十二階の日
9月1日は関東大震災の日。
この日は浅草の凌雲閣 (十二階 )が、
倒壊した日でもある。
1923年(大正12年)のこと。
9階から上が倒壊で消滅
浅草凌雲閣は、1890年(明治23年)に
浅草六区に出来た。
ひょうたん池の向こう
今で言うとどこか、というとこのあたり。
地上1階から10階まではレンガ造。
地上11階から12階までは木造。
1階から8階までは展望回廊。
9・10階は貴賓室。11階は展望室・照明機械室
12階は屋上展望室。
建坪(塔部分のみ)122.31㎡。
これが地震によって6階から8階にかけて崩壊
さらにそこから上部が崩落。
さらに、地震直後に火災が発生。
その後爆破解体された。
もう、踏んだり蹴ったり藤原鎌足。
しかし明治23年当時、
帝都に12階建という建物は まだなく、
地盤が軟弱なのはピサの斜塔と同じ。
この建物が、何故崩壊したか、
倒壊を防ぐにはどうしたら良かったのか、
について、建設会社の鹿島が、
一般向けのHPで解説している。
鹿島のウェブサイト)
『軟弱な地盤が揺れを大きくした。』
『レンガ造では、曲げや剪断に対する余裕が
なく、限界を超えちゃった』という結論は
わかるが、
倒壊しないための解決法として
『地盤改良をする。』というのはともかく、
『アクティブ制震装置をつければ大丈夫』
というのは、卑怯だと思う。
この建物の設計者はウィリアム・バルトンさん
というイギリス人。
多少建築に詳しい人なら、
『そんな奴しらんなあ』というだろう。
実際、バルトン先生の設計した建物で
有名なのは この浅草十二階だけである。
『倒壊した建築の設計者』としてしか
知られていないのはかわいそうだが
ちゃんと理由があって
この先生の専門は建築ではなかった。
この人は、近代上水道建設のために、
明治政府が招聘した お雇い外国人だったのだ
水道屋さんが何故レンガの塔の設計をしたか、
というとこんな理由。
江戸時代の水道のように、
樋や管に勾配をつける『流下式』だと
配水面積が小さすぎるし、
地形によっては配水できなかったり
地下水や下水が侵入してくる危険があった。
したがって近代水道では配管内の水に
圧力をかけることは絶対の条件だった。
配管内に圧力をかける手っ取り早い方法が
高さを利用すること。
今でも、皆さんの街の高台に、
給水塔というのがあると思う。
知らないとびっくりする
こうやって、街の高台に給水所を造り、
さらにこのような塔を作って配水する水を上げ
高低差によって水圧をかける。
写真の給水塔は鉄筋コンクリート造だが、
昔はレンガ造だった。
特にヨーロッパには
お城の櫓のように立派な給水塔が
世田谷の駒沢給水塔
バルトン先生は水道の専門家であると同時に、
当時の日本では
『塔の第一人者』でもあったのだ。
ところが、展望塔と給水塔では、
用途が違うわけだから、
構造などいろいろ違ってくる。
各階平面図。
各階に展望歩廊があるため、8面ある各辺には
それぞれ2つの窓が開けられており、
大変開放的だ。
しかしこれでは鉛直荷重を支えられないので、
8つの頂点にバットレス(袖柱)を作って、
これを支えている。
これだけみると、ステンドグラス輝く
ゴシックの聖堂だが、あれが倒れないのは、
ヨーロッパに地震がないから。
あいにくと日本は地震国なので倒れた。
さらに、
各階にスラブを張るのは建物の耐力を高めるが
建物の性質上、階段が必要で、
中央部に直径4m弱の穴があって螺旋階段がある。
さらにこの建物にはエレベーターがあったので
1間×1間半の3畳の籠を通すための12㎡くらい
の穴が やっぱり開いていた。
2階から8階までの『基準階』には階段、EVと
廊下しかない。
途中階の廊下を歩く人がどれだけいただろう。
途中階に、土産物屋や 飲食店があるもんだと
思っていたが、案内広告など見ると、
そんなこともなかったらしい。
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そして、この建物が画期的だったことには、
日本初の エレベーターが設置されていた、
ということ。
巻き上げ機は1階。
乗客が乗る駕篭は 畳3帖のスペースがあり、
1帖分にはふとんが敷いてあった。
5㎡という駕篭の大きさのばかばかしさにも
笑うが、客が床を延べていたあたり、
舟遊びのように『過程』を愉しんでいたの
だろう。
店舗がないから、各階に停止する必要はなく
停止階は1階と8階(最上階)だけだったらしい
のだが、カウンターウェイトのかわりに
客用の駕篭を乗せていたことで
2台の籠のタイミングが合わないと
運転できなかった。
時間を気にしない、というあたりも
舟遊びっぽい。
しかし、
こんなかったるい運転をやっていたことや
麻縄で運転したので
ロープが切れそうになったり、
イギリスから輸入した巻き上げ機が
すぐに壊れたりして、トラブルが続出した。
そのために開業翌年の1891年には警視庁から
『エレベーターを使っては罷りならぬ』という
処分が下される。
『12階』に階段で上がろうとする奴はなくて
凌雲閣は、勢いよくすたれていく。
さらに、この建物があった『千束』という地区
には、 天下に轟く魔窟 吉原があり、
治安がよろしくなかったこともあって、
人気がなくなると、
一気にアンタッチャブルな色彩を帯びていく。
凌雲閣の運営会社は、
あわてて1階部分に劇場や土産物街を作ったり
『百美人』と言って、今日のミスコンのような
ものを開いて客を呼ぼうとする。
その再建途上に起こったのが関東大震災。
震災で折れちゃっただけでなく、
火災で設備内装の一切が失われ、
運営会社も再建の意欲を無くしていたから、
震災3週間後の9月23日に陸軍に依頼して、
爆破解体された。
一度の爆破では完全には崩れず、
爆薬を再設置して
2度目の爆破で崩したそうである。
13年の短くて
そしてあんまり幸福ではなかった凌雲閣の
生涯にとって、
せめてもの意地とでもいうべきか。
では、『今日の超高層とスカイツリー。』
そうはいっても 開業当時の凌雲閣は、
大変な人気を集めた。
なにしろ、帝都一の眺望だ。
遠くは筑波から富士山まで一望のもとに納め、
これまで江戸、東京の市民が見たこともない
ような高みに観覧者の視点を引き上げ、
夜景はひとびとを魅了した。
さらに建物自体も内部から百数十カ所の窓から
明かりが漏れ、
11階のマストにつけられた屋外照明によって
建物全体が暗色の明治の夜に、
煌々と浮かび上がった。
凌雲閣が人気を失ったのは
エレベーターが使えなくなったからかも
知れないが『景色だけ』というアピールだけ
では弱かった、ということもある。
不振になってから、あわてて劇場や物販店舗を
つくったあたりに戸惑いが見える。
スカイツリーなんてのも、
どうなるんだろう。
先日、東京駅のすぐそばに、
高さ390mの超高層ビルが'27年度に完成する、
というニュースがながれた。
(NHKニュースへのリンク)
このビルの最上階は、
スカイツリーの第1展望台(350m)よりも高く
今ひとつ影が薄い『いまのところ日本一』の
あべのハルカスをあっさりと上回る。
J-CASTニュースの記事へのリンク)
いずれ、記録は抜かれるものだとしても
日本で高さ百尺以上の建物が建つのは、
昭和40年竣工の
霞ヶ関ビルを俟たないといけない。
凌雲閣が、地震にも戦火にも遭わなくて
戦後まで生き残っていたら
意外に『日本一』の記録を維持し続けられた
かも知れない。
いや、昭和40年代の荒んだ浅草六区の
風景を知っているだけに
とても生き残れなかっただろうな…とも
思う。
そして、改めて『東京駅前の390mビル。』
いいってもんじゃねえ
そしてこのスケール感は、
(クリックしてくださいな)
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