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2015年3月 8日 (日)

忠犬ハチ公の日

没後80周年の今日、

忠犬ハチ公の銅像が新たにできた、

というニュース。 

(読売新聞の記事へのリンク)


ただし、多くの日本人が知っている

渋谷駅前の坐像ではなく

飼い主だった帝大教授の上野先生に飛びついて

抱きあう像だそうで、場所も渋谷駅前ではく、

本郷の東大構内。

そもそも渋谷駅前の像も、まだ撤去されておらず 

(渋谷駅の再開発によって、夏に移転予定) 

待ち合わせのカップルは困ってしまうだろう。


『ちーがう―の。本郷じゃなくて渋谷駅

あたし、ちゃんと言いましたからね。』



まあ、迷うやつはおらんか。

それでも、夏以降渋谷駅前のほうの銅像が移転したら

『ハチ公前で待ち合わせ』というと、

東大の構内に入らないといけないのだろうか。




実はハチ公について半年前にも書いているので

再掲します。

ではどうぞ。















8月8日は『忠犬ハチ公』の銅像ができた日。

昭和23年(1948年)のこと。

(Wikipedia 忠犬ハチ公)






渋谷駅前のハチ公像、といえば、

待ち合わせの目印。

『ちーがう―の。モヤイじゃなくてハチ公

あたし、ちゃんと言いましたからね。』

と、いまでも日本中のカップルの、…けっ。








で、

 

もうすぐわれわれが見ることが

できなくなるはずの

ハチ公像ができたのが、この日。

え?戦後にできたの?と思うだろう。

そして、見られなくなる?という事実。

そこに、この犬と銅像の不思議な生涯の波乱が

込められている。













ハチは1923年、秋田県で生まれた。


東京帝大の教授であった上野先生、という人が

『どうしても秋田犬を飼いたい。』と秋田から

人を介して30円で彼を引き取った。


省線の初乗り運賃が、大人5銭という時代。

いまなら10万円くらいか?

さらに言えば、『金を出して犬を買う』という

ことがまだ一般的ではなかった時代でもある。

しかし、一人暮らしだった上野先生は、

ハチを愛した。

さらに上野先生はよほどきっちりした性格

だったらしい。

毎日の散歩の時間がぴったり変わらなかった

カントのように、先生の出退勤時間は毎日

おなじだった。

だからハチも、毎朝、出勤する先生を見送り

先生の退勤時間には、最寄りの渋谷駅まで

迎えに行った。






まあ、ここであえて野暮なことを言うけど、 

自宅の敷地内で、リードも付けずに

事実上放し飼いにし

その犬が、てくてく町を歩いて

渋谷駅にやってくるなんて 

今日では考えられない。


実際、上野先生の死後、

ハチは人を噛んだりすることもあって嫌われ

2度住居を変わっている。








しかし、上野先生との幸せな生活は

1年余りだった。

先生は、講義中に倒れて、

そのまま病院に運ばれて死んじゃった。


その後彼は、あちこちに転々と引き取られるのだが 

『なんだよっ。浅草なんて知らねえっぺよく』 

ということで暴れ、結局は上野先生のところの 

植木を手入れしていた小林さん、という人に

引き取られる。 

昭和2年(1927年)のこと。 

この人の家は、いまの渋谷区にあった。


それからハチの渋谷駅参りが始まる。

帰らない主人を待つ、ったって

そんなのよその人間にはわからない。

酔客にいたずらされたりしたこともあるらしい。










で、

このままだったら、たんに

『改札の前にいる野良犬』である。

彼が、『忠犬』なった理由はなんだろう?


ここが一番わからないんだけど、
  

とりあえずWikipediaさんの言い分を

聞いてみよう。



『一方、上野(教授)を迎えに渋谷駅に通う

ハチのことを知っていた

日本犬保存会初代会長・斎藤弘吉は1932年

(昭和7年)、渋谷駅周辺で邪険に扱われて

いるハチを哀れみ、

ハチの事を新聞に寄稿した。』



なぜ斎藤はハチと上野先生との

エピソードを知っていた?

 

不思議な顛末は以下のとおり。

 

『これは東京朝日新聞に「いとしや老犬物語」

というタイトルで掲載され、

その内容は人々の心を打った。

有名となったハチは

「ハチ公」と呼ばれかわいがられるようになる。』とな。


斎藤先生は『病気療養中に出会った

日本犬の影響を受け

1928年(昭和3年)7月、日本犬の調査中に

偶然ハチの存在を知る事となる。』って

書いてあるんだけどさぁ、

なんか飛躍があるような気がする。




ともかく、新聞で紹介されたハチは、

上野先生とのエピソードなどが伝わるにつれ

『二君にまみえぬ忠犬』として、

戦前の世相の中で、当然、

ハチ自身が企図したものではない人気を得る。

別に彼に狙いはないか。

ただ、いじめられていた時代にも変わらずに

渋谷駅に通ったことを見ると最初は、

純粋に『待つ人』だったんだろう。

改札から上野先生が出てきたとしたら、

やっぱり 跳ねまわって喜んだんだろうか。



『二君にまみえぬ忠犬』って 

その時の飼い主の小林さん、

面子丸つぶれだが。



ただ、本人、というか本犬が意図しない

この大人気は彼の周辺を変えた。

まず、銅像が建つ。


昭和9年に渋谷の駅頭に建つ。

これを周旋したのが、ハチのことを新聞に

投稿した斎藤先生。

Wikipediaでは、

たっぷりの美談として書いてあるが 

どう考えても、マッチポンプである。


なにしろ、この時まだハチは生きていて

彼は自分の銅像の『建立式』に出席している。

普通、遠慮するだろう。





早速待ち合わせ場所、に使われたかどうかは

知らない。

     
『ちーがう―の。モヤイじゃなくてハチ公

あたし、ちゃんと言いましたからね。』

まあ、昭和9年にモヤイはないやね。









ハチの死は1935年(昭和10年)

晩年の様子を、宮脇俊三先生が

『時刻表昭和史』 という本に書いている。

昭和8年、宮脇先生が小学校に上がった時の記憶、 

既に、新聞で紹介されたハチが

有名になっていた頃である。



『その渋谷駅の改札口の北側に接して

小荷物扱の窓口があった。

出し入れする荷物の擦痕と柾目の交錯した

厚い一枚板が武骨に張り出していて、

その上に荒縄をかけた行李がドスンと置かれる。

駅員は荷札を確かめてから、引きずるように

して三和土の上の看貫秤に手荒く載せる。

秤が音を立て、針が大きく震えた。

昭和八年、その小荷物窓口の厚い一枚板の下に、

一匹の老犬が生気なく横臥していた。

白い大柄な秋田犬である。

肩や腰の肉は落ちて腹部の皮はたるみ、

眼は物憂げに閉じたままで、

厚板の上に放り出された荷物の音にも

何の反応も示さない。

喧騒な渋谷駅前では、この一隅だけが

老犬の存在ゆえに静かに倦んでいた。』

老年のハチが、もはや改札口ではなく

小荷物のカウンターの下にいた理由について、

こう記している。


『要するに餌の問題さ、と揶揄する人もおり、

そのほうが真実らしいことは私たち子供にも

理解できた。』

 

ハチが渋谷駅にいた理由は、焼鳥のためだ、と


実際ハチの遺体を解剖したら、胃の中から

複数の焼き鳥の串が出てきた。

客や駅員が、弁当や、焼き鳥を買い与えていた

ことも当時から有名だった。



これに対して、Wikipediaが一生懸命反論している。

もう改行がめんどくさいのでコピペした文章を

どうぞ。

『ハチが毎日のように渋谷駅に現れたのは、

駅前の屋台で貰える焼き鳥が目当てだったという説もある。

一方、実際のハチには、この説と合致しない行動が知られている。

  • 屋台が出ない朝9時にも必ず駅に通っていた
  • - 「ハチの渋谷駅へ行く日課は正確であった。
  • 小林宅を出るのは毎日午前九時ごろ。しばらくすると戻る。
  • 夕方は四時近くなると出かけ戻るのは
    午後五時過ぎから六時頃であった。
  • これは、上野が朝出かける時間と夕方の帰宅時間であった」。
  • エサを貰えるようになったのは、駅通いしていた9年間のうち、
    美談として報道されたのちの有名になった
    最後の2年間のみであった - それ以前は、
    駅員や焼き鳥屋、子供など駅周辺の人々から
    邪険に扱われており、時には暴力を受けるほどであった。
  • 上野に代わった飼い主・小林菊三郎はハチを大切に飼育しており、
    食事として牛肉を与えていた - ハチが空腹になることは考え難い。
  • 渋谷駅では屋台前ではなく、
    上野が出てくる改札口前に直行して座っていた。

また、ハチ公の美談を世に知らしめた斎藤弘吉は、

「有名になるといつの世でも反対派が出るもので、

ハチが渋谷駅を離れないのは

焼鳥がほしいからだと言いだす者が出た。

ハチに限らず犬は焼鳥が一番の好物で、

私も小林君もよく買って与えていたが、

そのためにハチが駅にいるようになったものでない…」と、

自身の著書の中で異論に反対している

(斎藤弘吉 『日本の犬と狼』 雪華社)。





さて、

『客や駅員、そして斎藤先生自身でさえが

自分で買って与えた』 っていうのに、

『屋台の前にはいなかった

(だから待ち構えていたわけじゃない)』

という反論に意味はない。


『目撃者』である宮脇少年は、

ハチがもはや改札前にいなかったことを

はっきりと手触りのある文章で記している。

そして、晩年のハチは駅前で夜を過ごすことも

黙認されていた。


後半の『斎藤先生の反論』は、

もはやめちゃくちゃで

『ハチ公の美談を世に知らしめた斎藤弘吉は、

「有名になるといつの世でも反対派が出るもので…

犬は焼鳥が一番の好物で、

私も…よく買って与えていたが、

そのためにハチが駅にいるようになったもので

ない…」』

というのは、

あなたが世に知らしめたハチの、ひいては

自分の名声を失いたくなかっただけでしょう。


っていうか、

あんた自身、焼き鳥あげてんじゃん。



Wikipediaのこの項目は、斎藤先生の弟子、

あるいは日本犬保存会の人が投稿しているんだろうな。







ハチは、そんな人間たちの思惑など、

おそらく知ったことはなく

1935年(昭和10年)3月8日、渋谷の路上で

遺体で発見される。


享年、と言っていのか12年。

犬にしちゃ短いような気がする。


死因は癌とフィラリア(蚊が媒介する寄生虫)だからねっ

と、これもWikipediaさんが強烈に主張しているので

もういいや。







ただし、ハチの波乱な犬生はむしろ

ここから始まる。



『忠犬ハチ公』の死が知られると、 

盛大な葬式が行われた。

坊主16人を動員し、

兵隊の給料が10日で1円80銭だった時代に 

香典だけでその1万倍。1個師団が養える。




僕が死んだって…











ハチの死の時は、

日本が戦争に突入していく時代でもあった。 

『忠犬ハチ公』は愛国のシンボルになる

従って、ハチ公の銅像は『出征』する。

なんのこっちゃ?というと敗戦間際の

昭和19年に 『金属供出』ということで、

取り外されてしまう。

彼が『出征する時』、銅像にはタスキが

かけられ、万歳三唱とともに見送られた。

そういう儀式が必要で、

ハチ公像を知っている人ならわかるだろうが

あの程度の大きさの青銅を鋳つぶしたところで

何にもならん。


実際、彼が溶かされたのは、玉音放送の日、 

昭和20年の8月14日だったそうで、

戦争の役に立つはずもない。



うー、なんか気持ち悪くなってきた。










台座だけになっていたハチ公の銅像を再建しよう、

という動きは戦後すぐに出たらしい。


いや、8月15日まで取っとけよ、と思う






それで再建されたのが昭和23年(1948年)。

われわれが目にすることができる、あの像だ。


ただ、このあたりの日付も臭い。





すいませんね、根性が汚くて。





1948年夏の時点では、

東京裁判も終わっていない。 

建立直後の8月30日に、来日したヘレンケラーが 

焼き鳥をハチの口許に持って行き、 

『チキン、チキン、チキン』と叫んだという。(嘘です)





うん、こういう風に世界規模で敵をつくるのは

やめよう…

でも、こういうニュースは

『誰かの意思』が働いているんですよ。





しかし、東京裁判だ、公職追放だ、

騒いでいたGHQが 『軍国日本のシンボル』

みたいになっていた、 ハチ公の銅像の

再建を、この時期に許した理由がわからない。

 



しかしまあ、没後80年。

2代目の建立からでも66年。

渋谷の変わりように、

ハチ公もびっくりであろう。

と思ったら、現在進行中の

東急・JR・メトロの渋谷駅再開発で

工事期間中は

ハチ公像が撤去されるかもしれない。

というニュース。(産経の記事へのリンク)






まあ、落ち着いたら移設されると思いたいが 

どこに行くかは、現時点では決まっていない

のだ、と。


いまはまだ西口広場にいるはずのハチは

自身の身の上のめまぐるしさを、

どう思っているんだろう。




 

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わん























では、『今日のHACHI。』










2009年公開の映画だそうです。

 

 

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