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2017年4月15日 (土)

余命1年日記 -70- 母の一周忌  4月第3週(2017.4.15)

2016年4月13日、母が死にました。

きょうは、そういった話をします。

(この話は、以前書いた「末期の水」

シリーズのうちのひとつです。)

 

 

 

 

母が死んだのは、その日の朝だったらしい。

『らしい』というのが悔しい。

わたしは『その瞬間』に間に合わなかった。

 

毎日病院に行っていながら、なぜ肝心の

『今際の際(いまわのきわ)』に間に合わないのか。

ということを思い出そうとしたとき、

とても不愉快なことを思い出す。

 

親父のお陰で、俺は病院にいけなかったのだ。

 

 

『母の死の2日前』俺は打ち合わせにいっていた。

以前書いたK氏の仕事である。

 

だから、図面やファイル、書類などを持っている。

『2日前』に来ていた私は、その日泊まり込む

つもりでいた。

だから帰るつもりはなかった。

ところが親父は違ったらしい。

『ほら、一緒に帰るぞ。』という。

 

『一緒に帰るか?』ではなく、『一緒に帰ろう』でもなく、

50過ぎた息子の意思など無視して『帰るぞ』である。

てめえだけ帰れ、と思って無視していると、

この馬鹿、図面と書類が入った袋を持って

行こうとする。

それを持っていかれちゃ困る。  

取り返そうとするが、こいつ馬鹿だから  

すごい虜力だ。すでに腹水が

ひどくなりつつあった私はかなわない。

 

おまけに病棟の真ん中でそんな騒ぎが起きても

神戸市中央市民病院内科病棟は仲裁に来ない。

ナースステーションと一続きのカウンターで

ありながら騒ぎがおわってからでてきた。

そして、一方的に俺を責めた。

出ていかなければ警察を呼ぶ、と。

それでも『親の死に目』に会わせないのも

可哀想かと『病院がつける警備員の同行』を 

条件に面会が認められた。

それ以降私ががこの病院に行くと、

妙に如才ない警備員がいつのまにか出てきて、

脇を押さえた。

馬鹿親父が袋を盗って騒ぎを起こしたとき、 

親父の馬鹿を制止せずに無視したのは

いまでも許せない。。

母の治療でも最後の1ヶ月間、家族への説明と

矛盾した投薬をしたおかげで、

決定的に容体を悪化させた。

 

みんな、神戸市中央市民病院には行くなよ。

あそこの連中は平気で嘘をつく。

あそこに行くと、殺される。

 

 

この事件のあと義姉がわざわざ神戸まで来て、

『natsu さんは中央市民病院で騒ぎを起こして

出入り禁止になってます。どうせもう死ぬんなら、

治療しないでくれ。とF先生に言いに来た。

 

中途半端に余分に生きると、見たくないものを

見ることができる。

 

 

 

『なんで、荷物を持っていこうとした?』と

あとになって聞いたとき、

『あの荷物はnatsu が大事そうにしているから、

持っていったら、困るだろー。

俺に逆らわずに家に帰ると思ったんだー。』だと。

 

こどもだ。

気違いだ。

 

しかも、この内容を不思議な光を湛えた瞳で

まっすぐに見つめて話されたときには、

背筋が寒くなった。

 

母が危篤になったせいで、

父の精神状態が変わったわけではない。

 

父との同居は、この時ですでに20年。

嫁が出ていって、離婚裁判に勝手に興奮して

『俺が酒をやめさせる』かなんか言って、

神戸にやって来て以来だ。

以来20年。アッチェルしながら続いている。

 

たとえば、うちの部屋は比喩ではなくボロボロである。

トラブルの度にこの馬鹿が、挑発するからだ。

ふすまやボードには穴が開き、建具はすべて壊れている。

これも、理由を言わせると、

『この家はnatsu のものだから、黙って壊させておいた。

落ち着いたら気がつくだろー。』だそうだ。 

気違いだろう。

憎しみが増すだけだ。

 

病気の原因なり、悪化の理由を他人のせいに

するつもりはないが、

この強烈な個性の照り返しを20年浴び続けると

家族が皆不幸になる。

 

少なくとも、俺に関して精神的な安定など、

望み得ないことが分かるだろう。  

だから、退院が近づくと憂鬱だ。

 

 

 

 

母が死んだ。

死因は、腎不全。

息子は、私のほかに兄貴がいてこいつは

不肖の弟に比べると、ずっと立派で 

ちゃんと地位と職業を作っている。 

こどもは3人。私にはいないから、母の孫は

3人。

享年83

 

 

 

 

 

母は40代に乳ガンに罹っている。

抗がん剤や放射線治療を行ったらしい。

伝聞形なのは、わたしがガキすぎて

母の治療について、理解していなかった

からである。

結局それらの治療では、思わしい効果が

得られなかったらしい。

 

最終的な手段として、乳房摘出がされた。

いまから40年前、『部分摘出』ということが

できなくて『全摘』ということになった。

あれは気の毒だといまでも思う。

 

ただし、あの時代の常識からみて、

手術後40年以上、ガンの再発はなかったわけだから

手術としては大成功。

ただし、わたしはまだ小学生だったし、 

兄貴は中学に上がっていたか?

不安があったはずだ。

さらにホルモンのことなどわからないが、

体調の不安も大変だったらしい。

 

だから、手術後は、

『あたしは長生きできないんだから』が口癖だった。

『うちの母は、ガンで早く死んでいるからね』も

口癖だった。

 

ははのははつまり、わたしのお婆ちゃんは

肝臓がんで七十歳台で死んでいる。

ところがお婆ちゃんの没年齢を越えて、

母が長生きすると、

『うちの家系は体が弱くて』に変わった。

 

しかし、長く生きられるのは、嬉しかったらしい。

彼女が80になったときに、『80は「なに寿」というのか?』

と聞くから、『さんじゅ』と答えた。

怪訝そうな顔をしているから、手のひらに

『傘寿』と書いてやると、嬉しそうになんどか

なぞった。

 

 

 

 

私自身に関して言うと

親不孝だった。

いつわたしが、酒に戻ってしまうか、ということを

心配させ続けた。

知り合いもいない神戸に閉じ込めることになった。

私の仕事が安定しないため、心配をかけた。

 

もっとも、母も

おとなしく不幸に耐えるようなキャラクターでらなく

マシンガントークで言い返してきた。

特に人を疑うことにかけては、天下一であり

よく喧嘩した。

その一方、父がその異常なキャラクターで

家族を支配したとき、顔を歪めて、しかし

なんとか従っていた。

 

 

 

母は、昭和9年(1934年)浅草に生まれた。

私が生まれてから

『あたしぁね、三代続いた江戸っ子だよ。

あんたたちみたいな千葉生まれの田舎もとは

違うんだからね。』と

実の息子に言っちゃうのである。

てめえが千葉に嫁に来たんだろう。

 

この、『千葉に嫁に来たら田舎でびっくりしてがっかりした。』

という話は繰り返し言っていた。

うちの前のバス通りが、ゆるやかな上り坂に

なっているのだが、その坂のことを

『あんまり急な坂で、なんかすごい田舎に来たな、

と思うとがっかりした。』と言っていた。『急坂=田舎』というのがなんかリアルだな、と思った。

 

彼女は10歳の時に、東京大空襲にあっている。怖かったそうだ。

家族に不幸がなかったのはなによりだが、

店はなくなった。

浅草近辺からも一族は、皆離れてしまったらしい。

『大きな店だった』と自慢するが一昨年くらいに

ストリートビューを見せてやったとき、

場所の特定に苦労していたから、どうだろう。

 

子供の頃は、春と秋の彼岸に墓参りをした。

母の家の墓があるのが、上野と浅草の間の

稲荷町。母は必ず、上野から浅草まで歩いた。

我が家があった千葉からでていた、私鉄の

京成の東京がわのターミナルが上野。

母の家の墓が在るのが、上野と浅草の間の稲荷町。

 

墓参りをすませると、母は毎回浅草まで脚を伸ばす。

仲見世を冷やかして観音様に参り、

決して入らない花屋敷のジェットコースターの音を聞く。

六区の辺りまで行って、毎年『変わったねえ』

と言う。

そうして、黙って土産を買ってくる。

土産は、薬研堀の七味唐辛子と、

舟和のいも羊羮と黒白の餡ころ玉。

 

毎回こう。

頑固なくらいである。

 

 

『母と歩いた記憶』を手繰ってみたら、これが出てきた。  

 

大阪で独り暮しをしていたころ、一緒に車で来て

信貴山に夜中に車で行って夜景をみたり、

神戸に来て直ぐのころ、遊びに来たので

六甲山に夜中に行って夜景をみたりしたのに。

 

夜景ばっかりだ。

 

 

昭和40年代の空気と共に、この墓参りの記憶が

真っ先に出てきた。

 

もっとたくさん一緒に歩けばよかった。

 

 

 

 

 

残り115

  

 

 

亡くなった日は、 

とても暖かい日でしたよ。

 

 

 

 

 

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