挙する馬鹿がいるか?

 

 

 

 

 

三権分立の意味はどこにある。

 

 

 

 

 

舐められてるぞ、最高裁。

無効にしろよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

君らが機能を果たさないなら

我々が国民審査で

君らを罷免するだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いいか、

『国民審査でNO』を合い言葉にしよう。

 

『なんか投票所で15人の 名前を書いた紙をくれたんだけど』

と聞いたら全て×だ。

 

三権分立の機能を果たせない最高裁なんか罷免しろ。 

主権者の国民として、その権利がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところで

 

最高裁判事が罷免されたら

12月の総選挙は無効である。

 

『0増5減』を周知して

3月くらいに再選挙ということになるしかないのだが

そうなると、泡沫政党は枯れ果てる。

 

政党交付金の申請は1月だが交付は4月だし

12月に選挙がある、と思っているから

各陣営は事務所の賃料、スタッフの給料、街宣車の費用

馬鹿にならないはずで、ざまあみろである。

 

 

 

 

そうなると金持ち、

たとえば『俺は客だ』の松本龍しか当選できないのか?

というとそれもかなしい。

 

いいか?

福岡県民はあの男を当選させたら

日本中から○○・○○(とてつもない差別用語なので自粛)

扱いである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まあ、とにかく、

『国民審査は全員NO』を

合い言葉にしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最高裁判事は15人しかいないが

それぞれの個性なんか知りもしないだろう。

しかし、今回『違憲状態の総選挙』を許したことで

全員NOだ。

 

 

絶対許すな。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の一枚。』

 

 

 

 

 

 

 

たぶん現行じゃないけど

最高裁判事の顔写真。(調べる気も起きん)

「00000000000000000saikusai.jpg」をダウンロード

こんなこと国家機密でもなんでもないと思うのだが

何故画像が引用できないんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

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俺は何か国家機密に触れてしまったのか?

 

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スト権ストの日(再)

11月26日は『スト権スト』の日

 

1975年のこの日

国鉄の労組がスト権を持つべきかどうかをめぐって、

国労・動労がストを実施。

日本中の国鉄を1週間にわたって止めた。

 

 

 

 

 

 

当時私は中学生であり

うちの中学校では、国鉄がストをすると休みという

規定があったために土日あわせて10連休になった。

 

 

毎晩、NHKの9時のニュースを見ながら

『がんばれ労組』と思ったもんである。

 

 

しかしながらこのストは、国鉄本体を滅ぼした。

今日は、そんなお話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『スト権』というのは

『団結権』『団交権』と並んで『労働三権』と呼ばれ

『気に入らなかったら働かないぞ』

というもの。

  

労働者の基本的な権利である。

 

 

 

  

ただし、当たり前だが

公益性を重んじる公務員にはこの権利は制限される。

当時の国鉄は『三公社五現業』といって

昔の受験生なら暗記しなければならなかったんだけど

国鉄職員は『準公務員』という扱いで

スト権は認められていなかった。

 

 

 

ちなみに公務員には『団交権』も認められていない。

そのかわりに人事院というものがあって

『給料あげたれや。』と勧告してくれる。

 

自衛隊・警察官・消防官には団結権も認められていない。

確かに、あんまり『自衛隊労働組合』とか見たくない。

  

公務員一般は現業職員(ゴミの収集担当)とかも

団結権は認められていないのだが

例外が教員で、従って『日教組』という腐った組織がある。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

こんな話を始め出すときりがないので先を急ごう。

  

復員兵であふれかえった国鉄は

組織組合の草刈り場になった。

 

 

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当時社会党系であった総評(いまは民主党系)の国労・動労が

主力となって起こしたこのストは

数でいえば圧倒的であったが故に日本中の鉄道を止めた。

 

 

 

  

国労・動労もいきなりそんな強硬手段に出たわけではなく

毎年『春闘』といって2.3日のストをやった。

  

しかし『スト権』がないのはやりにくい。

毎年の春闘で大量の処分者が出る。

組合闘争は過激化し『幹部のつるし上げ』のようなことが

常態化する。

その中で1960年代から採られたのが

「遵法闘争」という手法である。

  

曰く、

「カーブの手前では必要以上にスピードを落とそう。」

「線路に鳩が止まっていたら危険だから列車を止めよう。」

「気分が悪かったら危険だから乗務を止めよう。」と。 

「遵法」といえばそうなのか?

もちろん安全が第一なのだが、

要するにサボタージュだ。

 

  

しかし、こんな小学生の喧嘩みたいな

サボタージュをやったおかげで

ダイヤは乱れまくった。

遅延欠便当たり前。

 

 

 

 

もちろん乗客は怒った。

上尾事件をはじめとして国電各所で暴動が起こった。

 

 

 

  

この話の流れの中で、 

物流は鉄道からトラックに移った、という奴がいるが

そうでもない。

 

  

ご覧いただこう。 

 

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若干統計が古いが

戦後10年目までは物流の過半を占めていた鉄道は

1960年代に急速に勢力を失って

10パーセント台になっている。

 

  

これは実は10年後でもあまり変わらない。

 

スト権ストは1975年だし、

1960年代に何があったか、というと遵法闘争だ。

これが決定的に国鉄貨物を滅ぼした。 

 

 

 

その一方、トラック輸送が

急速にシェアを伸ばしたのか、

というとそうでもない。

『自動車輸送』は1970年代初めに39%台をマークするが

それ以降は低迷して30%代前半をうろうろしている。

 

この時代、道路もトラックもひどかった。

高速というのは東名・名神くらいしかない。

主要国道でさえ田舎に行くと、舗装もしていない。

トラックもトレーラーなんてない。

 

とてもじゃないが

大量輸送には耐えられる代物ではなかったのだ。

この時代の日本の自動車輸送を

過大に評価してはいけない。 

 

  

船舶が過半数を越えているあたりに注目して欲しい。

外国航路はコンテナ化していたが

国内は、昔ながらの荷役方式。

急にシェアが増える理由はない。

70年代にはいって船舶がシェアを伸ばしているのは

カーフェリーのせいだ。

 

  

高速がないからフェリーを使った。

港を降りればそのまま目的地に行ける

いまの人は知らないだろうが、

昔のフェリーの平土間の雑魚寝フロアなんかは

トラックの運ちゃんばっかりだったのだよ。

 

フェリーだって天気が悪ければ遅延するのだが

そこまでしても国鉄が嫌だったのだ。

 

 

 

 

 

 

  

なにより、遵法闘争で、

いちばん怒ったのは荷主である。

届け先に約束の日に着かなければ

違約金を払わねばならないのは荷主だ。

石炭ならともかく、牛乳なら全量廃棄だ。

  

 

人間なら文句言いながらも振り替え輸送に応じてくれる。

もちろん私鉄が併走していない区間もあったし

併走していても京成のようにまるっきりローカル線だったために

ガラスは割れるは、けが人が出るは、と偉い騒ぎになったが…

 

私みたいに『ストなら学校が休みだーい。』

喜ぶ馬鹿もいる。

 

しかし、貨物の荷主はそうはいかない。

国鉄は、スト権ストの前に急速に顧客を失っていった。

  

しかし、労組は自分達の影響力を過大に評価していたらしい。

すでに国鉄が陸運の王者であった時代は終わっていた。

 

 

 

 

 

 

  

国鉄も、貨物輸送の近代化に

手をこまねいていたわけではない。

  

国鉄にとって、貨物駅に多数の職員を抱えて人力で作業することは

遵法闘争との件だけでも非効率であり、危険でもあった。

そして日本でも、『鉄道離れ』が始まっていた。

 

 

  

1970年代、世界において「鉄道再生のモデル」はアメリカだった。

ハイウェイと飛行機に負け越して

旅客輸送をあきらめた、アメリカの鉄道は貨物輸送に

活路を見いだした。

  

船舶コンテナをそのまま運べるアムトラック

『三流の路盤に一流の列車を走らせる』という資本集中と

信じられないくらいの長大な編成などの

徹底的な省力化で大いに収益を上げた。

 

 

 

日本の貨物輸送もあれを見倣おう、という動きがあった。

1970年代から日本中の貨物取扱駅を削減して

扱う貨物の種類を制限しようとした。

 

このおかげで、別府鉄道とか国鉄に乗り入れていた

愛すべき私鉄が滅んだのだが

国鉄の言い分はこうだった。

 

 

 

 

『コンテナで運べる荷物だけにする』

 

 

 

 

 

いまも、国鉄の貨物列車はコンテナを積んでいるが

あれを徹底しよう、と。

距離あたりの運賃では鉄道はまだまだ競争力がある。

 

ということで、国鉄は全国に貨物線を敷いた。

実は、首都圏のJRの貨物専用線が

最もたくさん敷かれたのが1960年代から70年代である。

 

 

そのうちのひとつに武蔵野線がある。

路線の意味としては、京葉、常磐、東北、中央、京浜

各方面の貨物列車を都心を通らずに連絡しよう、

というもの。

 

 

 

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計画としては

戦前からありました。

 

 

 

     

 

ただし、戦後実現するにあたり、

この鉄道は貨物鉄道の理想を実現しようとする。

  

たとえばこの路線には踏切がない。

全て立体交差なのだ。

 

 

そして決定打は、路線の中間部の埼玉県吉川市に

日本最大のコンテナ貨物基地、武蔵野操車場

つくったことだ。

  

貨車の増・解結、誘導を全てコンピューター制御。

敷地内にハンプを設けて、それ以降無人運転するなど

徹底的に無人化を実現。

広さは甲子園球場3個分以上。

 

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この操車場は、1974年に開業した。

 

ところが、直後に起こったのが『スト権スト』である。

荷主は決定的に国鉄を見捨てた。

 

 

 

  

貨物再生の輿望を担った武蔵野操車場は

たった10年で放棄される

 

00000musashinosousyajou2_2    

 

 

あっさりと廃墟

 

 

  

狭軌の日本の鉄道が船舶コンテナを積めないことも大きかった。

 

いまや、大型トレーラー

コンテナ埠頭から船舶コンテナを

そのまま引っ張っていける時代だ。

  

鉄道コンテナに積み替えて、目的地の近くで

もう一度トラックに積み替えないといけない鉄道は

まったくかなわない。

   

神戸のポートアイランドをはじめ1980年代から

従来の埠頭方式から、ガントリークレーンを並べた

コンテナヤード、というものが一般的になった。

 

鉄道貨物は、少なくとも大量輸送の手段としては

 

社会的な使命を終えた。

 

 

 

 

 

 

 

  

『スト権スト』は

結局、国鉄の労働者を救わなかった。

自業自得の側面が強いとは思うが

乾坤一擲のストの12年後に国鉄自体が滅びる。

  

 

そこはざまあみろ、と思う。

俺は国鉄職員が大嫌いだ。

  

武蔵野線が貨物線だったことなんて

あのあたりに一戸建てを買っている田舎者は知ってるのか?

「あー、ちょっと通勤が不便よねー。」とか言っている奴は

当たり前だ。

田舎なんだから、ボスママも怖かろう。

 

 

  

しかし、未来を目指した鉄道だったことは間違いない。 

ほんの10年間だけ、夢を見た。

 

  

挫折したけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

では、『今日の国労。』

 

 

 

 

 

 

分割・民営化に反対する『国労のCM]』 

 

 

 

 

こんな嘘くさい駅員いねえよ。

 

 

 

リアルタイムに知っているから言える悪口がある。

悔しければかかってこい。

 

 

 

  

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2014年11月22日 (土)

ブラジル人がポルトガル語を話す理由(再)

11月22日は、ポルトガルの、ヴァスコ・ダ・ガマが、

喜望峰を回った日。

喜望峰自体は、1488年に、

バルトロメオ・ディアスという人が 回っているのだが、

この人は船員の反乱にあって、目の前のインド洋を見て

再び引き返す。





そのことが、表題のブラジル・ポルトガル語の起源に

なっている、というお話。






ブラジルがイギリスを抜いて

『世界第6位』の経済大国になる、というニュース。 

(読売の記事)




   

近い将来、仏独も抜いて米日中に続く

世界4番目の経済大国になるのだ、という。




















 

ブラジルというと、南米にあって人口2億人。

外資を積極的に導入して経済も元気。  

来年にはサッカーのワールドカップも開かれるし

2016年には、夏のオリンピックもある。




 

1964年の東京、1988年のソウル、2008年の北京、と

『夏のオリンピック』は『先進国クラブ』への仲間入りだ。

だけど、公用語はポルトガル語。


 

なんで?

ブラジルがポルトガルの植民地だったから、というのでは

回答として30点だ。



 

あんな国の言葉がなぜ、2億人の公用語なのか?

ポルトガル語を母国語とするひとは地球で7番目も

たくさんいるのだが、9割がブラジル人だ。



 

もう、『ポルトガル』語じゃなくて

『ブラジル』語で良さそうなものだが、何故? 

というのが、今日のお話。
























ブラジルはポルトガルの植民地だった、というのは事実。

ポルトガルは海上貿易に熱心で

たくさん冒険隊を出して喜望峰を発見。 

そこで、バスコ・ダ・ガマをインドに送り出して

胡椒を手に入れようとした。



 

ところが、ガマは馬鹿だったので

くそ暑いインドに持って行ったのは毛織物。

インド人がセーターなんか着るはずはないのであって、

鼻で笑われたガマは、2度目の航海で

山ほど鉄砲を積んでいった。

売るためではない。

征服するためだ。







ヨーロッパとアジアのゆがんだ関係は

この時代から始まる。

 

ポルトガルはインドのゴアを占領し、

航路の要地に砦を築いてパトロール船を派遣し、

『カルタス』と呼ばれる通行証を持たない船を取り締まる。

ポルトガルはインド航路を独占した。













 

そうなると他の国は不満だ。


 

スペインは、コロンブスを西に向けて送った。

インドに行けるんじゃないか、と 


こいつもあんまり利口じゃなかった。

だって、『地球が球』であるという前提で航海するなら、

コロンブスの時代でも大体地球の直径はわかる。

しかし到達したカリブ海の島々は、

地球半周分くらいインドに届かなかった。


とりあえず、アメリカを発見、したのはいいとして。

終生、自分が『発見』した土地がインドであると信じていたあたり

何考えてるんだ?お前。












しかし『発見』された土地は魅力で、

それじゃあ俺も、ということでポルトガルを始め、他の国も殺到。

 

『駄目だ、駄目だ。俺が先に見つけたんだもんね。』

スペインがローマ教皇に訴える。

この時の法王が、いい加減な奴で

『そんなら、地球の東半分はポルトガル、

西半分はスペインのものとしたらどうじゃろう。』と

日本人からしたら、いい面の皮の

トルデリシャス条約なんてのを作った。



 

従って、日本に最初に来た南蛮人は

てっぺん禿のポルトガル人、ザビエルだったりするのである。















ところが、このトルデリシャス条約には抜け穴があって、

『境界線』がほんのちょっとだけ、ブラジルにかかる。

 

0000torde_2  

 

 

 

 


さらに、ポルトガル人のカブラル、というおっさんが

すでにブラジルに到達していた。

『じゃあ、ここは俺のもんだかんね。』と、

ポルトガル人が入植し始めた。

 

その後、フランスやオランダとの間で、

あれこれ戦争があるのだが17世紀には

ポルトガルの支配が確立。







   

更にポルトガル本国では、

王様が無茶なモロッコ侵略をやって戦死。

大叔父のスペイン王がポルトガル王を兼ねる。

中南米は全て1580年から60年間、事実上スペイン領となり

トルデリジャス条約の意味は薄れる。

 

この時期、ポルトガル管区の宣教師や奴隷商人が

大河を遡って、積極的に奥地に入った。 

バンデイラと呼ばれる、この探検行で、

ブラジルはトルデリジャス条約の国境ラインを越える。 


 

さらに、ジャングルの奥地に行くには船しかない。

ポルトガルが占領したベレン、という街に大河が流れ込んでくる。


『じゃあ、この川の流域は俺のもんだからねっ。』
と、

さかのぼっていったら、そこは

ピンクのイルカはいるわ、ピラニアはいるわ

『うわあ、気持ち悪い。』と思ったが

その大河はアマゾン川であったので

流域全部あわせると、

とんでもないことになった。







 

ポルトガル人は、同じ事をラプラタ川でもやっているので

あのでかい国が出来た。



  

これがブラジルの始まり。

 

 

 

ブラジル大使館の人の目にとまったら

抹殺されかねない『建国物語』だが、

薄目でぼんやり見たら、そんなに嘘は言っていない。


しかし、これでは

ブラジルがポルトガル領になった説明にはなっても

ブラジル人がポルトガル語を話す理由にはならない。

母国に力がないと、

いかに支配者として偉そうにしていても

その言葉は定着しない








 

朝鮮半島で、若い人が日本語を使うようになったのはごく最近だ。

日本語を流暢に扱うグンソク君なんて

ソウルオリンピック以前であれば非国民だったはずだ。


 

現にポルトガル領だったインドのゴアで

ポルトガル語を使う人なんて1割もいない。 

きちんと歴史のある母国語があれば、

植民地を支配する奴の言葉なんか使わない。

独立する時点で、ブラジルには、

土着語を持つ民族がいなかったのだ。









 

『未開だった』という意味ではない。

ヨーロッパ人が入ってくると、

こいつらが持ち込んだ伝染病のおかげで

現地で高い文明を築いていたインディオは

ばたばたと死んでしまう。



 

代わりに、インディオはヨーロッパ人に梅毒をうつしてやって

ざまあみろだが、とにかく病気のおかげで

部族によっては9割以上が死んだ。

こうなると植民地が維持できないので、ポルトガルは、

先ほどのパンデイラで奥地から奴隷をさらってくると同時に

アフリカから黒人奴隷を連れてくる。

 

砂糖、金、ダイヤ、コーヒー。

ブラジルは宝の国だった。

人手はいくらでも必要だった。

ポルトガル人は混血を厭わない。

インディオや黒人とパコパコやる。

ここがイギリスやフランスの連中と違う。


 

もちろんイギリス人が植民地の女をレディとして

扱ったはずはなくて、やっぱりパコパコやりまくるのだが

ラテン系の連中は、混血児も『マイファミリー』と包容する。


 

ここだけは、ポルトガルを褒めてやっていいと思うのだが、

おかげで、あの国は白黒抹茶ポポイノポイと

民族の祭典のようになってしまった。









 

こうなると、みんな自分のルーツがわからない。

隣のひとはもっとわからない。 

しかたなく使ったのがポルトガル語。


 

共通語はそれしかなかったからだ。









 

ブラジル人がポルトガル語を話す理由、でした。

だから、ポルトガル大使館のひとに知られたら

ただではすまないと思うのだが

心の目で読めば、

そんなに怒ることないじゃない。


















中国にマカオという町があって、

かつてポルトガルの植民地で、カジノの町だ。


 

橋下さんが、『マカオを見習え。』と

大阪にカジノを作ろうとしている。

別にカジノでも何でもかまわないが

『マカオを見習え。』というのは歴史を知らなさすぎる。 

あの人の年齢からして

返還前のマカオを知らないのだろう。

それはもう、ひどい町だった。



 

マカオなんて、香港の観光客が

半日ツアーでカジノと買春に来る町だったのだ。 

しかも80年代であれば、

中共の連中はまだ貧乏だから来やしない。


 

外国の観光客の、そのまたおこぼれで

世界最高の人口密度を養っていたのだ。

そんな街になりたいか?



 

なりたければ、俺は有権者じゃないからどうでもいいが

そんなことより、あの街の連中が

いま、猛烈な勢いでポルトガル語を勉強しだしている。

ブラジルが急成長したからだ。



  

ポルトガル本国に魅力がないから、

返還直後にマカオ人はポルトガル語を捨てた。















ところが、いまポルトガル本国は

相変わらずPIGS魅力がないがブラジルがすごい。 

利にさとい中国人は、

猛烈な勢いでポルトガル語を勉強しだしているという。

見習うなら、そっちを見習ったらどうだ?




おれはもう勉強なんか嫌だけどね。






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2014年11月20日 (木)

『健さん飲み』を残そう。

高倉健さん死去。

(Wikipedia 高倉健)




で、

この人に関して、

私ごときが何か言うべき資格は、なにひとつないのだが

ひとつだけ後世に伝えてほしいのが 

『健さん飲み』である。








『幸福の黄色いハンカチ』の冒頭のシーンで出てくる。


この映画自体のあらすじは 

Wikipediaさんにでも聞いてください。



まあ、あらすじもぐっと来るんだけど

『健さん飲み』ですよ。



殺人罪で6年の刑期を終えた、高倉健演じる勇作は、 

出所して網走の街に出て、しなびたラーメン屋に入り、 

『ご注文は?』と訊かれて 

『…ビールください。』といって、テーブルに座る。


それでも中華料理屋だもん、いろんな匂いがする。


6年の懲役生活というのは想像がつかないが

ビールのオーダーの後で、

『醤油ラーメンと、かつ丼ください』って

おまえ、それ食えねえだろ? 

という分量の注文をしてしまう。

(実際食ってない)



そして、真っ先に届いたのがビール。 

グラスに注がれたビールが、健さんの前に置かれる。 

ああ、そうだな。昭和50年代の食堂では 

1杯目は、こうやって無愛想なねーちゃんでも

それでも満杯に注いで、サーブしてくれたんだ。



グラス、たって安物だよ?

場末の街のラーメン屋なんだから。

明らかに、メーカーのノベルティの一合カップに注がれた、 

黄金色の液体をしばらく眺め、

両手でグラスをつかみ、 

ふたたび、しばらく見つめた後

口から迎えに行って一気に飲んでしまう。



そして、最後に『はーーっ』と長い長いため息をつく。












これが伝説の『健さん飲み』。

40代、50代の野郎どもは、一度は飲み屋で

これをやった事があるはずだ。





うーん。6年の禁酒はできないけど、 

『自由の瞬間』って、たぶん素敵だ。





























では、『今日の「健さん飲み}』


















幸福の黄色いハンカチ 1977年 trailer 投稿者 spyagent0011



                    

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2014年11月19日 (水)

ツタンカーメンの日(再掲)

11月5日は『ツタンカーメンの墓が開封された日。』

1922年のことだ。

(Wikipedia ツタンカーメン)

 

 

 

 

 

エジプトのルクソールにあった、王家の谷のこの人のお墓から

ほぼ未盗掘の『ファラオの墓』が発見された。

墓の入口の発見は11月4日のことで開けられたのが5日。

 

黄金のマスクをかぶったツタンカーメンのミイラとともに、 

多数の副葬品が発掘される。 

 

 

 

 

 

 

 

 

この場所はいまでも公開されています。

 

 

800pxtutankhamun_valley_of_the_king      

 

  

わたしーのー

お墓のー前ーで

撮影をしないでー

 

 

 

 

 

Tutanchamun_maske                   

 

 

そこにーわたしはーいませんー   

 

 

 

 

 

 

そんならどこにいるか、というと

カイロの考古学博物館にあるそうなんですが

いま、エジプトはえらい騒ぎがおこっているので

閉鎖中だそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、

 

発掘したのはハワード・カーターという人物。

イギリスの考古学者で1916年から資金援助を受けて

エジプトの『王家の谷』の発掘に勤めた。

 

 

 

彼に資金援助したのは、カーナボン卿という人物。

 

 

 

イギリスの金持ち、というのは

我々からは想像が出来ないくらいに

許しがたく金持ちだ。

 

高校在学中にパパの伯爵にヨットを買って貰って世界一周をやり

黎明期の自動車レースに熱中し、

それはヨット旅行以上の金がかかったはずだが

ざまあ大事故を起こして

『冬のイギリスは寒くてじくじくして辛くてなあ。』という

境遇になった。

 

 

 

 

 

 

 

避寒地として彼が選んだのがエジプト。

 

 

それ自体は構わないのだが19世紀というのは

イスラムの勢力が衰えて 

英仏が中東に影響力を競って持とうとした時代。

 

しかも、1800年のナポレオンのエジプト遠征で

ロゼッタストーンなんか見つけやがって、という「実績」もあって

ヨーロッパの金持ちには『エジプト発掘ブーム』があった。

(ロゼッタストーンは結局大英博物館に入るんですけどね。)

 

 

金持ちの彼も、

古代遺跡の発掘に熱中する。

 

そこで雇ったのが、当時無名の若手研究者、カーター。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カーター先生、1916年から正式に資金援助を受けて

発掘に乗り出す。

 

カーナボン・カーターの二人とも古王国時代のピラミッドなんか

見込みはないと見切って、ルクソールの王家の谷に的を絞った。

 

注目したのが、偉大な王アクナテンの息子で夭折した

ツタンカーメン

この人の墓は、当時まだ未発見だったのだ。

 

 

 

ところが5年経っても成果が出ない。

カーナボンはカーターを呼びつけて

『来年から金はやらないからな。』と

資金援助の打ち切りを告げる。

 

ところがさすがに17歳の時から

エジプトをうろうろしていたこの詐欺師は  

 

『もう1年だけやらせてくらはい。』と頼み込む。

 

 

自信もあったらしい。実際最後のシーズンとなった1922年では

ルクソール入りしてたった6日で『墓』を見付けている。

 

しかし、てんぱっていたのも確からしい。

こいつがいかに発見に感動したかは

『ツタンカーメン発見』の前後の、この人の日記に

見ることができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カ-ター先生が、リアルタイムにつけていた日記の復刻版が

なぜか無料でWebに載っているので引用しましょう。

( Howard Carter's diaries and journals.)

 

 

 

 

割と、あっさりと『発見』しているのだ。

『ルクソール入りして6日後』の11月4日の記事がこうだ。

 

At about 10am I discovered beneath almost the first hut attacked

the first traces of the entrance of the tomb (Tut.ankh.Amen) 

This comprised the first step of the N.E. corner

(of the sunken-staircase).  Quite a short time sufficed to show

that it was the beginning of a steep excavation cut in the bed rock,

about four metres below the entrance of Ramses VI's tomb,

and a similar depth below the present level of the valley.

  And, that it was of the nature of a sunken staircase

entrance to a tomb of the type of the XVIIIth Dyn.,

but further than that nothing could be told

until the heavy rubbish above was cleared away.

 

(朝10時に最初の小屋の下から王墓への入口が見つかりました。

…それは(既に知られていた)ラムセス6世の墓のすぐ隣にあり

…ごく自然に18王朝の様式の墓へとつながる下りの階段がありました。

そこにたまったたくさんの塵が未踏沓であることを示していました。)

 

 

 

 

 

 

 

 

3種類くらいのメモの復刻版らしいこの日記は

連れて行ったロバの数などは丁寧に書いているが

全体に素っ気ない。

 

それでも、11月5日に玄室に穴を開けて

黄金に満たされた様子を見た時にはうれしかったらしい。

彼は、ロンドンのカーナボン卿に電報を打つ。      

 

"At last have made wonderful discovery

in Valley a magnificent tomb with seals

intact recovered same for your arrival congratulations "

 

(ついに、素晴らしいこの谷から「封印された」墓を発見しました。

早く来てくださいや。一緒にあけましょうぜ。)     

 

 

 

 

 

 

カーナボン卿がいそいそとエジプトにやってきたのは11月末。

彼は11月26日にカーターとともに未盗掘の墓の内部を見る。

この日記の中では例外的に長い文章なので

二人とも興奮してたんだろうな、と思う。

 

 

It was sometime before one could see,

the hot air escaping caused the candle to flicker,

but as soon as one's  eyes

became accustomed to the glimmer of light the interior

of the chamber gradually loomed before one,

with its strange and wonderful medley of extraordinary

and beautiful objects heaped upon one another.

 

There was naturally short suspense  for

those present who could not see, when Lord Carnarvon said to me

`Can you see anything'. I replied to him

Yes, it is wonderful.  I then with precaution

made the hole sufficiently large for both of us to see.

With the light of an electric torch as well as an additional candle

we looked in.

Our sensations and astonishment are difficult to describe as

the better light revealed to us the marvellous collection of treasures

: two strange ebony-black effigies of a King, gold sandalled,

bearing staff and mace, loomed out from the cloak of darkness;

gilded couches in strange forms, lion-headed, Hathor-headed,

and beast infernal; exquisitely painted, inlaid,

and ornamental caskets; flowers;

alabaster vases, some beautifully executed of lotus and papyrus device;

strange black shrines with a gilded monster snake appearing from within;

quite ordinary looking white chests;

finely carved chairs; a golden inlaid throne;

a heap of large curious white oviform boxes;

beneath our very eyes, on the threshold,

a lovely lotiform wishing-cup in translucent alabaster;

stools of all shapes and design, of both common and rare materials;

and, lastly a confusion of overturned  parts of chariots glinting with gold,

peering from amongst which was a mannikin.

  The first impression of which suggested

the property-room of an opera of a vanished civilization.

Our sensations were bewildering and full of strange emotion. 

We questioned one another as to the meaning of it all.

Was it a tomb or merely a cache?

A sealed doorway between the two sentinel statues

proved there was more beyond, and with the numerous cartouches

bearing the name of Tut.ankh.Amen on most of the objects

before us,

there was little doubt that there behind was the grave of that Pharaoh.

 

(それは見たこともない光景だった。ロウソクの揺らぎが部屋の熱気を遠ざけると

目が慣れた私の目前にあったのは、奇妙で素晴らしく、非常識で美しいオブジェで

満たされた部屋だった。

 

我々にとっては当然の、

しかし誰も見たことがない贈り物を前に茫然としていると

前室にいたカーナボン卿が訊ねた。「なにが見えますか?」

「…素晴らしいです…」と、私は答えた…

…以下、数々の宝物の記述

 

 

 

その後、穴を拡げてさらに明かりを入れるのだが、

結局この日は再び穴を塞いで帰ってしまう。

 

翌日は副葬品の搬出に費やし、墓の構造を調べ、

我々以前に盗掘者はいなかったかとかぎまわり、

28日の未明に、守護者の像の間に封印された扉があるって

なんですぐに気がつかないかなあ。

 

そして、その入口の向こうには玄室があり

棺の内部には、

ツタンカーメンが盛装で横たわっていた。

 

 

 

 

 

 

そして29日には、地元の有力者を招いてセレモニーが行われ 

カーナボン卿が自ら棺を開ける、という 

猿芝居までやっている。

 

このニュースは、同席していたタイムスの記者によって

世界中に配信される。

 

 

 

世界は驚愕した。

 

 

 

 

特に冒頭の写真にあげた『黄金のマスク』は

ファラオの威厳を表す、として大人気になった。

 

ジャイアントロボがあんな顔をしているのも

この人のせいである。

 

000000000000000000000000000000000_2         

ま゛
       

 

 

 

どのくらい人気だったかというと、

冒頭にあげた、『黄金のマスク』は1965年に

一度だけ日本にやってきており、東京、京都、福岡の

美術館を巡回するのだが、この展覧会の入場者が

延べ300万人だったという。

(現在は、エジプト国外への貸し出しは出来ないらしいです。)

 

 

 

スポンサーであるカーナボン卿は、

発掘に立ち会った4ヶ月後に急死しているため

『ファラオの呪い』だなんて、やっかみも込めていわれた。     

 

ひどいのになると、

『ツタンカーメンのミイラを開封して、中から「死者の書」

抜き取ったらしいぞ。』    

『ファラオのちんぽこを切り取ったらしい。』    

『だから祟られたんだ。』

なんて、さんざんなことまでいわれた。

 

(カーナボン卿のせいかどうかは知らないが

発掘後、ミイラの性器が切り取られたのは事実)

 

 

 

 

 

もっとも、実際の『発掘者』であるカーター先生は

天寿を全うしている。

 

ただ、晩年は不遇だったらしい。

 

発掘後、10年を掛けてツタンカーメンの膨大な『遺品』を 

カタログにまとめるのだが、学会での評価は 

彼が期待したほどのものではなく、 

カーナボン卿の急死に関する、彼への中傷などもあって 

極端な人嫌いになり、冬にはルクソールのホテルに籠もって 

彼にとっての『栄光の地』を眺めて過ごした、という。

 

1939年ロンドンで没している。

 

享年64。

 

 

 

 

 

 

こんな劇的な『発見』ができる、

盛り上がりのある人生を送れる人も少ないと思うが

『成功者』には、

私みたいなぼんくらな人間には

わかり得ない苦労があるんでしょう。

 

 

 

 

でも、ちょっとくらいは成功したい…

 

くすん…

 

 

 

 

いま、「せいこう」って打ったら、『性交』って変換された。

 

ATOKのばか…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の一枚。』

 

 

 

 

 

 

 

 

カーターさんのお墓   

00000000000000000000000000000000000     

 

 

 

 

 

テニスで有名な

ウィンブルドンにあります

 

 

 

 

 

 

写真撮る前に草取りくらいしてやれよ

 

 

 

 

 

                    

 

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2014年11月17日 (月)

ロボの日

11月16日は『昭和天皇誤導事件』の日。

桐生鹵簿(ろぼ)誤導事件』ともいう。

 

 

 

なんだそれは?というのも当然で、

今日、振り返られることはあんまりない。   

 

 

 

 

 

要約すると、

『昭和天皇の車列の誘導を間違えちゃった。えへ。』

ということで、それだけ。

歴史的な意義も、それ以上のことはない。  

 

 

『鹵簿』(ろぼ)というのは陛下の車列のこと。

古語だと、牛車だったり馬車だったりしたのだが、

昭和9年当時は自動車で、これの誘導を間違えた。

 

現代の視点でいうと、『だからなんだ』という話である。

 

 

でも、事件そのものには

今日にも通じる教訓がいくつかある。 

 

 

 

 

 

振り返ってみよう。  

 

 

昭和9年11月、高崎練兵場の大演習を観閲された昭和天皇は

せっかくだから、群馬県を見て回ることにした。

 

行幸は3日間。

当然ながら、行程のすべてを警察が警護することになった。

 

 

警護担当は地元の警官。

誘導の指揮を執ったうちの一人に、本多という警部がいた。

 

「行幸先導」は、半年以上前から、さんざんに訓練されていた。

本多警部は3日の行程のうち、11月15日の前橋の担当で、

無事にこれを務め上げる。

 

ところが、祝宴を張っていたところに電話があって

桐生を担当するはずだった別の警部が発熱したから

明日もやってくれ、という。

 

桐生での訓練に参加していなかった本多警部は

固辞したらしいのだが、結局は引き受けさせられた。

 

 

当日の鹵簿は、本多が乗った『先導車』と

陛下や侍従を乗せた車列で、あわせて8台。

 

ところが本多は『緊張のあまり』、当日の道順を間違え、

左折するべき交差点を直進してしまう。

 

ここまでで重大な間違いが、いくつかあるんだが

とりあえず事件の全部をご紹介する。

 

本来最初に来るべきであった、桐生西小では

「陛下一行が行方不明」と、大騒ぎを起こした。

 

逆に、30分後に来るはずだった桐生高工では、

到着予定時間の遙か以前から

全校生徒を、正装着帽の上で整列させて準備していた。

もっとも、その時に校長は、「まだ30分も前だから。」と

校長室で茶を飲んでいた。

 

到着30分前に全生徒を整列させてた神経も信じられないが

それを眼下に見ながら茶を飲んでいたというのは

しょうがねえな田舎者は、と思う… 

 

直前まで茶を飲んでいた、この田舎校長は

校外で警護していた警官の『最敬礼』、という

号令を聞いて、慌てて、窓の外を見た。

 

そこには、陛下の車列が迫りつつあったので

校長は、モーニングをひっつかむや

こけつまろびつ階段を駆け下り

玄関に佇立したのは

御料車から陛下が降りたのと、ほぼ同時。

 

かろうじて『陛下を待たせる。』という

松本復興相なら激怒するであろう事態が回避できた。

 

それだけで、許し難い出来事なのだが、それだけなら

これは、『地方行幸』の中での小さな事故。

大多数の当事者が、当時はそう思っていた。 

 

 

 

 

 

 

ところが、天皇が東京に帰る日、

誘導の責任者だった本多警部が自殺を図ってしまう。  

しかも、還幸の御召列車の汽笛を合図に喉を突く

というドラマチックな演出つきだ。

 

このつまんない事件は、そのおかげで、全国ニュースになる。 

 

 

 

事件そのものの顛末は、かような次第。

 

自殺を図った本多警部は、

本人にとって、幸か不幸か一命を取り留めた。

結果だけ見たら、どうという事もない。

しかし、この事件は当事者である、

本多警部の意図を超えて異様で、極端な広がりを見せる。

 

 

まず、総理と文部大臣が陛下と国民に謝罪し

行幸の担当者は譴責、減俸といった、履歴に残る処分を受けた。

 

桐生市民は、さらに恐懼した。

事件の6日後、同じ時刻に桐生全市はサイレンと共に

全員皇居に向けて最敬礼し、不敬を恥じて黙祷した。

 

野党の政友会が文部大臣の責任を問うて

帝国議会で政府を非難したりもした。

 

そして、自殺を図った本多警部は世間の注目をあび

時節柄、『忠臣』『硬骨漢』『至誠の人』と

大いにもてはやされた。

 

あほらし。

 

 

詳しい結果はWikipediaをどうぞ。 

 

 

 

しかし、それならば、どうしたらよかったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

まず、なんで予行演習もしていない男を

当日の責任者にさせたのか?

 

担当者が急病になる、こどもの腹が痛い、嫁の機嫌が悪くなる、

ということはあり得る話だ。

 

家族のことなら、ぶっ飛ばしてもいうことを聞かせろ、

という時代だったかも知れないが

緊急事態に備えて、同じ訓練を施した

予備スタッフを揃えておくのは当然のことだろう。

 

前日の深夜になって

「ごめん、明日出てきて」っていうあたりが

群馬県の負けだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして更に、本多警部が間違った時

後続の車列は

無視してもよかったんじゃないか?

 

行幸の車列は、いきなり天皇が乗っている訳じゃない。

3番目くらいの車に乗っていたらしいのだが、

当然、後続車両の関係者は、

「あ、こいつ間違えた。」という事に気がついていたはずだ。

 

気がつかないはずはない。

群馬への行幸ということで半年前から訓練し、

官民挙げて準備をしていて、そのルートは分単位で予告されてた。

 

 

だから、その瞬間、

本多を無視してもよかった。

 

 

 

車列を混乱させるのは畏れ多い、というのが

Wikipediaさんの主張だが、

しかし、そこは、所定のルートを通るべきだった。

 

予定外のコースを通って

テロにあったらどうするつもりだ?  

 

 

そうしなかった理由は、よくわからない。

『テロ対策』とかを考えたら、

今日でも通じる話だと思うのだ。  

 

『予定を滞らせたくない。』ということが最優先だったらしい。

 

緊急に本多さんを呼び出した件といい 

どうも、この田舎警察の考えは

『式次第を滞らせたくない。』ということに尽きていたらしい。

この辺りの田舎具合がいやだ。

 

 

 

 

 

 

 

もっとも昭和天皇は、行程がおかしいことに気がついていて

桐生高工に到着した時、玄関先に校長がいないことを察して

わざと時間をかけて下車したおかげで

この田舎学校の名誉をすくったという説がある。

 

ほんとか嘘かはともかく、

天皇に出来たのは、この程度でしかなかった、ともいえる。  

 

事態の異常は、天皇も自覚していたはずだし

本多警部自殺、というニュースは伝えられていたのだが

そのことに対しての反応は、

我々ごとき下々のものにはわからない。 

 

ただ、誤導を責めるようなことは一切言われなくて、

行事そのものは、当日も翌日も粛々と行われた。

 

『道間違えたから、責任感じて死んじゃいました。』

といわれても、どうしろっていうの?

 

 

『よくやった。』とは言えないだろうし…

 

 

 

 

 

 

 

 

なによりもうひとつ、

この事件のあとの社会の反応が嫌だ。

 

彼は重傷となって病院に収容されるのだが

生死定かならぬ時点で

『よくぞ、忠臣。』

『さすが、警官。根性がある。』とかマスコミがあおり立てた。 

死を賭した本多警部は全国のヒーローになった。

 

 

それゆえに終戦後、昭和天皇が「人間宣言」をして

その後、もみくちゃにされながら「全国巡幸」を行ったことに

彼は衝撃を受けたらしい。

『俺の生涯はなんだったんだ。』、と。

 

 

彼は、そのニュースを受けて、戦前にもらった

マスコミの記事や、励ましの手紙をすべて焼却した。 

 

自分を褒めてくれる文章を10年以上取っておくなよ、と思う。

正直、こんなじいさんが親戚にいたら

たまらないと思うのだが、責める気にはなれない。

 

手のひらを返した世間だってひどいと思う。 

 

 

 

 

 

 

世間的には注目されないけれど

今日にいろいろ教訓を残す事件じゃないでしょうか。

 

本多警部は事件後、警察を辞めて故郷に帰り

『天皇の人間宣言』までは、勤め人をしたが

その後隠棲し、昭和35年に68歳で死んだ。 

 

なんか、哀れを感じてしまう。

 

 

 

一生になしえた仕事が

『道案内を間違えた。』だけというのも

おかしいけれども、笑えない。

 

哀しい…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日のロボ。』

 

 

 

 

 

 

 

大正鹵簿(ろぼ) 

0000robo3 

 

 

 

 

 

 

大正天皇即位の礼での鹵簿。

牛かと思ったら、どうやら馬。

 

 

 

 

 

 

 

昭和鹵簿(ろぼ) 

0000robo  

 

 

 

 

 

昭和5年、関東大震災の復興事業完了に合わせて、

都内を巡幸する昭和天皇。

清洲橋を通る陛下の鹵簿。

 

 

 

 

 

 

 

 

ジャイアント・ロボ

0000robo2    

 

 

 

 

 

 

どうしても、この写真を載せちゃうあたり

我々の限界だと思う。 

 

 

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2014年11月16日 (日)

ベルリンの壁の日

8月13日は、ベルリンの壁建設の日。 

1961年のことだ。

(Wikipedia ベルリンの壁)






今年はベルリンの壁崩壊から25周年。

なので1年前の記事だけど再掲します。

 

 

 

 

 

 

 

 

          とし

『その時、利さんはベルリンの壁の展望台に上がって、

双眼鏡で東側を覗いていた。

壁は二重に築かれていた。百米ほど向こうを、第二の壁が

左右にどこまでも延びている。壁と壁の間は谷になっており、

首を出して見ると、谷底の道を軍服を緑色の着た兵隊が二人、

肩から機関銃を吊し軍用犬を連れて歩いているのがみえる。

時折何の前触れもなく、兵隊を乗せたジープが

猛烈な勢いで通過する。

 

第二の壁の彼方には、東ベルリンの労働者住宅が

窓のない顔を並べ、ひっそりと静まった道路を

婆さんが一人歩いているばかりであった。

 

婆さんの姿が利さんの注意を引いたのは、

挙動に不自然が感じられたからである。

婆さんは買い物籠を下げて、妙に硬直した容子で歩いていた。

時折、あたりを見廻すような事をする。

利さんが眺めていると、

婆さんは突然買い物籠から双眼鏡を出して、

利さんの乗った台の方に素早い一瞥をくれた。

と思った次の瞬間、もう双眼鏡は買い物籠の中に姿を消し、

婆さんは、素知らぬ顔で凝とあたりの容子(ようす)を窺っている。

何でも余程の大事を決行しているに違いない。

婆さんは、以上の動作を、

間合いを置いて何度も繰り返すのであった。

 

利さんは双眼鏡から目を離して左右を見廻した。

折良く台の端に、紺の制服を着た大きな兵隊が

機関銃を抱えて立っている。

利さんは早速この大男を捕まえて「あれは何だ」と聞いてみた。

兵隊の答えはこうであった。

西ベルリンから東ベルリンに秘密の連絡組織がある。

多分あの婆さんがやっているのはこういう事だろう。

即ち、西ベルリンの誰かが、

秘密の組織を通じて婆さんに手紙を出す。

但し、今日手紙を出したからといって、明日相手がそれを

受け取るというふうには事は運ばぬ。

時には一と月、時には半年、時には一年以上の時日を

要する事すら穿れ(まれ)ではない。

それ故、手紙の差出人は、おそらく一年なり二年なり後の

何月何日何時何分自分が壁の何処の地点にあって

ハンカチを振る、とでも書き送ったのであろう。

多分、今、この壁のどこかに手紙の差出人が来ているに違いない。

二人はお互い双眼鏡で相手の姿を確かめ合い、一瞥の短きに

万感の思いを託してハンカチを打ち振るのである、と。

 

この話を聞いた時、利さんは、

何者かに脳天を一撃されたかのごとく思った。

 

これは既に、国境がどうの、国家の体制がどうの、

東と西の生活水準がどうのという次元の話ではない。

二年先のハンカチの一振りである。

声さえ届きかねる彼方との一瞥である……』

 

 

(伊丹十三 「ハンカチ」。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二次大戦に負けたドイツは米英仏ソの4ヶ国の 

共同統治の下に置かれた。 

 

 

250pxmapgermany1947_svg

うす黄色の部分は

戦後にドイツが失った領土 

ドイツ自体が4カ国統治。

ベルリンはソ連統治区域の中での

さらに入れ子の4カ国管理区域

 

 

 

マーシャルプランで、じゃぶじゃぶアメリカの資金が入った

西ドイツとは分割直後から経済力の差があった。

ベルリン封鎖をへて東西ドイツは、分断国家となってしまう。

ところが秘密警察に見張られて自由が無く、経済力でも差がある

東ドイツの歴史は『国民が逃亡する歴史』であった。

 

なにより、

みんな共産党なんか大嫌いなので

53年には大規模な暴動が起こるが、ソ連軍が鎮圧する。

建国当初は『壁』がなかったから東西の往来は自由。

この年だけで33万人が西に逃げ

その後も大体、年間15万人くらいが西ベルリン経由で

西ドイツに逃げた。

 

1959年から、農場や商店・企業の『集団化』という名前の

私有財産の召し上げが始まると逃亡者は急増。

60年には年間20万。61年に入ると倍のペースで月間8万、

61年8月は半月で5万人が東ベルリンから西ベルリンに逃げた。

 

業を煮やした東ドイツ政府が

ベルリンの壁の建設を始めたのが1961年8月13日から。

 

 

 

 

 

 

で、

 

『壁』建設までの経緯。

 

 

 

『壁』は国民の逃亡を防ぐために築かれた。

そして伊丹十三が描いたように、

37年以上にわたって厳然と存在し続けた。

 

そして、壁が崩されたのもまた、

国民の逃亡によってである。

 

1980年代後半、一気に表面化した東欧民主化の中で

『ハンガリーに行けば西に行けるらしいぞ』という噂が

東ドイツに流れる。

 

そこで行われたのが1989年8月の『汎ヨーロッパ・ピクニック』

これで1000人以上の東ドイツ市民が国境を越えた。

これがきっかけとなって、壁は崩れる。

 

 

 

 

『東ドイツ』とは

風船のような国だったのだなあ、と思う。

 

『二重の壁』といっても、国土から見たら、ごく薄い膜に守られて

それが破れたら、空気が抜けるように消えて無くなった。

 

破れた風船は『お土産』として売られ、

いまやほとんど残っていない。

 

 

 

『東』を受け入れるのは『西』の国是であり、 

統一前から亡命者の受け入れなどを行ってきた。

 

しかし、1989年の8月に第三国経由で国民が逃げ

11月に壁が崩れて翌年に国家がなくなっちゃう、とは予想外で、

東の再建のために多額の出費が必要だった。

 

ベルリンの壁の大半が撤去されているのも

過去を忘れるためであり、東ベルリンはポツダム広場などを

初めとして、大規模な再開発が行われた。

 

『西』の国民にも不満の声があるらしい。

 

 

 

 

 

『東』の市民も、冷戦時代は窮屈だったけど、

年金なんかは一応あったし、

(但し年金受給年齢になると無条件で西ドイツに行けた。)

なにより、東欧でなら、有数の工業国で経済的にもてっぺん。

 

ところが統一してみたら、10年待たされて買ったトラバント 

ワーゲン・ビートルより遅いじゃないか。 

なんか『二等市民』になったみたいで悔しい、と 

不満があるんだそうだ。























しかし、

 

体制が違っても同じ民族だから統一できた、とも言える。 

経済格差があったから統一できた、とも言える。 

相当程度情報が流れていたからだ、とも言える。

 

 

世界にはまだ、分断国家がある。 

キプロスや朝鮮半島、大陸と台湾の『二つの中国』。

 

 

 

 

 

 

民族や宗教が違うキプロスは、

統一も連邦も話が進まないらしい。

(キプロス共和国 外務省)

 

同じ民族の中国と台湾は、別に経済格差がある訳じゃない。

平均したら、まだまだ台湾の人のほうが遙かに豊かだろう。

 

そういう意味で、この三つの条件を満たすのが南北朝鮮。 

やり放題の北の坊やを、なんだかんだいって 

北京政府が見逃しているのは、 

『北が崩壊したら多数の難民が中国に来る。』のを 

恐れているからだ、という。
















ベトナム戦争が終わる時、撤収するアメリカ大使館に

多数の南ベトナム市民が殺到し、ヘリで亡命しようとした。

 

00000000000000000000000000000000000        

 

 

蜘蛛の糸みたい

 

 

 

 

 

 

 

アメリカは給油して再離陸させる時間とスペースがないから 

空母に着いたヘリを海に蹴り落としながら輸送した。

 

Vietnamese_uh1_pushed_over_board_op    

 

 

 

もったいない

 

 

 

 

 

もちろん、こんなもんでは運びきれないので 

置き去りにされた人は

ボートピープルになって南シナ海を漂った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だから、『国家崩壊=大量難民』というのは、

あり得る事なんだけど

あの国の人にそんな元気があるかしら。

 

東ドイツの人は知識も情報もあったから逃げた。

いまの北朝鮮だったら、中国にゴルバチョフが現れない限り

チキンレースを続けるような気がする。

 

 

 

 

もちろん『脱北者」という人はいる。

だから、あの国』を

あんまり馬鹿にしてはいけないような気もするが

やっぱり情報を封鎖しているような国はだめだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だから、いい加減にしてくれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日のCM』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

sony wega cm / power of tv

 

 

あまりに見事な名作。

 

 

この中で、『ベルリンの壁崩壊』のニュースを聞きつつ

それでも背後には、あからさまな盗聴器があって

老夫婦二人が無言で手を握っている、という映像があります。

 

 

 

   

           

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ちょきんと切れ

台風で退避していた、小笠原沖の中国密漁船が

また舞い戻ってきて200隻近くになっている、

さらに領海に侵入している船が139隻もいるというニュース。

(毎日新聞の記事へのリンク)








『少なくとも領海に侵犯した船は撃沈したらいいじゃないか。』


『海保の巡視船が109隻を退去させたそうですが…』


『小笠原沖でなにが獲れるの?』


『えーと、紅サンゴ、だそうです…』


           

                  

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ネックレス…

本体価格が500万円で

小売価格2500万円って

わけわかんねー







             
                 

『じゃあ日本も、1000隻の漁船を仕立てて、 

小笠原の中国船を妨害する。』


『平然と、戦争になりかねないことを言わないように。』


『漁船だったらいいのか?』


『小笠原漁協の船は1000隻もありません。』


『じゃあ、入漁料を払って臨時に入る。』








『そもそも資源の乱獲を

中国人と同じレベルで争っちゃいけません。』


『いや日本船は、堂々大漁旗と旭日旗を掲げて

中国船の網を、ちょきんと切る。』


『水上で喧嘩したら国際問題になりますって。』


『じゃあ、1000人のフロッグマンを潜水させて、 

奴らがはっている漁網を、ちょきんと切る。』


『……』


『……』


『最近は、「占有」の事実をつくるために、

網を降ろさない漁船もいるらしいですよ。』


『そういう船には、フロッグマンが近づいて

スクリューシャフトを、ちょきんと切る。』


























では、『今日の一枚。』













ロシア軍のフロッグマン。

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Protei-5水中スクーターに跨り

APS水中銃を装備した

ロシア軍のフロッグマン






フロッグマンというのは、漫画や時計のことじゃないのだよ。

 

 

                        

 

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2014年11月12日 (水)

ドリームランドが廃墟

奈良市の中心部にあり、2,006年に閉園した

奈良ドリームランド』が売れないんだそうだ。

(読売の記事へのリンク)









『バスでしか行けない、とか書いてますけど

ここ近鉄奈良駅から2kmくらいなんですよね。』


                

2014y11m11d_213900511


なぜ、こんな古都のど真ん中に、

というのは、もちろん理由がある。

                
                            








                
              

              
『じゃあ、なんで売れないの?』


『市街化調整地域で、風致地区で、

とにかく分譲マンションなんか建たん。

いまある遊園地の撤去費用だって馬鹿にならん、と

入札する業者がいなかった、と。』

            

2014y11m11d_213829757



ここが廃墟なんだぜ。








『市街化調整地域で風致地区ですと?』


『…はあ。いまの都市計画法の施工が1968年、

法規制の隙間だったんでしょうなあ。』


『しかし、だったら。あんた建物はおろかジェットコースターなんか 

作っちゃいかんでしょう。』


『…まあ、ジェットコースターは、「工作物」ですからね。

もっとも今や、奈良でも最も厳しい建築規制が掛かっています』


『この地域は、世界遺産だもんなあ。』


『高さ10m以下、公益施設以外は不可。』


『それでここに火葬場をつくろうという提案があったな。』


『あほですね。』


『…むう。』











『それにここの土地を買い占めてドリームランドを開園した

松尾國三という人物は、伝説の地上げ屋で○○○です。』


『え?お前その表現は…』


『Wikipediaの表現なんかまだかわいらしいですよ。』


『「芸能界の黒い太陽」とか書いてあるぞ?』










『日本の都市計画を調べたら、必ず

こういう人たちが出てきます。』


『…むう』


『国鉄千葉駅が移転した時にその周囲の地域を地上げした

○○○業なんて、千葉市民はおっかなくて…』


『えーと、この記事は大丈夫なのかなあ。』


『でも、あの会社は、千葉駅前の徒歩5分に地上げした

広大な空き地を、駐車場にしてですね。』


『いま、千葉そごうが建っているところだな?』


『果てしなく広い駐車場の彼方に、高架線の内房線があって

その向こうに、高さ百尺のビル群が建っている。』


『ちょっとシュールな風景だったよな。』


(以下自粛)









『で、奈良ドリームランドだよ。』


『あ、逃げた。』


『「新築」ができないんなら、 

「廃墟」のまま使ったらいいんじゃないか?』


『どういうことです?』


『アトラクションは稼働させられないだろうから 

いまのままの状態で客を入れる。』


『危ないですよ。』


『馬鹿野郎っ。』


『ひっ。』







『廃墟マニア、なんて日本中にいるんだ。』



『長崎の軍艦縞の一般公開が行われるようになりましたな。』


『ドリームランドが、火葬場にもマンションにもならない 

というんなら、いまのまま公開しちまえ。』


『……名前は?』


『奈良・ドリーム・廃墟。』


『やめろっ。』






























では、『今日のドリームランド。』



















関西以外の地域の人にはさっぱりわからないと思うので

奈良健康ランド、っていう素敵な施設があるんですよ。


                    
このCMが2014年公開だった、ということを

笑うなっ。健康ランドは、ふにゃっとしていいところなんだ。

 

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2014年11月 1日 (土)

ウェザーリポートの日

11月1日は『ウェザーリポートの日』

ウェザーリポートとは、 

現在の天気や雲の様子、自然現象、気温・湿度・気圧などの 

“見たまま”をウェザーニューズ社のサイトやアプリを通じて

報告することで、機器では捉えきれない気象状況を

人間の五感でつかまえるという、

観測を越えた感測を集約させた、

「みんなで作る天気予報」の根幹たるシステムであって

いわゆるビッグデータの先駆けともいえる。だそうです。

よくわからん。






つまり、ハゲのおつむに雨が当たったら

それを『ハゲダス情報』として利用する、という訳だな?

このウェザーリポートが始まったのは

2005年11月1日であるが、

その9周年をむかえるにあたり、

日々の報告活動に励まれている

全国数百万リポーターに感謝の意を表し、

その功績を顕彰する日として、

この日を「ウェザーリポーターの日」とすることが、

2014年に日本記念日協会からの認定を受け、

同年10月24日の24時間生放送お天気番組

SOLiVE24」内で公表された。















超いらねー。





ということでウェザーリポートのバードランド

あまりに名曲なのでどうぞ。









こういう名前を冠した店は、

当時、阪神間にいくらでもあったさ。


『当時』がいつなのかを言わないのも 

『どこだよ』っていうことを言わないのも



歳をとったなあ。



















せっかくだから

この名曲をカバーしている皆さんを紹介しておきます。

メイナード・ファーガソンさん。







マンハッタン・トランスファーの皆さん


















では、今日の一枚。』








ジャコパスが参加しているバードランド。

>






 

なんか画像をコピーしたら『ハチ』が付いてきたから

いっしょにご覧ください。

 

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ウェザーリポート、どこ行ったって言われても

ハチかわいい。

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