2014年12月20日は『東京駅開業100周年』。
記念Suicaを求める暴徒が殺到したり、
限定復活したブルートレイン『富士』が
運転されて、撮り鉄が暴れたり。
まったくもう。
ということで、
この記事は1年前のものの再掲です。
2013年10月1日復元工事を終えた東京駅が
公開される。
へそ曲がりなこの日記は
当然そんな話はしない。
さて、
東京駅と並んで日本を代表する駅が大阪駅。
このふたつの駅には大きな違いがあるのだが
わかるだろうか?
大屋根がかかった
大阪駅
大阪駅といえば、今年大規模にリニューアル
したからきれいだよな、っていうのも
そうなんだけど、
大阪駅と東京駅には、決定的な違いがある。
新幹線の駅、っていうのも正解だし、
八重洲地下街には銭湯があるぞっていうのも
そうなんだけど、
あんまり引っ張ることでもないな。
貨物駅だ。
大阪駅は1874年(明治7年)の開業時から
貨物駅があった。
むしろ昔の大きな駅では隣に、あるいは近傍に
貨物駅があるのが当たり前で、
前にも書いたが神戸駅もそうだった。
むかしは、貨物列車が旅客線を走っていたから
当然である。
しかし、東京駅は1914年の開業時から
そういった機能を持った歴史がない。
このことが東京駅の性格を表している。
『国家の玄関』にしたかったんですね。
今日はそんな話です。
梅田貨物駅は現在も機能している。
敷地の一部は売却されて
ナレッジキャピタルタウンとかいうものが
出来つつある。
(絵に描いたようなコンセプトシート)
移転先の吹田と百済(どちらも貨物駅)が
完成すると、残りの敷地も売却される。
さて何を作ろう、ということで橋下さんなんかは
『公園はどうだ?』とか言っているらしいが
しわい大阪人が許してくれるかしら。
公園にしたいんだったら屋根が平らでも
いいような建物
たとえば、遠くて古くて不評な
インテックス大阪の代わりに
国際展示場でも作って屋根を緑化して公園に
して人間が入れるようにしたらどうだ?
国際展示場としては敷地が狭いか?
しかし、大阪という街は北方貨物線という
大阪市内を迂回する貨物専用線が出来ても
巨大な梅田貨物駅を残した。
1985年の大阪駅
旅客駅に刺さるように
接しているのが
梅田貨物駅
大都市には、その街から発送する、あるいは
入ってくる大量の貨物がある。
梅田貨物駅には運河が連絡しており
水の都・大阪の貨物を運んだ。
大阪中央郵便局の裏側、いまの
ホテル・モントレのあたりは、
かつて貨物船の舟溜まりだった(Old map room 大阪駅)
大阪駅を西南から見たもの。黒い部分が掘割。
駅の北側にも連絡してますね。
東京の場合はどうだったか?
新橋-横浜間に鉄道が開通したのは大阪駅に
先立つ1872年。
翌年、隣接して汐留貨物駅が作られた。
いまはシオサイトに
なっています。
でまあ、東海道線としては
『これでいいんじゃねえか?』
と思っていた節がある。
東北本線もほぼ同時期に建設が始まっていた。
官設の東海道線と違って、こちらは
半官半民の日本鉄道による建設。
出資者の一人に岩倉具視がいた。

彼は、東北本線開通の報を聞いて
『これで、東北で 飢饉が起きても死者は
出るまい。』
といったという。
という話を、何かで読んだ記憶があるのだが
この人は上野-大宮間が開通するよりも前に
死んでしまっているのだ。
ゆ、ゆうれい…?
しかし東北本線には貨物輸送の機能が
強く求められたいたことは確かである。
東北本線における汐留貨物駅のような存在は
当然、終点の上野駅に求められた。
開業時の上野駅には貨物駅もあったのだが、
すぐに手狭になった。
あの駅は上野公園に接している。
上野公園は『恩賜』というくらいだから、
陛下に戴いた土地で
そこを削って貨物駅など作れない。
上野駅の貨物ターミナル駅機能は
隣接する秋葉原に貨物駅を作って移された。
『オタクの聖地』秋葉原は
貨物駅だったわけですな。
実際、この路線の計画時には上野-新橋を
皇居東側、つまり現在の東京駅経由で通す
構想はあったらしい。
しかし、この計画は早々に放棄された。
理由はふたつ。
ひとつは、丸の内のあたりは原っぱだったが
それ以外の地区はすでに都市化していたこと。
いまとは比べものにならないが
それでも買収に手間がかかる。
それよりも大きな理由は
皇居から東はむかしは海で
とてつもなく地盤が軟弱だったから。
実際いまの東京駅が建設された時には
1万本以上の松の木の杭が打ち込まれた。
総武線地下ホームと成田新幹線の東京駅
(今の京葉線東京駅)が作られた時、
大半が撤去されたはずだが今回の修復工事でも
『出土』しているんだそうです。
上野で行き詰まってしまった東北本線と
東海道線を連絡したい。
人間はともかく貨物列車は何とかしたい。
そこで作られたのが山手線である。
というのは、鉄っちゃんの基礎知識だが
『いまの山手線廻りで、上野-品川を
結ぶんだったら遠回りだよなー』と思うだろう
それでは『初段』はやれん。
建設当時の山手線はいまのルートではない。
赤羽駅で東北本線から分岐し、
いまの赤羽線(営業名称は埼京線)を通って
池袋でいまと同じ山手線に入り、
大崎-品川-大森という三角線を経由して
横浜、品川、両方面に連絡していた。
(大崎-大森間は貨物専用線)
つまりこう。

距離で見ても、皇居東回りのルートよりも
近いことがわかる。
ただし、ブラタモリに教えてもらわなくても
山手線は切り通しとか急勾配があって工事が
手間取った。
さらに、明治政府は戊辰戦争で叩きのめした
東北を復興させるために、宮城県の野蒜という
ところに国際港と貿易都市を造ろうとした。
野蒜築港計画という奴で、
1878年(明治11年)に巨大な築堤と近代的な
街路で仕切った街区を造った。
野蒜は東北本線からは離れているが
これができたら横浜まで生糸を運ばなくても
いい。
しかし、江戸に近い横浜、大阪に近い神戸と
違って野蒜はあまりに田舎だ。
外国人の商館は出店せず
さらに港湾自体が
1887年(明治20)の台風で壊れてしまう
もう、踏んだり蹴ったり藤原鎌足である。
東北本線の側からいえば
赤羽-品川間が開通したのが1985年
(明治18年)だから、
危ないところだったわけです。
東北の物産は鉄道で横浜まで運ばれ、
東北開発のための物資は鉄道で
移動できるようになった。
で、
さっきの1904年(明治37年)の
東京の鉄道路線図を見てもらうとわかるが、
この時点で東京には『中心駅』がない。
ヨーロッパの街なんかだと、
ターミナル駅というのは方面別にいくつもある
パリにいてリヨンに行きたいと思う人は
リヨン駅に行けばいいし、
モスクワにモスクワ駅はない代わりに
サンクトペテルスブルグ駅はある。
そっち行きの列車が出ている訳です。
明治時代の東京の鉄道も、そんな感覚だった
らしい。
東北線のように経営母体が違うせいでもあった
ちなみに、中央線は甲武鉄道、房総方面は
総武鉄道と不思議とみんな建設・経営主体が
違ったのだ。
私がガキの頃、つまり『総武線地下ホーム』が
完成するまで、房総方面の優等列車は
『両国始発』という時代があった。
『変なところで降ろされるんだなあ。』と
思ったもんである。
東北本線もそう。
上野駅の東北本線と常磐線のホームは
『頭端式』といって
きっぱりと行き止まりになっている。
阪急梅田駅なんかもそうです。
九州だったら門司港駅なんかもそう。
『ここから先にはいかねえぞ。』と
東北本線を作った日本鉄道は
旅客に関しては上野をターミナルにして
先に行くつもりはなかったらしい。
ところが、鉄道会社とは別の次元で
『東京の中央停車場を作ろう。』という構想が
起こっていた。
明治17年(1884年)東京市は
市区改正計画というのを始める。
いまで言う都市計画だが、この中に
『新橋-上野間の連絡線と、中央停車場の
設置』という項目があった。
さらに、政府のレベルでも、
鉄道局の顧問だったフランツ・バルツァーと
いう先生が、
独自に連絡鉄道の計画を作っている。
1920年代のことだ。
バルツァー先生は、ここで今日につながる
重大な項目を提案している。
『南北連絡線の中央停車場の位置は丸の内側
とする。』
『中央停車場は皇居を向き、中央に
天皇専用出口を設ける』
『連絡線は高架鉄道とする。』
『高架鉄道』というのは、
技術者バルツァー先生の慧眼で、
これが実現できたことはこの鉄道の性格を
決定づけた。
中央停車場周辺の地盤の弱さや、
将来の都市交通を
見越しての提案で、彼はれんが+鉄骨トラス
という新しい技術で、今日にも残る高架鉄道を
造った。
しかし、『駅舎を丸の内側にする』、
『天皇専用口を作る』
といったあたりは、彼の独創というよりは
おそらく明治日本の意志だった。
江戸城郭内の屋敷地であった丸の内に
既成市街地はなく、連絡線である以上
南北に貫通するその線路の
どちらかに駅舎を作らないといけない。
時間の関係が前後するが
わかりにくいと思うので
東京駅建設前後の周辺の地図を見てください。
着工前、明治24年の東京駅付近。
図面右側の整然とした区画は
江戸時代からの町、
しかも、銀座、京橋、日本橋、と
超一流であった。

1921年、東京駅丸の内駅舎竣工7年後の
東京駅と周辺。
結局、東京駅は丸の内側に立地する。

行幸道路は出来ているけど
丸の内はすかすかですな。
しかも、この時点では、八重洲側に改札口は
ない。
連絡通路はあったが、現在外濠通りと呼ばれて
いるように
昭和に入るまで八重洲側にはお濠があった。
八重洲橋が架けられて、
中央コンコースの先に八重洲口が作られるのは
東京駅開業から15年後の昭和4年である。
地図で見ても明らかなように
歴然と繁華であった海側の地区を見捨て
野原であった、丸の内地区を三菱に下げ渡して
『1丁ロンドン』を作らせて、
なにより、幅100m長さ400mという
若干寸詰まりな行幸道路を開いたのは
明治政府の意志であった。
明治20年代、日比谷、霞ヶ関、永田町、と
いった『江戸の内殻』に洋式建築の官庁、
議事堂街を造ろう。
世界の一等国だもん。そのくらい当然さ
という気運があった。
その要となる中央停車場は
だから、町民どもの街の方ではなく
皇居を向かって建たなければならない。
そして然るべく立派なものでなくてはならない
ちなみにバルツァー先生、中央停車場の
図面まで描いている。
外人が理解した
ジャパン
図面そのものは、こういう『和洋折衷』が
大嫌いだった実際の設計者の辰野金吾から、
あっさりと無視されて洋風になるのだが、
『丸の内側に駅舎』という基本構想は
引き継がれる。
うはうはに賠償金が取れた日清戦争の2年後
18969年に、『中央停車場計画』は国の予算が
付いて国家事業となる。
辰野金吾が設計者として相談されるのは
日露開戦の半年前。
ただ、臥薪嘗胆の時代、予算を絞られて
辰野先生は苦労したらしい。
さらに日露戦争終戦の1905年に正式に設計が
開始される。
その3年後に着工するのだが
こんどは賠償金が取れなくて貧乏だったくせに
『これで世界の一等国。』と
どかんと予算を増額して計画は拡大された。
今回修復された東京駅は空襲で焼けてしまった
3階部分が再現されているが
竣工当時、3階はほとんど空き部屋だった
そうである。
立派に見せたいために必要のない3階を
作った、と。
丸の内側の出口を降りると、幅100mの
行幸道路が皇居に続いている、という
東京駅は
『国家としての明治東京の玄関』
だった。そして、
『明治日本の背伸びの象徴』
でもあったわけです。
この辺の機微を理解していない、
外人のバルツァー先生は『裏口』に当た
る八重洲側に
貨物駅を計画していたらしいのだが
もちろん、そんなもの却下された。
『駅裏がない』というのは、
この駅の性格を鋭く表しているように
思えるのです。
では、『今日の四枚。』
最初から高架駅として建設された東京駅と
違ってその40年前に開業した大阪駅は、
地上にプラットフォームがあった。
一見立派な
初代大阪駅
ところがその構内はこんな感じにのどかだった

大阪駅が高架になるのは、
なんと東京駅の20年後の
1934年(昭和9年)である。
高架にするのは、踏切とかで市内交通を
邪魔しないため、というのが普通の理屈。
しかし大阪駅近傍に関していえば
東海道線の場合、下りは隣駅の塚本で
土手になり
神崎川を越えて尼崎で地上に降りてしまう。
上りはもっとだらしなくて淀川を越えて
隣の東淀川駅で地べたに降りてしまう。
そもそも昭和9年には、国鉄の上を阪急電車が
高々と高架でまたいでいた。
線路が交差する場合『後輩が先輩をまたぐ』と
いうのは鉄道敷設のルールなのだが、
国鉄を越えた阪急は
国鉄駅のすぐ横に駅を作り、隣に
日本初のターミナルデパートを作っていた。
国鉄が高架になるなら阪急は地上に
降りないといけない。
無茶な話で、小林一三は激怒したらしい。
さらに、国費で高架にされた東京駅と違って
大阪駅の場合は大阪市の予算も入った。
市会の中には『そこまでしなくても。』という
意見もあったのだが、大勢は
『東京が高架鉄道なのに大阪が地べたなのは
恥ずかしい。』
『昭和9年には天皇陛下の行幸がある。』
といった理由で国鉄駅の高架化を決めた。
1934年(昭和9年)6月1日に
下だった国鉄が上に上だった阪急が下にという
奇跡の工事がたった一夜で行われる。
高架-地平切り替え工事中の写真。
阪急電車はこの後国鉄駅をくぐって阪急デパートの後ろに
ターミナルを作る。

切り替え直後の梅田駅
しかしさすがに阪急デパートと
国鉄高架線に挟まれた駅は狭く、
1966年(昭和41年)に現在の位置、
国鉄駅の北側に移転された。
従って遠くなった阪急梅田駅は
距離感の解消のために、阪急駅-国鉄駅の間に
日本初の『動く歩道』を作った。
これだけでも驚くのだが
イラチな大阪人は、『動く歩道』の上を
速足で歩く。
まねをしないと怒られそうなので、
一生懸命歩くと
降りる時につんのめる。
阪急の意地である。
で、
阪急の話や、大阪駅北地区の話をすると
いくらでも話せるのだが、
さすがに訳がわかんなくなるので、
やめておきます。
しかし、国鉄大阪駅が高架になったのも
結局は『大阪人の見栄』だったわけだ。
旅客線が高架になったことで貨物駅が
在来線と切り離されたのは、神戸駅と一緒。
不思議な形で切り離された、
梅田貨物駅の周辺は、いまでこそ
ヨドバシカメラがあり、ノースゲートタワーがあり
雰囲気が変わったが、ほんの30年前には
男でさえ、夜に一人で歩くのは躊躇するような
雰囲気があった。
(危険はなかったけどね。)
あれこそが『駅裏』という奴だっただろう
どんな駅にも、表側こそ賑やかだが
うさんくさい『裏側』がある。
それが東京駅にはない。
せいぜいが新橋のガード下くらいで
あんなもの健康すぎてインタビューが
来てしまう。
そういう違いの感覚はどこまで通じるかなあ。
(クリックしてくださいな。)
(追記)
もっとも、東京駅は間違いなく『名建築』です。
10月1日が『万歳一色』になるだろうから
ちょっとへそを曲げてみました。
何十万もするステーションホテルのスイートには泊まらなくてもいいけど
むしろ列車が見える部屋に泊まりたい。
かつての8角形の屋根の撤去とともに
内部にあった、パンテオンのような金属ドームも
取り払われたらしいが、
あれは零戦の材料のジュラルミンだ。
かけらでも売っていたらぜひ買いたい。
(追記の2)
時間の関係で重大な間違いがあったので修正加筆しました。
(追記の3)
だから、長え。