ぼくは鉄じゃない

2014年12月21日 (日)

ハーバーランドと神戸駅 (再)

2012年3月11日、神戸ハーバーランドにある神戸阪急が閉店した。

(神戸新聞の記事へのリンク)



この記事は、この件の3年近く後の再掲です。

いや、まあ。 東京駅、大阪駅、と書いてきて、

結構力作だったんだもん。


元気ねえ。と、自分でも思うさ。

だから、ぜひ読んでください。













(ここから再掲)


個人的にはとても感慨深いのだが

3.11を狙ってきたあたり、余程ニュースにしたくないらしい。

 

 

確信犯だな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハーバーランドというのは

神戸駅の南側にあった貨物駅の大部分を再開発したもの。

 

 

 

 

 

 

まさか『神戸駅』の位置がわからない人がいたら

嫌だなあと思うので、念のためここですよ?

 

 

 

2012y03m12d_165732141 

 

 

これでわからなかったら

もういいや。

 

 

(クリックで拡大するけどね。)

 

 

 

 

 

 

ハーバーランドは1992年にオープンした神戸の新都心。

オフィス、ホテル、ショッピング施設、住宅などで

構成されている。

 

 

 

 

 

商業エリアの核テナントとして、

西武、阪急のふたつのデパート、そしてダイエー、

ホテルとしてニューオータニが入った。

 

 

 

 

ところが、ここは運に恵まれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

開業直後こそ、駅から列が続くくらいの人気を集めるのだが

神戸西武は2年後の1994年に撤退。

 

直後の1995年に阪神大震災があって、客足が鈍るようになり、

2006年にダイエーが撤退、2009年にニューオータニも撤退、

そして今回の阪急撤退で開業当初の核テナントは消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

ダイエーがあったビルは、激しくテナントが変わっている。

 

西武とニューオータニの入っていた

ハーバーランドセンタービルに至っては、現在ほぼ空家である。

 

 

 

 

今回の阪急も含め、どこも経営主体を代えて

来年の3月頃には再オープンしたいなあ、と。

 

 

 

呪われているかのように、次々とだめになる。

 

 

  

なんでこんなことになったんだろう、

という話をしようと思ったのだが

調べてみたら、ここにあった国鉄神戸駅の歴史というのが

めちゃくちゃ面白い。

 

 

 

 

 

 

     

ハーバーランドの話なんかどうでもよくなっちゃったので、

今日は、その話をします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、どうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神戸駅の開業は早かった。

  

 

 

 

新橋-横浜間の開業2年後の1897年(明治7年)にできた。

大阪-神戸間で開業し、3年後京都まで延伸する。

 

 

直後の地図がこれ。 

Kobe2  

 

明治14年の神戸駅

なぜかこの地図は左が北

(Wikipediaから)

 

 

 

     

海にズドンと突き出しているのは鉄道桟橋。

旅客や貨物列車をここまで運んで船に乗せた。

 

 

 

 

 

そして、この地図だとよくわからないと思うので

古地図研究サイトとしては老舗のこのページをご覧ください。

(このHPはすごい。 Old Map Room 河川跡に作られた町)

 

 

 

 

 

 

 

 

この時代には、旅客駅が海側にあります。

図面でいうと一番上の大きな箱。

 

  

乗客は、図面左手の市街地から構内をぐるりと回って

海を背にして駅に入る。

 

 

なんでこんなことになったのか、

ここから先は想像だが、

 

この鉄道は、日本人なんか

相手にしていなかったのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

   

外国人居留地のある横浜から、『帝都・東京』。

同じく神戸から、商都大阪、そして『ミカドの街・京都』を

最優先で開通させたのは、明治日本の見栄だ。

  

はっきり言ってこの時代の神戸駅は、ここで乗降しようとする

日本人の乗客を相手にしている気配はない。

 

 

 

旅客駅の北側、最初にあげた地図だと左側、

つまり市街地側には乗客の入り口がない。

 

ごちゃごちゃと引き込み線が描いてあるが、

これは車両工場。

 

 

『喧嘩してやらあ』っていうくらい背中を向けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに、この駅の形だと、

東海道線は神戸で腰を落ち着けて、そこから先、

山陽方面に行く気がないように見える。

 

 

 

実際、神戸までが、官設の東海道線。

神戸から先は、私鉄の山陽鉄道が建設した。

 

したがって神戸駅は現在も、

東海道本線の終点であり、山陽本線の起点でもある。

 

0000_0mail    

 

4番線から見える『0マイル標 』

 

 

     

ちなみに鉄道駅の下の部分、

西側を横断するように走っているのは、湊川。

  

以前も書いたが、昔の湊川はここを通っていた。

付け替えられた河川敷に作られた街が『新開地』。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しまった。

一枚目で、えらい文字数をとってしまった。

先を急ぐぞ…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東海道線の全線開業は1889年(明治22年)。

山陽鉄道が国鉄に編入されるのが1906年(明治39年)

 

Kobe3   

 

大正13年の地図

(Wikipediaから)

 

 

 

  

この年、西から延びてきた山陽鉄道が神戸駅に乗り入れる。

そして、駅舎は移設される。

 

この地図ではなんだかさっぱりわからないと思うので

詳しくはさっきの、Old Map Room をご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これで駅舎は、初めて市街地を向く。

2代目駅舎がこちら。

 

0000_kobe2  

  

開業当時の2代目神戸駅

なんか寂しい駅前。

 

 

 

      

さらにこの地図で注意して欲しいのは、

貨物線の機能が明治時代よりも充実していること。

 

 

 

  

海岸部分(いまのモザイクの場所)には、

『三菱倉庫』の文字とともに縦横に走る引込線が見える。

 

この時代、突堤や桟橋がなければ

荷役はできなかったと思うので「はしけ」か?

 

まあ、どんな輸送をしてたのか面倒くさくて調べないけど

倉庫街の充実といい、貨物輸送の機能が

大きくなったことをうかがわせる。

 

 

 

 

 

そして貨物線は東海道本線経由であり

まだ、構内に車両工場もあった。

鉄道桟橋もある。

 

 

 

 

 

この状態では、『神戸から外国行きの汽船に乗りたいなあ』

という人は、神戸駅の改札から延々と構内を歩かねばならず

要するにそんな人、相手にしていない。

  

外国航路の窓口としての神戸は重要だったが

新開地で飲んでいたおっさんが、

『ちょっと、サンフランシスコに行ってくるわ。』という

時代ではなかったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神戸駅に画期的な変化があったのは

20世紀に入ってから。

  

いままで神戸駅に課せられていた

車両工場の機能が鷹取工場に移転されたのが

1916年(大正5年)

 

 

貨物駅と鉄道桟橋に通じる路線が専用貨物線経由になり

神戸駅とその前後の兵庫、三宮(いまの元町)、灘駅間が

高架線になった。1928年(昭和3年)のことだ。

 

そして、旅客駅も高架専用の豪華な駅舎になり、

貨物駅は東海道本線と切り離された。

 

 

 

 

その直後の地図、で引用できる奴がないので

さっきのページをどうぞ。

 

 

 

 

 

神戸駅の南側がこんな風景だったのか、というのは、

正直『神戸市民20年』の私も知らなかった。 

 

2号線も通ってないんだもんなー。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、この1930年(昭和5年)に

建てられた3代目の駅舎がこちら。

 

0000_kobe3  

 

 

開業直後の神戸駅

 

 

 

 

 

  

そして、これは

現在の駅舎だったりする。

 

 

0000_kobe5  

 

 

ほら、白いマリオンが

おんなじだ。

 

 

 

 

 

基本的には、この状態で神戸駅は長く過ごす。

 

 

戦後、国道2号線バイパスや阪神高速ができて貨物駅は分断され

機能は縮小されるが、港湾コンテナ駅として1980年まで続く。

 

貨物駅が正式に廃止されたのは1985年(昭和60年)。

 

その直後から建設されたのがハーバーランドで

オープンしたのが1992年。

 

 

 

 

 

 

 

 

駅から5分なんだけどな。 

なんかフラストレーションがたまるな…

 

 

 

 

 

 

 

『なぜハーバーランドはだめなのか?』

『なぜ、神戸は都心が西から東に移ったのか?』

『新開地と神戸高速とメトロ神戸って?』

 

とかいう話は痛快に面白いのだが、いずれまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の2枚。』

 

 

 

 

 

 

改めて、開港直後の神戸駅と、現在のハーバーランド。

 

Kobe2_2

 

 

 

 

 

 

Wikipediaが『貨物駅の全部がハーバーランドになった。』

といっているのは大間違いで、

かつての鉄道桟橋は川崎造船の工場の一部になっている。

 

 

 

 

どうも地図が重ならないな、と思って

あれこれやっていたら、かつての鉄道桟橋は

第四ドックの一部として埋め立てられていて、

そこにはこんなものが写っていた。

 

2012y03m12d_161059101 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

乾ドックに入っている潜水艦。

 

 

 

 

       

Google earthさんだと、もっとくっきり。 

 

2012y03m12d_182941720    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふわああ。

 

 

 

 

 

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※:埠頭と桟橋なら埠頭の方が大きいんじゃないのか?

といわれてしまったが、『鉄道桟橋』というのは

もう、それでひとつの用語なんです。

旅客駅としては正式には『神戸港駅』という名前でした。

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2014年12月20日 (土)

東京駅 裏物語(再)

2014年12月20日は『東京駅開業100周年』。

記念Suicaを求める暴徒が殺到したり、

限定復活したブルートレイン『富士』が運転されて、

撮り鉄が暴れたり、まったくもう。









ということで、

この記事は1年前のものの再掲です。






2013年10月1日復元工事を終えた東京駅が公開される。

 

 

 

へそ曲がりなこの日記は

当然そんな話はしない。

 

 

 











さて、

 

 

東京駅と並んで日本を代表する駅が大阪駅。

このふたつの駅には大きな違いがあるのだが

わかるだろうか?

 

 

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大屋根がかかった

大阪駅 







 

大阪駅といえば、今年大規模にリニューアルしたから

きれいだよな、っていうのもそうなんだけど、

大阪駅と東京駅には、決定的な違いがある。



新幹線の駅、っていうのも正解だし、

八重洲地下街には銭湯があるぞっていうのもそうなんだけど、

あんまり引っ張ることでもないな。






貨物駅だ。




大阪駅は1874年(明治7年)の開業時から貨物駅があった。



むしろ昔の大きな駅では隣に、あるいは近傍に

貨物駅があるのが当たり前で、

前にも書いたが神戸駅もそうだった。



むかしは、貨物列車が旅客線を走っていたから当然である。



しかし、東京駅は1914年の開業時から

そういった機能を持った歴史がない。




このことが東京駅の性格を表している。 

『国家の玄関』にしたかったんですね。






今日はそんな話です。
















梅田貨物駅は現在も機能している。 

敷地の一部は売却されて

ナレッジキャピタルタウンとかいうものが出来つつある。

(絵に描いたようなコンセプトシート) 



移転先の吹田と百済
(どちらも貨物駅)が完成すると、

残りの敷地も売却される。


さて何を作ろう、ということで橋下さんなんかは

『公園はどうだ?』とか言っているらしいが

しわい大阪人が許してくれるかしら。



公園にしたいんだったら屋根が平らでもいいような建物

たとえば、遠くて古くて不評なインテックス大阪の代わりに

国際展示場でも作って屋根を緑化して公園にして

人間が入れるようにしたらどうだ?

  

国際展示場としては敷地が狭いか?













しかし、大阪という街は北方貨物線という

大阪市内を迂回する貨物専用線が出来ても

巨大な梅田貨物駅を残した。


    

1     

 

1985年の大阪駅

旅客駅に刺さるように

接しているのが

梅田貨物駅 





大都市には、その街から発送する、あるいは入ってくる

大量の貨物がある。



梅田貨物駅には運河が連絡しており

水の都・大阪の貨物を運んだ。

大阪中央郵便局の裏側、いまのホテル・モントレのあたりは、

かつて貨物船の舟溜まりだった(Old map room 大阪駅)

      

0000_oosaka    

大阪駅を西南から見たもの。黒い部分が掘割。

駅の北側にも連絡してますね。

東京の場合はどうだったか?


新橋-横浜間に鉄道が開通したのは大阪駅に先立つ1872年、

翌年、隣接して汐留貨物駅が作られた。



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いまはシオサイト

なっています。












でまあ、東海道線としては

『これでいいんじゃねえか?』

と思っていた節がある。


東北本線も、ほぼ同時期に建設が始まっていた。

官設の東海道線と違って、こちらは

半官半民の日本鉄道による建設。







出資者の一人に岩倉具視がいた。



0000_tomotti_2












彼は、東北本線開通の報を聞いて

『これで、東北で 飢饉が起きても死者は出るまい。』

といったという。 


という話を、何かで読んだ記憶があるのだが

この人は上野-大宮間が開通するよりも前に

死んでしまっているのだ。





ゆ、ゆうれい…?









しかし東北本線には貨物輸送の機能が

強く求められたいたことは確かである。


東北本線における汐留貨物駅のような存在は

当然、終点の上野駅に求められた。



開業時の上野駅には貨物駅もあったのだが、

すぐに手狭になった。

あの駅は上野公園に接している。

上野公園は『恩賜』というくらいだから、陛下に戴いた土地で

そこを削って貨物駅など作れない。



上野駅の貨物ターミナル駅機能は

隣接する秋葉原に貨物駅を作って移された。




『オタクの聖地』秋葉原は

貨物駅だったわけですな。









実際、この路線の計画時には上野-新橋を

皇居東側、つまり現在の東京駅経由で通す

構想はあったらしい。



しかし、この計画は早々に放棄された。



理由はふたつ。

ひとつは、丸の内のあたりは原っぱだったが

それ以外の地区はすでに都市化していたこと。

いまとは比べものにならないが

それでも買収に手間がかかる。





それよりも大きな理由は

皇居から東はむかしは海で

とてつもなく地盤が軟弱だったから。


実際いまの東京駅が建設された時には

1万本以上の松の木の杭が打ち込まれた。

総武線地下ホームと成田新幹線の東京駅(今の京葉線東京駅)が

作られた時、大半が撤去されたはずだが

今回の修復工事でも『出土』しているんだそうです。















上野で行き詰まってしまった東北本線と

東海道線を連絡したい。

人間はともかく貨物列車は何とかしたい。



そこで作られたのが山手線である。

というのは、鉄っちゃんの基礎知識だが

『いまの山手線廻りで、上野-品川を結ぶんだったら

遠回りだよなー。』と思うだろう。


それでは『初段』はやれん。











建設当時の山手線はいまのルートではない。



赤羽駅で東北本線から分岐し、

いまの赤羽線(営業名称は埼京線)を通って

池袋でいまと同じ山手線に入り、

大崎-品川-大森という三角線を経由して

横浜、品川、両方面に連絡していた。

(大崎-大森間は貨物専用線)





つまりこう。 

0000_1905
























距離で見ても、皇居東回りのルートよりも近いことがわかる。



ただし、ブラタモリに教えてもらわなくても

山手線は切り通しとか急勾配があって工事が手間取った。 












さらに、明治政府は戊辰戦争で叩きのめした東北を

復興させるために、宮城県の野蒜というところに

国際港と貿易都市を造ろうとした。



野蒜築港計画という奴で、1878年(明治11年)に

巨大な築堤と近代的な街路で仕切った街区を造った。 

野蒜は東北本線からは離れているが

これができたら横浜まで生糸を運ばなくてもいい。




しかし、江戸に近い横浜、大阪に近い神戸と違って

野蒜はあまりに田舎だ。

外国人の商館は出店せず

さらに港湾自体が

1887年(明治20年)の台風で壊れてしまう。 



もう、踏んだり蹴ったり藤原鎌足である。








東北本線の側からいえば

赤羽-品川間が開通したのが1985年(明治18年)だから、

危ないところだったわけです。




東北の物産は鉄道で横浜まで運ばれ、

東北開発のための物資は鉄道で移動できるようになった。

















で、


さっきの1904年(明治37年)の

東京の鉄道路線図を見てもらうとわかるが、

この時点で東京には『中心駅』がない。 











ヨーロッパの街なんかだと、

ターミナル駅というのは方面別にいくつもある。

パリにいてリヨンに行きたいと思う人はリヨン駅に行けばいいし、

モスクワにモスクワ駅はない代わりに

サンクトペテルスブルグ駅はある。

そっち行きの列車が出ている訳です。








明治時代の東京の鉄道も、そんな感覚だったらしい。

東北線のように経営母体が違うせいでもあった。

ちなみに、中央線は甲武鉄道、房総方面は総武鉄道と

不思議とみんな建設・経営主体が違ったのだ。



私がガキの頃、つまり『総武線地下ホーム』が完成するまで

房総方面の優等列車は『両国始発』という時代があった。

『変なところで降ろされるんだなあ。』と思ったもんである。




東北本線もそう。

上野駅の東北本線と常磐線のホームは『頭端式』といって

きっぱりと行き止まりになっている。


阪急梅田駅なんかもそうです。

九州だったら門司港駅なんかもそう。

『ここから先にはいかねえぞ。』



東北本線を作った日本鉄道は

旅客に関しては上野をターミナルにして

先に行くつもりはなかったらしい。











ところが、鉄道会社とは別の次元で

『東京の中央停車場を作ろう。』という構想が起きていた。



明治17年(1884年)東京市は市区改正計画というのを始める。

いまで言う都市計画だが、この中に

『新橋-上野間の連絡線と、中央停車場の設置』

という項目があった。



さらに、政府のレベルでも、

鉄道局の顧問だったフランツ・バルツァーという先生が、

独自に連絡鉄道の計画を作っている。

1920年代のことだ。



バルツァー先生は、ここで今日につながる重大な

項目を提案している。

『南北連絡線の中央停車場の位置は丸の内側とする。』

『中央停車場は皇居を向き、中央に天皇専用出口を設ける』

『連絡線は高架鉄道とする。』



『高架鉄道』というのは、技術者バルツァー先生の慧眼で、

これが実現できたことはこの鉄道の性格を決定づけた。



中央停車場周辺の地盤の弱さや、将来の都市交通を

見越しての提案で、彼はれんが+鉄骨トラスという

新しい技術で、今日にも残る高架鉄道を造った。



しかし、『駅舎を丸の内側にする』、『天皇専用口を作る』

といったあたりは、彼の独創というよりは

おそらく明治日本の意志だった。



江戸城郭内の屋敷地であった丸の内に

既成市街地はなく、連絡線である以上

南北に貫通するその線路の

どちらかに駅舎を作らないといけない。










時間の関係が前後するが

わかりにくいと思うので

東京駅建設前後の周辺の地図を見てください。








着工前、明治24年の東京駅付近。

図面右側の整然とした区画は江戸時代からの町、

しかも、銀座、京橋、日本橋、と超一流であった。

2012y10m02d_081514923
























1921年、東京駅丸の内駅舎竣工7年後の東京駅と周辺。

結局、東京駅は丸の内側に立地する。

2012y10m02d_081532333






















行幸道路は出来ているけど

丸の内はすかすかですな。

しかも、この時点では、八重洲側に改札口はない。

連絡通路はあったが、現在外濠通りと呼ばれているように

昭和に入るまで八重洲側にはお濠があった。



八重洲橋が架けられて、

中央コンコースの先に八重洲口が作られるのは

東京駅開業から15年後の昭和4年である。



地図で見ても明らかなように

歴然と繁華であった海側の地区を見捨て

野原であった、丸の内地区を三菱に下げ渡して

『1丁ロンドン』を作らせて、

なにより、幅100m長さ400mという

若干寸詰まりな行幸道路を開いたのは

明治政府の意志であった。



明治20年代、日比谷、霞ヶ関、永田町、といった

『江戸の内殻』に洋式建築の官庁、議事堂街を造ろう。

世界の一等国だもん。そのくらい当然さ。

という気運があった。




その要となる中央停車場は

だから、町民どもの街の方ではなく

皇居を向かって建たなければならない。

そして、然るべく立派なものでなくてはならない。










ちなみにバルツァー先生、中央停車場の図面まで描いている。

 

 

800pxfranz_baltzers_original_plan_o

 

外人が理解した

ジャパン







図面そのものは、こういう『和洋折衷』が大嫌いだった

実際の設計者の辰野金吾から、

あっさりと無視されて洋風になるのだが、

『丸の内側に駅舎』という基本構想は引き継がれる。



うはうはに賠償金が取れた日清戦争の2年後18969年に、

『中央停車場計画』は国の予算が付いて国家事業となる。

辰野金吾が設計者として相談されるのは日露開戦の半年前。

ただ、臥薪嘗胆の時代、予算を絞られて

辰野先生は苦労したらしい。



さらに日露戦争終戦の1905年に正式に設計が開始される。

その3年後に着工するのだが

こんどは賠償金が取れなくて貧乏だったくせに

『これで世界の一等国。』

どかんと予算を増額して計画は拡大された。



今回修復された東京駅は空襲で焼けてしまった

3階部分が再現されているが

竣工当時、3階はほとんど空き部屋だったそうである。

立派に見せたいために必要のない3階を作った、と。








丸の内側の出口を降りると、幅100mの行幸道路が

皇居に続いている、という東京駅は

『国家としての明治東京の玄関』

だった。そして、

『明治日本の背伸びの象徴』

でもあったわけです。









この辺の機微を理解していない、外人のバルツァー先生は

『裏口』に当たる八重洲側に

貨物駅を計画していたらしいのだが

もちろん、そんなもの却下された。





『駅裏がない』というのは、

この駅の性格を鋭く表しているように思えるのです。































では、『今日の四枚。』













最初から高架駅として建設された東京駅と違って

その40年前に開業した大阪駅は、

地上にプラットフォームがあった。

 

Osaka_station_in_the_meiji_era    

 

 

 

一見立派な

初代大阪駅













ところがその構内はこんな感じに、のどかだった。

800pxosaka_station__original_depot_













大阪駅が高架になるのは、なんと東京駅の20年後の

1934年(昭和9年)である。



高架にするのは、踏切とかで市内交通を邪魔いないため

というのが普通の理屈。



しかし大阪駅近傍に関していえば

東海道線の場合、下りは隣駅の塚本で土手になり

神崎川を越えて尼崎で地上に降りてしまう。 

上りはもっとだらしなくて、淀川を越えて

隣の東淀川駅で地べたに降りてしまう。







そもそも昭和9年には、国鉄の上を阪急電車が

高々と高架でまたいでいた。



線路が交差する場合『後輩が先輩をまたぐ』というのは

鉄道敷設のルールなのだが、国鉄を越えた阪急は

国鉄駅のすぐ横に駅を作り、隣に

日本初のターミナルデパートを作っていた。



国鉄が高架になるなら阪急は地上に降りないといけない。

無茶な話で、小林一三は激怒したらしい。



さらに、国費で高架にされた東京駅と違って

大阪駅の場合は大阪市の予算も入った。



市会の中には『そこまでしなくても。』という意見も

あったのだが、大勢は

『東京が高架鉄道なのに大阪が地べたなのは恥ずかしい。』

『昭和9年には天皇陛下の行幸がある。』

といった理由で国鉄駅の高架化を決めた。






1934年(昭和9年)6月1日に

下だった国鉄が上に、上だった阪急が下にという

奇跡の工事がたった一夜で行われる。 

0000_kirikae 

 

 

 

 

 

 

 

 

高架-地平切り替え工事中の写真。


















阪急電車はこの後国鉄駅をくぐって阪急デパートの後ろに

ターミナルを作る。 

0000_umeda1935

 

 

切り替え直後の梅田駅 










しかしさすがに阪急デパートと

国鉄高架線に挟まれた駅は狭く、

1966年(昭和41年)に現在の位置、

国鉄駅の北側に移転された。



従って遠くなった阪急梅田駅は

距離感の解消のために、阪急駅-国鉄駅の間に

日本初の『動く歩道』を作った。



これだけでも驚くのだが

イラチな大阪人は、『動く歩道』の上を速足で歩く。



まねをしないと怒られそうなので、一生懸命歩くと

降りる時につんのめる。






阪急の意地である。











で、


阪急の話や、大阪駅北地区の話をすると

いくらでも話せるのだが、

さすがに訳がわかんなくなるので、やめておきます。











しかし、国鉄大阪駅が高架になったのも

結局は『大阪人の見栄』だったわけだ。

旅客線が高架になったことで貨物駅が

在来線と切り離されたのは、神戸駅と一緒。



不思議な形で切り離された、

梅田貨物駅の周辺は、いまでこそ

ヨドバシカメラがあり、ノースゲートタワーがあり

雰囲気が変わったが、ほんの30年前には男でさえ、

夜に一人で歩くのは躊躇するような雰囲気があった。

(危険はなかったけどね。)




あれこそが『駅裏』という奴だっただろう。




どんな駅にも、表側こそ賑やかだが

うさんくさい『裏側』がある。




それが東京駅にはない。



せいぜいが新橋のガード下くらいで

あんなもの健康すぎてインタビューが来てしまう。



そういう違いの感覚はどこまで通じるかなあ。








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(追記)

もっとも、東京駅は間違いなく『名建築』です。

10月1日が『万歳一色』になるだろうから

ちょっとへそを曲げてみました。

 

何十万もするステーションホテルのスイートには泊まらなくてもいいけど

むしろ列車が見える部屋に泊まりたい。

 

かつての8角形の屋根の撤去とともに

内部にあった、パンテオンのような金属ドームも

取り払われたらしいが、

あれは零戦の材料のジュラルミンだ。
 

かけらでも売っていたらぜひ買いたい。

 

 

(追記の2)

時間の関係で重大な間違いがあったので修正加筆しました。

 

 

(追記の3)

だから、長え。

 

 

 

 

 

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2014年11月26日 (水)

スト権ストの日(再)

11月26日は『スト権スト』の日

 

1975年のこの日

国鉄の労組がスト権を持つべきかどうかをめぐって、

国労・動労がストを実施。

日本中の国鉄を1週間にわたって止めた。

 

 

 

 

 

 

当時私は中学生であり

うちの中学校では、国鉄がストをすると休みという

規定があったために土日あわせて10連休になった。

 

 

毎晩、NHKの9時のニュースを見ながら

『がんばれ労組』と思ったもんである。

 

 

しかしながらこのストは、国鉄本体を滅ぼした。

今日は、そんなお話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『スト権』というのは

『団結権』『団交権』と並んで『労働三権』と呼ばれ

『気に入らなかったら働かないぞ』

というもの。

  

労働者の基本的な権利である。

 

 

 

  

ただし、当たり前だが

公益性を重んじる公務員にはこの権利は制限される。

当時の国鉄は『三公社五現業』といって

昔の受験生なら暗記しなければならなかったんだけど

国鉄職員は『準公務員』という扱いで

スト権は認められていなかった。

 

 

 

ちなみに公務員には『団交権』も認められていない。

そのかわりに人事院というものがあって

『給料あげたれや。』と勧告してくれる。

 

自衛隊・警察官・消防官には団結権も認められていない。

確かに、あんまり『自衛隊労働組合』とか見たくない。

  

公務員一般は現業職員(ゴミの収集担当)とかも

団結権は認められていないのだが

例外が教員で、従って『日教組』という腐った組織がある。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

こんな話を始め出すときりがないので先を急ごう。

  

復員兵であふれかえった国鉄は

組織組合の草刈り場になった。

 

 

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当時社会党系であった総評(いまは民主党系)の国労・動労が

主力となって起こしたこのストは

数でいえば圧倒的であったが故に日本中の鉄道を止めた。

 

 

 

  

国労・動労もいきなりそんな強硬手段に出たわけではなく

毎年『春闘』といって2.3日のストをやった。

  

しかし『スト権』がないのはやりにくい。

毎年の春闘で大量の処分者が出る。

組合闘争は過激化し『幹部のつるし上げ』のようなことが

常態化する。

その中で1960年代から採られたのが

「遵法闘争」という手法である。

  

曰く、

「カーブの手前では必要以上にスピードを落とそう。」

「線路に鳩が止まっていたら危険だから列車を止めよう。」

「気分が悪かったら危険だから乗務を止めよう。」と。 

「遵法」といえばそうなのか?

もちろん安全が第一なのだが、

要するにサボタージュだ。

 

  

しかし、こんな小学生の喧嘩みたいな

サボタージュをやったおかげで

ダイヤは乱れまくった。

遅延欠便当たり前。

 

 

 

 

もちろん乗客は怒った。

上尾事件をはじめとして国電各所で暴動が起こった。

 

 

 

  

この話の流れの中で、 

物流は鉄道からトラックに移った、という奴がいるが

そうでもない。

 

  

ご覧いただこう。 

 

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若干統計が古いが

戦後10年目までは物流の過半を占めていた鉄道は

1960年代に急速に勢力を失って

10パーセント台になっている。

 

  

これは実は10年後でもあまり変わらない。

 

スト権ストは1975年だし、

1960年代に何があったか、というと遵法闘争だ。

これが決定的に国鉄貨物を滅ぼした。 

 

 

 

その一方、トラック輸送が

急速にシェアを伸ばしたのか、

というとそうでもない。

『自動車輸送』は1970年代初めに39%台をマークするが

それ以降は低迷して30%代前半をうろうろしている。

 

この時代、道路もトラックもひどかった。

高速というのは東名・名神くらいしかない。

主要国道でさえ田舎に行くと、舗装もしていない。

トラックもトレーラーなんてない。

 

とてもじゃないが

大量輸送には耐えられる代物ではなかったのだ。

この時代の日本の自動車輸送を

過大に評価してはいけない。 

 

  

船舶が過半数を越えているあたりに注目して欲しい。

外国航路はコンテナ化していたが

国内は、昔ながらの荷役方式。

急にシェアが増える理由はない。

70年代にはいって船舶がシェアを伸ばしているのは

カーフェリーのせいだ。

 

  

高速がないからフェリーを使った。

港を降りればそのまま目的地に行ける

いまの人は知らないだろうが、

昔のフェリーの平土間の雑魚寝フロアなんかは

トラックの運ちゃんばっかりだったのだよ。

 

フェリーだって天気が悪ければ遅延するのだが

そこまでしても国鉄が嫌だったのだ。

 

 

 

 

 

 

  

なにより、遵法闘争で、

いちばん怒ったのは荷主である。

届け先に約束の日に着かなければ

違約金を払わねばならないのは荷主だ。

石炭ならともかく、牛乳なら全量廃棄だ。

  

 

人間なら文句言いながらも振り替え輸送に応じてくれる。

もちろん私鉄が併走していない区間もあったし

併走していても京成のようにまるっきりローカル線だったために

ガラスは割れるは、けが人が出るは、と偉い騒ぎになったが…

 

私みたいに『ストなら学校が休みだーい。』

喜ぶ馬鹿もいる。

 

しかし、貨物の荷主はそうはいかない。

国鉄は、スト権ストの前に急速に顧客を失っていった。

  

しかし、労組は自分達の影響力を過大に評価していたらしい。

すでに国鉄が陸運の王者であった時代は終わっていた。

 

 

 

 

 

 

  

国鉄も、貨物輸送の近代化に

手をこまねいていたわけではない。

  

国鉄にとって、貨物駅に多数の職員を抱えて人力で作業することは

遵法闘争との件だけでも非効率であり、危険でもあった。

そして日本でも、『鉄道離れ』が始まっていた。

 

 

  

1970年代、世界において「鉄道再生のモデル」はアメリカだった。

ハイウェイと飛行機に負け越して

旅客輸送をあきらめた、アメリカの鉄道は貨物輸送に

活路を見いだした。

  

船舶コンテナをそのまま運べるアムトラック

『三流の路盤に一流の列車を走らせる』という資本集中と

信じられないくらいの長大な編成などの

徹底的な省力化で大いに収益を上げた。

 

 

 

日本の貨物輸送もあれを見倣おう、という動きがあった。

1970年代から日本中の貨物取扱駅を削減して

扱う貨物の種類を制限しようとした。

 

このおかげで、別府鉄道とか国鉄に乗り入れていた

愛すべき私鉄が滅んだのだが

国鉄の言い分はこうだった。

 

 

 

 

『コンテナで運べる荷物だけにする』

 

 

 

 

 

いまも、国鉄の貨物列車はコンテナを積んでいるが

あれを徹底しよう、と。

距離あたりの運賃では鉄道はまだまだ競争力がある。

 

ということで、国鉄は全国に貨物線を敷いた。

実は、首都圏のJRの貨物専用線が

最もたくさん敷かれたのが1960年代から70年代である。

 

 

そのうちのひとつに武蔵野線がある。

路線の意味としては、京葉、常磐、東北、中央、京浜

各方面の貨物列車を都心を通らずに連絡しよう、

というもの。

 

 

 

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計画としては

戦前からありました。

 

 

 

     

 

ただし、戦後実現するにあたり、

この鉄道は貨物鉄道の理想を実現しようとする。

  

たとえばこの路線には踏切がない。

全て立体交差なのだ。

 

 

そして決定打は、路線の中間部の埼玉県吉川市に

日本最大のコンテナ貨物基地、武蔵野操車場

つくったことだ。

  

貨車の増・解結、誘導を全てコンピューター制御。

敷地内にハンプを設けて、それ以降無人運転するなど

徹底的に無人化を実現。

広さは甲子園球場3個分以上。

 

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この操車場は、1974年に開業した。

 

ところが、直後に起こったのが『スト権スト』である。

荷主は決定的に国鉄を見捨てた。

 

 

 

  

貨物再生の輿望を担った武蔵野操車場は

たった10年で放棄される

 

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あっさりと廃墟

 

 

  

狭軌の日本の鉄道が船舶コンテナを積めないことも大きかった。

 

いまや、大型トレーラー

コンテナ埠頭から船舶コンテナを

そのまま引っ張っていける時代だ。

  

鉄道コンテナに積み替えて、目的地の近くで

もう一度トラックに積み替えないといけない鉄道は

まったくかなわない。

   

神戸のポートアイランドをはじめ1980年代から

従来の埠頭方式から、ガントリークレーンを並べた

コンテナヤード、というものが一般的になった。

 

鉄道貨物は、少なくとも大量輸送の手段としては

 

社会的な使命を終えた。

 

 

 

 

 

 

 

  

『スト権スト』は

結局、国鉄の労働者を救わなかった。

自業自得の側面が強いとは思うが

乾坤一擲のストの12年後に国鉄自体が滅びる。

  

 

そこはざまあみろ、と思う。

俺は国鉄職員が大嫌いだ。

  

武蔵野線が貨物線だったことなんて

あのあたりに一戸建てを買っている田舎者は知ってるのか?

「あー、ちょっと通勤が不便よねー。」とか言っている奴は

当たり前だ。

田舎なんだから、ボスママも怖かろう。

 

 

  

しかし、未来を目指した鉄道だったことは間違いない。 

ほんの10年間だけ、夢を見た。

 

  

挫折したけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

では、『今日の国労。』

 

 

 

 

 

 

分割・民営化に反対する『国労のCM]』 

 

 

 

 

こんな嘘くさい駅員いねえよ。

 

 

 

リアルタイムに知っているから言える悪口がある。

悔しければかかってこい。

 

 

 

  

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2014年5月 3日 (土)

追突の日

5月2日未明、ソウルの地下鉄で停車していた車両に 

後続列車が追突、240人が怪我をした、という。

(読売の記事へのリンク)












奇しくも、この日は日本最大の追突脱線事故 

三河島事故が起きた日、でもある。


1962年(昭和37年)、常磐線の三河島駅に到達するために

長大編成の列車を曳く蒸気機関車が、喘ぎながら10/1000という、

非常につらい上り勾配を登っていた。

この機関車が事故の原因。



蒸気機関車牽引の貨物列車、というのは

上り坂で止まりたくないそうだ。

一度止まってしまうと、連結器が伸びきって

再始動がめんどくさい。

最悪、坂の下まで戻らないといけない。


この時の貨物列車は、本来 三河島駅での下り旅客電車の通過後

駅構内に入るはずだったのだが、

この日は東北地方の地震のおかげでダイヤが乱れていた。






貨物列車が本線に入る構内信号は、当然『停止』だったのだが 

『停車』を嫌った運転士は構内の安全側線に入ってしまう。


入るだけなら、まだよかったのだが、

なぜか安全側線で脱線。

さらに、あろうことか下り本線にかぶさるように倒れてしまった。

安全側線の意味がない。

そして、三河島駅の駅員は後続の列車に警報を出さなかった。

そこに本来の下り電車が衝突。



こいつがさらに上り本線にかぶさるように脱線した。

乗客は、降りて線路を歩きだすのだが、

さらにそこに上り電車が突っ込む。








もう、なんかドリフのコントじゃないかと思うんだけど

国鉄史上最悪の多重衝突事故で、 

死者162人、重軽傷者350人以上という大惨事となる。


                    
       

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まあ、蒸気機関車の三河島事故の時代と、

21世紀のソウルの地下鉄を比較してはいけない。


ソウルを擁護しているんではないぞ?


逆だ。




今回、追突した電車の運転士は 

『最後まで非常ハンドルを振り絞ったが止まらなかった。』 

と言っているらしい。


嘘だ、とまでは言わないし、

ATCやATSが作動しないというのも、おかしいけど、

生きてるんでしょう。

逃げたんだ。それはいいよ。命が第一。



だけどあんた、修学旅行生を閉じ込めて被災させたくせに 

真っ先に逃げ出して非難されている、 

あの貨客船の船長を意識してるだろう。


                      

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パンツで逃げてます。 

船長です。






ソウルの地下鉄事故が、

ヒューマンエラーなのかどうかはまだわからないが

貨客船沈没事故は、人災の部分が大きそうだ。



三河島事故は裁判が終っていて、

最初に停止信号を無視して構内に進入した

機関車の機関士、助士は有罪。


さらに、衝突の前に、後続列車や乗客に警報を出さなかった、

助役などが処罰を受けた。






交通事故でもなんでも、追突したら

したほうが100パーセント悪い。

『だって、前の車が急ブレーキを。』といっても、

『それならどうして十分な車間距離を取らなかったんですか?』

と言われたらおしまい。

民事でも刑事でも確実に負ける。



だから『追突ゴロ』なんていうのがいるのだ。

後続車の車間が詰まった時点で、ガツンとブレーキを踏む。


『単純追突』なら保険屋もめんどくさいから喧嘩しないので

確実にもうかる。

そのあと、首にギプスをして、

『おおーう、むちうちでよーう。』なんてやれば完璧だ。


なにが?




自動ブレーキのこの時代、商売がやりにくいだろうが

まあ、追突なんて、するほうが恥だよね。



















では、『今日の三河島事故。』




















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2014年3月 6日 (木)

鼻、落とすなよ

JR予土線に『0系新幹線』を模したデコレーション列車が登場、 

というニュース。 (愛媛新聞の記事へのリンク)






       









で、まあ、 

列車(といっても一両編成)の中身はこの動画だけで十分で

余計な説明はいらないと思う。


別にJR四国の課長のアップショットを

20秒以上も流すことはないと思う。





団子鼻は御愛嬌として、0系の実車の座席を載せたり、 

さまざまな列車の模型を載せたり、 

鉄っちゃんは大喜びだろうと舐めてるらしいが、 

あまいっ。



鉄っちゃんといっても、いろいろな流派がある。ということは

最近は、多少認知を得てきていると思うのだが

『車両派』ばかりではないぞ。

少なくとも、私は行かないなあ。








だって遠いんだもん。



いまでこそ、『観光SL列車』というのは珍しくないが

昭和54年、末期の国鉄が初めてSLを運転させたのが山口線。


当時、東京から新山口まで新幹線でも軽く6時間はかかった。

家族4人で行けば運賃だけで、10万円を超えた。

国鉄もうまいことやるな、なんて言われたものである。

(SLの観光運転としては大井川鉄道のほうが先で昭和51年)








もちろん、JRになって『オール国鉄』ではなくなったんだから、

東京から遠い路線にキワモノ列車を走らせる意味はなく

全線赤字のJR四国、

特に赤字が大変らしい予土線は、

こういった

デコレーション列車が大好きである。


車両に凝るなら、JR九州みたいに

かっこいい外観や内装を目指す方向に行けばいいのに、

こういうおもちゃを作っちゃうのは、いとおしいけどな。







神戸からだと、高知方面の始発駅である宇和島まで

新幹線を使っても 5、6時間かかる。 

東京からのほうが飛行機で遠距離を飛べるのでむしろ早い。

それでも 3、4時間はかかる。


そもそも予土線なんてみんな知らないだろう。

俺も乗ったことはない。






四国というのは、地勢の厳しいことにかけては 

私のように関東ローム層の上で、 

ふやふや育ってきた奴からは信じられないくらいに

岩山ばっかりだ。



さらに四国を横断するように中央構造線、というのが走っており

四国三郎と呼ばれる吉野川は、大歩危小歩危の断崖を造る。

佐多岬半島など、切り裂かれた四国の血しぶきのようだ。


中央構造線だけでなく、四万十川なんてのは 

地図を見るとイライラするくらい曲がりくねっており 

四国の鉄道建設史は苦難と挫折の連続である。



宇高連絡船(宇部-高松)の国有化が明治39年。

松山まで通じるのが昭和5年。

徳島までつながるのが昭和10年。

高知までつながるのも、大歩危小歩危を突破して昭和10年。


坊ちゃんが松山で乗っていた汽車は、今の伊予鉄道 

国鉄は、うんと後輩なのですね。






高知方面から予土線の列車が出る窪川までが、

とんでもない難工事でここまで来たのが昭和26年。

宇和島方面からの延伸も時間がかかって

途中の江川崎までの軽便鉄道を改軌して開業したのが昭和28年。

予土線の全線開通は、さらに20年後の昭和49年。


みんな四国の地名なんかわからないだろうからざっくり言うと 

四国の南西部を回って鉄道がつながったわけです。




もちろん本州から高知に行くのに、

こんなくそかったるいルートを使う人はおらず

松山から高知に行くのでも、この路線は使わない。

たぶん飛行機か高速バスを使う。





それでもつながった予土線はまだ幸せで

窪川から四万十市の中村と宿毛を経由して

やっぱり、宇和島まで行くはずだった宿毛線は、

建設中に国鉄がだめになって工事中止。

第三セクターの、くろしお鉄道となって建設が再開されるが 

宿毛で力尽きた。





東回りで四国を回ろうとした阿佐線は、東西から手を伸ばすが 

これも届ききれずに終わっている。

阿佐西線は、JRでは維持できず、やっぱりくろしお鉄道になり、

阿佐東線は、これも3セクの阿佐海岸鉄道になるが

赤字でどうしよう、ということになっているそうだ。

金のかかったJR九州のさっきのHPと比べると、涙が出る。


だから廃線にするくらいなら、末端の駅からちょっとずつ

レールを切って文鎮にして売っちまえ。






はあ。







しかし、予土線もとんでもない赤字線なのは確からしく、

さらに、宇和島から窪川まで直通する列車が 1日7本じゃ

ぜひ利用してください、ともいえないだろう。


だからこの路線は観光で食おうとしている。

トロッコ列車を導入したのも日本初だし

この新幹線もどき、のキャラクター列車もそうだ。

(JR四国 よどせんのページ)



Wikipediaの予土線のページが、

『四万十川も見えるけど前半はそんなでもないよ。』※1

『窪川町に原発を造るから廃線を免れたらしいぜ』※2と

よほどこの路線のことが嫌いな人が投稿したんだろうなあ、

と思うのだが、まあこの列車で全国ニュースになって

注目されたんだから

がんばれ。








せっかく付けた張りぼての鼻、

運転中に落とすなよ。
























では、『今日の一枚。』













このホビートレインのポスター。

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せかいいち おそい

しんかんせん









      

      


実は、今日 この話を取り上げたのは

このポスターが気に入ったから。








おまけ







せっかくだから四国の地図も載せておこう。

(親切なつやすみ)

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※1 宇和島からはなぜか高知方面が『のぼり』ということになるらしいので、 

   『前半』というのは西半分の区間。

※2 1980年に当時の窪川町長が原発を誘致をしたのは事実。
 

   翌年 町長はリコールされ、原発計画も凍結になって 

   1988年、四国電力は正式に計画を取り下げた。





    

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2014年2月16日 (日)

ブレーキが効かない

東横線で電車のブレーキが効かなっくなって、

前方で停止していた車両に追突、19人がけが、

というニュース。 (読売の記事 1 2)







こえー、

アンストッパブルみたい。



     
     
     



今回の事故で、死者は出ていないそうで、そこはなにより。

原因の調査はこれからだろうが、

読売の記事によれば、『雪のせいだろう。』と。



しかし運転士は怖かっただろうな。


だって、目の前に列車が迫って来るんだぜ?

最後まで運転席にいたんだろうか?

いくらなんでも逃げてるよなあ。

会社の調査に答えてるし…







    



ブレーキが効かない事故、というのは結構たくさんあって

1971年には近鉄の青山トンネルで

死者25名、負傷者227人という大事故が起きた。

(Wikipedia 近鉄大阪線事故)


ブレーキが効かない状態で、

33/1000という急勾配の下り坂にかかり、 制御が効かなくなって、

トンネルを出たところで脱線、 そこに対向車両が入ってきた。 

あいにくと単線区間だったため正面衝突。


この事故では運転士も車掌も死んでしまっているので

なんで、『ブレーキのせい』とわかるのかというと

事故車両を調べたら、ブレーキに圧縮空気を送る弁が

閉じられていたらしいのだ。










つい最近、

1992年にも関東鉄道でブレーキの効かない

4両編成の満員電車が終点の取手駅に進入、

10/1000という下り勾配だったこともあって

車止めを破壊して駅ビルの壁に激突。


運転士は

『ブレーキが効きません。後部車両に移ってください。』と

アナウンスすると窓から脱出。

移れ、ったって満員だもん。

1人が死亡、251人の負傷者が出た。


これもブレーキに空気を送るシステムが

作動しないように、不適切な操作がされていた。

(Wikipedia 関東鉄道常総線列車衝突事故















しかし、今回の事故にしたって

なんぼ大雪でも、

ブレーキも、非常ブレーキも、ATCも

正常に作動していたのに

たった30km/hの電車が止まらない、って

だめなんじゃないか?


ほんとに雪だけか?












そして、


『つい最近』って書いたけど、1992年って

羽生選手も生まれてないんだよな…





はあ…























では、『今日の新幹線大爆破』












1975年の映画、新幹線大爆破。

『時速80km/h以下に減速すると爆破する爆弾をつけた

500万ドル用意しろ。(1ドル300円の時代ですよ?)』 

という脅迫電話から始まるストーリー。


 

『止まらない』のも困るが、

『止められない』ってのも厄介だよな。



     




 

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2013年8月12日 (月)

駅、売ります。

イギリス国防省がロンドンで廃駅になった地下鉄の駅舎を売る

というニュース。

(読売の記事へのリンク)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『なんで国防省が駅を売るの?』

 

『えーと、1906年に地下鉄の駅舎として開業したけど

乗降客が少なくて1932年に廃止。

その後、大戦中に陸軍が買い上げて防空司令部に

使ったりしてた、と。』

 

『待て待て待て。さらっと言うけど1906年って…』

 

『日露戦争が終わった次の年ですね。』

 

『なに?』

 

『ロンドンの地下鉄の開業は1863年ですよ?

この路線は5番目くらいに出来たらしいです。』

 

『…1863年っていうと?』

 

『文久2年です。』

 

『文久?』

 

『まだ江戸時代です。ペリーが来て10年後で

攘夷だなんだってやってた頃です。』

 

『はー…』

 

『ロンドンでは開業当時、

地下に蒸気機関車が走ってたんですよ?』

 

 

 

 

 

『あぶねーなー。もう』

 

『車両も木造車ですしね。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『で、今回の駅もそういう時代のものだ、と?』

 

『いや、さすがに電化されていたらしいですけど。

日本初の電車が琵琶湖疎水の水力発電を使って

京都に走ったのが、1895年ですからね。』

 

『…はあ。』

 

『東京に地下鉄が出来るのは1927年ですから

その20年前の駅ってことになりますね。』

 

『なんか目眩がしてきた。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『で、どんな駅なのよ。』

 

『こんならしいです。』    

 

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ブロンプトン・ロード駅
    

 

 

 

 

『地味、だな…』

 

『読売の記事の写真だとえらくでっかくて

格好良くみえるんですがねえ。』

 

『スケールがわからん。』

 

『駅舎は地下も含めて床面積2600㎡だそうです。』

 

『大して広くないな。』

 

『床面積で790坪ですからね。

中の構造がわかりませんが地上3階地下1階だとして

建築面積はせいぜい200坪ちょっとでしょう。

敷地面積もこの写真じゃわかりませんねえ…』

 

『いくらで売るの?』

 

『そこなんですよ。』

 

『え?なぜ怒る。』

 

『国の資産なんだから入札するんでしょうけど

建物を保存しなきゃいけないのか、

更地にしていいのかで、不動産の価値なんて

まるっきり変わってくるんです。』

 

『ああ、更地にして高層ビルを建てちまえば

高くなるわなあ。』 

 

『駅が廃駅になっただけで、目の前の通りには

いまも地下鉄が走ってるらしいんですが

いまの建設技術ならそれをよけて基礎を作ることも出来ます。』

 

『どうも、この駅に関しては情報がないんだよな。』

 

『それを馬鹿読売は、

「ロンドンの一等地だから地元業者は

「2000万ポンド(約30億円)は下らない」

と語った。」なんて

中途半端な情報しか流さないんです』

 

『まあ、我々が買える訳じゃないんだし。』

 

『バブルの頃だったら

日本の不動産業者が買ってたかも知れませんよ?』 

 

『いまだったら

中国人が買うんじゃないか?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『しかし、路線は残ってるのに、 

駅だけ廃止になったのか?』

 

『日本にも、そういう駅はありますよ?』

 

『どこ?』

 

『京成の博物館動物園駅。』

 

 

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駅舎はこれだけ。

 

 

 

 

 

『あーここかあ。怖かったわー。』

 

『使ったことあるんですか?』

 

『上野公園の美術館に行った帰りに乗ったことがある。 

薄暗いし、人はいないし、変な絵は描いてあるし…』

 

『あのペンギンの絵とか、

芸大の学生が書いたらしいですよ?』

 

『芸大生の絵だって怖いもんは怖いわ。 

上野から電車に乗ると、必ずこの駅の前を通るんだけど、

油断してぼーっと外みてると

びっくりするぞ?』

 

『いまでもあるんですか?』

 

『ペンギンの絵は知らんが、駅そのものは 

いまでもあるはずだ。』

 

『売らないんですかね?』

 

『あほう、上野公園の中だぞ? 

「恩賜」の公園の土地を売ったりしたら大変なことになる。』

 

『ほかにそういう駅ないんですか。』

 

『廃線になって廃駅になった、なんてのはいくらでもあるが…』

 

『去年復元・改装された東京駅が、本来の容積率を

使い切れないから「空中権」を売り払って

建設費を捻出した、ということがありましたが。』

 

『今回のニュースは、そういうのとは違うだろう。』

 

『そもそも地下鉄の上に駅舎があって

それを国が持っている、なんていう事例は

日本にはないですよねえ…』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『でも、民間会社ならそういう例がある。』

 

『どこです?』

 

『ここ。』

 

000000000000000000000000000000000_3                

 

 

天六阪急ビル
      

 

 

 

 

『ここ、大阪の下町、天六駅のそばにあった

阪急のスーパーでしょ?』

 

『このビル、

昔は大阪と京都を結ぶ新京阪電鉄 

ターミナル駅だったのよ。』

 

『駅だったんですか?』

 

 

 

00000000000000000000000000000000000     

       

 

新京阪電鉄

天神橋駅
       

 

 

 

 

 

『上の写真と全然違うじゃないですか。』

 

『改装したんだよ。』

 

『いつ?』

 

『この路線は京阪の子会社として1925年に開業して 

戦時中に阪急に統合されると、1974年まで 

いまの阪急京都線と千里線のターミナルとして使われた。』

 

『いま、地下鉄ですよね。』

 

『1970年にガス爆発事故を起こしたりしながら 

あわてて路線を付け替えたんだ。』

 

『それで駅じゃなくなった、と。』

 

『昔はこの駅の北側のボーリング場なんかも 

高架線の構造物を利用してたりしたんだが、 

地中の杭だけ残して、いまはない。』

 

『いま、病院ですよね。』

 

『この阪急のビルもつい最近まで残っていて 

裏側に回ると「駅」の跡がくっきりと見えたんだがなあ。』

 

 

000000000000000000000000000000000_5        

 

 

 

むかしのホームがみえた
      

 

 

 

 

『で、このあたりは下町でしょう。』

 

『そうそう、このビルの周りとか、いまでもごちゃごちゃしてるし 

このビルの向かいには、朝からやってる中華料理屋があって 

辛くてうまかった。』

 

『このあたりは市場や工場が多かったですからねえ。』

 

『ずいぶん変わっちゃったな…』

 

『で、この駅跡がいまはどうなってるんです?』

 

『こうなってる。』

 

 

 

 

 

000000000000000000000000000000000_6     

 

 

 

 

 

どん

 

ジオタワー天六

 

 

 

 

 

 

『マンションですか。』

 

『えーと、44階建てだって。』

 

『もともとが8階建てですよね。

すごく床面積が増えたわけだ。』

 

『だから、更地に出来ればすごい不動産価値が出る。 

分譲マンションにするってことは 

阪急が手放すってことだが…』

 

『こういう土地の切り売りがいいのかどうか…』

 

『うーん…』

 

『阪急は天六のこの土地を廃駅跡40年持っていて

いまさら手放した、ということは…』

 

『ようやく需要が追いついたのか…』

 

『このあたりには20年前くらいから

高層マンションが建ってますよ?』

 

『まあ、旧淀川の北側は工場とか貨物駅とかで

開発余地があったからなあ…

 

 

 

2013y08m11d_202154384             

 

 

大阪駅から

1kmくらいの所ですけどね
     

 

 

 

 

 

『だから冒頭のロンドンの地下鉄駅にしても 

立て替えが出来る地区なのかどうか調べる気も起きないが 

地価の処分で売るだけだったらさみしいなあ、と。』

 

『ロンドンだったら安易に建て替えるようなことはない、と

思いたいですが。』

 

『しかし、それほど歴史的な名建築だとも

思えないんだよなあ。』

 

『まあ、戦後の阪急天六ビルみたいに

1階がスーパーっていう、歴史を押し隠したような

使い方もどうかと思いますが。』

 

『うーん…』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『駅として営業できないにしてもホームにオープンカフェを作って 

列車がみられる「メトロカフェ」と銘打って営業。』

 

『まあ、イギリスは日本と並んで鉄ちゃんが

たくさんいる国ですが…』

 

一畑電鉄の出雲大社前駅みたいに 

コンコースで結婚式をやる、とかやれば受けるんじゃないか?』

 

『あの駅、2010年の映画RAILWAYS以来、

人気になりましたよねえ。』

 

『昔は駅前通りともども素寒貧な田舎駅だったけどなあ…』

 

『じゃ、30億で買いますか?』

 

『無理。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の三枚』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一畑電鉄 出雲大社前駅

 

000000000000000000000000000000000_3     

いまから15年くらい前。

いまは赤いコーラの

自販機はありません

 

 

 

 

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夜景

 

 

 

 

 

 

000000000000000000000000000000000_8           

 

内部

いつの間に

こんな教会みたいなことに

 

 

 

   

        

           

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2013年5月11日 (土)

E電の失敗

5月13日は、国鉄民営化に伴って国電がE電と改められた日。

1987年(昭和62年)のことだ。

(Wikipedia E電)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そもそも、いまの人には、

『国電』の説明がいるんだろうか?  

 

 

いやな時代だなあ。 

 

 

 

 

 

 

 

『国鉄』の『電車』だから、国電。

 

 

『国鉄の列車なら電車に決まってるじゃないか。』

というあなたはシティ・ボーイ。

ひゅーひゅー。

 

 

 

 

 

 

 

 

馬鹿。  

 

 

 

 

 

 

 

 

むかしは、首都圏や大阪圏でも

非電化区間というのはたくさんあった。

郊外から都心に乗り入れてくる列車の中には

ディーゼル機関車にひかれてくる奴もいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこで『近郊区間を走る電車』

付けられた愛称が『国電』。

戦後国鉄が出来る前は『院電』や『省線』と呼ばれていた。

 

 

ただし、1960年代以降、大都市圏では急速に電化が進み

『田舎では一時間に一本の列車』も『電車』になる時代になった。

 

 

それでも『国電』と『その他の路線』は画然と区別されていた。

差別か?と言われたらそういう部分もあるだろう。

近代化に関する姿勢が違う。 

電化の比率もそうだし、

輸送密度が違う、車両が違う、運行形態が違う。

制度に関して、そういう実態があった。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わかりやすいところで言えば、

まず料金が違う。

 

 

赤字で首が回らなくなった国鉄が

毎年値上げを繰り返したために私鉄と競合するところでは、

『初乗り運賃が倍。』という区間が出来た。 

 

 

『さすがに競争にならん』と電車特定区間という

『大都市近郊だけは割引な。』という

田舎ものに喧嘩を売るような制度を作る。

 

 

日本の鉄道史で100年間維持されてきた

『料金は国内で同一』という原則を崩して

こういう制度を採用した。

逆にいえば、競合する私鉄のない田舎では

高額料金取り放題なわけだが。

 

 

そして、この区間が、

ほぼ『国電区間』に重なる。  

 

 

 

末期の国鉄はよほど血迷っていたと思う。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、国鉄がJRになり

本州会社がみんな株式を上場できる時代になっても

いまでも、ありがたい事にこの制度は存在する。

 

 

営業区分の上でも『国電』という呼称は

必要だったわけだ。

 

 

  

  

 

 

神戸から西で急に運賃が上がるのは

この制度のおかげである。

 

ふざけんなよ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかしまあ、1987年の段階でそういった『国電地域』において

みんな『国電』という表現をしていたのか?

と言うと疑問だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その時私は大学を卒業していた。 

 

その時に既に『国電』なんて、

若い衆は誰も使わなかったような気がする。

 

 

 

利用者からしたら

区別する意味がなくなっていたと

思うのです。

 

 

 

 

 

『国電』というのは『まあるいみどりの山手線』であり

『真ん中通るは中央線』であって

普通の会話では、いまのように『路線名』で言うのが

当たり前だった。 

 

 

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まあるい緑の

山手線

 

 

 

 

 

 

それじゃあ、『国電』と『郊外型列車』はなにが違うのかというと、

 

 

まず、列車が違う。

大きく言うと『ロングシートの車両が国電』

『ボックスシートは郊外路線。』と。

 

 

 

 

 

 

これは、かなり賛同を得られる判断基準だと思う。

 

 

 

千葉市民からしたら

『総武線国電で行くから秋葉原の○番ホームで待ち合わせな。』

と言うよりも、『黄色い電車で行くからよろしく。』

で充分だったわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

むしろ、私よりも二昔くらい前、『省線』時代を知っている人のほうが

そういう区別にこだわっていただろう。

 

 

ロングシートの『国電』では、みんな素っ気ないが

郊外区間に来ると、おばさんがみかんをくれたり

ある程度郊外に出たら、

酒もたばこも自由だった、という。

 

 

 

 

 

いま、そんなことをやったら鉄警隊に捕まるかも知れないが

かつての列車には、ほんの100kmくらい

伊香保温泉に行くくらいの中途半端な田舎でも

郊外に出たらたばこが吸えた。

 

 

郊外に行く快速列車には

窓際に灰皿があったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だから1987年の利用者の側からしたら『国電』の区別は、

あまり意味はなかった。

 

 

『国鉄がなくなるから「国電」の新名称を。』

小林亜星や黒柳徹子が奮起して

『EにはEast、Electric、Enjoy、Energyの意味がある。』

と言った時には、日本人全員が三尺引いた。

 

 

 

 

 

そもそも利用されていなかった、『国電』の名称を読み替える、

という時点で違和感がある。

 

 

 

 

そのうえ、ただでさえ 批判を浴びるだろうこういう言葉に

『E電』

というすっとこどっこいな単語を選ぶ勇気には恐れ入った。

 

 

 

 

 

 

日本語として、という以前に

言葉として不自然だ。

  

 

 

黒柳徹子が玉ねぎ千個連ねてきても

バターで炒めてやる。

 

 

 

『E電』という言葉がさっぱり定着しなくて

『どうしてでしょうかねえ?』という、

意地悪な記者の質問に

『JRがきちんと宣伝しなったからです。』と

すっかり痩せた亜星がぶち切れていたのを覚えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、新しい言葉を作る、というのは難しい。

年末に発表される『流行語大賞』が

ちっとも流行語じゃないのは有名だが

それにしても、これ(流行語大賞)はひどいな。

 

 

 

 

 

 

 

『ラブ注入』の人は、なにやってんだろう。

どうでもいいけど。

 

 

『まるもり』の人は、中学生になったら

『積み木崩し2020』とかやったらいいと思う。

 

もっとどうでもいいけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それじゃあ、全く『E電』が浸透しなかったのか?というと

一度だけ、世間の少年が使っているのを聴いたことがある。

 

 

だから、1987年以降なので私は既に大学院生だったのだが

渋谷だったか代々木だったか、とにかく山手線の駅で

大学の新入生、あるいは予備校生と思しき2人が改札の前で、

 

 

『じゃあな。』

『あ、うん。おれE電だから。』

 

 

という会話を聴いて、思わずその方を二度見したよ。

 

 

 

 

『E電』?

 

 

 

使うやついるんだ。

初めてで最期だった。

 

 

おそらくは今年東京に出てきたのであろう

おぼこい男の子二人であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、既に使われなかった『国電』を言い換えるのも

不自然だったが、

あきらかにとってつけたような言葉を

さあ使え、と。

 

 

『ぱっとさいでりあ。』と言われても

だれも使わない。

 

 

 

あたりまえだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

で、まあ。E電の失敗は気の毒だからもういいか。

国鉄がJRになって7社に分割されても

その名前を使う会社はなく

亜星は痩せちゃったんだから、もういいや。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、名前をつける、というのは難しい。

 

私には子供がいないからなおのこと、

斜に構えてしまうのかも知れない。

 

だから、個人の名前については触れないが

たとえば地名なんかでも、ひどい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自治体が『通りの名前』なんかを

募集したりしているが神戸はこんな感じである。

(神戸市 道路愛称)

 

 

大体は、地元の人間も理解できる名前なのはいいが

福原の『桜筋』や『柳筋』は赤線時代からの呼び名だ。

 

 

 

いいのか?

 

 

 

そして、神戸モスクの北側のパールストリートなんて、

訊いたことない。

 

 

明石大橋が『パールブリッジ』だった

っていうこと以上に知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、通りに勝手に名前をつける、ということに関して

旧ソ連以上に、いい加減で適当なのが渋谷区である。

(渋谷区 通りの名前)

 

 

 

 

 

 

通りの名前

渋谷区内には、さまざまな名前のつけられた通りがあります。
渋谷駅周辺のストリートを紹介します。
こうした通りの名前は、区がつけたものではありません。
この街を愛し利用するみなさんが呼び始めた名前が、徐々に浸透してきたものと言えます。

公園通り

丸井渋谷店付近から代々木公園に通じるゆるやかな坂道。
昭和47年、渋谷区役所通商店街(当時)が、パルコ開店を機に命名しました。

"パルコ"はイタリア語で"公園"の意味があり、また、この通りが代々木公園に通じていることからつけられました。

ハンズ通り

渋谷西武百貨店A館・B館の間から東急ハンズ前に通じる道。
井の頭通り。
通り沿いに東急ハンズがあるために名づけられました。

センター街

渋谷駅ハチ公口から、井の頭通りとBunkamura通りの間を西に進む道。
商店街の名称からつきました。
渋谷の中央だから?

Bunkamura通り

SHIBUYA109前から東急本店・Bunkamuraに通じる道。
以前は東急本店通りと呼ばれていました。

道玄坂

渋谷駅ハチ公口前から目黒区方面への上り坂。
江戸時代、和田義盛の残党、大和田太郎道玄が、渋谷氏滅亡後にこの坂に出没し、山賊野盗のふるまいをしたところから命名されました。

また、「天正日記」によると、道玄庵という寺の庵主が、徳川家康に由緒書を出していることからこの名がついたという説もあります。

ファイヤー通り

丸井渋谷店付近から岸記念体育会館に通じる道。
通り沿いに、渋谷消防署があることからこの名がつきました。

プチ公園通り

神南1丁目の、12ヵ月ビルから北谷公園に通じる道。
公園通りから1本裏に入り、公園通りに平行する通りで、小規模な店が多く、北谷公園に面していることから、"プチ"がついた公園通りとなったようです。
パークアベニューとも呼ばれています。

区役所通り

パルコPart2の裏から区役所に通じる道。
公園通りと平行して区役所に続く道なので、この名で呼ばれています。

無国籍通り

渋谷税務署横から区役所・神南小学校を通って東急ハンズ前に通じる道。
通り沿いにNGOショップがあるために命名されたようです。
通り沿いにある宇宙百貨という店の名から、コスミックスロープとも呼ばれます。
また、万国旗通りと呼ぶ人もいます。 

サンドイッチロード

スペイン坂の上からパルコパート1の裏手を進む道。
パルコパート1とパート3に挟まれているためにこの名がつきました。

スペイン坂

パルコパート1裏から井の頭通りへと下る坂道。
喫茶「阿羅比花(あらびか)」の店主、内田裕夫氏は、写真で見たスペインの風景に心ひかれ、店の内装 をスペイン風に統一していました。
昭和50年にパルコからこの坂の命名を依頼されたときには、迷わずこの名をつけたそうです。
命名後、近所の人たちも協力して、建物を南欧風にしました。

間坂(まさか)

井の頭通りから公園通りへLoft沿いに進む道。
平成元年、Loftが一般公募により命名しました。
「渋谷駅と公園通りとの間」「ビルとビルの間」「『まさか』という語呂のよさ」「『間』という漢字が人と人との関わり合いをイメージする」との理由です。

ペンギン通り

スペイン坂上からパルコパート3横を通って井の頭通りへ下りる道。
ペンギンには平和でかわいらしく、「集う」習性もあるところから、この通りに集まる人をイメージしてつけられました。
当時ビールのイメージキャラクターとして親しまれていたためでもあるようです。
愛山通りとも呼ばれています。

ランブリングストリート

東急本店裏から道玄坂上へと上る坂道。
由来はわかりません。

フィンガーアベニュー

神南郵便局前からパルコ前交差点へ上がる坂道。
由来はわかりません。

オルガン坂

井の頭通り東急ハンズ前の交差点からパルコ前交差点へ上がる坂道。
通りの周辺に音楽関係の店が多かったところから命名されたようです。
東急ハンズ前の階段がオルガンの鍵盤に見えるから、という説もあります。

SING通り

オルガン坂からペンギン通りへ東急ハンズ沿いに進む道。
由来はわかりません。

コルネット通り

渋谷消防署から渋谷区高齢者ケアセンター、社会保険事務所前を通り、公園通りへと上がる坂道。
由来はわかりません。

キャットストリート

明治通り宮下公園付近から、表参道交番付近を通り、渋谷区心身障害者福祉センター付近まで進む道。
渋谷川の暗渠(あんきょ)です。
「猫の額のように狭い通り」「猫が多い」「ブラックキャッツというバンドが生まれた土地だから」という説があります。

宮益坂

渋谷駅から青山通りへ上がる坂道。
江戸時代、坂の途中にある御嶽神社にあやかって、町名を渋谷宮益町に変えたためこの名称がついたといわれます。
これ以前は、富士見坂と呼ばれていました。

オーチャードロード

東急百貨店本店から神山町へと進む道。
Bunkamuraのオーチャードホールからつけられたようです。

イエローストリート

ハローワーク渋谷付近から渋谷区役所前交差点へと上がる坂道。
フランス坂、バスティーユ通りとも呼ばれますが、由来はわかりません。

 

 

 

 

 

 

 

多少なりとも歴史・由来がありそうなのは

道玄坂と宮益坂くらい。

 

 

センター街と公園通りとスペイン坂くらいはわかるが

渋谷によほど土地勘がある人でも、

これが全部わかる人がいるんだろうか?

 

 

 

 

『ランブリングストリート』『由来がわかりません。』

『フィンガーアベニュー』『由来がわかりません』

『SING通』『コルネット通』『由来がわかりません』

 

 

 

 

 

お前、

適当に名前つけてるだろう。

 

 

 

 

 

『スペイン坂からペンギンストリートに出て

サンドウィッチ通りに出る手前の

ロイヤル銃砲器店で待ち合わせね。』とかいって

場所が特定できるのだろうか?

(通りの名前は適当に書いてます。)

 

 

 

 

 

もう、そんな会話やだ。

 

 

 

 

 

 

言葉や地名なんて

自然の淘汰に任せればいい。

 

 

亜星が痩せようが太ろうが

知ったこっちゃない。

 

 

そういうことはこの間にも書いたが

 

 

 

渋谷の、この馬鹿地名もいずれ整理されるんだろう。

 

 

 

おれは、1988年頃にゼミの先輩が『フィールドに行く』といって

三日間この街を歩かされたから、30年前の流行スポットなら

案内できる。 

おにゃんこクラブが着ていたトレーナーを売っていた

セーラーズも案内できるぞ。

 

 

 

 

 

もちろん、いま急速に変わりつつある

渋谷の現在なんかわからない。

 

 

『起き上がりムンク』を売っているそうなので、

それは是非欲しいが、そのために渋谷に行くのもなあ…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の一枚。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昔の国電ってのは、こんな風にイメージがあったんです。

 

 

ヨドバシカメラ、狭いなー。

 

 

 

 

 

 

 

 

ちゃんとE電の宣伝もしようとしていた。

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ヘッドマークに『E電』。

亜星に怒られるまでもなく、国鉄はちゃんとやっていた。

 

 

 

 

 

 

おまけ

 

 

 

 

 

 

 

起き上がりムンク

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起き上がりこぼしのムンク版、だそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2013年5月10日 (金)

釣りはいらねえ-1円Suicaの嘘-

JR東日本が、来年の消費税8%導入を見越して

Suicaの利用者に限って

1円単位での料金を徴収できるようにする、というニュース。

(産経新聞の記事へのリンク) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『切符のほうが割高になる訳ですか。』

 

『逆だ。1円Suicaのほうが割高になる。』

 

『なんで?』

 

『券売機が対応できないため、切符での料金は

従来通り10円単位とするからだ。』

 

 

 

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『JRの運賃は原則として距離に比例する。』

 

『ええ。』

 

『ところが、中途半端な距離で152.3円とかだったら、

10円以下は切り捨てだ。』

 

『150円になる、と。』

 

『そのイメージがこのグラフだ。』

 

『でも、実際には

10円ごとに料金が変わるわけでもないですよ?』

 

『そりゃ、駅間距離によっては二駅でも差が10円以下

というところはあるし、逆に長いから

30円刻みくらいで料金を刻んでいるところがある。』

 

『しかし、原則はこういうふに、10円を超えないうちに

値上げをしていく、と。』

 

 

 

 

『これがいままでの料金体系のイメージだ。

現実の問題として、5円、1円まで扱わせたら

改札係が大変だ、という話もあった。』







































『じゃあ、今回のニュースは?』



『SuikaなんかのICカードの普及で

1円単位の精算が出来るようになった。』



『消費税が導入された時、

国鉄の運賃は20円単位で一斉に値上がりしましたからね。』



『それよりは親切でしょう、というわけだ。』



『まあ、そうかな。』



『でもな?』




『あ。ろくでもないことかな?』

 

 

『これは実質的な値上げだぜ?』

 

 

『でも。値上げはしないから、

この「1円Suica」をやらせてくれってんでしょう。

「すっきり精算。釣りはいらねえぜ、って。」』

 

 

『阿呆、グラフをよく見ろ、段々で上がっていく切符運賃と

直線的にあがっていく「距離比例運賃」との間にある

三角形の部分は

JRの取り分になるんだっ。』

 

 

『あっ。』





























『だから、切符を10枚買って、Suicaでうろうろしている

ばあさんとかに売りつけたら大儲けだ。』



『いきなりそういうこと言うのは止めましょうよ。』



『むかしは、大阪の地下鉄の切符売り場には

10枚分の値段で11枚売っている回数券を

ばら売りしているばあさんがいたぜ。』



『まあ、ね。』



『プリペイドカードの普及や、定期券のIC化で、

あのばあさんは消えたが

再びあの時代がやってくるっ。』

 

 

『…来ないですよ。

いまでもJR東日本管内の利用者の

8割はSuicaを使ってるらしいじゃないですか。

いまどき切符買ってるのはあんたくらいですよ。』

 

 

『だって、自営だから通勤しないし。』








































































『とにかく、これは実質的な値上げだ。』



『あまり実感がわきませんが。』



『となり駅と10円違う駅まで通勤しているやつは

10円近く毎日余計に払わされていることになる。』



『あっ。』



『10円でも往復で月500円だ。

30円も繰り上がる駅の手前までだったら

月、2千円近いぞ?』



『そう考えると腹が立ってきました。』






『表だった値上げはしないつもりだろう。

「消費税に耐えてるあたしってけなげ」くらいのことは

言いかねない。』






『しかし、実際は値上げだ、と。』





『うんっ。』
















































『それにな。』




『はあ…』



『Suicaにはデポジットってもんがあるだろう。』



『そういえば、申し込みの時に2000円くらい払わされますね。』



『あのうちの500円がデポジットと言って、いわば「預かり金」だ

転勤とかで、その区間の定期が要らなくなったら

返納すれば返して貰える。』




『ああ、そうなんだ。手数料かと思ってました。』



『そういう人、多いと思うけど…

とにかくJRはデポジットの金を寝かせておけるわけだ。』



『寝かせても利益は出ないでしょう。』



『昔でいう都市銀行の定期預金の金利が0.02%くらいだ。。

500円なら0.1円くらいになる。』

 

 

『すくなっ。』

 

 

 

『利用者からしたらそうさ。

だけど、JR東の利用者の8割がSuicaを使ってるんだろう。

軽く見積もって1千万人だとしたら、

金利だけで100億円だ。』



『あっ。』



『まあ、「預かり金」っていう性格上、元本に手を付けるような

投資は出来ないだろうが、

実際はもっと有利な運用をしてるだろう。』



『なんか腹が立ってきました。』



『そういうことを秘密にして

「ほらSuicaで精算すれば、

きめ細かく精算できて釣りもいらないよ」

って、そんなことだけ強調する。』



『うーん』



『卑怯だろ?』




『……』





『このニュースを見てこんなふうに

脊髄反射みたいに即座に、

怒り出せるやつなんて、そうはいないぜ?』








『ほんっとにへそ曲がりですねー。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の一枚。』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『昔の切符は硬券っていって、厚紙だった。』

 

『いまは切符も磁気記録式ですもんね。』

 

『しかし、そういうのにノスタルジーを感じる人もいる。』

 

 

000000000000000000000000000000000_2        

 

 

国鉄の初乗り運賃が

130円だった時代。 

 

 

 

 

 

『130円っていまより高いですよね。』

 

「でも、この昭和54年の刻印ってのは

俺がちょうどこの駅を使ってた頃なんだ。』

 

『わかったから泣かないでください。』

 

 

『うわあん。』

 

 

『リバイバル切符もありますよ。』 

 

 

000000000000000000000000000000000_3         

 

 

 

 

 

 

 

 

『業平橋って、いまは「とうきょうスカイツリー駅」じゃないですか?』

 

『それで、「消えゆく駅名」を記念して

こういう切符が出されたらしい。』

 

『あ、日付の23は、「平成年号」ですか?』

 

 

 

 

 

 

 

 

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2013年3月18日 (月)

青函トンネルの日

3月13日は青函トンネル開業の日。

昭和63年(1988年)のこの日、開業した。

 

 

 

 

 

 

本州と九州、北海道を結ぼう、という構想は明治時代からあった。

幅員の狭い関門海峡を通る関門トンネルは、戦前に着工され

突貫工事で戦時中の昭和17年に竣工した。 

       

しかし、海面部分だけで20km以上ある青函トンネルは

どうもならんなあ、ということで『構想』のままだった。

 

 

 

  

 

ところが太平洋戦争末期には日本近海に

アメリカの潜水艦や飛行機が出没するようになる。

昭和20年7月には米軍機の爆撃と機銃掃射で

全連絡船12隻のうち10隻が喪失。壊滅状態になる。

 

 

さらに津軽海峡にも機雷をばら撒きやがったおかげで、

戦後になっても触雷事故が起こった。

 

 

『国防の上でも問題だ。』ということで

昭和21年から地質調査が始まり、距離的に近い

下北半島経由よりも津軽半島経由が良い、ということで

今のルートが決まっていくのだが、

これはまだ予備調査であって本工事の予算はつかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世論が動くきっかけとなったのが

昭和29年(1954年)の洞爺丸事故。

      

今よりもはるかに貧弱な気象情報しかなかった状況で

台風の中、出港しちゃった青函連絡船洞爺丸は

函館港外で立ち往生してしまい転覆、沈没。

 

ほかに4隻の連絡船も港内で沈没し、犠牲者は1400人を超えた。

犠牲者数は国内でトップ、世界的にも第三位の海難事故となる。

 

青函トンネルは昭和39年(1964年)に斜坑が着工。

昭和46年に本坑が着工する。

昭和48年には整備新幹線として

盛岡-青森の東北新幹線の延伸と

青森-札幌の北海道新幹線が決定された。

       

青函連絡船は常に満員で多客期には積み残しを出し、

昭和40年代を通じて緩やかながらも旅客増のペースを保った。

 

 

 

青函トンネルは、待望されていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

だが夢の時代はここまでだった

 

 

 

 

   

 

昭和26年(1951年)から民間空路が復活し

北海道でも千歳空港(旧)の供用がはじまる。

 

昭和53年には、羽田-千歳間は

『世界で最も乗客の多い航空路線』となる。

 

その一方、青函連絡船の乗客数は

昭和49年(1974年)の500万人をピークに減少を始める。

 

減少どころではなく激減で、昭和50年代末には

全盛期の4割以下になってしまう。

       

今でも、東京-北海道の旅客輸送での

鉄道のシェアは3%もない。

 

 

 

 

 

 

 

 

そのうえ、昭和48年には石油ショックが起こり

昭和49年には異常出水が起こって、工事が止まり

昭和57年(1982年)には整備新幹線計画自体が凍結されてしまう。

昭和59年には、「青函トンネル問題懇談会」なるものが開かれる。

 

昭和62年には大蔵省の小役人が国会で

『戦艦大和、伊勢湾干拓』と並んで青函トンネルを

『昭和三大馬鹿査定』と罵倒する有様。

      

既に本坑が貫通し、竣工間際だった青函トンネルを

バカ呼ばわりしたのは、そこを通る北海道新幹線や、

盛岡から接続する東北新幹線などの整備新幹線建設を

牽制するためだったらしい。

 

青函トンネルをどうしよう、という議論の中では

『石油を貯めとけ。』『しいたけを育てたらどうだ?』

と、建設費の金利はおろか、

排水ポンプも動かせないようなアホな話しか出なかった。

       

『高速道路にしろ』という案もあったが

道路にするには給排気の能力が全く足りないし

『新幹線用の複線トンネル』といったところで

路盤部分の内径は9m弱しかないから

上下1車線の高速道路でも狭い。

 

 

         0000seikann

作業抗や先進導坑は

点検・避難路として

いまも使ってます

 

 

(クリックで大きくなります。)  

             

 

 

 

結局、鉄道として使うしかなかったのだ。

竣工間際に巨大な土木構造物の用途が変えられるか。

 

 

 

 

 

 

 

いまでも、ネットを見ると、青函トンネルや北海道新幹線に

批判的な人はいる。

しかし、沿線自治体はノリノリである。

 

 

 

  

札幌市のHP

2013y03m18d_154020755     
     
     
     
     
     
    
    
    
    
     

 

 

 

 

 

 

 

     

クリックで大きくしてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大量輸送ができて、CO2を出さず、

座席も広くて安心ねっ、と。

 

クラシアンか。

 

 

 

 

 

 

スピードだって速い。

 

 

道の「北海道新幹線Web」

 

 

2013y03m18d_215002418_2   

 

開業当初と

360km/h運転に

した時の所要時間 

(クリックで大きく)

 

 

 

速いなー。

札幌-函館間って210km以上あって東京からも新神戸からも

掛川あたりまでの距離になる。

            

掛川という微妙な駅だと「こだま」しかないな。

 

   

東北新幹線だと東京から郡山とほぼ同じで

今をときめくE5系で77分。

それがあんた50分とか45分とか。

 

 

 

 

  

しかし、このグラフは若干ずるくて開業後の数字が

青函トンネルをはじめとする在来線併用区間を

260km/h運転にした時のものになっている。

  

(現在、併用区間は在来線の客車も貨物列車も走るので

160km/h運転の予定。その場合、札幌-東京は5時間01分)

 

 

 

 

 

さらにずるい小樽市の『飛行機との比較』 

 

2013y03m18d_153234628  

 

 

 

 

クリックで大きくしてください 

 

   

『まあ、飛行機と変わらないじゃない。』

と思っただろう。

だからこのグラフにも、『ギミック』がある。

 

航空機の所要時間が

『それぞれの駅までの移動時間込み』

なのだ。

 

まあ、確かに空港が都心にあるとは限らないが

東京-札幌が飛行機で3時間半という記述に、

『おや?』と思った。

 

『俺んちの前がスタートでゴールな。』といった、

ジャイアンな感じがする。

 

 

 

 

 

 

 

 

   

しかし、北海道経済界の期待は更に大きく

新幹線が札幌まで開通したら、

道内や東北への旅行者は新幹線が独占。

 

今は3%もない関東への鉄道利用は

5割近くに増える、と大変に強気である。 

 

 

 

北海道経済連合会の『新幹線開業による効果予測』より 

 

2013y03m18d_221806161  

 

 

 

 

 

(クリックで大きくなります。) 

 

 

 

 

 

 

  

そこまで劇的な変化はないだろうが 

実際昭和63年に「在来線規格」で開業した青函トンネルは、

以来今日まで25年間、本来の実力を発揮していない。

         

もちろん『並行在来線をどうする。』

『札幌一極集中が進むだけだ。』

『整備新幹線なんだから自治体の負担もある。

予想通りの利益が出なかったらどうするつもりだ?』

といった問題はあるだろう。

 

                 

しかし、せっかく作ったんだから

ちゃんと使ってあげたらいいのに、と思うのです。

 

 

 

 

       

ちがうっ。

だから僕は鉄じゃないっ。 

 

 

 

 

 

実を言うと、今日は東北新幹線の『はやぶさ』が

320km/hでの営業運転を始めた、というニュースを聞いて

『鉄道というのはどこまで速くなるんだろう。』

という話をするつもりでした。

  

 

しかし、ご覧のとおり。

 

 

前置きの長いこの日記だけど、今日は前置きだけで

終わってしまいました。

 

 

 

 

 

  

アデュー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、『今日の二枚。』

 

 

 

 

 

1982年9月の『整備新幹線建設凍結』の閣議決定には、

当時通産大臣であったこの人もサインしている。 

 

0000shintaro_abe_2   

 

アラレちゃんじゃないよ。

安倍晋太郎だよ。

 

 

 

  

 

 

 

0000abe_2  

アベノミクス、とやらで

公共投資をどんどんやるぜ 

という、この人のお父さん。

 

 

 

 

 

 

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