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2015年8月 2日 (日)

千葉パルコの撤退。

千葉パルコ、来年秋の閉鎖が決定。 

(日経新聞の記事へのリンク)








かつてこの場所には、田畑百貨店という

デパートがあった。 

旧千葉駅の駅前通だった栄町通に面し、 

京成千葉駅の駅前にあったこの店は 

繁華が約束された場所にあった。


ところが昭和38年に国鉄千葉駅が

運行上の理由で駅を現在の位置、

つまり西に600mくらい離れた位置に移転。


同時期に行われた千葉市の都市計画によって 

京成千葉駅も移転。

田畑デパートは、『駅前』の位置を失った。



そこにとどめを刺したのが、昭和46年に起こった 

田畑デパートの大火災である。 

(デパート火災の日 なつやすみ)



田畑は、火災後も店舗を拡大、改装して営業を

続けるがついに支えきれず、提携先の

西武百貨店に営業権を譲渡して

昭和51年に千葉パルコとしてオープンする。







千葉の街のことなんかみんな知らないだろうから

もう一度地図を載せます。

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いっぱいマークしたおかげで、

わかりにくくなってしまったが 

千葉パルコが出店した昭和51年の時点で 

京成駅は(2代目)の場所、 国鉄駅は

現在のところにあった。 

(京成千葉駅は昭和62年に改称)



駅から遠い、ということには一応不安があったらしく

駅と店舗、更に周辺を回るループバスを無料で

提供した。


なにぶん只なので、このパルコバスは

当時の高校生どもに重宝された。



昭和51年、砂漠の中で長いマントの女の人が

『ちぃーばー、パァーコォー』と叫びながら

くるくる踊っている、という

訳のわかんないパルコのCMの中でも

群を抜く訳のわからないCMとともに、

パルコはやってきた。


千葉の田舎ものどもは驚愕した。

個人的には昔も今も、服のブランドなんか

わからないのだが

東京のブランドショップがおらが街にやってくる。


各テナントが東京から持ってきた

店舗ディスプレイが

微妙にかっこいいのが悔しかった。




そういうことで『田畑デパートの最期』を

知っていたすべての人びとの予想を裏切って、

千葉パルコは好調なスタートを切ったかに見えた。

しかし、開店から30年、ついに撤退、と。











実をいうと、千葉の街にはたくさんの

デパートがあった。 

パルコの場所にあった田畑、同じく栄町通

(銀座通り)に 面していた奈良屋、

すぐそばの扇屋。 

これら地元資本のデパートの他に十字屋という

デパートが 

軒を接するように並んでいた。

少し離れた国鉄駅前にも、そごう三越などが

あった。


百貨店法上の店舗ではなくとも、

丸井や衣料品専門のスーパーなどが近くにあり、

京成千葉駅の西側には、昭和48年から

ダイエーがあった。



昭和40年代、人口50万人台の都市としては
 

過分な商業施設の集積である。


この器を満たしたのは、千葉市の客は

もちろんだが、 千葉市以外の客だ。



流通の用語に『最寄品』『買廻品』『専門品』

という区分がある。

『最寄品』は水、新聞、トイレットペーパーなど

ブランドを決めていれば店頭で迷わない商品。


『買廻品』は、服、アクセサリー、家具など、

買うまでにうろうろいろんな店を回って品質や

値段について悩むもの。

『専門品』消費者にとってこだわりがある品物。

特定のブランドに限られる。




千葉のデパートも食料品も含めた 最寄品を

並べつつも、デパートというからには、

買い回り品を主力に置いていた。


周辺市町村の人が『休みの日は千葉に買い物に

行って、最上階の大食堂で、ご飯を食べよう』

という時代が戦前から戦後の一時期まで、

あったらしい。

『ハレの街』だった時代が

一時期だったが、あったのだ。


しかし、昭和40年代に入ると都内への通勤者

が増えて田舎くさい千葉のデパートの品揃えは

飽きられはじめ、さらに、郊外スーパーが

出来るようになると客が流出し始めた。

当時は大店法の時代で、大型スーパーの

都心への新規出店は出来なかったから、

客を丸ごと引き抜かれることになる。


千葉は『ハレの街』ではなくなった。




在来のデパートは対応に追われることになる。

扇屋は、敵であるスーパーのジャスコと提携し

本館の裏に2階建ての立体駐車場を作って

昭和51年に『扇屋ジャスコ』として

リニューアルオープン。


奈良屋は三越と合弁で昭和47年に千葉駅前に

ニューナラヤというデパートをつくり、

従来の店舗はセントラルプラザという名前で

服飾、インテリア、飲食などの

専門店ビルにした。

そして、田畑百貨店は、昭和51年にパルコに

なった。






昭和50年前後に起こった、 

千葉の街の大規模な転換への指向の正否は

この三つのデパートの顛末を見ると明らかになる。


結果としては、すべて失敗だった。








扇屋ジャスコは、駐車場を備え、 

いままで郊外に向かっていた客も、

郊外スーパーと同じ品揃えの

ジャスコの知恵でなんとでもなるだろう、と考えた。 

1階には、千葉の街の中心部で初めての

マクドナルドも進出した。


千葉のガキどもは大いに喜んだ。

しかし、郊外スーパーと同じ品揃えの店に

駐車料金を払って狭苦しい、

都心のデパートともスーパーとも判然としない

中途半端な扇屋ジャスコに来る客は思ったほど

でもなく、業績はふるわなかった。

ついに『2階以上のフロアをすべて閉鎖する』

という敗北に至り

1階の投げやりな売場と地下の食料品売り場

すだけを残す、と退却。

当然、マクドは逃げ去った。


的確なロケーションマーケティングで、 

将来、繁華が約束された地にしか出店しないことで 

当時有名だったマクドナルドの毒牙を防いだ、

扇屋のへたれっぷりは、当時の千葉の高校生達の間で

『マクドナルドの撤退』という 

伝説として語り継がれることになった。



末期の扇屋は、すべてのテナントを喪い、

千葉市の外局の部署を

1階に配置してかろうじて

『シャッターデパート』になることを防いだ。

市の要請もあっただろう。

もちろん、表通りに面しているのに、

第三セクターの役人は

デスクで抜いた鼻毛を書類に植えていたりして

いたから

もう、シャッター閉めちまえ。とは、思った。


扇屋は、平成11年に法人としても消滅。

現在、その建物の跡地は周辺の街区も含んだ

大規模な再開発によって、青少年教育施設、

『きぼーる』になっている。






セントラルプラザも速やかに廃れて、

平成10年頃には本気で

客よりも店員のほうが多いということになり、

1階のコンビニや食料品売り場を残すのみ、

となったが平成13年にすべて撤退。

現在は敷地も売却してマンションになっている。


買廻店、専門店を目指したセントラルプラザが

テナントのブランドが認められなかったのとは異なり

パルコだけはかろうじてその地位を保った。


しかし、それも力尽きた。というのが

今回のニュースだろう。












さて、それならこの街はどうなればいいんだろう。


昭和50年代、千葉の街の人通りは劇的に減った。

しかし、それ以上に定住人口も減った。

扇屋やセントラルプラザが最期まで

地下のスーパー部分つまり、消耗品とか食料品

を扱うフロアを残そうとしたのには、

『まだこの分野だったら商売できるんじゃないか?』

という読みがあったからだ。

しかし、想像以上に街は痩せており、

持ちこたえられなかった。

かつてのデパートにあったスーパーの撤退以降

千葉の街の中心部では、肉屋も魚屋も八百屋も 

コンビニに毛が生えたような店による

かつての千里ニュータウン以上の

独占状態であった時代が 

しばらく続くことになる。


もっとも、いまは、セントラルプラザの跡地が

マンションなったように、

千葉市中央地区にはマンションが増えているので

夜間人口も増えているのかも知れない。


それなら最寄り品や食料品などを扱う店も

勝機があるだろう。


しかし、かつて『ハレの街』であったように、 

よそから人を引き込まないと

どうにもならない。




『あら馬鹿ね。いまはネットショッピングの

時代よ』と賢しらに言う奴がいるかも知れない。

もちろんそうしたものとも有機的に

連携しなければならないが

ウィンドウショッピングがなくなるはずはない。


商品を手に取り、味見し、立ち読みし 

『あー、このトランペット欲しいなー。』と、 

ショウウィンドウに張り付いてこそ、

買い物の醍醐味がある。


『リアル店舗』は、なくならない。


そして、『よその街から人を呼べる街』に

しないと、いずれまた、縮小再生産の道を

歩むことになる。


困ったね。







さらに、話がめんどくさくなるから書かなかったが、 

買回品や専門品を求める人ばかりではなく、 

多くの街で商店街を養っているのは、観光客である。


東京、京都、金沢。有名な観光地には土産物を

中心とした観光地街がある。

しかし、千葉の街は見事に歴史がない。


この街が街がましくなったのは

明治になって、県庁が置かれてから。 

それ以降は、陸軍の諸施設が置かれて

多少町として発展したが、 

よその街の人にはどうにも野暮ったい街、

として 印象されることになった。

この街の歴史を知って貰おうとして、

千葉城に案内すると

そこには偽もんの天守閣が建ち、

本丸跡の土塁に積まれた石垣といい、

明治時代から積み重ねられた嘘が満開なので

時計台が守礼の門を担いではりまや橋を渡ってくる。


いっそのこと、千葉銀座に免税品店を並べて

観光客を呼ぶか?

東京から成田空港に行くリムジンバスを

千葉で止めるようにしたらどうだ?




まあ、地元の人の要望に応える、ことも大切だけど、

再び『ハレの街』にならないと、

真の展望はないと思うよ?











では、『今日の一枚。』














千葉パルコ

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この建物もどうなるんでしょうね。







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コメント

駅前に無い駅前型商業施設は潰れます。

投稿: まるーべり | 2015年8月29日 (土) 14時07分

まるーべりさん ありがとうございます。
『駅前型商業施設』の定義が
今ひとつわかりかねますが、
市街地の商業施設が駅に近接していない例は
いくらでもあります。
千葉でも、80年代前半の京成千葉駅前など
夜の7時以降はゴーストタウンでしたし、
国鉄千葉駅前もとても80万都市の玄関とは、
思えませんでした。駅前のそごうも
開店当初の賑わいはありません。
もっとも、パルコを含んだ
中央銀座地区が衰退したのは
国鉄駅の移転による、人の流れの変化です。

ここで言いたかったのは、だから、
鉄道駅に依存しない商業施設の集積は
あり得ないのか?衰え果てていた地元の
住民の購買力は活かせないか?『ハレの街』に
刷るためには、鉄道に依拠しなくても
いいのではないか?ということです。

是非いっしょに考えて下さい。

投稿: natsu | 2015年8月29日 (土) 21時16分

千葉市生まれの目黒区民です。

中央地区最後の牙城「千葉パルコ」が
閉店してしまうのは悲しいですね。

子供の頃は千葉パルコがとても輝いてみえたものです。

千葉駅ビルの再開発、旧JR東日本千葉支社の跡地など
駅前に商業集積が進む流れは一層強まりそうです。
千葉パルコがあの場所でファッションビルとして
営業していくのは無理なのかなと感じております。

今の市長になり、千葉神社の周辺を整備し
門前町としての魅力向上させる動きがあるそうです。
千葉市の街の起源である千葉神社の周辺の
魅力向上により少しずつ地元民の客足が戻り
よくよくには市外の人にも来てもらえるように
なって貰いたいものです。
そして千葉パルコの跡地も商業地として
復活することを願って止みません。

投稿: 目黒区民 | 2016年6月12日 (日) 17時40分

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