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2016年11月 4日 (金)

余命1年日記- 30- 末期の水1             (11月第1週 2016 11.04)

最期を迎えるにあたって、わたしには、望みがある。

 

 

『末期の水が欲しい』というもの

 

 

「末期の水」とは、

死を迎える人に、近親者などが贈る水。

死後 参列者が綿、菊の葉、鳥の羽などに水を含ませて、

臨終した人の唇を湿らせる。

 

 

これの由来は仏典『長阿含経』の中に載っているこんな話。

 

『末期を悟られた仏陀は弟子の阿難に命じて、

口が乾いたので水を持ってきて欲しいと頼んだ。

しかし阿難は河の上流で多くの車が通過して、

水が濁って汚れているので我慢して下さいと言った。

しかし仏陀は口の乾きが我慢できず、三度阿難にお願いをした。

そして『拘孫河はここから遠くない、清く冷たいので飲みたい。

またそこの水を浴びたい』とも言った。

その時、雪山に住む鬼神で仏道に篤い者が、鉢に浄水を酌み、

これを仏陀に捧げられた」とあります』、だそうだ。

 

 

仏陀、超わがまま    

 

 

『河はここから遠くない。清く冷たいので飲みたい。

また、そこの水を浴びたい。』って…

 

 

 

いずれにしても、弟子にからにせよ近親者からにせよ

『末期の水』とは、他者から与えられるもの。

 

くたばる方が所望する、

ましてや欲しいものを指定する、なんてことは

仏様もびっくりのあり得ない事柄である。

 

しかし、わたしは飲みたい。

なにが欲しいかというと『酒』だ。

 

 

 

 

「病気が肝硬変で余命一年である」と他人に言うと、

口では『お気の毒に』と言われるが、

実は「どうせ酒だろ?」と思われている。

「なるほどね」という顔をされると腹が立つ。

 

しかし、そうは言っても事実だ。

 

 

 

 

これから、そんなわたしが『末期の水』に

酒を選ぶ理由を語っていきます。

 

 

酒と出会ったきっかけ。

まだ節度を持って飲んでいた時代。

次第に精神のバランスが崩れていく様子。

次第に、家族や仕事なんかのいろんなものを失くしていく様子。

立ち直りの試みと挫折。

発病。

余命宣告まで。

 

目次で書くとこんな感じになるのだろう。 

 

 

 

しかし、

中毒からの回復の苦闘や過去の悔恨、贖罪などを語る。

田代某のドキュメンタリーじゃあるまいし、

そんな文章は死んでも書きたくない。

 

生命保険の安っぽいCMみたいに、

『難病を受け入れて、前を向いて歩く健気なあたし』

なんていうのも、ごめんだ。

 

 

 

これから先どうやって書いていくか、

皆目 目処が立ちません。

 

ライフワークにするつもりで、

ゆっくり書きます。

 

 

 

『ライフ』って、いつまで生きる気だ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

残り270

 

 

 

 

次回はいつだ?

 

 

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