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2017年3月27日 (月)

余命1年日記 -65- 壊れる直前の話 2           (3月第5週 2017.3.27)

プランを作る作業が始まった。

ベースとなるのは、最初の打ち合わせで私が提案した

階段を道路側にもってきて、道路に直行して南側に、

住戸が2戸並ぶプラン。

 

あとは、これのプランを詰めていけばよかろう。

当初の予定では、来春着工、秋竣工。を予定していた。

もはや、勝利は疑いようがない。と思っていた。

 

 

マンションの中身について、打ち合わせを担当したのが

K氏の奥さん。

 

まぁ、女性にありがちだが住宅のプラン、住宅設備の

仕様についてはたいへんなこだわりを

持っているようだった。

その事自体は構わない。

無関心な施主よりも遥かにいい。

 

ところが、ある日打ち合わせにいくと、彼女が

自分で描いたスケッチを出してきた。

マンション全体のプランである。

 

マンション全体に口を出すとは思わなかった。

私の案で、道路側にあった階段が、

住戸と住戸の間にある。

こういうのは困る。

結局は、反論できないんだからずるい。

 

基準階だけ見れば悪くない。

無駄な廊下がなくなるし、廊下に面した住戸の

壁面がなくなり、全戸三面開放になる。

しかし、いかにも素人の図面で

一階が全く成り立っていない。

道路から階段までどうやっていくのか訊くと、

『階段の下を・・・』とかいっている。

そんな頭を打つようなところ、行けるか。

 

1階の階段から道路側のスペースは住戸として

使えないし階段の両側で建物が二つに別れるから、

私の案で6本だった柱が8本になる。

基礎も杭も同じだ。

不経済この上ない。

 

私が一通りそういうことを説明して、苦り切った

顔をしていると、

『駄目ですか?』と下から見上げるように訊いてくる。

 

私に泣きついても仕方ないと思うが、

ここで悪魔が囁いた。

『恩を売っておくか。』

プランを変更することになった。

こんな提案、却下するべきだった。

これは、私のミスでもある。

 

もちろん柱が増える分、メンバーを小さくして

鉄骨量がむやみに大きくならないように留意したが。

 

 

この変更と、その他二つの理由によって、

着工はずるずるとずれ込んだ。

ひとつは構造設計と設備設計の協力事務所の確保。

もうひとつが施工会社の確保。

 

 

 

 

ここまでが、一昨年の夏のK氏との出会いから

去年の春までの様子。

 

 

K氏の奥さんは、なにしろ細かい人だから、

住戸の1/100のプランを山羊が下痢を起こす勢いで書き、

一般図、詳細図、申請図、むりょ百数十枚を

2ヶ月ほどで調え、後は果てしない修正。

早く決めてくれ。

図面は施工会社に見積もりを頼むためにも必要

だから、本当に急いで描いた。

 

 

このとき、K氏に強く求めたのが早急に

施工会社を決めてほしい、ということ。

今回の計画では、隣地境界との離隔距離など、

K氏からの要求で、かなりぎりぎりの寸法に

なっていた。

描くには描いたが『施工会社との打ち合わせ次第で

変更しますよ。』と、伝えてある。

 

なにぶん小さな建物だから、販売面積を

ちょっとでも増やそうとして、隣地との余地とか

バルコニーなんかをケチリ倒すのだ。

設計者として毅然として断らんかい、と

思うだろうが、言うこと聞かないんだもん。

あの夫婦。

 

計画段階ならば、変更するのは構わないのだ。

しかし、実施、申請図面がどんどん出来ていくなかで、

ペンディングの項目をたくさん残したままにしているのは、

将来の手戻りの手間を増やすだけだ。

 

小さな建物とはいえ、百枚以上の図面の作図

施主、検査機関、協力事務所との打ち合わせ、

そして果てしない修正。

 

その上で、いまはまだ決まってもいない

施工サイドとの間で、工法、コストの

打合わせを残していたら、いつ終わるかわからない。

意匠だけではない。すでに構造も設備も動き出している。

構造、設備設計の協力事務所の費用を

負担しているのは私なのである。

 

ふざけるな。

 

 

 

K氏に対して、悲鳴をあげた。

 

 

 

施工会社を探すのは、私も協力した。

図面の説明や、地盤、基礎工法の説明などだ。

なるべく早く、という思いは強かったから、

計画がスタートした、一昨年の秋から

阪神間の工務店を、K氏と一緒にずいぶん回った。

 

 

決まらない。

 

 

体も次第に壊れた。

一昨年の夏の計画スタートから、入院こそしなかったが

次第に腹水が出て体が重くなり、去年の4月に

母が死んだ時には、あらゆるスーツに腹が納まらず

焼香の時にふらついてぶっ倒れかけた。 

 

5月に入って

『確認申請出しますよ。もうすぐ着工できまっせ。』

とつたえた。

 

意匠、構造、設備の設計が完了し協力事務所に

支払いをしてやらないといけないのだ。

確認を取って、2回目の支払いをしてもらわないと、

着手金だけでは、弊社の資金がショートしてしまう。

 

 

K氏の方からも、7月着工、とか言ってきている。

こんなことになったのは、

お前のせいだ。お前のっ。

 

 

そしてようやく、

『大阪の工務店にTという人がいる。

話はしてあるから連絡してくれ。』と

言ってきた。

 

立ち会って紹介してくれる訳ではないのである。

つくづく失礼な男である。

 

 

 

そうはいっても時間がない。T氏に電話する。

電話の時点では私は、T氏とK氏は契約、までは

行っていなくても、今回の工事の請負について

基本的に合意している、と思っている。

 

ところがどうも様子がおかしい。話か通じない。

そこで『神戸のKという人を知っているか?』

と、訊くと『知っている。』という。

 

ここで気付くべきだったのだ。

K氏は、私があんまりうるさいもんだから、かつて

付き合いがあったT氏に

『設計のやつがうるさいから話だけでも

聞いてやってくれ。』と頼んだのだ、と。

 

 

こっちはそうは思っていない。電話する前に

話をスムースに進めるために、延べ数十枚の

図面をPDFに焼いてメールで送っている。

 

『それを見てくれたか?』と訊くと、

『見てない。』という。

この野郎、と思ったがグッとこらえて、

『一度会って打合せしたい。』と申し入れた。

ところが『あさってから一ヶ月東京出張だ』という。

 

 

切れた。

 

 

私は切れると相当に乱暴な口を利くらしい。

この時も、怒鳴りあげたそうだ。

 

しばらくして、正気を取り戻すと、T氏に

『東京から帰ったら連絡をくれ。』と言って

電話を切った。

 

ところがTの野郎、

まっすぐにK夫妻に電話した。

『あんな怖い設計の先生とは付き合えない。』

 

 

すぐにK夫妻から苦情が入った。

理不尽だが、もう確認が下りるのだ。

ここで施工業者に逃げられたらたまらない。

 

彼が東京から帰ってきた6月、K妻の立ち会いの元で

T氏と会うことになった。

場所は大阪の京橋。当時T氏が持っていた

現場のそばの喫茶店だそうである。

 

 

当日のメンバーは、施工側がT氏ともう一人、

もう一方は私一人。立ち会い人がK嫁である。

名刺交換もして、私から電話での非礼を詫びた。

釈然としないがこの時点ではT氏が悪くないことは

理解している。頭を下げた。

気の弱そうな兄ちゃんだった。

K嫁が第三者然と、仲裁者づらしているのが腹が立つ。

 

手打ちが終わるとすることはない。

みんな昼飯を食い出した。

私は食欲がないから、アイスコーヒーをすすった。

 

盛り上がらない昼食会が終わると、

『これからよろしく』と言い合って席を立った。

 

私も席をたつと、目の前が冥くなってぶっ倒れた。

 

 

 

食道の静脈瘤が破裂した。

 

 

 

すぐに目が覚めて

『タクシーを呼んでくれたら一人で帰れる。』

と言ったが、呼ばれたのは救急車だったので、

運ばれたのは中津の済生会病院だった。

2週間、済生会病院に入院した。

 

退院するとき、

救急搬送されて来たおれの、静脈瘤破裂の

破孔を塞ぐ様子を見せてもらったのだが、

ぴゅーぴゅー血が出ていたので、うん、死ぬね。

こえー

 

 

 

 

やっと退院して確認の審査を続け、もうすぐ

確認が下りるという段階まで来た。

ところが、ようやく現地に縄張りに入ったT氏が

『こんな施工余地じゃ工事はできない』と

いまさらのように言い出した。

 

しかも、北側隣地の越境部分はそのままだ。

k氏を問い詰めると

『越境部分を直せるなんて言ってません。』

 

なに?

 

『それよりセンセ、越境した現況でも入るよう、

図面を直してくれって

この間言うたじゃないですか』とK妻。

また切れたら、打ち合わせに寄り付かなくなった。

 

7月に、また倒れて救急搬送され、

F先生に穿刺してもらって

そのまま入院。月末に余命宣告。

 

 

あとは、この日記の通り。

 

 

 

 

これが、私が『壊れる直前の話』である。

 

 

 

 

この計画は秋に正式に放棄された。

 

秋に必ず次の計画の話を持ってくる、と

言っていたK夫妻からはあれから連絡がない。

 

『着工』しなかったから、着手金のはした金しか

貰っていない。

 

 

 

 

 

 

 

残り133 

 

  

あの夫婦、七代裔まで祟る。

 

 

 

 

 

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